笑わない魚[237]公衆道徳の限界
── 永吉克之 ──

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懐手をして、何やら考え事でもしているのか、うつむき加減で妻の四五歩先を黙って歩いて行く亮吉。ミツはそれが無性に寂しくて、何でもいいから話しをするきっかけはないものかと思いを巡らした。そしてふと亮吉が着けている襟巻きに目をやると、あたかもミツを手招きしをてでもいるかのように、それはあった。
「ちょっとお待ちになって。糸が…」
ミツは亮吉に追いつき、襟巻きの端からほつれて垂れ下がっている一寸ほどの糸を、すこし大袈裟な身振りで噛み切った。


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ドラマなんかでありそうな場面ですな。ところでミツさんは噛み切った糸をどう処分したのでしょうか? 一寸(3.03cm)程度の長さの糸ではリサイクルのしようもないでしょうから、家に持ち帰ったとは、まあ考えられませんな。また頬っぺたに付いたご飯粒ではないのだから、食べるわけにもいかんでしょう。この場合、その場に捨てた、つまり路上に投棄したと考えるのが自然ではありますまいか。いわゆるポイ捨てですな。

俺は、所かまわず紙屑や空き缶なんかをポイ捨てする奴が大嫌いなんだ。特に、タバコの吸い殻を捨てる奴は赦せねえ。それでも火を踏み消すのならまだ可愛気があるが、火のついたまま放り出して行くのを見たらもうダメだ。そいつを殴り倒して押さえつけ、持ってるタバコを箱ごと取りあげてそれに火をつけ、さあ好きなだけ吸いやがれこの野郎と、口の中にねじ込んでやるんだ。そうやって今までに何人も殺してきた。

でも、冒頭のミツさんのような場合、俺はどうすりゃいいんだ。そりゃポイ捨てだと言われりゃ、たしかにその通りだが、3cmかそこらの糸屑じゃ、ゴミと呼ぶには小さ過ぎて、とてもミツさんを殴る気にはなれしまへん。咎めだてするだけでも、なんや融通のきかん奴やなと思われますよってに。それに、そんな小さい屑やったら、誰かてみな知らんうちに、なんぼでも道の上に捨ててるはずどす。

気がつかんだけで、みなも自分勝手なことしてまんのんえ。例えば天気のええ日にベランダでお布団、干しはりますやろ? ほんで布団たたきでぱんぱん叩きはりますやろ? そないして飛び散ったホコリがどこに行くかは、みんな我関せずや。ホコリがみんな地べたに落ちるんやったらよろしゅおす。でもそれは風に乗って他所様のお家の窓から入り込んだり、近くを歩いてはる人が吸い込んだりするんどすえ。

お布団は叩いたらあきまへん。どうせ叩いても、飛んで行くのはお布団の繊維がほとんどで、ダニの死骸なんかは残ります。いちばんええのんは、日干ししてから掃除機で丹念に吸い取ることどす。

そないな風に、人様のことをほんまに思いやる気持をウチらみんなが持つことができたら、ポイ捨ても自然とのうなります。そうなったら、糸屑がポイ捨てになるかとかならんとか、そんなんは取るに足らんことやということが解るんやおまへんやろか。

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司会者「お話は京都先斗町の菊乃姐さんでした。ありがとうございました。なんだか自分自身のことを言われているようで、身がすくむ思いがしました。さて、これもやはりポイ捨ての一種なのでしょうか。男性に多いのですが、路上や、時には建物の中で唾を吐く人を見かけることがあります。遠くから見ていても不快ですよね」

俺は、所かまわず唾やら痰やらを吐き散らす奴が大嫌いなんだ。ひどいのになると、エレベーターの床に広大な範囲で唾液が泡立っていることがある。そんなときは、自宅マンションの1階から自分の部屋のある16階までずっと、その不快極まる分泌物のそばでムカムカしながら立っていなきゃならない。

その他にも、駅のプラットフォームのような、多くの人間が集まっている所で唾を吐く奴は赦せねえ。特に、電車の中で吐いている奴を見るともうダメだ。そいつを蹴り倒して髪の毛を引っ掴み、さあ、お前が吐いた唾だろ、吸い取れと言って唾液溜まりに鼻の骨が折れるほど顔を押しつけてやるんだ。そうやって今までに何人も殺してきた。

でもある時、俺は気がついた。じゃあフケはどうなるんだ、と。フケは、頭皮の角質細胞に分泌物が混ざってできたものだから、唾液の親戚というか、いとこというか義兄弟というか、まあそういった関係だ。だから公共の場所で、肩に溜まったフケを払い落とすことと、唾を吐くことに根本的な違いはねえ。

待てよ、じゃあなにかい、分泌物がダメだってんなら、目垢も耳垢も鼻クソも路上に捨てちゃいけねえということかい。それどころか、汗一滴、涙一滴落としちゃいけねえってことになっちまうじゃねえか。

しかし、中学校の入学式で「恭平、ちゃんと頭洗ってるの? こんなにフケがたまって」と母親が新入生の息子の制服の肩のフケを払ってやってるのを見て、その母子を殴り倒すなんて鬼畜のような真似は、俺にゃ到底できねえ。正義を全うするってのは、鬼畜になることじゃねえはずだ。

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そのことに気づいて以来、この疑問が四六時中、私の頭を離れず、睡眠も浅くなり、夜中に何度も目を覚ましては、その疑問を反芻するという状態が何週間も続きました。そのうち嘔吐、動悸、手足の痺れといった症状が表れるようになり、医者に、ストレスが原因の心気症と診断されたため、経営していたバッティングセンターを人に任せ、私は京都郊外の療養施設に入り、そこでこれを書いているところです。

しかし最近はよく眠れるようになり、正常な判断もできるようになってきたので、私は冷静に、投棄もやむを得ない分泌物と、投棄すべきでない分泌物とを、注意深く分類してみました。

《投棄もやむを得ない分泌物》
フケ、目垢、耳垢、汗、涙

《投棄すべきでない分泌物》
唾液、痰、鼻クソ、大小便、ゲロ(胃液などの分泌物が含まれているから)、血液、リンパ液、膵液、胆液、腸液、精液、カウパー腺液、バルトリン腺液…この項目、書きかけ。

でもよく考えてみたら、これらの分泌物は、みな自然物なんですよ。ヒトという自然物から排出されたものなのだから、当然それらも自然物です。空き缶やタバコのような人工物とは違います。上のリストに挙げたものをよく見てください。その気になれば食べられる無害なものばかりではありませんか。だから、ほんとはちっとも汚くないんです。

いやちょっと待てよ、違うぞ。空き缶であれタバコであれ、自然物であるヒトが作ったものなら、やっぱり自然物じゃないか。それに人工物とはいっても、原材料は石油とか鉄鉱石とか植物とかいった自然物だったはずだ。

自然物だったものがいったいどの時点から人工物に移行するんだ。ヒトが加工した時から人工物になるというのか。だったら整形美人は人工物なのか、え?いいか、人工物なんてのはこの世に存在しないんだ。核兵器だってフライパンだってiPodだって、ヒトが作ったんだから自然物だ。森羅万象が自然物、つまり俺たちの仲間なんだ。神の御名は讃むべきかな!

【ながよしかつゆき/乞食】katz@mvc.biglobe.ne.jp
地元の郵便局で深夜から早朝にかけて、年賀状の仕分けのアルバイトを16日から始めます。シフトを見ると、大晦日も元日も仕事。デジクリの私のシフトは今年は本日が最後です。私の来年は無残ですが、読者諸賢におかれましては、どうかよいお年になりますように。

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