笑わない魚[224]大規模マンションの闇
── 永吉克之 ──

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何百戸も入っているような大規模マンションは、ひとつの町と同じで、町内会に相当する「自治会」なるものがたいていある。これは、住人が互いに協力して、住みやすく楽しい生活が送れるようにすることを目的とした機関である。

わがマンションの場合、そのなかに、文化部だの広報部だの体育部だのといった部会があり、なかでも体育部は毎年、夏には盆踊りを開催し、秋には地域ぐるみで行われる市民運動会の出場者を編成し、春にはウォーキングツアーを挙行するのが役目で、各部会のうちでは「一番しんどい役目」らしい。

しかし、盆踊りや運動会といった活動を通して住人相互の連帯感が強くなり、独居老人の孤独死などを未然に防止することができるのである。実際、両親が生前にいろんな行事にかかわったおかげで、その葬儀では近所の方々が通夜の準備などで献身的に協力してくれた。

♪とんとんとんからりんと隣組 地震カミナリ火事どろぼう 互いに役立つ用心棒 助けられたり助けたり
(この曲のメロディは「ド・ド・ドリフの大爆笑〜」で使われてます)

の精神はまだ失われていないのだな。日本人の心の灯火はまだ消えていないのだな、素晴らしい。見知らぬ人間との付き合いが苦手な若い連中は、ぶん殴って脅かしてでもこういう活動には参加させるべきだ、また、私自身もできることがあるなら是非参加したいと思っていた。


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ところがこの四月から、自治会の本年度の体育部長を私がしなければならない羽目になったのである。それは私に人望があるからではない。一番面倒な仕事で誰もやりたがらず、挙句、最後に私にお鉢が回ってきだけのことなのだ。

とんでもない、そんな大変な仕事は御免だと思った。ただでさえ面倒がって、行事関係には参加したがらない人が多いというのに、その人たちの所に「すいません、パン食い競走の参加者がいないので出てもらえませんか」などと頭を下げて頼みに行かなければならないのだ。盆踊りでは、マンション周囲の店舗から寄付金を集めたり、露天の手配をしなければならない。

しかし、父親ほど年の離れた自治会長が私の部屋までやってきて、どうかお願いしますと深々と頭を下げて頼むのを、単に「面倒だから」という理由で断るだけの度胸は私にはない。しかも相手が、両親が生前に親しくしてもらっていた人物とあればなおのことだ。

収入の激減や、その他いろいろあって気落ちしているところに、降って湧いたような災難。私はそこに、宿命とは少し違う、ある種の悪意ある摂理を感じ取らずにはいられなかった。「弱り目に祟り目」とは、人生、不運が重なることもあるよね、なんていう程度の諺と解釈してはならない。これは摂理なのだ。

「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っているものまでも取り上げられる」(マルコによる福音書4章25節)

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そしてこの一件が、ついに俺の中で飽和状態となり、それ以外の何もかもが俺の中で居場所を失った。あたかも常駐ソフトのように常にそれが頭の片隅で起動していて、モーツァルトを聴いていても、豪勢な料理を食べていても、麗しい女を抱いていても、強迫観念のように俺を苛み、あらゆる安逸、歓び、快楽を灰色に塗り替えてしまうのだ。

大好物だったヒレ肉のステーキも、今の俺の口の中では靴の底革も同じだ。毎夜欠かさなかった18年物のスコッチも、今の俺の舌の上では消毒液だ。花壇の花々のように俺の生活を彩ってくれていたムーランルージュの夜の女たちの肉体も、今の俺の腕の中では死んだオットセイだ。

これまでの俺の日々は宴だった。そこにはゴロツキもいた。ペテン師もいた。怒りも憎しみも嫉妬も虚栄も淫蕩もあった。あらゆる悪徳があった。しかし俺は満ち足りていた。そこでは誰からも指図されることなく、身軽でどこにでも自由に行け、気に入らないものは神でも罵倒することが許されていたからだ。

しかし俺は、それを瞬時にして失った。盆踊りを開催する責任者になることを承諾した瞬間に、俺は自らを鎖に繋いでしまったのだ。ちっぽけな恩義の見返りに、俺は自由という途方もなく巨大な財産を失ったのだ。

ああ、なにもかも壊れてしまうがいい。盆踊りの準備をするくらいなら、戦火によってこの街が焼き尽くされることを俺は望む。恐れを知らぬ騎兵たちよ、雷神の怒号をも掻き消してしまう砲火よ、この街から、いやこの地上から盆踊りの賑わいが聞こえなくなるまで、破壊し尽くすのだ。

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その慢性的な重圧が生み出す絶望感が、いつしか、歪んだ論理を伴った怒りをも生み出していた。

そもそも盆踊りをしようなんて言い出した唐変木は、いってえどこのどいつでえ! 盆踊りのなにが面白れえってんだい。櫓の周りをぐるぐる回ってるだけじゃねえか。そんなもんで連帯感が生まれるんなら、遊園地のコーヒーカップに乗った連中はみんな強え絆で結ばれて、親類になってらあ!

あそうだ、秋にゃ運動会もやらきゃならねえんだ、こんちくしょう! 親睦を図るのに、何でかけっこしなきゃならねえんでござんしょうかね、ときたもんだ。そんなことするくれえなら、マンションのガキみんな公園に集めて、おしくらまんじゅうでもさせといて、その間に大人は夫婦◯換すりゃいいじゃねえか。親睦深めるにゃ肌を合わせるのが一番だい!

「おまいさん、ちょっと聞いとくれよ、田中さんちの旦那のク◯◯◯◯ス、舌先が探りを入れてくるときのじらし方、上手いったらありゃしないよ。あたしゃ、それだけでイっちまったよ」
「てやんでえ、田中のカミさんのフ◯◯◯オも絶品だぜ。いっぺんに不能が治って、いきなり5回もやっちまったい!」

かくして夫婦は切磋琢磨し、配偶者を歓ばせることに血道を上げ、回数は増え、離婚率は下がり、逆に出生率は上がるのだ。

【ながよしかつゆき/液体】katz@mvc.biglobe.ne.jp
やはり民主主義の根幹は多数決原理なのか。わりと最近まで「耳触りがよい」という表現は、「障り」を「触り」と取り違えた誤用であるという主張が一般的だったが、最近の辞書には、堂々と「耳触り」が載っている。goo国語辞典にも「耳触りがよい」という例文が出ている。民主主義なら仕方ないが、これを放置しておくと「目障り」から「目触りのいい風景」なんてのが出てくるかもしれない。しかしそれも民主主義ならしかたがない。

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