笑わない魚[239]裸を晒すようなものたち〜内田百間調
── 永吉克之 ──

投稿:  著者:


日頃から、芸術をするとは自分の裸を晒すようなものだと、誰彼構わず云いふらしているが中中理解が得られない。「己の本性と向き合う」と云うような意味で云っているのだけれど、どうも、その譬喩が六ずかしいらしい。

亡日、曾ての教え子だった甘木君と梅田で会う機会があったので、久闊を叙するのもそこそこに、件の長広舌を振るったけれど、彼の方はしきりに頸をかしげたり、余所見をしたりして、ちっとも解っていない様子だった。

「そうですよね。女性の芸術家で、自分の素っ裸を写真にしてる人がいます」「そういう意味じゃない。実際に裸体を晒すということじゃないんだ」「成る程そう云えば、この間見た映画『拘束のドローイング9』で、ビョークが素っ裸になってました。歌手でも素っ裸にならなきゃいけないんですね」「いや、だから君、そうじゃない」

無闇に、素っ裸素っ裸と云うのがどうもいけない。


と、そんな事を云っておいて、こんな事を書くのも可笑しいけれど、私自身もテレビで全国津津浦浦に裸体を晒したことがある。人気バラエティ番組のエキストラの仕事だった。銭湯のシーンで、何とか云う名前の若いタレントが湯船に浸かって、あれやこれやしている間、われわれエキストラは入浴客の振りをして鏡に向かい、無闇に体を洗い続けるのだ。

撮影に時間が掛かって六回も七回も体を洗う破目になった。放送を見ると、皮を剥かれた因幡の白兎のように真っ赤になった背中とお尻が二秒程映っていた。仕事仲間の何樫君には、テレビに映るかもしれないと予め話しておいたので、番組が終ると早速電話がかかってきた。

「見たよ。恥ずかくなかったかい」
いきなりそう云われて吃驚した。そう云えば、収録中も、その放送を見ながらも、恥ずかしいなんて考えもしなかったのである。
「全然。だってあれは役じゃないか。この裸体の所有者は僕だが、役としての裸体は番組の制作会社にその所有権を帰するものであるから、私の与り知らぬところだよ、君」云云。
ほとんど答えになっていないようなことを一気に饒舌ったら、そうだね、と先方で勝手に納得してくれた。

しかし、テレビで実際に裸を晒すことは、指して恥ずかしくはないのに「裸を晒すような」恥ずかしい気持になるものがあるのだ。

●下の名前

つまり姓名の「名」である。これを公の場で晒すことは、裸とは云わないけれど、浴衣がはだけて臍を晒したような恥ずかしさがある。尤も、自分の名が厭なのではない。それを晒すのが厭なのだ。自分の顔は厭じゃなくとも、それを万目に晒すのは厭だという理屈である。

しかし程度の差はあっても、これは私に限った事ではないのではないか知ら。日本のどこだかの劇団の役者が話していたが、恥ずかしいとか照れくさいとかいった、己の体を得物として芸術する者にとっては足手纏いとなる感情を取り払うために、下の名前でお互いを無闇に呼び合う稽古をしているらしい。

西洋では考えられないことだ。彼の地では「下の名前」は「上の名前」となり、学校でも職場でも街角でもどこでもジョン、ジョンと日夜、風雨に晒されているから、ジョンの皮が厚くなって痛痒を感じなくなって仕舞うのである。

しかし日本では、「苗字」が上の名前となり、弁慶のように両腕を広げて立ち塞がり、生まれたての御世継ぎのように下の名前を守護しているので、それに触れることが許されるは、肉親か配偶者か許嫁、もしくはそれに准じた人人のみである。いやさ、配偶者ですら「あなた」とか「お父さん」とか呼んで、下の名前を避けるのだから、何時迄経っても皮が厚くならないのだ。

然るに、初対面の西洋人が「やァ、僕ジョン。よろしく」と挨拶してきた時に、日本人が「私ヒロコ、Nice to see you」と、悪怯れもせず下の名前を暴露することができるというのが、どうにも不可解である。若しも私が、知り合って間がない女性に「やァ、宏子」等と云おうものなら、横眉怒目して睨めらるること必定である。この反応の成因、那辺に在りや。

●肉筆

私は、日常、文字を生身の手で書くのはメモくらいのもので、大半はパソコンで書く。いや、打つ。そのせいで、ただでさえ悪筆だったのが、今や極悪筆になって仕舞った。悪筆は世上に幾らでもあるけれど、自分で書いた字が読めないのだから無残だ。これぞ正に、裸を見せるようなもの、の骨頂である。

昨夏、ある会社から仕事を頂き、その請求書を送る際、宛名を書き終った封筒を見て顔から火が出そうになった。と云うのは、私の下手な字に体面した経理係が、思わず「永吉さん、ほんとうに字が下手ねえ」と素っ頓狂な声を挙げると、社員たちが興味津津の面持ちで、オフィスの奥から後ろから、どれどれと集まってきて、全社を挙げて呵呵大笑するのを想像したからである。

字が下手なのは絶対に損である。馬鹿に見える。如何に筆鋒犀利な文章であっても下手では駄目だ。筆鋒犀利な馬鹿に見える。此奴はこんな高尚な事を書いているが、屹度、どこだかの作家の文章を剽賊したのだろう、と思われてしまうのである。

先の経理係とて同様。こんな小学生のような字を書いている奴に、まともな仕事ができるものか、他人にやらせておいて中間搾取をしたに違いない、もうこの男に仕事を出すのは止めましょうと、社長に進言したのだろう、それっきり仕事が来なくなってしまった。

●自宅

これはもう裸どころか、はらわたを晒すに等しい。つい先日、以前の職場の後輩であるヒマラヤ山系君が電話で、東京から大阪に飛来する折、関西空港から大阪市内までの途上にある拙宅を訪問するなどと云う恐るべき企てを明かした。

「駄目だ駄目だ、それは困る。こんな部屋を人に見せるのは厭だ」
「何が厭なんですか」
「何がって、掃除をしていないから汚い。部屋もトイレも何もかも汚い」
「じゃあ、いい機会ですから、掃除をしてください」
「掃除しても厭だ。厭なものは厭だ」

子供が駄駄を捏ねる手口で厭を通し、彼の企みを粉砕してやった。家とは、そこに住する人間の人生から思想から性癖から、何から何まで映し出す鏡なのである。男やもめに蛆が湧くの社会通念を蔑ろにし、軽軽しく部屋を見せろとは全く、怪しからん男だ。

若し、誰かを自宅に入れるとなると、無闇に掃除さえすればいい等と云う生易しいことでは済まないのである。まず生活臭。一体どんな臭いが籠っているのか、自分では分らないので、真冬であろうが豪雨であろうが、家の窓と云う窓を全て開け放って臭いを追い出す。

次に、親が住んでいた頃から無闇に壁に掛かっている、訳の分らない装飾品や、北海道かどこだかの土産である熊の置物などを押し入れの中に隠匿して、モダンボーイのイメージを損なわないようにしなければならない。また仏壇をカーテンで隠し、両親は千の風になっているから、仏壇の中で眠ってなんかいません、と云った風を装わなければならないのである。いろいろ大変なのだ。

【ながよしかつゆき/マドロス】katz@mvc.biglobe.ne.jp
旧仮名遣いを用いた方が百間先生っぽくなるのだが、旧仮名遣いは、前前前回の拙稿でやってしまって新鮮味がないので今回はよした。また、先生の文には、「亡日」とか「六ずかしい」とか、辞書にない言葉がよく出てくるが、これらの当て字は、師匠である夏目漱石の影響らしい。また「無闇に」という言葉を無闇に使うところが好きである。かつての文豪たちもかなり自由に日本語を細工していたようだ。
ところでもうお気づきとは思うが、「百間」の「間」は正確には、門構えに月である。しかし文字コードがどうとかで、環境によっては、正しく表示されないことがあるらしいので「間」にした。それにWikipediaでも「間」になっている。「百けん」と書くよりはよかろう。

・ちょ〜絵文字< http://emoz.jp
> au&Yahoo!ケータイ公式サイト
・アーバンネイル< http://unail.jp/
> ネイルアートのケータイサイト
・無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
> ブログ


書籍「怒りのブドウ球菌」、Tシャツ販売中! !