笑わない魚[248]私はずっとノイローゼだ
── 永吉克之 ──

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少年期からときどき奇怪な感覚に悩まされていた。自分をとりまく世界が変質したような感覚とでも言おうか。どんな風に変質するのかを説明する言葉が見つからないし、説明しようとするうちに、またその感覚に襲われそうな気がするので、書かない。発作が起きたときのことは、思い出したくないのである。事故や事件に遭ったわけではない。完全に自分の頭のなかだけで起こったことが、トラウマになることがあるのだ。

後年、精神病理に関する本を読むようになって、どうやらそれがかの神経症、もしくはノイローゼ(医学用語としてはこの言葉は最近は使われないようだ)というものらしいということが解ってきた。少年期には「あれ」と、素朴な言葉でしか表現できなかった訳のわからない恐怖に、既に名前があることを知っただけで、ずいぶん気が楽になった。

いちばん啓発された本は、フロイトの『精神分析入門』だった。タイトルこそ物々しいが、解りやすい本である。ただ、1915年頃の理論なので、現代でもそのまま通用する内容ではなかったが、少なくとも無意識のメカニズムを知ったことで、病気をあるていど客観視できるようになった。自分自身でも気づかない感情や観念があって、それが何かを強く訴えかけようとすると「あれ」が起きるのだというふうに考えられるようになったのである。



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大学に入って、一人暮らしをするようになってからは「あれ」は顔を出さなくなった。ところが12年前、40歳のときに父親が亡くなり、母親と暮らすようになってから、ある日突然、現れた。発作が起こったのは浴室だった。その恐怖感は少年期や青年期に経験したものと少しも変らなかった。ジェイソンは健在だったのである。

しかしこのことは、このノイローゼが、私と母親との関係に原因があるという推測を可能にする。とはいえ思い当たるものが何もない。いや、簡単に思い当たるような原因があるのなら、そもそもノイローゼになったりはしない。原因が解らないことよりも、母親が自分の苦しみの原因になっているのかも知れないと考えることの方が辛かった。

そのうち、電車のつり革や、駅の階段のてすりが触れないといった症状まで出るようになってきたので、どうにも抑えようがなく、やっと精神科の世話になろうと思ったのだった。子供の貧しいボキャブラリーのせいで、親にも理解してもらえなかった「あれ」について、精神病理のプロに聴いてもらうのだから、期待もあり不安もあった。

現在では何の抵抗もなく通っているが、初めて精神科を訪れたときは、ずいぶん緊張した。ほかの病院とはすこし違う。「おや、お出かけですか?」「ええ、ちょっと精神科まで」とはなかなか言いにくい。私は長い間、親にも隠していたくらいである。

しかし、なかにはいってみると、雰囲気はなんだか普通の病院なのだ。聴診器をあてたり注射をしたりしないだけで、あとはほとんど同じ。私の苦悶の歴史を医者がふんふんと聞いて、いくつか質問をして、それじゃこのお薬を出しておきます、でバイバイであった。私が例の母親との関係について訊いてみても、まあ何らかの関係はあるんでしょうけど、心の深層を掘り下げていこうとすると大変だから、お薬で治しましょうと切り口上で一蹴されてしまった。

薬飲めだって? おいおいちょっと待ってくれよ、ドク。風邪かなんかと一緒にしねえでくれよ、俺は心を病んでるんだぜ、それに「大変だから」とはなんて言い草だ、治療が面倒だってのか、おい、と言いたかったが、初めて拝謁する精神科医のご威光の前では、言葉を飲み込むしかなかった。すべからく精神科医たるものは、人徳豊かであるべきだと勝手に思っていたから、この医師にはまったく失望した。

現在では、投薬による治療が一般的らしいのだが、精神科といえば、私のなかでは、精神分析のイメージが強くて、ソファに横たわった患者に対して、医師があれこれ質問して、意識下にあるコンプレックスを解きほぐしていくような治療を想像していたのだ。それがまったくの予想外れだったので憤慨すら覚えた。なんだ、ただの病院じゃないか、と。

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今通っている精神科は、実に牧歌的で、先の精神科より、はるかに「ただの病院」である。中にいると精神科なのか内科なのか皮膚科なのかわからない。予約制ではないのに、いつ行っても30分以上待たされたことがない。要するにヒマなのだろう。しかし私はここが好きだ。もう10年以上通っている。いかにも人の良さそうな医者なのが気に入っているのだ。どう見ても優秀な精神科医ではなさそうだが、それでいい。

山本周五郎の『赤ひげ診療譚』の赤ひげのような、ぶっきらぼうだが腕のいい医者と、愛想のいいヤブ医者とではどちらがいいかという比較が、譬喩としてよく使われるが、こと精神科医に関するかぎり私は、愛想のいいヤブ医者を選ぶ。今、世話になっている医者も、先の医者と同じく、話を聴いて薬を処方するだけだが、人柄が違う。医者の人柄で癒されることもあるのだ。

最近では、風邪と同じように扱ってくれていいとすら思っている。心も体の一部なのだから。われわれは漠然と心と体を分けて考えてしまうが、心が苦しんでいるのは、歯が痛いのと同じことだと考えられるようになれば、精神疾患ともうまくつきあっていけるかもしれない。

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さて、私はなぜ今回、自分の病歴などを、何の捻りも加えずにありのままに書いたのだろうか。なぜ、忘れてしまいたいような忌まわしい思い出まで、むりやり思い出して書こうと思ったのだろうか。それは、私がもはや搾りかすだからだ。今回ひり出した断末魔の一雫は、ユーモアの残滓がかろうじてこびりついているだけの、結局はまたいつもの自虐ネタだったとさ。

【ながよしかつゆき】katz@mvc.biglobe.ne.jp
不安でたまらない人たちへ―やっかいで病的な癖を治すけっこう有名な本のようだから、知っている人も多いと思うが、強迫障害に悩んでいる人には『不安でたまらない人たちへ』(ジェフリー・M・シュウォーツ著)が救いになるかもしれない。私はずいぶん助けられた。著者に感謝の気持を伝えたくて、出版社に愛読者カードを送るときについでに著者の連絡先を問い合わせたけど、なしのつぶてだった。まあ、しょうがないか。


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