笑わない魚[238]深夜勤にて 〜カフカ調
── 永吉克之 ──

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わたしは久しぶりに健全な市民らしい労働生活を経験した。それは一定の時刻に仕事を始め、終業時刻になると、常に追い立てられていることが自分の義務だと主張する人びとのように、たちまち帰宅してカーテンを閉めてしまう、そんな生活であった。

厳密には、われわれは「アルバイト」ではなく「年末短期期間雇用社員」という呼称を与えられていたが、現場では省略して「短期の人」と呼ばれた。名前を呼ばれることはない。管理者たちは各人を区別するために、大声で呼んだり、歌うように呼んだり、ギリシャ語で呼んだり、うずくまって呼んだり、はるか彼方から呼んだりするのだ。

われわれの仕事は、夜間に、きいきいと甲殻類のような音を立てながら車両が運び込んでくる、おびただしい数の郵便物を地区別に分ける、つまり「区分」することだった。そう、われわれはそれを「区分」と呼んだのだ! にもかかわらず執拗に「仕分け」と呼ぶ者たちは薄笑いを浮かべながら、いつも壁伝いに歩いているので、最後には壁と見分けがつかなくなってしまうのである。

また、仕事は始まる時刻が遅く「深夜勤(ふかやきん)」と呼ばれ、夕刻から始まる「夜勤」とは区別されていた。つまり世界が心地よいまどろみに、くすくすと笑い出すころに仕事が始まり、「もう、世界など溝に捨ててしまえ!」と呪いの言葉を吐く、真冬の朝に仕事が終るのだ。


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現場には長期のアルバイトもいて、直接的には彼らの指示でわれわれは動くのだが、郵便物を区分する、岸壁のように巨大な区分機の発する、ぱたぱたというしゃべり声がうるさいのに加えて、彼らがあまりに小さな声で話すので、その歯が鳴らす、かちかちという音から指示の内容を読みとらなければならない。

わたしが隣にいた男に「しばらく待機しろ、と言ったんでしょうね」と尋ねると「いや、ぼくには、犬のようだ、と聞こえました」と言う。すると後ろにいた男が「そうなんですか? ぼくは、コンスタンティノープルの陥落、と言ったのかと思いました」と囁くように、しかし決然と意見を述べる。結局、この意見がもっとも正しいように思えて、みな「コンスタンティノープルの陥落」を始めることになるのである。

最近の区分機は、郵便番号だけでなく、住所まで読み取って地区ごとに振り分けることができるのだ。しかし人の書く字は読みやすいものばかりではない。そこで、この優秀な機械ですら理解できないような字で住所が書いてあるとき、機械はそれを退け、人間がその後始末をすることになる。

とはいっても結局、また別の機械を使って郵便番号や「◯丁目◯番地」を打ち込むのだから、まったくのお笑いぐさだ。しかもその作業は「打鍵」という、ピアノでも弾くかのような優雅な言葉を遣って呼ばれた。「打鍵!」という指示が出されると、われわれは狂ったように大笑いを始める。「いったい今度は何を弾かせようというのだ? ショパン? それともリスト?」と歯をむいて皮肉を言う者もいる。すると管理者は「もういい。何でも好きなものを弾くがよかろう!」と叫んで、自分の部屋に閉じこもってしまうのである。

しかしこの偉大な機械を目の当たりにして、人はみな自分もこの機械のなかに投げ込まれて区分され、どこか行ったことのない地区の郵便受けに配達されたいと願うのだ。われわれも、どの地区に配達されたら素敵だろうかと想像しながら、区分された郵便物が集積する「区分口」──定形郵便物が収まる大きさで、その上縁についている小さなディスプレイにそれぞれの地区の名前が表示されている──に手を差し込んで、そのまだ見ぬ地区の感触を楽しむ。なかには頭を差し込もうとしてもがく者もいるが、管理者に見つかってこっぴどく鞭打たれることになるのだ。

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休憩は1時からの1時間だった。その間、年末短期期間雇用社員たち──わたしはこの呼び名を皮肉で使っているのではないが、たしかにこれは不安定で、咳払いをしながら女のように甲高い声で持論を披露する連中には、すこし耳障りかもしれない──は、食堂で静かに腰かけている。といっても食事をとるわけではない。一言の声を発することもなく、ときどき片足を床からすこし浮かせて小刻みに振るわせたり、椅子の背を引っ掻いたり、人相が変るほどテーブルに顔を押しつけたりしているだけだ。

われわれは互いに何も話さない。話せないのではない。見ず知らずの他人と話すのが苦痛なのだ。話す苦痛よりも黙っている退屈を選ぶ人びと。この退屈は誰にも渡さないという強い決意でふわふわする人びと。深夜勤とはそんな人びとで溢れた王国だったのだ、万歳!

昼食時ならさぞかし賑わっているだろう広い食堂は閑散とし、厨房も閉じられ、もはや食堂という呼称はあまりに不遜だった。わたしは激しい怒りにかられて、その食堂に「スコルディガルトン」という名を与えた。「姑を寝取った男」という意味である。そして他の者たちが恐ろしい速度で瞬きするのを見て、彼らも同じ意見をもっていることがわかった。ある者は「エルゾウド」(蒸した髭)と、またある者は「ペミエヒーデン」(山羊としての権利)と、その食堂を名づけていたはずなのだ。

絶望の休憩時間が終わりに近づくと、われわれはいても立ってもいられなくなる。自由を目前にして、たまりかねて犬のように吠える者もいる。そして時計の針が2時を指した瞬間、みなそれぞれの持ち場に戻って笑顔をとり返すために、いっせいに食堂の入り口に押し寄せる。そのために毎回入り口が混雑し、誰も食堂から出られない状態が10分以上続くのだ。(この稿未完)

【ながよしかつゆき/数寄屋坊主】katz@mvc.biglobe.ne.jp半月間だったが、郵便局でのバイトはいい経験になった。何年間も使っていなかった脳の部位を鍛え直したような気がする。アルバイトの多くが若い人たちだったが、なかには私よりも年上と思える人も何人かいた。人はみなそれぞれ事情をかかえているのだ。しかしこんな生活も悪くないんじゃないだろうか。「デカンショ〜デカンショ〜で半年暮らす〜あとの半年寝て暮らす〜」の縮小版。つまり半月働いて、あと半月は一銭にもならない芸事にうつつを抜かして過ごすわけだ。無理かね。

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