笑わない魚[227]「インタラクティヴ」はどうなった?
── 永吉克之 ──

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あらかじめお断りしておくが、今回のコラムには何のひねりもカラクリもない。事実誤認は多少あるかもしれないが、私の得意とする、捏造も欺瞞もない。

2002年7月18日発行のデジクリNo.1128に、私は「INTERACTIVITY」というタイトルでコラムを書いた。五年も前の文章だが、今読んでみると、けっこう納得させられることを書いている。最近書いているものよりも遥かにまともな内容で読みやすい。
< https://bn.dgcr.com/archives/20020718000000.html
>

最近の文章のように、ウケを狙おうというあからさまな作為や、読者への媚びが感じられず、素直な文章で好感が持てる。いったいいつから、私は読者にウケるためなら誇りも捨てるような卑しい人間になってしまったのだろう。当時の読者からすれば、最近の私の文章は痛々しくて読んでいられないはずだ。

かつては全国の女子高生の間で人気炸裂だったが、今ではすっかり落ちぶれて、とんとテレビに姿を見せていなかった元男性アイドルが、関西ローカルのバラエティ番組にゲストで出ているのを見たことがある。人気回復のチャンスだから、アピールしようとでも考えたのか、彼は、アイドル時代の無口で陰のあるイメージを捨てて、異常なテンションで面白くもなんともないジョークをまき散らしていたが、痛々しくて、とても正視できなかった。

それを思うと、原節子や山口百恵は、いいタイミングで引退したものである。そのタイミングが彼女らを永遠のアイドルにしたのだ。だから私も老醜をさらすのはこのくらいにして、そろそろ引退を考えなくてはならないが、今回もまたそうやって自虐的な話題にもっていこうというのではない。


●インタラクティヴ・アートは進化しているのか?

五年前のコラムのなかで、私はデジタルによる「インタラクティヴ・アート」の現状に疑問を投げかけたのであった。「インタラクティヴ」ではあっても「アート」と称するには到っていないのではないのかと。

一時期、デジタルのインタラクティヴィティが、新しいアートが生まれる契機になるのではないかという期待感が一部のアーティストの間にあったのだ。例えば、「ダンボールアーティスト」の日比野克彦氏ですら、インタラクティヴ作品を収めたCD-ROMを発表している。

それから五年。インタラクティヴィティは、特に、インスタレーションという形態をとった「メディア・アート」と呼ばれる分野において、不可欠の要素になっているし、技術的にかなり高度なことができるようになってはいるようだが、その内容となると、私が勝手に決めた「人が、優れた作品に触れたときの五大反応」を起こさせる作品は、知っている範囲では見当たらない。

1)二度三度と観たくなる。
2)その作者の他の作品も観てみたくなる。
3)作者がどんな人間なのか知りたくなる。
4)その作品を、複製や記録映像といった形でもいいから所有したくなる。
5)その感動を他人にも伝えたくなる。

以上が「五大反応」。反応の種類はこれらだけではないのだろうが、七大とか十大とかとなると多すぎるので、五大でやめておいた。また、いろんな異論(駄洒落です)があると思うが、聞く耳は持っていない。

そのコラムの中で、インタラクティヴな表現を見せることを目的としたサイトを四つ挙げたが、そのうちの三つは、現在でもインタラクティヴな作品が紹介されている。それが、五年間夜の目も寝ずに追究した成果なのか、惰性で作ってきた延長なのかは分らないが、少なくともインタラクティヴ・アートとしての進化は感じられない。私の認識不足で進化に気づかないのかもしれないが。

そのなかでも、インタラクティヴ・ムービーの大御所サイト「Modern Living」は長い間見ていなかったし、作品の制作年も分らないので、最新作はどのくらい新しいものなのか分らないが、見たところ、五年前と同じニューロティックなセンスで開き直っている。インタラクティヴィティ自体は、Flashを使った単純なものだが、作家性はよく出ている。
・Modern Living < http://ml.hoogerbrugge.com/
>

●カラクリの美

インタラクティヴ・アーティストと自らを称するのであれば、観客から「へえ、こんなこともできるんですね。最近のコンピュータ技術って凄いなあ」と感心されて、いい気分に浸っていてはいけない。

プログラマなら、いくらいい気分になっても構わない。自分の本業であるプログラミングが賞讃されているのだから、いい気分になって当然だ。しかし「美」を創造するのが本業のアーティストなら、チッ、と舌打ちをして「コンピュータ技術なんかどうでもいいんだよ。俺の作品が発している美のメッセージを感じ取ることができないのか!」と憤慨しなければならないのだ。

つまり、双方向(インタラクティヴ)、一方向に関係なく、すべからくアートというものは「美」を発しているべきなのであるが、いまだに五年前と同じく、どれだけ高度でユニークなカラクリを作るかで汲々としているように見える。

しかしである。そのカラクリの妙を「美」にまで昇華させることはできるかもしれない。つまり「美しいカラクリ」を作るのである。上に挙げた五大反応を観客から引き出すようなカラクリを創造すればいいわけだ。

といっても「美しいカラクリ」とはどんなものか、私自身、想像することができない。言うだけ言っておきながらビジョンが示せなくて申し訳ない。どうすれば芥川賞を受賞できるのかと問われて、素晴らしい小説を書けばいいと答えるようなものだろう。

喩えを用いれば、ドビュッシーのメロディのように流麗で、トルストイの小説の主人公のように気高く、ピカソの絵のように奔放で、鈴木清順の映画のような官能美を秘めたカラクリを作ればいいのである。簡単なことだ。

【ながよしかつゆき/三文役者】katz@mvc.biglobe.ne.jp
途中ブランクはあったが、もう六年もデジクリに寄稿している。始めのころ、掲載される度に読者から感想メールをいただいていた時期があったが、このところ、さっぱり来なくなった。少し長居をしすぎたようだ。

「幕を引け、茶番劇は終わったのだ」(ラブレー)


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