[2118] 最後の日々をどう生きる

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<迷わず萌え正月>

■映画と夜と音楽と…[316]
 最後の日々をどう生きる
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![42]
 萌えは萌え尽きたのか?
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[316]
最後の日々をどう生きる

十河 進
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●NEVER LET ME GOの曲を聴きたくなった

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで/NEVER LET ME GO」が評判になっている。すでに十数刷まで版を重ねているらしい。僕が昨年の暮れに買ったのは十一版だった。呑み友だちのIさんから「NEVER LET ME GOがいいですよ」と聞いていたのと、村上春樹さんが読者あてのメールをまとめた本の中で「美しい小説です」と書いていたので読んでみたくなったのだ。

僕はまったく予備知識を持っていなかったので、読み進むほどに目の前から霧が少しずつ晴れていくような感じを味わった。次第に息苦しくなるほどの切迫感が高まり、やがてどうしようもない切なさに襲われた。抑制された一人称の語りが素晴らしい効果を上げている。

読み終わってから、CDリストを検索して「NEVER LET ME GO」の曲を探したら、八枚がヒットした。キース・ジャレットの二枚、ドン・フリードマン、大西順子、アキコ・グレース、レッド・ガーランドはピアノ・トリオでの演奏だ。ビル・エバンスは「アローン」で演奏していて、ソロピアノである。一枚だけアルト・サックスの演奏があった。山田穣の初のリーダーアルバムだ。

「NEVER LET ME GO」は、美しい曲である。その曲を聴きながら、もう一度最初から読み始めると、また別の感慨が湧き起こる。語り手がある街のがらくたを売っているような店で「NEVER LET ME GO」の入ったテープを探し出すシーンでは涙さえ出そうになった。

この本はストーリーのサプライズで読ませるようなものではないが、やはり何の予備知識もなく読んだ方がいいだろう。僕は一読後、設定を知ったうえでもう一度読み返したくなった。そうすれば、語り手の想いがより深く読み取れると思ったからだ。

カズオ・イシグロは「日の名残り」で高く評価されたが、1993年のジェームズ・アイヴォリー監督による映画化作品も評価が高い。レクター博士で有名なアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンという演技派が出演した。その後、カズオ・イシグロはジェームズ・アイヴォリー監督に脚本の提供もしているらしい。

カズオ・イシグロは英語で小説を書く日系人として、昔から気にはなっていたのだが、本のプロフィールを読むと1954年(昭和29年である)に長崎で生まれている。歳は僕とそんなに変わらない。僕と大きく違うのは父親の仕事の関係で五歳からイギリスで育ったことである。

僕はジェームズ・アイヴォリー監督の英国的格調高さが苦手で、実はあまり熱心な観客ではなかった。そのせいで「日の名残り」も見てはいない。「わたしを離さないで」を読んだせいで、また、見なければならない映画、読まねばならない本が増えてしまった。

●死を自覚したときに人は初めて「生きる」のか?

「わたしを離さないで」を読んでいてしきりに思い出したのは、「ブレードランナー」(1982年)に出てきたレプリカント役のルトガー・ハウアーの悲しみに充ちた顔だった。主人公のデッカード(ハリソン・フォード)と雨の中、廃屋のようなビルで闘う銀髪の美しい獣と言われた俳優である。

レプリカントは工場で大量生産される模造人間であり、惑星の植民地の過酷な労働に使用される一種のマシーンである。ただ、人間の完全なレプリカとして作られ、記憶まで埋められている。しかし、レプリカントには感情がないとされていて、レプリカントを判別するテストは感情に訴える質問をし、そのときの瞳孔の動きで反応を見る。

「ブレードランナー」は、レプリカント狩りのプロである主人公が次第に人間とレプリカントの区別がつかなくなってゆく話である。原作では、そのテーマがもっと追究されていて、主人公は自分の記憶が偽でありレプリカントではないかと疑い始める。

惑星の植民地から数人のレプリカントが脱走し地球に潜入したところから始まるのだが、彼らが脱走した目的は自分たちの製造年月日を知るためである。なぜならレプリカントは製造時に寿命が決められていて、四年(だったと思う)経つと死んでしまうからだ。彼らの目的は、自分の死がいつ訪れるのかを知ることなのである。

しかし、レプリカントでなくても生物は必ず死を迎える存在である。それがいつくるか、わかっていないだけだ。だが、普段は死を忘れているが、何かのきっかけで人は死を想う。もし、確実に死が訪れる日時がわかっていれば、人は常に死を意識して生きねばならない。そのとき、人はどのように生きていけるものなのだろうか。

死を宣告された人間の生き方、というのは昔から人々の興味を惹いてきたし、様々な物語が作られてきた。最近の物語では、死を知らされた人間という設定が安易に使われている気もするが、人は死を自覚したとき、もしかしたら最も生きようとするのかもしれない。

死を宣告された人間の生き方を描いた作品で有名なのは、黒澤明監督の「生きる」である。役所の小役人で平凡に小心翼々と生きていた男がガンで余命半年と宣告され、衝撃を受ける。彼の救いは家族にもなく、死を宣告された自分がすがる何ものも持たないことに気付く。

彼は、自分の人生とは何だったのかと考える。新しい世界を体験しようと、足を踏み入れたこともない夜の歓楽街をさまよう。彼と出逢い、地獄巡りのように彼を連れまわすのは、まるでメフィストフェレスのような悪魔的な風貌の小説家である。

だが、彼は充たされない。死の恐怖から逃れられない。彼はかつての部下の娘と再会し、彼女が玩具工場で働いており、彼女が語る言葉から、何かを人のために創ることにこそ喜びがあるのだと知らされる。彼は人が変わったように仕事に打ち込み、小さな公園を作り上げる。やがて完成した公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさみながら雪の夜に死んでいく…

しかし、僕は「生きる」を貶める気持ちはないのだが、この道徳的な嘘くささが嫌いだ。余命半年と宣告された後の主人公の大仰な芝居も何だかしらけてしまう。いつものように黒澤は主人公に目を剥かせ、ヨロヨロとよろけさせるといったお約束のような演技をさせる。

人はもっと静かに死を受け入れるのではないか、淡々と最後の日々を過ごすのではないか、僕にはそう思えてならない。それは、もし僕が死を宣告されたらそうありたいと思っているからだが…

●淡々と死の準備をする姿が心に沁みる

韓国映画「八月のクリスマス」(1998年)をリメイクした日本版「8月のクリスマス」(2005年)を見た。韓国版はすごく好きな映画なので、どうしようかと迷ったが、監督が長崎俊一だったのと山崎まさよしのナレーションに惹かれて見始めたら、最後まで見てしまった。韓国版には主人公のナレーションはなかったと思うが、記憶違いだろうか。日本版はひどくわかりやすく作っている気がした。

ホ・ジノ監督の作品は淡々と物語が進んでいく。まるで小津安二郎の映画のようだ。その淡々と描写される日常がたまらない。会話だってドラマチックな言葉は出てこない。日常的な世間話のような内容である。しかし、その何気ない会話から主人公たちの想いが漂い始めるのだ。ドラマ的なヤマ場もないし、人によっては眠くなるかもしれない。だから、日本版の方がわかりやすく思えるのだろう。

主人公はもう若くない写真館の主人だ。彼は病気で長くない命であるが、誰にもそのことを話さない。ある日、駐車違反の取り締まり(日本版では小学校の臨時教師)をやっている若い女性と知り合う。彼女は「おじさん、おじさん」と店にやってきては話していくようになる。カメラ店の主人を演じたハン・ソッキュもヒロインのシム・ウナも印象的である。

「八月のクリスマス」を見たとき、死を迎える準備をする主人公の静かな生活が心に残った。彼は何度教えてもビデオデッキを扱えない父親のために、操作法を何枚もの紙に画を入れて書くのだ。また、自分の遺影を撮影するシーンの静寂さが身に沁みる。

彼は淡々と死を受け入れ、残された人間の心配をし、彼らのために準備をする。自分の死を知る彼はヒロインの好意を受け入れられない。一定の距離を保ったままの関係で死を迎えようとする。彼は自分が死んで悲しむ人間を増やしたくないのだ。父親は仕方がない。幼友達も悲しむだろう。だが、それ以上に悲しむ人を作りたくはない。

彼は小さな街の片隅の写真店を父親から受け継いで営んできた。そのことを少しも後悔はしていない。派手なこともなかったし、実家で父親と暮らしながら静かに生きてきたのだ。幼友達はいる。昔、好き合った女性もいる。限られた生であることを知らされても、彼は以前と同じように生きていく。

彼は死の準備をし、短かった人生の仕上げをしようとする。だが、今更、人が変わったように何かに打ち込む必要はない。淡々と死を受け入れ、静かに死んでいけばよいのだ。人に迷惑をかけず、悲しませず…。おそらくそれが彼の望みである。

黒澤明の「生きる」の主人公は、死を宣告されるそのときまで死んだように生きてきたという設定である。だから、死を自覚したときに必死で何かを為さねばならなかった。人が変わったように打ち込まなければならなかった。だが、それは死んだように生きてきたのが悪いのだ。

死を自覚して初めて「生きる」より、死がいつやってきてもよいように、常に「よく生きる」べきではないのだろうか。それは、いつ死んでもよいという覚悟で自覚的に生きることだ。人の人生に完成はない。死はいつも唐突にやってくる。人の営みは、常に死で中断される可能性がある。それをこそ自覚して生きるべきではないのだろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
あけまして、おめでとうございます。年末年始はゆっくり休みました。暮れに娘が近くの書店にいったら映画本のコーナーに四冊ずつ本が平積みになっていたというので、正月五日にいったらそのままでした。コレって、一週間経っても全然売れてないということ??

■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
 完全版「映画がなければ生きていけない」書店およびネット書店で発売中
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■Otaku ワールドへようこそ![42]
萌えは萌え尽きたのか?

GrowHair
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あけましておめでとうございます。正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。私は迷わず、萌え正月。年末の3日間(コミケ)で読むものを買いまくり、年始の4日間で買ったものを読みまくり。読んでも読んでもまだまだ読むもんあって。なんか、幸せ〜。サークル参加(もの書いて売る側)の皆々様が追い込みの修羅場をくぐり抜けてきた賜物として世に送り出された宝の山に囲まれてる気分です。四十路越えのおっさんが「迷わず萌え正月」とか言ってるのもどうか、ってツッコミを入れたくなるかもしれませんが、この山を越えちゃうと、かえって覚悟が座って奔放に突っ走れるようなところがあって、まあ、これも一種の不惑の境地かなってことで。

重点的に回ったのは評論系。なので、収穫物はやけに文字が多い。小さい冊子に細かい文字がびーっしりと。そんなのがどさどさっと。みんな、よく書くねぇ。というわけで、今回はコミケのレポートと、面白かった同人誌の紹介を日記風につらつらと書いてみようと思うわけですが、どうも今回の特徴として「萌えの行き詰まり感」があちこちで言われているのが気になったところで、その辺に焦点を当ててみようかと。つらつらのつもりがついつい理屈っぽくなってしまったら、それは故障ではなく、もともとの仕様です。

●東浩紀氏の哲学的オタク論

著者名に「東浩紀」とある小冊子を発見。東氏の著書は「動物化するポストモダン—オタクから見た日本社会」(講談社、2001年)を読んだことがある。東氏は、リオタール、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどのフランスの哲学者に代表される「ポストモダニズム」と呼ばれる現代思想を専門に研究する哲学者で、現在は、東京工業大学の特任教授。ポストモダニズムというのは、1970年あたりを境に、政治、産業、道徳、芸術など様々な方面でそれまでの近代的な価値観が崩壊し、時代区分が近代からポストモダンへと移行したことに伴って起きてきた思想である。イデオロギー的な、いわゆる「大きな物語」が崩壊した後では、思想的な背景を欠いた表層的・記号的なものの集まりが、時代の主役の座に上るようになったとする。フランスの社会学者ボードリヤールは、このように形だけあって魂の入っていない創作物を「シミュラークル」(オリジナルなきコピー)と呼んだ。

先の著書も、ポストモダニズムの思想をベースにしてオタク文化を論じたもので、オタクをポストモダン時代の代表格と位置づけている。近代文学においては、作品として表層に現れた物語の背後には、宗教的・哲学的思想や、自我の確立を求めて苦悩する個人の内面や、既存の価値観への疑問の提起などが透けて見えるが、これと対比して、オタク向けコンテンツは背後に「データベース」があり、前面に「シミュラークル」があるという無機質な二層構造が読みとれる、としている。

つまり、漫画やアニメなどは、もはや「鑑賞するための作品」というよりは「消費するためのスナック菓子」みたいなもんで、それを大量生産する仕掛けとして、消費者が喜ぶ断片的な「萌え要素」を整理したデータベースがあって、そこから適当に要素を抜き出して組み合わせた形で、シミュラークルとしてのキャラクタやストーリーが構成されていく。いわゆる「お約束」的要素のかき集め。

これは、大塚英志氏が「物語消費論」で提唱した論を一歩進めた形とみることができる。大塚氏の論では、オタク向けコンテンツは、背後に「世界観」がまず構築され、そこから切り取った断片的描写として作品がある、としている。したがって、作品を通じて世界観に到達できた読者は、登場人物や設定を借りてきて、二次創作という形でいくらでも類似作品を生み出すことができ、それらはオリジナルと同等の価値をもちうるとしている。東氏の論では、それよりもいっそう機械的・工業製品的なものとなる。

さて、私は東氏の論は現代思想の咀嚼とオタク事情の観察の両方の上に成り立っていて、非常に説得力があると思う。実際、萌え要素満載の「デ・ジ・キャラット」や、12人の妹が無条件で慕ってきてくれる「シスター・プリンセス」や、教師として赴任した中学校のクラスに31人の女生徒がいる「魔法先生ネギま!」などを見ていると、データベース—シミュラークル構造が実感として納得させられる。

その一方、何か、オタク文化の部分的な側面しか見ていないような、不完全な論という印象も否めず、多少の物足りなさも感じていた。「消費」されることを前提とした工業製品のような作品も多い一方、じっくりと「鑑賞」するに値する純文学的な作品だって多くある。「デスノート」や「のだめカンタービレ」や、19世紀イギリスのメイドの生き方を描写した「エマ」や、オタクの生態を描いた「げんしけん」や、引きこもりの生態を描いた「NHKにようこそ」や、萌え要素を盛り込んで喜劇的に見せていながら実は悲劇だったりする「ローゼンメイデン」は、萌え作品などでは断じてなく、読後感は近代文学のそれに近いものがある。それは「動ポモ」以降に現れた「次のステージ」なのかもしれず、東氏のその後の論をぜひ聞きたいと思っていたところである。

ということで、こんなところで東氏の著作にばったり出会えるのは嬉しい限りなのだが。しかし、待てよ。講談社から本格的な社会評論本を出すような大先生が、コミケで売ってる同人誌に寄稿したりするもんかね? アヤシくないか? で、売り子さんに聞いてみる。「これ、ホントに東浩紀氏が書いてるんですか?」。「はい、私が書きました」。

えーーーっ、ご本人?! うわ、やっちまったぃ。どうも失礼しましたあっ!ところで東氏は、「メカビVol.2」の中で、「もう、萌えで引っ張っていくには限界がある」と萌えの行き詰まり感を訴えている。猫耳、尻尾、メガネ、ドジっ子、お姉さまキャラなどの萌え要素の組合せについて、「これはあり」、「これはないだろ」という基準が洗練されてきて、「涼宮ハルヒ」シリーズあたりでほぼ完成形に来ちゃった。何とか突破口を見出せないか、という話をしている。

私は、伝統芸能の様式美のようにワンパターンに収斂していく流れがひとつありながら、並行的な別の潮流として、純文学回帰という傾向も出てくるのではないかと思っている。つまり、近代小説のようなテイストの、個人の内面の苦悩と葛藤を描いた重厚な作品が見直されてくるのではないかと。例えば山本周五郎の「さぶ」は1966年にテレビドラマ化されているが、これなんて、アニメ化したら、けっこうウケそうな気がする。腐女子に。

●一皮剥けたのか? 岡田斗司夫氏、初の下ネタ披露

夏コミに引き続き、今回もオタキングの岡田斗司夫氏ご本人が売っていた。前回入手した「オタク・イズ・デッド」には5月に新宿ロフトプラスワンで開かれた同名のワンマントークショーの内容が掲載されていて、これが斬新で衝撃的。このコラムでも話題に取り上げた

今回も新刊を楽しみにして行ったところ、「月刊岡田斗司夫」が4か月ぶりに発行されていた。これが第3号。目玉は、6月27日にロフトプラスワンで行われた、お下劣系漫画家・田中圭一氏との対談。そっち方面の話題全開で。学生時代にどんな妄想を頭に描いて自家発電に励んだかをお互いに披瀝しあうという企画。「大河オナニーを語ろう!」

まさにそこが知りたかったという核心を衝いた内容で、大変ためになった。……わけはないが、爆笑ものであった。青春のどす黒いエネルギーのマグマから湧出する壮大でお馬鹿な妄想の数々。CM抜きで3時間かかるひとりロールプレイとか。岡田氏の持ちネタは、ザ・ハーレム、ザ・媚薬、銀河帝国の興亡、地球最後の男、女王学園、密室サバイバル。オタクから妄想を取ったら何も残らないのだから、この方面で人に負けては面目が立たぬってもんだが、さすがはオタキング、オタクの第一人者としての貫禄を示してくれた格好だ。通販で取り寄せできるようです

さて、もうひとつの目玉は、岡田氏が落語をやるという話。と言っても正統派の噺家になりたくて修行を積んできたわけではないので、多方面で培ってきた話術を生かして、破天荒なことをやろうということらしい。

私はまるで不案内なのだが、岡田氏が「今の落語はどっから見てもだめだな」と批判するのを読むと、「ほんとにこりゃだめだ」と深く納得させられてしまった。要するに、ポストモダンの潮流を取り込めていないのである。「落語とはかくあらねばならぬ」という古い教条主義の牙城が、なぜか崩壊せずに保たれ、時代の潮流を顧みて変化する気配がないのである。

私は、昨年の11月中旬、やっぱり不案内な方面でありながら機会があって、日本橋高島屋へ「草月いけばな展」を見に行ってきたのだが、このときは心底ぶったまげた。伝統的な「生け花」のイメージを木っ端微塵にしてくれる前衛っぷりに。折り曲げギャザーのついたカラフルなストローを生けてみたり、木の幹に活版印刷の鉛の活字を植えてみたり、生姜の根っこを何十個か円環状に転がしてあるだけだったり、薄いヴェールをまとった木がコスプレイヤーみたいだったり。いやいや、なんかすごいことになってる。いまさら「こんなのは生け花じゃない」なんて寝言言ってたりしたら、作品から笑い返されそうなくらい、突き抜けちゃってる。

それにひきかえ、落語界は淀みっぱなしで、末期的症状を呈しているらしい。そんな「落語1.0」には見切りをつけ、岡田氏が「落語2.0」で枯れ木に花を咲かせましょう、ということのようで。キャッチフレーズは「メイド喫茶に行くように落語を聞いてほしい」。これは楽しみだ。

ただ、ちょっと懸念されるのは、どんな芸でも守・破・離の段階を踏んでマスターしていくと言われているように、まず、基本をしっかり身につけた上で壊しにかからないと、単に奇をてらっただけの底の浅いものに終わってしまいかねない、という点。ピカソだって子供のころは遠近法に基づいた正統派の絵を描いていたわけだし、草月いけばな展でもジュニアのコーナーでは伝統的なのを上手にやっていた。私見だが、ライトノベル作家だって、近代文学の代表的なところぐらいは踏まえた上で書いてほしいなー、とは思う。その点で、「古典の勉強なんて野暮なこと言うな」という岡田氏の姿勢にはちょっと不安を感じなくもない。

ま、いいや。1月21日(日)に渋谷で「落語2.0お勉強会」をやるそうだから、見に行ってみましょうかね? あ、共演者のひとりである前立亭茎丸さんって、下ネタ対談のときの田中圭一氏ですか。はい、そっちも楽しみです。
< http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/2_5a70.html
>

●萌学協会も脱萌え傾向を指摘

萌学協会の竹林賢三氏にも会うことができた。竹林氏は前年度、大学の卒業研究テーマとして「萌え」に取り組んでおり、去年の冬コミで見つけた「萌法序説」が「萌え」を学術的に掘り下げて興味深く、ここで紹介した

今回は新刊が間に合わなかったということで、それの準備号みたいな形で「時事萌談」というコピー本を無料配布していた。これも期待にたがわず洞察鋭く、特に、「デ・ジ・キャラット」と「ウィンターガーデン」を比較して、注目すべき考察をしている。ウィンターガーデンは12月22日(金)、23日(土)の深夜に放送されたアニメで、デ・ジ・キャラットの舞台の10年後という設定になっている。

 ウィンターガーデンはここ数年の「萌え」の動きを象徴しています。東浩紀
 氏が指摘するように、「でじこ」はもともとなんらの設定も持たず、「断片
 (萌え要素)の力」によって視聴者の想像が促されて成立したキャラクター
 でした。しかし、'00年代前半には類型的なキャラクターを並べるだけでは
 消費者の支持を得られなくなったことが徐々に顕在化し、人格とストーリー
 をしっかりと描き出す方向への転換が見られ始めました。

これは、データベース—シミュラークルモデルによる記号的なキャラクターの行き詰まり感と打開の方向性を示唆する論になっている。

オタクの世界もまた「わが世誰ぞ常ならむ」の例外ではなく、常に地殻変動している。だからこそ、今、流れはどっちを向いているんだ、と常に気になる。コミケの空気を吸っていると、オタク情緒にどっぷりと浸ることができ、ほっとする。石川啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と詠んだ気持ちが分かろうというものである。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。もちろんコミケでは、コスプレ広場へも。ひいき目を差っ引いてもローゼンメイデンの人形コス、多かったなー。半分くらいは中身が男性だったような気もするけど。年々混雑がひどくなり、ついつい昔はよかったなー、なんて話になっちゃって、年寄りくさくなってたかなー、と。

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■編集後記(1/12)

・ゆうびんホームページにある「市町村合併が行われる住所の郵便番号一覧」という表の中から、ひらがな症候群の市名、町名をチェックしてみた。ひらがなにする理由は、表向きは「親しみやすさ」をあげるが、本当は特定の旧市町村名を使うと名前が消える合併相手が反発するので、それをやわらげるための逃げである。そんな感情はわからないでもないが、ひらがなと漢字を並べてみれば、いかにひらがな市町名がブザマであるか、地名文化の破壊であるかはっきりわかる。さらに逃げをうって、新しい地名にしてしまう例もある。由緒あるものならよしとすべきかもしれないが、ひらがなにすることはないだろう。さらに合成市町名にしたり、さくら市(栃木)みどり市(群馬)のようなおよそ地名とは呼べない命名をした大愚行もある。つくばみらい市(茨城)なんて妙なのもあったな。漢字のほうが断然美しい例をいくつか挙げる。うきは市(福岡)浮羽、たつの市(兵庫)龍野、みなべ町(和歌山)南部、いすみ市(千葉)夷隅、ときがわ町(埼玉)都幾川、かすみがうら市(茨城)霞ヶ浦、みなかみ町(群馬)水上、にかほ市(秋田)仁賀保、おいらせ町(青森)奥入瀬、むかわ町(北海道)鵡川、せたな町(北海道)瀬棚、そして西津軽郡木造町などが合併してできた青森のつがる市、なぜ津軽市ではないのか、これなど犯罪的な歴史、文化の破壊だと思う。ひらがなで怒っていては身が持たない。ご当地の人には気の毒だが、そりゃないだろうという無茶な愚劣な新市名が続々、またネタにするつもりだ。パソコンで宛名まで印刷してしまうとあまり気にならないだろうが、ひらがな市町村名の手書きはホントに見苦しくなる。さいたま市の知人も多いので年賀状書きがつらかった。(柴田)

・大晦日はPRIDEを見るためスポーツカフェへ。近場でやるK-1のカードがとてもつまらないものだったので、ベストバウトが出そうなPRIDE中継を見にいくことにした。契約しているケーブルテレビでは有料放送してくれないし、
DMM.comの小さな画面で見るよりは、新しい経験をしようと思ったのだ。お店
に電話を入れたら予約はとっていないと断られ、16時スタートの番組のため15時過ぎに入る。満席かと思いきや、30%の入りで拍子抜け。入場料をとられ、お祭りの露店のような料理メニューと価格にがっかり。お客さんはほとんどが男性で、実際にやっていそうな人や、大学の柔道部ネーム入り上着を着ている人、何もやってないよね? な人たち。大画面に向って静かに鑑賞。サッカー中継なんかだと結構騒いでいるイメージがあるんだけど、序盤では青木がきめた時に全員が拍手をした程度。あっ、とか、うっ、とかの声も漏れてこない。真面目に見ていて判断が厳しい。試合が進むにつれて徐々に人が増えてきて最終的にはほぼ満席状態。外国人団体が入ってきてからはうるさくなり、私も遠慮なく騒ぐことに。吉田・トンプソン戦の時には、レフリーストップが遅すぎると怒ったさ。最後のヒョードル・ハント戦の前にはロシア人らしき人が、ロシア国歌斉唱時に一人で起立し歌っていて、勝った途端に見知らぬ周りの人たちとハイファイブ。あ、そうそう、サッカーならこんな感じよね〜と。面白い試合が多くて大満足。五味・石田の再戦を待つ!(hammer.mule)
< http://www.t-joy.net/
>  大阪や鹿児島でパブリックビューイングが