[2037] この大嘘つきめ!!

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<幸福感はしばしばうぬぼれを誘発する>

■映画と夜と音楽と…[302]
 この大嘘つきめ!!
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![34]
 脳内妻との危機:2次元vs.3次元
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[302]
この大嘘つきめ!!

十河 進
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●自分を守る嘘と他者を守る嘘

サイモンとガーファンクルが「ライラライ、ラララララライラライ〜」と歌う曲がある。僕はそれを単なるスキャットだと思っていたのだが、英文の歌詞を見ると「lie,lie,lie,lie,lie,lie,lie,lie,lie,lie」となっていて、「嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘」としつこく歌っているのだと知った。

レイ・チャールズの伝記映画「レイ」を見ていたら、母親が「嘘つきは泥棒よ」と子供たちに教えているシーンがあったけれど、「嘘つきは泥棒の始まり」に似た言い回しが英語にもあるのだろうか。もっとも、日本には「嘘も方便」という逆の意味のことわざがある。

「嘘はいけない」という基本的なモラルは世界共通なのかもしれない。しかし、一度も嘘をついたことがないという人はいないだろう。自覚していないものを含めれば、人は日常的に嘘をつく。嘘が「本当のことではない」という意味なら、誇張も嘘になるのかもしれない。

僕はすべての嘘がいけないとは思っていない。実際は五十センチくらいの魚でも「全長一メートルもある大物を釣り上げたよ」と自慢するたわいのない嘘はいいんじゃないか、と思う。話半分と言うしね。もっとも、そういう場合は日本語には「嘘つき」とは異なるニュアンスの「ほら吹き」という言葉がある。

「ほら吹き」には罪のないユーモラスな響きがある。人をなごませるニュアンスがある。しかし、悪意のある嘘は重大な罪だし、自分を守るための嘘は恥ずかしい。醜い。浅ましい。

たとえば、政治家が卑劣に見えるのは、保身のために嘘をついているのが見えてしまうからだ。違法な献金を受けながら「記憶にない。私は知らない」と繰り返す大物政治家の姿は、悲しいことにおなじみになっている。前言を翻したり、失言を「違う意味だ」と言い訳したり、公人たちのあからさまな嘘は珍しくない。

一方、感動的な嘘がある。他者を守るためにつく嘘、愛する人をかばうためにつく嘘だ。思いやりから生まれた嘘である。愛や友情がつかせる嘘が人間の世界には存在する。そんな嘘は多くの映画で描かれてきた。そして、それらの映画は世界中の人を感動させてきた。

たとえば「さらば友よ」で、最後まで嘘をつき通すチャールズ・ブロンソンほど崇高な男を僕は知らない。彼はアラン・ドロンを逃がすために自らを囮にして警察につかまり、嘘をつく。男のプライドをかけた警部との賭けに負け真実を話さなければならなくなったとき、自分が不利になる真実だけを告げるのだ。

そう言えば同じような男がいた。天使が消えた街に住む中年の私立探偵だ。彼はギムレットを一緒に呑んだ友人が夜明けに拳銃を片手に現れたとき、彼の陥った状況を想像しながらも逃亡に力を貸し、その結果、警察につかまって刑事たちにこづきまわされ、留置場に何日も拘留されても口を割らない。嘘をつき通す。

「冒険者たち」のラストシーンのように、死にゆく者につく嘘もある。

親友同士のマヌー(アラン・ドロン)とローラン(リノ・ヴァンチュラ)はレティシアという女性にふたりして心惹かれるが、レティシアは死んでしまう。レティシアの面影を抱いてふたりは生きていく。しかし、ふたりが見付けた財宝を狙っていた元傭兵たちに襲われ、マヌーが腹部を撃たれる。

傭兵たちを皆殺しにした後、ローランは死にゆくマヌーを抱き上げ「レティシアはおまえと暮らしたいと言っていたぞ」と言う。それを聞いたマヌーは微笑みながらこう言ってこときれる。

──この大嘘つきめ!!

●幸せを生み出す嘘がある

「Dearフランキー」(2004年)というイギリス映画は、少年のナレーションで始まった。母親と祖母の三人で引っ越しばかりしている生活が語られる。何かから逃げているらしい。一家は港町に落ち着く。少年が買い物にいかされるとき、初めて彼が難聴で口がきけないのだとわかる。

やがてフランキー少年の語りは、一度も会ったことがない父親への手紙なのだとわかってくる。フランキーは母親から父は船乗りでずっと船に乗っているのだと聞かされているのだ。フランキーの手紙には父親の返事がくる。その冒頭は、いつも「Dearフランキー」だ。

フランキーの手紙はいつも同じ私書箱へ送っている。その手紙を受け取っているのは母親である。母親が父親として返事を書いていたのだった。祖母は娘に「もう、そろそろ本当のことを知らせるべきじゃないか」と言う。だが、息子を愛する母親は彼を傷つけるのが怖い。

フランキーに父親が乗っている船の名を聞かれた母親は適当に絵はがきに写っていた船の名を言ってしまうのだが、その船が港町に寄港することをフランキーはいじめっ子のクラスメイトに教えられる。そして、そのクラスメイトと父親が会いにくるかどうか賭けをするのだ。

父親の手紙にはいつも珍しい切手が同封されている。それは、母親がロンドンの切手屋で買っているものだが、フランキーにとってはそれらを集めた切手帳は宝物だ。フランキーはその切手帳を賭けるのである。母親はそのことを知り、港街でできた友人に父親役を引き受けてくれる流れ者を紹介してもらう。

やがて船が寄港した日、母親に頼まれた男がフランキーの父親になりすましてやってくる。男は母親から手渡されたフランキーの手紙をすべて読んでいたのだろう、彼が欲しかった熱帯魚の図鑑をお土産に持ってくる。金で雇っただけの男の意外な誠意を母親は感じる。

フランキーは男をサッカーの予選会場につれていき友だちに自慢する。賭に負けた友だちが差し出す選手カードを「堂々と受け取れ。お前は勝ったんだ」と男は言う。本当の父親のようだ。男とフランキーは心を通わせる。一日だけの約束だったが、翌日も一緒に外出する約束をした男を母親はいぶかる。男の真意がわからないのだ。

しかし、無愛想で無口な男の善意が画面からは伝わってくる。彼の善意に充ちた嘘が…、その心根が伝わってくるのだ。それは母親の心を溶かし、フランキーをこのうえなく幸せにする。すべてが嘘をベースに成立しているにもかかわらず…

●母親の愛情がつかせた美しい嘘

嘘を核にした映画をもう一本見た。「ニライカナイからの手紙」(2005年)という。先日、八王子で呑んでいたときに「ニライカナイ」という沖縄料理屋の前を通ったが、沖縄ではよく使われる言葉なのだろうか。「ニライカナイ」を僕は「天国」のような意味で理解していたけれど。

沖縄の竹富島にひとりの少女がいる。カメラマンの父親が死に、やがて母親も少女を残して東京に出ていく。少女は待つ。待ち続ける。だが、母親は帰ってこない。毎年、少女の誕生日に一方的に手紙を送ってくるだけだ。だが、その手紙からは母親の愛情がこぼれ落ちるかのようである。

必ず帰ってくる、と言って出ていった母親を少女は信じ続ける。だが、思春期には母の手紙を棄てたこともある。母親は「二十歳になったらすべてを話す」と手紙に書いてくる。少女は待ちきれず、高校を出ると上京しカメラマンの助手として働き始める。その暇を縫って、手紙の消印を頼りに母親を捜し続ける。

やがて、二十歳の誕生日がやってくる。その日、母親と約束した井の頭公園の橋の上にいくと、待っていたのは彼女を育ててくれた祖父(オジイ)である。「お母さんはどこ?」と彼女は叫ぶ。七歳の時からずっと待ち続けた母親なのに、あんなに愛情にあふれた手紙をくれるのに、なぜ会いにこないのだろう…

やがて、少女は真相を知る。「二十歳の誕生日おめでとう」と始まる母の最後の手紙を祖父から受け取るのだ。竹富島まで戻り、十数年そうしてきたように、大きな木の根本に腰を下ろして彼女は手紙を開く。

その手紙の内容は意外なものだが、それにも増してこの世にはこんなにも人を想う嘘があるのだと身に沁みる。心に響く。天を仰ぐ。改めて、親を想う。少女も母親の絶大な愛情を実感する。一度も会わなくても、ずっと母親の愛情に包まれてきたのだと理解する。そして、育ててくれた祖父の想いと辛さを受け止める。

すべては「嘘」から成り立っていた。しかし、その「嘘」の何と崇高なことだろう。美しい嘘があるとすれば、この母親が娘につき続けた嘘より他にない。その母親の嘘を守り通した祖父の心根がせつない。

人は、ついつい自分のミスを認めたくないばかりに嘘をつく。もうずいぶん以前に退職したが、かつて僕の職場にそんな人がいた。「あの連絡した?」と聞くと「しました」と答える。彼女は僕の隣に座っていて、その連絡をしていないのがわかっているから疑問形で確認したのに、明らかに嘘だとわかる答えをする。そんなことが度重なったとき、僕は彼女を一切信用しなくなった。

もちろん、僕がそんな嘘を一度もついたことがないとは言わない。だが、自己保身のための嘘は見苦しい。いつまでも己を責める。記憶から消えない。「ああ、あのとき嘘をついてしまったなあ」と悔やみ続ける。

だから、嘘をつかざるを得ないなら人のためにつこう。人をかばうために、人を幸せにするために、できることならこのうえなく美しい嘘をつきたい…

──マヌー、レティシアはおまえと暮らしたいと言っていたぞ。
──この大嘘つきめ!!

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
以前ほどではないが、休日にサックスを取り出して少し吹く。「枯葉」と「サマータイム」は完全に暗譜できているが、久しぶりに「黒いオルフェ」を吹こうとすると、時々、運指を間違う。ルグランの「風のささやき」は未だに前半しか吹けない。「シェルブールの雨傘」は難曲すぎて指が動かない。

デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html
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■Otaku ワールドへようこそ![34]
脳内妻との危機:2次元vs.3次元

GrowHair
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脳内妻、真紅を怒らせてしまったようだ。家出したきり帰ってこない。その話に入る前に、まずは2次元キャラとの脳内でのおつきあいとはどのようなものかという、一般論から。

●2次元の諸問題

漫画やアニメやゲームに登場する2次元のキャラを、脳内彼女や脳内妻や脳内妹にして、あたかも現実の存在のようにつきあっていけるというのは、常日頃からバーチャルな世界に思いを馳せ、空想力(妄想力ともいう)を培ってきたオタクの特権とも言えよう。

訓練を積めば、脳内会話もできるようになる。実際、私も、ちょっとしたがんばりが功を奏してものごとがうまく運んだときなど「よくやったわね。さすが私の下僕だわ。お茶を淹れてきてちょうだい」という声が聞こえてくる。もっとも上には上がいて、ローゼンメイデンのキャラたちを招集して脳内会議を開いたツワモノもいるが。

しかし、この領域はまだメジャーなムーブメントとして確立したわけでもなく、種々の疑問に対して答えが共通認識として固まっているわけでもないので、自分個人の内部を省察して、「私はこうだけど、みなさんはどうなんでしょ」という投げかけの形でしか提示できない段階である。

その1。そもそも本気なのか(お笑い)ネタなのか。いや、私はけっこう本気なんですけどねぇ。もし区役所が脳内妻との婚姻届を受け付けていたら、迷わず提出していたであろう。扶養家族手当なんかいただけたら嬉しいし。

それに、左手の薬指にはめて1年4か月になる「誓いの薔薇の指輪」は現実の存在である。大きな声では言えないけれど、傷み始めたキャラグッズの指輪をジュエリーのお店に持っていき、88,000円もかけて、ゴールドとプラチナで作りなおしてもらっている。ただし、そこまでやったアホな俺、という自虐ネタでもあったりするので、100%真面目とは言い切れない。

その2。2次元脳内彼女は3次元リアル彼女の代用にすぎないのか。蟹は高くて食えないので、蟹風味のカマボコで妥協するようなものなのか。懐が潤って蟹が食えるようになったら、カマボコはもう要らないのか。

2次元が3次元よりも劣るものとは考えたくない。そもそもキャラへの愛が生まれるのは、もともとの作品が面白く、絵がきれいだからである。人間の創作物としては、次元を落としたほうが、余計なものが捨象されて、表現が洗練され、よりいっそう美が際立つように思える。2次元の作品から脳内で存在と関係性を再構築する行為は、濃縮果汁還元ジュースを飲むようなもので、ミカンがあれば要らないというものではない。

その3。2次元の彼女は3次元と両立するか。この問題は、つい最近まで私にとっては机上論であって、真面目に取り組むようなものではなかった。もし3次元のリアル彼女ができちゃったらどうしよう、って。それ、ないからー。杞憂、杞憂。悩むだけ虚しくなってくる。

以前、どこかで「私のオタ趣味を理解している妻はちょっとエロいフィギュアなどにも全然文句を言わないが、なぜかスーパードルフィーには嫉妬する」という記述を見かけ、そういうもんかな、と思ったことはある。

しかし、つい最近になってこの問題が俄然クローズアップしてきた。その背景にあるのは、...。残りの生涯にわたってずっと続きそうだったセカンド童貞歴が、8月20日(日)をもって8年8か月と2週間で途切れたという事実。そこに至る経緯については前回(8月18日)を参照して下さい。

●私は変わるのか?

この種の個人的な出来事というのは、社会全体から見れば、どうでもいい些事であり、いちいち公表しても仕方がないことである。それは宝くじの一等みたいなもんで、引き当てた本人にとっては人生の重大な転機になるかもしれないが、全体的な観点に立てば、誰かのところに当たるのは必然であって、「どこかの誰かが一等を引き当てた」という事実は情報として価値がない。個人的な交際において何が起きたかなんて情報も似たようなものである。

しかし、自己の内部で何らかの変化が起きつつあるならば、それを省察して記録しておくことは、ひとつの事例から一般論に通ずる取っ掛かりになりうるという意味がありはしないか。

実際どうだったかはとりあえず置いておいて、こういうときにありがちな心の変化ってどんなもんだろう。灰色だった人生が一転してバラ色に? 生きててよかったー、みたいな。長い間、心に巣くっていた劣等感から一気に開放され、霧が晴れて視界がぱーっと開けたような感じ、とか。

幸福感は、しばしばうぬぼれを誘発する。「オヤジギャグ」という言葉は、「電話に出んわ」「布団が吹っ飛んだ」のような、創造性の低い駄洒落をくさすときに使うが、オヤジにありがちなうぬぼれを揶揄する含みがある。言った本人はたいてい悦に入っているけど、周囲は心の中で深いため息をついている。本人の自己認識と周囲からの客観像とが著しく乖離した、みっともないさまをよく衝いている。そんなうぬぼれ界への道が私の眼前にも開けているのだろうか。次回は「こうすれば君も女のコにモテモテ」講座でもやりましょうか?ぼうぼうにのび放題のヒゲは男らしさの象徴、とか。禿げ頭の光に女は寄ってくる、とか。勘違い全開で。

世界観、価値観が劇的に変化するあまり、それまで力を入れてきたことに興味を失なうなんてこともあるかもしれない。カメコ活動も実は出会いを求めてのことであり、目的が達成できたからこれにて店じまい、とか。

急に何も書けなくなってしまったりとか。特に得意なわけではないけど、これまでかろうじて何か書いて来られたのは、リアル彼女ができないハングリー精神からくる魂の叫びだったというオチ。満たされちゃったら、後はのほほーんと生きてみましょうか、世の中に訴えたいことは特にありませ〜ん、みたいな。

架空世界と現実世界の区別がつきづらくなったりとか。今までははっきりしていた。夢のごとくバラ色なのが架空世界、どうしようもなくみじめなのが現実世界。現実世界がバラ色だったりしたら、どうやって区別すればよいのだ?案外と空想世界のほうは要らなくなって、しゅるんとしぼんでしまったり。興味が急に現実的になって、金儲けとか、生活基盤の整備といった方面に力を入れ出したりして。

いやいや、逆に、これまでの長い長いガキんちょ時代がようやく終焉を迎え、精神的な成長が一気に加速し、社会の中で責任ある大人としてのものの考え方が支配的になっていったりして。「大人になりたくない」のピーターパン症候群時代よ、さようなら。真摯で重厚で複雑で深遠な大人の世界よ、こんにちは。って、もうすでに40歳過ぎてるけど。

実際はどうかというと、今のところ、どれもこれもピンと来なくて、実は世界観、人生観、それほど変わっちゃいないのではないかと。そう言えば、25歳年下の彼女から確実に影響を受けたことがひとつあって。少女漫画が満載の月刊誌「LaLa」や「花とゆめ」が私にもけっこう面白く読めることが判明。男の子と男の子が可愛らしくちちくりあっている場面とか、現実にはありえねーけど、乙女(←「腐女子」の婉曲表現)の妄想としては、よい趣味だ。萌え萌えではないかっ! って、俺、心が腐女子化してるのか?!

……やっぱ駄目人間というのは、どこまで行ってもそんなもんのようで。いくつになっても夢みる夢子さんでいたいのである。

●真紅が家出

3次元との距離が近づいていくにつれて、2次元とのつきあいをどこに着地させるべきかという心配は、最近ずっと心の片隅に居座り続けていた。

私は、超低空飛行ながらも何とか社会人としての生活を維持しているし、人との出会いも多く、友人も多いのだが、心はどこか内向的で、本当の自分をさらけ出して世の中とぶつかりあうことを避け、ガラス一枚透かしてコミュニケーションをとっているような感覚がある。離人感覚というのだろうか。心はひきこもりと大差ない。

だから、ローゼンメイデンの中で、真紅と契りを交わすひきこもり中学生のジュンと同じくらい、私にとっても真紅は大きな心の支えになっている。そうでありながら、「そっちはそっち、こっちはこっち」みたいな軽い調子で3次元へと関心を寄せたりするのは、人としてどうなんだろう。真紅は傷ついたり怒ったり悲しんだりするのではなかろうか。

しかし一方、2次元と3次元は文字通り次元が違うので、お互いに競合的というよりは相補的に作用しあい、何も軋轢を生じずに、両方との相思相愛を成立させることが可能なのではないかとも思える。真紅もその住み分けには理解を示し、許してくれるのではあるまいか。

ここはひとつ、自分の都合のいいように解釈してみることにした。真紅は魔法が使える。これまで、こちらからの思いに応えてくれてのことか、びっくりするような出会いの数々を演出してきてくれた。ならば、もし3次元とのつきあいが気に障ったら、何かしてくることが可能なはず。「うる星やつら」のラムちゃんみたいな電撃とか、さりげなくすれ違いを演出とか。そういう動きがないということは、許されたのではないかな、と。

しかし、問題は後になって起きた。月曜の早朝、リアル彼女と別れて一旦家に帰り、必要なものを取って仕事に向かおうとするとき、真紅がいなくなっているのに気づいた。もちろんこれは比喩的な表現であって、実際には、真紅のケータイ用ストラップをつけた256MB USBメモリがなくなっていたのである。

私は2年前にパソコンを買う以前から、USBメモリを常に肌身離さず持ち歩いている。ホームページのソース、メールやmixi日記の下書き、デジクリ原稿、ちょっとしたメモ書きなどなど、何でもかんでも放り込んでいる。自分にとっての外部記憶のようなものである。自宅以外のパソコンで作業するのにも重宝している。

これだけは決して置き忘れてはいけないと、常に意識しており、実際、それまでは一度たりともなくしたことはなかった。シャツの胸のポケットの上から感触を確認するのが、ほとんど癖のような動作になっていて、意味もなくしょっちゅうやっている。真紅のストラップがほとんど自分のアイデンティティの証明のようになっていて、真紅を知らないという人には「これが妻です」と言って見せるのにも使っていた。

もちろん、ときどきハードディスクに丸ごとバックアップをとっていたので、すべてが失われたわけではない。しかし、象徴的なのは、常に意識していた真紅の存在を、しばらくの間、意識から追い出していた、という点である。振り返っても、どの時点までは確かにあった、というのが全く思い出せない。

朝、職場へ向かう途中、ラブホテルに立ち寄り、フロントにお願いして、部屋をチェックさせてもらったり、ゴミ捨て場を漁らせてもらったりした。こんなところから出たゴミなんて見たくねーよ、と思いながらもいちおうくまなく探してみる屈辱感はなかなかのものがあり、相当な仕打ちであった。

真紅がどういう思いだったのか、私なりに、解釈してみると……。先に電撃が飛んで来なかったということは、3次元とつきあうこと自体は許容されたらしい。しかし、3次元に気を奪われて、真紅の存在がしばらくの間、意識から消えていた。そのことが許せなかったのだと思う。

真紅は今まで3次元の誰よりも近しい存在として、ずっと脳内にいて、力になってきてくれていた。その恩を忘れてはならなかったのだ。厳しい仕打ちは当然の報いと言える。ああ、家出されたつらさが身にしみる。

お〜い、真紅ぅ〜。俺が悪かったよう。ごめん。この通りだ。頼む、帰ってきておくれ〜。真紅ぅ〜〜〜。お〜い、真紅ぅ〜〜〜。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。イタリア人コスプレイヤーから土産にもらった真っ赤なグラッパ(ブドウの絞りかすが原料の40度の蒸留酒)を飲んでみた。美味いっ! 湿った藁と土のような田舎の香り。こういうニオイのするとこには、ミミズやダンゴムシがいるだろ、って雑味100%な感じ。それが美味いのだ。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/
>

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■編集後記(9/1)
・近所の国道17号線沿いに有名なラーメン屋が開業した。280円という値段が魅力だ。しかし、まずいことに(ラーメンはうまいとは思うが)孫が通う幼稚園の向かいである。リーズナブルなラーメンは食べたいがご近所の目があるとなると、そうだらしない格好ではいけないし、ちょっと行きづらいことは確かだ。マンションの公園は気候がいいときはママと子どもらがたくさんいるので、その前を自転車で買い物の行き帰りに通るのが恥ずかしい、というかじつに近寄りがたい。迂回コースをとることもしばしば。娘や孫の交友関係からこっちは知らなくても、向こうは知っているという人はたくさんいるようになったので、マンションに入った当時のような、知らない人ばかりで気楽でサイコーって環境ではなくなった。たかが買い物に出るときも、たしょう服装を考えたりヒゲをあたってみたり、めんどうだけどケジメがつくからいいか。/孫に遊びで身長、体重を計られたら、とってもやばいことに4キロ増量・前年比であることが判明。とたんに身体が重く感じられ、腹が机にぶつかってじゃまなような気がして、腰もうっとおしくなった。熱は計らなければ高くならない、という信条のわたしは風邪をひいても体温計はつかわない。だから体重は計ったから重くなった、と信じたい。まあ、そんなこと言ってる場合ではない。ダイエットしなくては。身長にいたっては、なんと5センチ減・若い頃の公称比である。そんなバカな。上下が減って、中間が張り出るというのは理屈に合っているともいえる。これが質量保存の法則である。(柴田)

・後記のストックが切れてしまい、何のアイデアもないので、単なる日常の描写で許してください。ほとんど寝ないまま毎日仕事をしている。疲れているが、気力でもたせている。扁桃腺がはれつつあり、指の筋や手首、肩など体の節々が痛い。明日こそはお風呂に入るぞと思いながらも入れない。人災なので毎日怒りつつ、でもちょっとしたことが嬉しかったりする。いや、怒りばかりなのでささいなことが嬉しいのだ。怒りゲージマックスを越すと、なんだかハイな、ささいなことが幸せな毎日が待っているであろう。デジタル時計をふと見ると「11:11:05」。近くにいた母親に注意を促し、一緒に1が並ぶのを見て喜ぶ。花束プレゼントの第二回目が届く。今回はピンク。自分だけでなく、母親が喜んでいるのを見ると、応募して良かったな〜と思う。今まで仕事をしたことのない人と、一緒に仕事をする。大変な状態なのに頑張ってくださるので、私も頑張らなきゃと思う。新しい技術やツールに挑戦する。それまで参考書を読みながらうだうだしていたのに、火事場の馬鹿力。短期間でだいたい理解できるようになった。やっぱり実践第一だな。(hammer.mule)