映画と夜と音楽と…[360]愛と裏切りは対立するか
── 十河 進 ──

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善き人のためのソナタ スタンダード・エディション●あまりなじみのないドイツ映画だったが…

今年になって各映画賞が発表になっている。先日、キネマ旬報のベストテンも新聞に載っていた。外国映画賞の上位に「善き人のためのソナタ」(2006年)が入っていて、僕としてはとても気分がいい。「善き人のためのソナタ」は、昨年のアカデミー外国語映画賞も受賞している。

ドイツの映画監督ヘルツォークは「ドイツ映画史上、最も素晴らしい作品だ」と言ったらしい。公式サイトに大きく、そのフレーズが掲載されていた。僕も、昨年、呑み友達のIさんにその素晴らしさを訴えていた。「あれほどシリアスな話で、あれほど気持ちよく終わってくれる映画はない、ああいう展開になるとは予想もしなかった」と、酔った勢いで僕は絶賛した。


多くの良き映画を見てきたけれど、「善き人のためのソナタ」はとりわけ素晴らしいと思う。主人公の感情をほとんど顕わにしない演技がいい、構成がいい、展開がいい、物語が素晴らしい、最後のセリフを絶対に聞き逃してはいけない、などと僕はIさんに言い募り、さすがにIさんもすぐに見たらしい。数日後、「確かに素晴らしい映画でした」とメールがきた。

ブラックブックドイツ映画だから、俳優たちにはあまりなじみがない。作家ドライマンを演じたセヴァスチャン・コッホという人は、ポール・ヴァーホーヴェン監督の「ブラック・ブック」(2006年)でナチの情報局の将校を演じていたので、顔は知っていた。ドイツでは有名な俳優なのだろう。もっとも「ブラック・ブック」はオランダの映画だ。

セヴァスチャン・コッホという俳優は、渋く、知的で、温厚なイメージなので、ナチの将校役で出てきたときは違和感があったのだが、ナチの本部へスパイとして潜入するヒロインが本気で愛してしまう相手で、ドイツ軍の中の善き人の役だった。

「ロボコップ」(1987年)「氷の微笑」(1992年)「スターシップ・トゥルーパーズ」(1997年)など、えげつないくらいメリハリのある映画を作るヴァーホーヴェンが母国オランダで作った「ブラック・ブック」は、やはり見始めたら終わるまで固唾を呑むような映画だった。見る者を画面に引きつける力は凄い。

それに対して「善き人のためのソナタ」は実に地味な映画なのだが、人間同士の対立や心の葛藤、愛と裏切りなどが究極の姿で描かれ、こちらもスクリーンから目を離せなくなる。ヴァーホーヴェン作品のような、頭から観客をつかんで離さないというのではないが、静かに少しずつ観客を作品世界に導き入れ、いつの間にか引き込まれている。いつまでも心に残る作品になる。

監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは1973年生まれで、ベルリンの壁が崩壊したときには十代半ばだった。それから十七年たって、旧東ドイツの暗黒面を映画にした。これが長編第一作だそうだから畏れ入る。この静寂、この深み、人間に対する認識の多様さ、見事な最後の救いまで、完璧な映画だ。三十代半ばの青年監督の作品だと聞けば、いっそう驚く。

●ナチの時代が続いているような東ドイツの尋問室

白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-「善き人のためのソナタ」は、まるでナチ映画のような始まりを見せる。ある男が秘密警察の尋問室のようなところに連行されるのだ。僕は、ほとんど尋問と裁判場面で終始したナチに対する抵抗を描いた「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」(2005年)を思い出した。

連行された男の前に座った尋問官は無表情で、氷のように冷たい視線を向ける。尋問官は、西へ亡命した人物を幇助したのだろうと男を詰問する。男は眠らせてもらえない。何度も何度も同じことを質問される。場面が変わると、先ほどの尋問官が階段教室で講義をしている。

「嘘をついている人間は、同じ質問に同じ言葉で答える。嘘をついていない人間は、同じ内容を言葉を変えて答える」と、彼は尋問したテープを学生たちに聴かせながら話す。彼は東ドイツの秘密警察の大尉で、尋問のプロとして新人たちに講義をしているのだ。尋問の仕方、相手の心理の読み方などを教える。講義が終わり上司が登場し、大尉が優秀な尋問官であり監視官であることがわかる。

これは、一体いつの話だと僕は思う。しかし、それは、ほんの二十数年前のことなのだ。主人公のヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエという俳優は東ドイツで1953年に生まれ、土木作業員などを経て舞台俳優になった人だという。その頃、彼自身が国家警察の監視下にあった。

ベルリンを東西に分ける壁ができたのは、1961年のことだった。1960年代、東西ベルリンを隔てる壁の存在がスパイ小説の隆盛をもたらした。ジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」、レン・デイトンの「ベルリンの葬送」など、僕は中学生の頃に夢中で読んだものである。ヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエも同じ時代を東側で過ごしたのだ。

講義の後、ヴィースラー大尉は上司の命令で、ある舞台を見にいく。作者が登場して挨拶する。ドライマンという作家だ。その舞台のヒロインを演じたのはクリスタという女優であり、ヴィースラー大尉は彼女に惹かれるものを感じる。ドライマンとクリスタは恋人同士であり、一緒に暮らしている。

クリスタに横恋慕する文化担当大臣の命令で、ヴィースラーはドライマンを監視することになる。ドライマンが反体制的であり、国家に対する反逆的存在である証拠を見付けるためである。盗聴マイクが設置され、近くの部屋で二十四時間の監視体制が始まる。ヴィースラーは部下と交替で盗聴を続ける。

ここからのヴィースラーが素晴らしい。ドライマンの監視を続け、彼らの会話を聞き続けることで、彼の中の何かが変わっていく。ほんの少しの表情の変化、仕草の変化が彼の感情を伝えるのだ。ドライマンは作家仲間たちと東ドイツの状況について話す。反国家的な言葉が出る。しかし、ヴィースラーは、それを報告書に書かない。

一方、クリスタは文化担当大臣(卑劣という言葉が人間の形をしているような男だ)に犯され、その誘いから逃れられなくなる。ドライマンはそのことに気づき、深く傷つく。ある夜、大臣に会いに出かけようとするクリスタをドライマンは止めるが、それを振り切ってクリスタは出かける。

彼らの会話を盗聴していたヴィースラーは思わずクリスタを追って飛び出す。クリスタを見付けられず、一杯呑みに入ったバーにクリスタがやってくる。そのとき、ヴィースラーは禁を犯し、クリスタに「あなたのファンだ」と言って話しかけてしまう。ヴィースラーの言葉に勇気づけられクリスタはドライマンの元に帰り、ふたりは堅く抱き合うのだが、それをヴィースラーはマイク越しに確認し、ささやかな笑みを浮かべる。

だが、権力者はどこまでも卑劣だ。クリスタは自身の麻薬常習を暴かれ、国家警察に協力するように強要される。女優生命の終わりを選ぶか、恋人を売るか、である。クリスタは追いつめられる。そして、クリスタの尋問を命じられたのが、ヴィースラー大尉だった。

●「裏切り、と書いて、に・ん・げ・ん、と読むの」

クリスタはドライマンを裏切るのか。クリスタが裏切ったとしたら、それを知ったときのドライマンの気持ちは…。彼らふたりを愛してしまった(僕には、そうとしか思えない)ヴィースラーは、どういう行動に出るのか…。ここからの展開は意外性に富み、どんでん返しがあり、人間に対する深い洞察に充ちている。ということで、未見の人のためにストーリーはあかさないので、ここからは抽象的な話になるかもしれない。

まず、愛と裏切り、である。権力者が使う手は常に同じだ。何かを人質に取り、裏切りをそそのかす。クリスタの場合は「女優生命」と「身の破滅」が人質になる。身代わりに差し出すのは「愛する男の破滅」である。

愛する人間の裏切りを知ったとき、男は絶望するだろう。なぜ…、と問い続けるしかない。だが、愛と裏切りは対立するものではないと、僕はずっと思っている。愛しているから裏切らないのではない。愛していても裏切らざるを得ない場面は、いくらでもある。愛しているが故に裏切ることだってあるのだ。

下妻物語 スペシャル・エディション 〈2枚組〉僕の気に入りの映画に「下妻物語」(2004年)がある。その中に竜ヶ崎桃子(深田恭子)が「裏切り、と書いて、に・ん・げ・ん、と読むの」と言うセリフがあり、その人間認識に同意しながらも、その認識を裏切るその後の友情物語の展開に深く感動するのだ。要するに、愛と裏切りは矛盾するようで、実は共存する表裏一体のものではないか。

クリスタとドライマンの物語に、僕はそんなことを感じる。だからこそ、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一され、新しい時代がやってきてもドライマンは筆を折ったままなのだ。彼は深く傷ついた。絶望もした。だが、クレスタを愛し続けている。彼は自ら書かないのだし、書けないのだ。

しかし、ドライマンは自分を見守っていたものの存在を知る。その存在は、自らを犠牲にし無償の愛を彼とクレスタに捧げ続けていた。その存在を知ったことで、ドライマンに何かが甦る。もう一度、世界を信じようとする気持ちが…、希望が…、人間というものに対する信頼が…、ドライマンの中に湧き起こってくる。

ラストシーンのセリフを聞き逃してはいけない。ヴィースラーは、大きくきれいな書店で一冊の本を取り上げる。レジに持っていくと、店員が「プレゼントですか」と訊ねる。ヴィースラーは、まっすぐに店員を見て答えるのだ。

——これは、私のための本だ。

僕は、その言葉を聞いて涙があふれそうになった。世界は残酷で悲惨だ、それでも人間は信じ合える、希望はある、夢を棄てるな、そんなメッセージが伝わってくる。身に迫る。映画を見終わって、優しい気持ちになれる。どんなことでも許せるような気になる。世界が優しく美しく見えてくる。他者への愛が甦る。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
エアコン工事で土日に出社。悪いことにエアコンの専用電源を落とすと、そのフロアすべてのエアコンが使えなくなる。僕の部屋はサーバが置いてあるので、その熱で少しはましなのだけど、冷え込みのキツイ日に当たり一階で一時間ほどいたら足下から冷えてしまった。翌日は、両足と腰にホッカイロを貼って座った。しかし、コートを着て会社の椅子に座っているのは妙な感じだ。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

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by G-Tools , 2008/01/25