笑わない魚[201]涙の縄文杉
── 永吉克之 ──

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16階建て、520戸が入っている自宅マンションでこの夏、外壁の塗り替え工事が行われた。暑いときに、建物全体が足場に組んだパイプと網状のシートで覆われてうっとうしい。しかも、塗料の臭いと工事の音で窓を開けることもできないうえに、室内が作業員から丸見えになるので、朝からカーテンを閉めなければならない羽目になった。

マンションの自治会で決まったことなので、住人はみな粛々と従っていたようだが、520もの世帯が箱詰めになっている所で大勢の作業員が動き回るのだから、どこかでトラブルが起きるのではないかと思っていたら、うちで起きた。


夜遅く帰宅して、補修の状態を見ようとバルコニーに出ると、植木鉢が倒れて中の土がこぼれ、植わっていた縄文杉が鉄柵に当たって半分に折れていた。誰かが足場を伝ってわざわざこの15階まで植木を倒しにきたとは考えにくい。ここにいた作業員がうっかり蹴り倒して知らん顔しているのだろう。

この縄文杉は、亡くなった母親が育てていた植木のひとつで、死後、私の怠慢から、他はみな枯らしてしまったのに、そのひと鉢だけが生き残った。なんだか母親の魂が宿っているような気がして、大切に水をやっていたのだが、どこかの無神経な人間に荒らされたのかと思うとやるせなかった。

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翌朝、この工事をしているF塗建に電話をした。これは先方の平謝りに終るだろうとばかり思っていたから、弁償を申し出たらいくらもらおうかなんて気楽に考えながら、電話に出た年輩らしい男性に用件を言うと意外な展開になった。

「ほお…その植木を倒したんは間違いなくウチのもんですかね?」
「ここ15階ですから、外の人間が入ってきてそんなことするというのは……」
「そんなんわかってるがな。そやなくて、お宅の子供が倒したとか、そういうことはないかっちゅうことなんやけど」
初めて話をする相手にいきなり、ぞんざいな口をきかれてうろたえてしまった。
「一人暮らしだから、それはありませんね。それにぼくは……」
「ほな風で倒れるとか」
「あんな重いもの風では……」
「ウチにゃそんなことするもんはおらんけどねえ」
こちらが話している最中にいちいち言葉をかぶせてくるのが癇に障る。
「でも他には誰も……」
私が話そうとすると、電話の向こうで誰かに声をかけるのが聞こえた。
「ちょっと代って。なんかごちゃごちゃ言うとるわ」

担当らしい若そうな男性が出た。
「お電話代りましたけど、どうされました?」
私はもういちど同じ説明をした。
「それは確かにウチの作業員が折ったんでしょうか?」
「それも今の人に言いましたけど…ええ、作業員の方としか思えませんね」
「そうですか。もしそうなら、これから気ぃつけさせますけど、工事してるんでね、大事なもんはどっかにしまっといてもらわんとねえ」
「はい、ぼくも気をつけますから、そちらもお願いします」

結局、相手に圧倒されて、ほとんど何も言えず、謝らせるどころか一部自分の非を認めることになってしまった。私はこうるさいクレーマーとしか思われていなかったようだ。しかし母親の形見を踏みつけにされたというのに、謝れと迫ることができない自分が不甲斐なく、故人に申し訳なかった。

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中学生の時、母親が繕ってくれた体操服の破れ目に、マジックインクで関西の卑猥なスラングを書かれたことがある。それは母親が侮辱されたも同じだったが、書いたのが、学校内でたびたび暴力沙汰を起こしていたワル連中のひとりだったので、私は恐くて、へらへら笑いながら「すんなよー」と小声で抗議するのが精一杯だった。

朝の電話の一件で、相手の横柄な対応が頭から離れないばかりか、せっかく忘れかけていた昔の屈辱まで思い出して、昼過ぎても仕事がまったく手につかなかった。特に最初に電話に出た粗野な男が吐きすてるように言った「そんなん分ってるがな」という、人間の自尊心を無視したようなセリフが何度も浮かんできて私を苦しめた。

そして、私の性格だから、こんな精神状態がこれから何日も持続するのかと思うと、もうたまらなくなり、結果はどうなってもいいから、とにかく言いたいことを言って楽になろうと、ふたたびF塗建に電話をした。

また例の粗野な男が出るのではないかと構えていたら、若い女性の丁寧な声が聞こえたので急に肩の力が抜けて、紳士的に事の次第を話すことができた。
「そうだったんですか、ほんとうに申し訳ありません」

話をまともに聴いてくれる人がいたので、私は感激して、縄文時代から生きているといわれるくらい樹齢が長いから縄文杉と呼ばれていることや、倒された縄文杉は、亡き母が苗木のときから根気よく育てていたものであることなどを延々と話し続けた。

すると突然、電話の声が変わった。
「おい」
朝、電話で話した粗野な男の声だった。かなり怒っている様子だ。女性が長電話しているのを聴いていて、その内容から私が植木の件を蒸し返してまた因縁をつけにきたとでも思ったのだろう。こんな奴、俺が一蹴してやるといわんばかりの口調で、私はまた朝のように萎縮してしまった。

「今度はなんや、また、いちゃもんか」
「いやいや、ちがいます。ちょっと話し込んでしまっただけですよ」
「話てなんやねん。もう話すことないやろ」
「植木が倒れたことですよ。でもそういう言い方ないでしょ」
「ウチは忙しいんや、おまえのしょうもない話につき合ってられへんねや」
「おまえ、っていう言い方ないでしょ。僕はお宅の被害者ですよ」
「おまえ自分で倒しといて、なにが被害者や、アホ」

ア・ホ

テレビドラマなどで、激昂した人間が下唇を震わせて、吃りながら喚く演技をよく見るが、追いつめられた人間の怒りが頂点に達すると実際にそうなることがある。このときもそうだった。涙まで出てきた。

「くく口のきき方気ぃつけろ!」
「んんんなんで俺がおまえにそんなこと言われなきゃ、んんならないんだよ!」
「全部おまえんとこが悪いんじゃないか!」
「人のうちのもん壊しといて知らん顔しやがって!」
「俺は客だぞ、おまえらにカネ払ってんだよ!」
「謝れよ、こら、謝れ!」

よく憶えていないが、こんなミもフタもないことを、しばらく喚き続けたような気がする。ひとしきり言い終ると、いつのまにか電話の相手が変わっていた。
「あのすいません、少々お待ちいただけますか」

誰だかしらないが、丁寧な男性の口調だった。そして、この雰囲気に不似合いな「ジムノペディ」の保留メロディをしばらく聴いているうちに気分も治まってきた。しかし、せっかく言いたいことが言えたというのに、今度は、我を忘れて感情的にものを言ったことに対する自己嫌悪に苛まれ始めるのだった。

「わかりました、すいませんでした。で、折れた植木ですけど、代りのものを送らせていただきますんで、えっと、何号室にお住まいですか?」
「あ、そうですか、すいません。うちは1517です」

                 ●

翌日、植木屋が縄文杉を届けにきた。高さはどう見ても30メートルはある。樹齢は3000年以上という話だ。言ってみれば戦利品だが何か空しい。バルコニーに置くと母親が遺した縄文杉より大きかったが、大きやさ形ではない、心だ。

【ながよしかつゆき/アーティスト】katz@mvc.biglobe.ne.jp
連載再開の一本目ということで、これまでとは違った趣にしたつもりだが、成功なのか失敗なのか自分ではさっぱり分らない。よろしかったら、ご感想などお聞かせ願いたい。不躾ながらスパム対策で、フリーメールっぽいアドレスはフィルタリングされます。すいませんすいません。

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