[2502] 「裏切りか愛か」を迫られるとき

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<ぐにゃぐにゃ→蛸のよう→軟体動物→滑らか→微分可能>

■映画と夜と音楽と…[390]
 「裏切りか愛か」を迫られるとき
 十河 進

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 画像をぐちゃぐちゃに変形する
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■映画と夜と音楽と…[390]
「裏切りか愛か」を迫られるとき

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080926140200.html
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●「百年の孤独」は今や幻の焼酎の名前か

ラテンアメリカ文学ブームが起こったのは、もうずいぶん以前のことになる。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が最初に翻訳され話題になった後のことだ。30年近く前になるだろうか。それ以前に紹介されていたラテンアメリカ系の作家としては、僕はボルヘスくらいしか知らなかった。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品は、文芸評論家の篠田一士さんが評価したのか、彼自身の翻訳で早くから集英社で発売になっていた。集英社版「世界の文学」にも最初から入っていたと思う。集英社版「世界の文学」には異色の作品が多く選ばれていて、僕は話題になる前の「グレート・ギャツビィ」をこの全集で読んだ。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスには「悪党列伝」と訳された評論集のような著作があり、その中で吉良上野介が取り上げられていた。アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれ、ヨーロッパで育った異端の作家が日本の「忠臣蔵」を知っていたことに僕はちょっと驚いた。

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が出たときは、あちこちの書評で取り上げられ絶賛された。あまりの評判に、僕は新潮社から出ていた単行本を買った。その後、「予告された殺人の記録」「族長の秋」も読んだ。「予告された殺人の記録」はフランチェスコ・ロージ監督によって、1987年に映画化されている。

「百年の孤独」は詩人であり歌人であり映画監督だった寺山修司さんに多大な影響を与えたのだろう。寺山さんは「百年の孤独」を下敷きにした「さらば箱舟」(1982年)という映画を作った。いかにも寺山さんが好みそうな物語だったと僕も思う。しかし、結局、「さらば箱舟」は見損なったままだ。

昨年だったか、評判になっていたので桜庭一樹さんの「赤朽葉家の伝説」を読んでみたが、読み始めてすぐに「こりゃあ、『百年の孤独』だぜ」とカミサンに向かって大きな声をあげていた。桜庭さん自身が愛読書に「百年の孤独」を挙げているから、おそらく桜庭版「百年の孤独」を書こうとしたのだろう。

「文学賞メッタ斬り」という対談集を読んで以来、豊崎由美さんという辛辣な読み手を僕は信用している(某大家を徹底的にコケにしているのが笑えます)のだが、その豊崎さんが岡野宏文さんという方と対談集「百年の誤読」を出している。豊崎さんは対談による書評本というスタイルを作った人だと思うが、この「百年の誤読」も面白い。

ところが、現在、検索サイトで「百年の孤独」と打ち込むと、ほとんど幻の焼酎がヒットする。酒飲みの僕としては焼酎「百年の孤独」は呑みたいが、四合瓶で9800円は高すぎる。検索のトップには、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が出てほしい。ちなみにヤフー検索では、トップに「『百年の孤独』ネット販売。焼酎と地酒の専門店…」と出た。

●映画好きのモリーナは映画の話を語り続ける

「百年の孤独」が評判になり、ラテンアメリカ文学にスポットライトが当たった結果、集英社から「ラテンアメリカの文学」全18巻の刊行が始まったのが1980年代前半のことだった。そのシリーズで僕はガルシア・マルケスの「族長の秋」を買った。一巻目がボルヘスの「伝奇集」であり、「族長の秋」を含めて半分以上が本邦初訳であることを売り物にしていた。

このシリーズの本邦初訳の作品の中にプイグの「蜘蛛女のキス」があった。何というタイトルだと僕は思ったが、数年後、「蜘蛛女のキス」(1985年)はハリウッド映画として僕の前に登場した。主演は、ひいきのウィリアム・ハートである。共演者はこの作品でメジャーになったラウル・ジュリアだった。

暗い刑務所の監房にふたりの男がいる。ひとりは革命組織のメンバーであり、政治犯のバレンティン(ラウル・ジュリア)。もうひとりは未成年者へのワイセツ幇助罪で懲役8年を宣告されているホモ・セクシャルのモリーナ(ウィリアム・ハート)だ。冒頭から、ほとんどふたりの会話劇として映画は進行する。

映画好きのモリーナは、自分が見た映画の話をバレンティンに語り続ける。原作も開巻からずっとふたりの会話だけで構成されている。そこでモリーナが語っている映画は「キャット・ピープル(黒彪女)」(1942年)である。ハリウッドのホラー映画の古典として有名な作品だ。

小説と違って映画は、モリーナが語る映画を映像として見せることができる。そうでもしなければ、監房でふたりの男が話をしているだけの画面が延々と続くことになる。だから、映画の中で語られる映画の断片が挿入されるのだが、それは第二次世界大戦中のナチ占領下のパリでのシャンソン歌手(ソニア・ブラガ)とドイツ将校との恋物語である。

僕は、「蜘蛛女のキス」でラウル・ジュリアとソニア・ブラガを記憶したが、5年後、このふたりはクリント・イーストウッド監督主演作「ルーキー」(19 90年)にタッグを組んで出演し、仇役としてイーストウッドを苦しめる。ソニア・ブラガに到っては、椅子に縛り付けたイーストウッドを強姦してしまう強烈な悪女役だった。

「蜘蛛女のキス」で印象的なのは、やはりホモ・セクシャルのモリーナだ。それを大男で額が後退したウィリアム・ハートが演じたことで、さらに印象的なキャラクターになった。ポスターなどで使われたウィリアム・ハートの頭にターバン(タオルだったかな)を巻いたような女装姿は、ある種の哀しみと憐れみと滑稽さを誘う。

その後、「蜘蛛女のキス」は舞台になり、ミュージカルになった。ミュージカル版では劇団四季の市村正親がモリーナを演じたことがあると思う。ネットで検索したら、宝塚歌劇団を退団した朝海ひかるがミュージカル「蜘蛛女のキス」に出演するという記者発表サイトがヒットした。昨年のことだという。知らなかったなあ。

日本の舞台版「蜘蛛女のキス」では、村井国夫がモリーナを演じたことがある。映画版のウィリアム・ハートのイメージの俳優を捜したのだろうか。確かに、村井国夫は頭髪の後退具合や顔の輪郭など、ウィリアム・ハートを連想させるところはある(「チョーヤの梅酒」のCMに妻の音無美紀子と娘と3人で出ている人ですね)。

ちなみに原作者のマヌエル・プイグは映画監督をめざし、1950年代にはローマの巨大な撮影所チネ・チッタで、ビットリオ・デ・シーカ、ルネ・クレマンなどの助監督をつとめていた。最初の小説は「リタ・ヘイワースの背信」という。映画が好きでたまらない作家なのだろう。映画好きのモリーナに自己を投影しているのかもしれない。

●モリーナが崇高にさえ見えてくるラストシーン

「蜘蛛女のキス」は、せつない映画である。同じ房になぜモリーナが収監されているのか、バレンティンは知らないが、モリーナは知っている。そして、観客にも知らされない。観客は、モリーナがバレンティンに映画を語り続け、彼の世話をしている姿を延々と見せられ、モリーナのバレンティンへの愛を確信する。

尋問を受け続け、長い監房生活でバレンティンの躯は弱っている。ある日、バレンティンはひどい下痢をして洩らしてしまう。彼は、ひどく衰弱しているのだ。本人にとっては、失禁でさえショックだろう。だが、彼は流れ出る糞便を止めることもできず、まみれてしまう。何という屈辱…。

肉体的なものはもちろん、精神的な絶望がバレンティンを襲う。人間の尊厳さえなくしてしまいそうになる。彼は泣く。自分の情けなさに…。もちろん、尋問者たちはそれが狙いだ。垂れ流しになった人間に、仲間たちや組織をかばい続ける気力はない。そこに追い込んだのだ。

だが、モリーナはかいがいしくバレンティンを介抱する。バレンティンが垂れ流した糞便を始末し、彼の躯を清め、彼の自尊心を取り戻させようとする。そのシーンで、モリーナのせつない愛が浮かび上がる。それは、どんな観客にでも伝わるだろう。それほどの想いなのだ。モリーナがホモ・セクシャルであることで、せつなさは倍加する。

観客たちがアッと驚くのは、映画が後半に入ってからだ。モリーナが刑務所の所長室に呼び出される。映画では南米の某ファシズム国家と設定されていたが、原作では明確にブエノスアイレス市刑務所の所長として登場する人物だ。彼はモリーナにこんなことを聞く。

──バレンティンから何か情報は得られたかね。

モリーナは自身の恩赦をエサに、バレンティンから情報を得るために権力者たちによって送り込まれたスパイだったのだ。革命組織の情報、仲間たちの情報、一方的に映画の話をしているようでいながら、モリーナはバレンティンが話す自分自身のことを引き出していたのである。

「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切り…だ」と、フランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルは言ったけれど、「蜘蛛女のキス」はその究極の形を描いている。モリーナは、元々、バレンティンから情報を得るために同房に入れられ、最初から彼を裏切っている存在である。

だが、同房で日々を過ごすうちに、モリーナはバレンティンを愛してしまう。ホモ・セクシャルのモリーナは、文字通り心の底から愛してしまうのだ。バレンティンもまたモリーナに心を許す。だが、男同士であることの垣根をバレンティンは超えられない。しかし、モリーナの出獄が決まり監房を出ていくとき、バレンティンはモリーナにキスをする。

恋しい男、愛する男…、それを裏切っているモリーナの心に寄り添いながら、最初からこの映画を見直すと、彼らの会話はまるで違った様相を見せる。複雑な感情が交錯し、モリーナの心の中の葛藤が伝わってくる。モリーナが映画を語ることによって、何かを伝えようとした気持ちがせつない。

僕は、この物語の展開を書いてしまったけれど、それによって「蜘蛛女のキス」が愉しめなくなるとは思わない。一度目は確かに意外な展開に驚いた。しかし、再見し、三度見て、僕はこの映画の本質的な魅力に気付いた。物語を知った後、バレンティンを裏切り続けているモリーナに寄り添うにように見てほしい。

モリーナは決意する。何かを選ぶ。モリーナがどう決意したのかは、ラストシーンまで見なければわからない。モリーナは愛する男を裏切るのか、愛する男のために自己犠牲を選ぶのか…、モリーナがスパイであることがわかってからのサスペンスはスクリーンに身を乗り出すほどだ。手に汗を握る。

これほどせつないラストシーンは、他にロミー・シュナイダーの歓喜と絶望に充ちて泣き崩れるアップで終わる「離愁」(1973年)くらいしか浮かばない。どちらの映画も「裏切りか、愛か」を迫られた人間が、愛を選んだ感動とせつなさが見終わった後、身の内からあふれ出るほどに膨れ上がる。身が震えるほどに、心が騒ぐ。

愛を選ぶことが死を選ぶこと…、だが、そこまでの究極の選択を迫られたが故に、弱く卑小な人間であっても、自らの中に強烈な鎮めようもない愛が存在することを自覚する。そうであれば、もう死ぬことなど何でもない。愛を選んだという確信が、彼を勇者にしたのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
リタイアした会社の先輩たちの話を聞いていると、時間はありそうでないという。老後の楽しみにとっておいた本もなかなか読めないとか。辛いのは、近所の目。毎日、出かけていたのにどうしたの、という目で見られるらしい。僕の夢は晴耕雨読なのだが、なかなかそうもいかないらしい。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![81]
画像をぐちゃぐちゃに変形する

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20080926140100.html
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あんまりぶっちゃけ過ぎるのも興醒めかもしれないけど、どうせ10回も続くまいと、ちゃらんぽらんな気持ちで始めたこのコラムも、気がついてみると80回も書いているわけで、ちゃらんぽらんも3年続くと、まじめなんだかちゃらんぽらんなんだか、よく分からなくなってきますね。

しかし、そうなるとどうなるかというと、慢性のネタ切れなんですね。いつも行き当たりばったりで、そのとき書けることを書くわけです。このコラムは「オタク」をテーマにして書くことにしている(大前提)、私はオタクである(小前提)、ゆえに私のことを書けばネタになる(結論)、という三段論法にしたがって、最近は、まあ、日記のようなものになっているというわけです。ネタを拾う週末と、原稿を書く週末が交互にやってくる感じです。

さて、今回書けることは、ひとつしかありません。なにしろ、最近は、グループ展に出す写真の加工にかかりきりなのです。そういうわけで、制作日記なのであります。

●考えてみるとおそろしい、写真と被写体を並べて展示

今ごろになって気がつくな、って話ですけどね。たとえば、若さはじけるピチピチギャル(←って死語か?)がビキニの水着着て立っているとしましょう。その横に、そのコの写真を展示したって、誰も見向きもしないわけですね。このモデルさんを被写体にすれば、こんなのが撮れるんですよー、と誇示できるくらいのすっげー写真でない限り。

あんまり例が多くないんじゃないですかね、写真と被写体の同時展示って。富士山の写真展を富士山の見えるギャラリーで、とか。アンドロメダ星雲の写真展をアンドロメダ星雲で、とか。バラ園にバラの写真ギャラリー併設ってのは、ありだけど。猫喫茶には猫の写真が飾ってあったっけ。

カワセミを撮ってる横で、カワセミの写真を何十枚も展示、っていうのは、見たことがありますけどね。これはなかなかいい趣向でした。うまくいくとこういうのが撮れる、だけど、そうめったに撮れるもんじゃないんだよねー、だからひたすら待つのだ、って信念ががよーく伝わってきましたからねぇ。なにしろ、写真を見てる間、当のカワセミ君は、一度も姿を現しませんでしたから。

そう言えば、原宿の通称「橋」と呼ばれる橋で、20年来女の子を撮り続けているオニイサンは、ときどきその場をギャラリーにして、写真を掲げてますね。キヤノンの純正品のサンニッパ(焦点距離300mm、開放絞りF2.8の巨大なレンズ、今の価格は69万円)を一脚で支えて撮った写真は、背景のボケ具合がよく、被写体が生き生きと浮き上がる感じで、実にかっちょいいです。

うーん、意外と例がありますね。しかし、まあ、いずれにせよ、写真の出来によっぽど自信がないとできませんね、こういうことは。さて、今回予定している展示では、人形作家3人が制作した人形の実物を置く傍ら、私が撮った人形の写真を掲げるわけです。大変です。被写体と並べても、見劣りしない写真。いや〜無理無理無理無理。って、一年以上前から話を進めていて、いまさら何をか言わんや、ですけど。

直球勝負に自信のない私は、加工でごまかそう。って、それをぶっちゃけちゃ、みもふたもないですね。えーっと、もう少し言い方にミとかフタとかを求めるとするならば、修士課程まで専攻した数学の知識を生かして、コンピュータ画像処理のプログラミングで少し変わった趣向をご覧いただきましょうか、ということです。写真撮影と数学とどっちが得意かと言われると、やっぱ数学なんで。

●画像の変形の基本は、逆変換

コンピュータで画像の拡大、縮小、回転、自由変形といった処理をする場合、中の人はどんなことをしているのかを、まず、簡単に解説しておきましょう。

たとえば、もともとの画像(原画像という)を1.5倍に拡大する場合を考えてみましょう。原画像からみて出力画像が1.5倍に拡大されているということは、逆に、出力画像から原画像を見れば1.5分の1に縮小されているわけです。これが逆変換です。右に0.2°回転、の逆変換は、左に0.2°回転です。

さて、出力画像を作成するということは、言い換えると、その画像のすべての画素の色を決定する、ということにほかなりません。だから、中の処理では、出力画像の各画素を順々になめていって、ひとつひとつ、その画素の色を決めていきます。まず、出力画像上の今みている画素の位置に対して、目的の変換の逆変換をかけて、原画像上ではどの位置に対応するのかを獲得します。

で、原画像上のその位置の色を拾ってくればいいわけなのですが、さきほどの例のように、1.5分の1、つまり3分の2に縮小するような変換の場合、結果として得られた原画像上の位置が、画素と画素との間の中途半端な位置に落ちることがあります。

その場合は、周辺の画素を眺め渡して、色を混ぜ合わせて作ります。その際、どの画素に近いかも加味して、その位置に本来あるべき色を推測するのです。この処理を補間(interpolation)といいます。補間法は、実にさまざまな方法が提案されています。画像の滑らかさが保たれるようにしたい一方、輪郭線はぼやけたりしないようシャープさが保たれるようにしたいわけで、工夫のしどころなわけです。

私の自作ソフトでは、手抜きして、バイリニア法しか組み込んでませんが。最も安直なのは、一番近い画素の色をそのままコピーしてくるだけの、ニアレスト・ネイバー法ですが、バイリニア法はそれの次に安直な方法で、周辺4画素の色を、近さに応じた重みをつけて混ぜるだけです。

手法はどうあれ、補間によって得られた色を、出力画像の、今みている画素に置きます。これを全画素に対して実行すれば、出来上がりです。例をみてみましょう。図を描いてみました。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR080926/FigDGCR080926.html
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第1図では、画像の中央部に水滴を落としたように膨らみをつける変換を例にとってみました。この変換を逆変換として使っているので、結果としては、原画像の中央付近が縮小されています。第2図は、その逆です。結果として、画像の中央がぼこっと盛り上がったように、膨らんでいます。なお、サンプル画像は京都にある隨心院です。小野小町ゆかりの寺です。遙か...、いや、まあ、気にしないでください。

以上が画像を変形する処理の概要なわけですが、感じをつかんでいただけたでしょうか。...。...。...。何の返事もありませんが。易しすぎるという方、ご安心ください、これから一気に難解になります。難しすぎるという方、ご安心ください、この先をお読みいただければ、今までのところなんかチョー簡単に見えてきます。

●数学で連想・飛躍は怪我のもと

画像を変形するソフトを自作し、山で撮った人形の写真を、原形を留めないぐらいにぐっちゃんぐっちゃんに変形させて、「さあこれが私の作品だ。ご覧あれ」とやれば、「あれこいつ写真撮るのが下手だなぁ」と言う人はいないであろう、というのが私の深遠な狙いなわけです。

問題は、ぐっちゃんぐっちゃんをどうするか、なわけですが。ぐっちゃんぐっちゃんな関数というものをひねり出さないとなりません。ある目的にかなう解を求めよ、というタイプの数学であれば、主に脳ミソの左側を使って論理的思考を働かせればよいわけですが、この場合は、何でもいいから面白い関数を作り出せ、というタイプの数学なので、右側にも出番が求められるところです。

論理的な道筋に沿って思考するのではなく、ひとつの言葉から別の言葉が思い浮かんでくるに任せる連想ゲームのように考えが進んでいきました。ぐっちゃんぐっちゃん→ぐにゃぐにゃ→蛸のよう→軟体動物→滑らか→微分可能、とこんな具合です。一方、平面から平面への変換なので、複素関数を思い浮かべていました。

複素関数で微分可能となると、その条件は、コーシー・リーマンの方程式で表されます。これは、1階の偏微分方程式2つからなるのですが、両辺をもう一回偏微分してから足し合わせることにより、ラプラス方程式が導き出されます。これは、ラプラシアンが全域でゼロ、という2階の偏微分方程式の形をしています。これを満たす関数は、調和関数と呼ばれます。

このような思考を経て、ぐっちゃんぐっちゃんの関数は、調和関数で表現できるのではないか、という着想に至りました。ラプラス方程式を満たす関数というのは、ひとつの領域の周辺の境界線上で値が決まると、内部の値は一意に決まる、という性質があります。境界値から内部の値をすべて求める問題を、ラプラス方程式のディリクレ問題といいます。

ラプラス方程式のディリクレ問題は、数値的に解く方法が確立されています。もともと連続的な領域を、領域内に均等に散りばめられた点の集まりで置き換えることにより離散化すると、微分という概念は差分という概念で代用され、結局は、ばかでかい連立一次方程式を解く問題に帰着されます。

この場合は、領域が長方形なので、細かくメッシュに分割するだけでよく、有限要素法のようなややこしい数値解法は要りません。「上下左右の4点の平均値が真ん中の点の値」という一次方程式がだーっと並んでいるだけです。

この程度ならお茶の子さいさい、屁の河童ってことで、プログラムを自作してみました。連立一次方程式を解く部分は、"LAPACK"というフリーのライブラリを呼び出す形にしました。"LA"とはロサンゼルスではなく、"Linear Algebra"線形代数のことです。このプログラムを走らせた結果が第3図です。どうもうまくありません。いや、結果は「正しい」のだとは思うのですが、見栄えが「よろし」くないのです。メッシュ分割の変換先は、なんとなくかっこよく見えるのですが、画像の変換結果は、イマイチ、イマニです。

メッシュの変換先のほとんどは、境界値の平均値に非常に近いところへどどっと固まっているので、原画像の中央付近のほんの数画素が、出力画像のほぼ全領域にどばっと拡大される結果となっています。これは、もともとイメージしていたぐっちゃんぐっちゃんとはぜんぜん違っています。

後付けの論理で考えるとあたりまえで、周辺をいくらぐにゃぐにゃさせても、内部の点はみんな安定志向なので、どいつもこいつもまわりに合わせて楽なほうへ動いていき、結果としてみんなで仲良く、平均値でほぼ真っ平らになっちゃうんですね。まるで日本人です。あ、だから調和関数なわけです。

大失敗でした。この案は、ゴミ箱行きです。だけど、めげません。人生そのものが失敗みたいなものなのだから、この程度のことは屁でもない、と思いなおして、次の策を練ります。

●うねりの表現はサインカーブがよい

画像の周辺部の変換先のうねりが、内部で急速に吸収されて平らになってしまってはいけません。内部にもうねりを引っ張り込まないと。うねりといえば波、波といえば三角関数です。サイン、コサイン、タンジェント。日本語では、正弦、余弦、正接。数式では、sin、cos、tan。真剣にこすればたんと出る。

現実世界でみられる最も単純な往復運動、たとえばバネにつるされたおもりの上下動などは、たいてい「単振動」とよばれる振動をしていて、今いる位置xは時刻tの関数として、正弦曲線(サインカーブ)で表現されます。式で書くと、x = sin(t) です。

一方、水面の波のような複雑なうねりも、実はいろいろな波長の波の重ね合わせの形に分解することができるという、フーリエ級数の理論というのがあります。こいつを借りてくることにします。数学の理論そのものは特許にはならないという決まりなので、こういうのはいくら使ってもタダです。

フーリエ級数は、本来、無限級数、つまり、A + B + C + D + ... と、ゼロに漸近していく項が際限なく足しあわされていく格好をしているのですが、今のわれわれの問題では、微振動の項は必要ないので、比較的浅いところで打ち切ります。その形を有限三角級数といいます。

適当なサンプリング点で変換先をランダムに決め、それを有限三角級数で最小二乗近似する形で、連続化しています。この問題も、結局は、大きな連立一次方程式を解く問題に帰着されます。調和関数のときに作ったプログラムの一部分が使いまわしできます。さて、その結果が第4図です。前の失敗作に比べると、ぐにゃぐにゃの具合が均等に広がっている感じで、これなら使えるのではないかと思います。

三角関数は周期関数なので、ひとまわりすると元に戻り、あとは同じパターンが延々と繰り返されるだけです。第4図で出力された画像では、どこかからでも適当な線をたどっていってみれば、右の壁から突き抜けると左の壁から続きが出てくるし、天井から突き抜けると床から続きが出てくるのが分かります。言い換えると、同じ絵をたくさんコピーして、タイル状に敷き詰めると、絵がちゃんと続いています。

同じ絵でなくても、うまく工夫すれば、ちゃんと続く絵がいくらでも大量生産できます。第5図は、その例です。どれをどこに配置しても、ちゃんと絵が続くようになっています。人形の写真を原画像にしてこれと同じ変換をかませたら、ホントに軟体動物みたいで、面白いことになっています。

当の人形を作った本人に見せたら、ふざけるな、と怒られるかと思いきや、案外面白がってくれたんで、じゃあ、展示に使っちゃおうかな〜と。紙に出力して、壁を埋め尽くしたら、面白いんじゃないかな〜、なんて。その画像は、まあ、ちょっともったいをつけて、ここには出さないでおきます。見にいらしてくださった方のお楽しみということで。

なんか、まるで、舞台の紹介をすべきところで、楽屋の様子を実況中継しちゃったような感じでしたか。面白い感性だなーと思って見ていただけたら、思わずにまにましちゃうところでしたが、実は感性のはたらく余地がほとんどゼロなのが、もろバレですね。プログラムを実行した結果として絵が出力されるので、作者といえども絵そのものには、ほとんど手出しができないのです。天然自然の産物とか、宇宙からの飛来物だと思っていただいたほうが近いかもしれません。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

鉄ヲタではないけれど。8月、京都から帰ってくる新幹線が熱海あたりのゲリラ豪雨にやられて遅れに遅れ、午前3時半に東京駅に着いたときは、めずらしい体験ができた上に自由席特急料金4,730円が返ってきて得した気分になったけど、9月20日(日)付のJapan Timesではとんでもない「被害」のことが報じられていた。鉄道を使って24時間で最長距離を移動するというギネスブックの記録に挑戦していた韓国在住のアメリカ人男性2人が雨で足止めを食らって、達成ならなかったという話だ。1992年以来記録が更新されていないことに目をつけた2人は、日本でこれを破ることができることを発見して、この夏に実行。夜9:30ごろ金沢を出て、青森、東京、博多を経てゴールを目指す途上にあった。ところが東海道新幹線が、浜松あたりの豪雨のため静岡県内で66分停まり、博多で乗り継げなくなったとのこと。それ聞いて、ついつい考えちゃうのは、その油揚げ横からいただき、だよね? コースまでそっくり真似っこではナンだから、九州新幹線が博多まで開通する日あたりが狙い目かな?

9月14日(日)は、東京ビッグサイトで開かれたGEISAIを見てきた。村上隆(5月にニューヨークでフィギュアが16億円で売れたという、あのお方)が主催するアートの祭典。AKB48のステージ、よかった〜。なんか、がんばってますぅ〜、って感じが伝わってきて、思わず力いっぱい応援したくなる。年齢の(親子ほど)離れた妹、って感じ。きゅんきゅんなのだ。

9月23日(火・祝)は「スピリチュアルの森」へ人形を撮りに。沢の水、増水してて、めっちゃ冷たかったー。あの撮ってる姿、ネットの掲示板の住人に撮られてたら、またバカ画像行きだわ。/新総理、ローゼンメイデンアニメ版第3期よろしくんくんっ。/ヴァニラ画廊のウェブサイトに、われわれの展示の案内が掲載されました。

■人形と写真4人展「幻妖の棲む森」
会期:10月23日(木)〜11月1日(土)
時間:平日12:00〜19:00 土日12:00〜17:00
会場:ヴァニラ画廊(東京都中央区銀座6-10-10 第2蒲田ビル4階)
< http://www.vanilla-gallery.com/gallery/doll&p/doll&p.html
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■編集後記(9/26)

・子どもとケータイにかかわるトラブルは、日本人が初めて遭遇している、いままで誰もが経験したことがないタイプの深刻な問題だと思う。しかもケータイの低年齢化が進んでいる。おそるべき時代がやってきた。読売新聞朝刊の連載「子ども ケータイ」で、子どもが「常にケータイを身近に置き、メールの返信を心配する生活」から解放されたいという本音がレポートされていた。でも、これさえもケータイが子どもに及ぼす悪影響のごく一部だ。ケータイに支配され、翻弄される子どもたち。何という悲劇だ。子どもにケータイさえ与えなかったら……、そんな親の涙の後悔を報じるニュースが今後増えて来ると確信する。連載の最終回で、荻上チキ(評論家)は《親に求められているのは、最先端のケータイ事情に詳しくなることよりも、ケータイと共に成長していく子どもの後ろ姿を「見守る」ことだ。》と、きれいにまとめてくれたが、じつは何も言っていないのと同じ。岡田朋之(関西大学教授)は《ケータイの所持を禁止する動きは、感染症の病原菌を除菌し隔離して対応するやり方に似ている。ケータイによって様々なトラブルが起きているが、特効薬はない。生活習慣病と一緒で、リスクをいかに減らしていくのか。ねばり強く、目をつぶらずに、子どもと向き合うことが大切だ。》これもきれいごと。ケータイと子どもの問題をさんざん並べ立てながら、こんな役立たずのコメント掲載で一件落着させた特集班は無責任ではないか。子どもケータイはネットにつながらないようにせよ、これしかない。(柴田)

・Design Premiumかな。英語版は安いな……。日本語版も安いといいな。/遊
気舎の「ゲドゲド(棘の字ふたつが天地逆さま)」に行った。最近のテーマは「日常」「原点回帰」で、あんまり舞台などには行っていなかったから刺激的であった。きっかけは、友人が役者さんと知り合いになったため。「大王」後藤ひろひとさんの頃ですら観る機会はなかった。「ダブリンの鐘つきカビ人間」はG2版なら観ているし、役者さんたちは客演で何度か観ているのに。同じく老舗の南河内万歳一座も、いつもチラシを見ては悩み、結局観に行っていない劇団だ。で、「ゲドゲド」。最初、舞台に物干のある大きなベランダがででーんとあって、暗転で変えそうにないなぁ、据え置きっぼいなぁ、でもベランダだけでお芝居成立するの? という疑問が。そこのお家の夫婦が事故で亡くなり、散らばっていた家族親戚が集まってくる。近くの祭場から皆がそれぞれ抜け出して、ベランダで会話するうちに、背景がわかってきて問題が解決するという話。いるいるあるあるそうそうそう。親戚が集まった時の雰囲気が良く出ていた。日常の演技って難しいよね。しめっぽくなるところ、「羽曳野の伊藤」さんがあり得ない意味不明キャラクターとして登場し、でもとっても大切な役割を果たす。ラストが、あー、いいなぁと素直に思えた。文章だと、よくある話だけど、老舗はひねりがありましたわ。(hammer.mule)
< http://www.adobe.com/
>  CS4
< http://www1.linkclub.or.jp/%7Eyukisya/
>  遊気舎
< http://www.banzai1za.jp/
>  南河内万歳一座