[2535] 車掌さんを乗せたバスが走った頃

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<「泣かせの浅田次郎」の術中にはまった>
 
■映画と夜と音楽と…[397]
 車掌さんを乗せたバスが走った頃
 十河 進

■うちゅうじん通信[33]
 うちゅう人は勉強不足
 高橋里季

■ところのほんとのところ[6]
 出発前のストレス&あたふた
 所 幸則


■映画と夜と音楽と…[397]
車掌さんを乗せたバスが走った頃

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20081114140300.html
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●路線バスから車掌さんが消えたのはいつだろうか

僕の育った四国高松には、コトデンバスが市内を縦横に走っていた。琴平電鉄が母体のバス会社である。琴平電鉄は金比羅さんのある琴平駅までの路線が始まりだったのだろう。観光地への客を運ぶ電車だった。琴平には金丸座という芝居小屋もあれば、遊所もある。江戸時代の末期、金比羅さんへは森の石松だってお参りしたのである。

琴平電鉄は、その後、香川県内にいくつかの路線を敷き、主要な交通機関として利用された。市内の公共交通はコトデンバスが担った。小林旭主演「渡り鳥故郷へ帰る」(1962年)は高松が舞台だが、旧国道11号線、通称観光通りを走るコトデンバスが写っている。昭和37年の光景だ。

「田舎のバスはオンボロぐるま」という歌のフレーズが、半世紀近くたっても僕の記憶に刻まれている。歌ったのは誰か調べてみたら、NHKの大河ドラマ「篤姫」で皇女和宮のお付き庭田をやっていた中村メイコだった。作詞作曲は三木鶏郎だというのも初めて知った。あの歌を思い出すと、僕はボンネットバスを思い浮かべる。

その頃、路線バスには、まだ車掌さんが乗っていた。いや、そろそろ運転手ひとりで走るワンマンバスが入り始め、混在していた頃かもしれない。僕が小学生の低学年の頃にはどの路線バスにも車掌さんがいて、腰に大きながま口のようなバッグを付け、そこから切符や釣り銭を取り出していた。

車掌さんは、主に女性の仕事だった。踏切があると降りて左右を確認し、踏切の向こうから安全確認の笛を吹いた。バスがバックするときも、降りて安全だというサインのために笛を吹いて誘導した。ピッピッピッピっというキビキビした誘導の笛の音を、僕は今でも甦らせることができる。

路線バスから車掌さんの姿が消えたのは、昭和30年代の半ばだろうか。少しずつ自家用車が普及し(我が家に中古のブルーバードがきたは小学6年生のときだった。昭和38年のこと)、バスの乗客も減少し始めたためだと思う。バス会社としては、合理化を図ったのだった。

初代コロンビア・ローズが歌った「東京のバスガール」がヒットしたのは、昭和32年(1957年)のはずだ。「ビルの街から山の手へ〜」と歌われるように、これは路線バスの車掌さんを主人公にしている。「発車オーライ」というフレーズが懐かしい。

未見だが、「東京のバスガール」は日活で映画化されている。昭和33年の夏に公開された。美多川光子という人がバスガール役らしいけれど、僕はまったく知らない。出演者でわかるのは、柳沢真一、西村晃くらい。西村晃は後に水戸黄門になったし、柳沢真一は最近、頻繁にテレビCMに出ている。

「東京のバスガール」という歌を僕はすっかり忘れていたのだが、数年前、テレビドラマの中で流れたのを聴いた途端、当時の記憶も含めて様々なことが、まさに走馬燈のように脳裏をよぎった。まるで、プルーストの「失われた時をもとめて」の語り手が、紅茶とマドレーヌの香りによって一瞬で記憶を甦らせたかのようだった。

●角筈バス停の前で何時間も待ち続ける少年の姿

「東京のバスガール」が流れたのは、「角筈にて」という西田敏行主演のテレビドラマだった。「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)の映画化で浅田次郎さんが一般的に知られるようになった後、同じ短編集に入っている「角筈にて」をテレビ局が単発の特別ドラマとして制作したのである。

正直言うと、映画版「鉄道員(ぽっぽや)」もその原作も僕に何の感動ももたらさなかったが、「角筈にて」では完全に「泣かせの浅田次郎」の術中にはまった。ドラマ「角筈にて」を涙を流しながら見た僕は、「今さらだなあ」と思いつつ直木賞受賞で有名になった短編集を買いにいった。

短編集「鉄道員」は、直木賞をとる前に「第16回日本冒険小説大賞特別賞」を獲得している(ということは、僕の先輩か?)。この短編集に収められた小説は映像化されているものが多く、「ラブ・レター」は森崎東監督によって映画化(1998年)されている。

「角筈にて」は、今はもうなくなった新宿の角筈というバス停を巡る物語である。「角筈」という失われた町名への郷愁が主調低音のように響いていて、それだけで涙腺を刺激するところがある。僕は浅田次郎さんとは同い年、彼が描く昔の話は世代的にグッとくることが多いのだ。

主人公は中年のエリート商社員である。リオの支店長として赴任することが決まっているが、それは間違いなく左遷だ。東大出のエリートの挫折を「ざまーみろ」と思う人間も組織の中にはいる。組織的には終わったと自覚する主人公は、ひたすら前を向いて走ってきた己の人生を振り返る。

彼の人生の最初の光景は、角筈バス停の前で何時間も待ち続ける少年の姿である。彼は「帰ってくる」と言った父を待ち続ける。何台も何台もバスがやってきて、車掌さんがやさしく「坊や、乗らないの?」と訊いてくれる。しかし、少年は黙って頭を振り続ける。蝋石で地面に絵を描きながら…。

──バス停のまわりにゼロ戦と戦艦大和の壮大な艦隊が出現しても、父は帰ってこなかった。

時代設定は立教大学の長嶋がプロに入る前年、昭和32年の夏だ。主人公は、その夏、8歳で父親に棄てられる。淀橋の親戚に引き取られ、父に再会したときに誉められたいという思いで勉強し東大に入る。父がなりたがっていたサラリーマンになる。それもエリート・サラリーマンだ。

兄妹同様に育った親戚のやさしい娘と結婚し幸せな家庭を築くが、子供ができたと聞いたとき、彼は自分が「子供を棄てた父親の息子」であることを自覚する。父親になるのが怖くなり、もう大きくなったお腹を抱える妻に堕胎を強要する。以来、妻は子供が産めなくなる。

原作では「小太り」と書かれている主人公を、小太りどころではない西田敏行が演じた。幼なじみの妻は竹下景子。そして、息子を棄てる悲しい父親を、柄本明が演じた。物語の泣かせどころは、最後に主人公が父親(もちろん現実の父親ではない)と会話するところだ。

しかし、ドラマでも原作でも僕はそこでは泣かなかった。父親を待って蝋石でバス停のまわりに絵を描き続ける少年の姿に切なさが込み上げ、やさしい声で「ぼく、最終よ。いいの?」と訊く車掌さんの姿を見ていたら、不意に涙が流れ出し止まらなくなった。

●成瀬監督作品「稲妻」は都内観光バスの車中から始まる

数カ月前になるが、成瀬巳喜男監督の「稲妻」(1952年)がNHK衛星で放映された。高峰秀子主演の名作だ。成瀬作品に出たときの高峰秀子は、どうしてあんなにいいのだろう。「浮雲」(1955年)「流れる」(1956年)「あらくれ」(1957年)「女が階段を上る時」(1960年)「女の座」(1962年)「乱れる」(1964年)など、どれをとっても素晴らしい。

成瀬監督と高峰秀子がコンビを組んだ第一作は「秀子の車掌さん」(1941年)である。原作は井伏鱒二。高峰秀子は、今でいうアイドル女優だった。ここで田舎のバス会社の車掌さんを演じた高峰秀子は、11年後の「稲妻」で再び車掌さんを演じている。「稲妻」は、高峰秀子がガイドをしている都内観光バスの車中シーンから始まるのだ。

彼女が演じているバスガイドは、「はとバス」の車掌さんを想定しているのだろう。ちょうど銀座の交差点で停車したとき、彼女は道端の男女に目をとめる。それは義理の兄と見知らぬ女だった。その義兄がぽっくり死んでしまい、一緒にいた女が子供を背負い、姉の家にやってくる。

物語は林芙美子原作らしく男女のややこしい関係を描いているのだが、登場人物たちの中で高峰秀子は自立する若い女性を演じている。その職業が観光バスのバスガイドなのだ。昭和20年代半ば、それはきっと花形職業だったのではないか、と僕は映画を見ながら想像した。

女性の働ける職場が限られていた時代だ。バスガイドは、女性たちの憧れる職業でもあったのではないか。10年後には路線バスから車掌さんたちは姿を消したけれど、バスガイドという職種は残っているし、遠足や修学旅行やバスでの観光旅行がある限りなくなることはない。東京には有名な「はとバス」もある。

「はとバス」には一度だけ乗ったことがある。1972年のことだ。その春、浅間山荘事件が起こり、後に連合赤軍の総括リンチ事件が判明した。12名の死体が妙義山や榛名山から掘り起こされた。警察は、凍った地面を掘るのに苦労したが、冷たい土の下には妊娠した女性の死体さえあったのだ。

そのニュースを知ったときの何とも言いようのない気持ちを、僕は今でも憶えている。それは絶望でもあり、厭世であったかもしれない。人間という生き物に対する不気味さ、おぞましさ、怖ろしさもあっただろう。自分と同じ年頃の人間たちが、そんなことをやったことに対する不可解さが一番強かったかもしれない。

しかし、僕の両親はそのニュースを知って息子を心配した。高校紛争を起こした張本人と友人だった僕は、その後、学校にずいぶん楯突いたことがある。担任教師が自宅にきたこともあった。父と母は、そんな息子が遠い東京の空の下で学生運動とやらにのめり込んでいるのではないか、と心配したのだ。彼らは五月の連休を利用して、息子の様子を見るために上京した。

その頃、僕は両親の心配をよそに軟弱な生活を送っていた。自分の下宿にはほとんど帰らず、今のカミサンの部屋に居続けた。恥ずかしながら流行りの「神田川」である。数日ぶりに帰ると、大家さんの電話メモが部屋の三和土に落ちていた。「明朝、東京駅着」とあった。両親は、夜行列車で上京してくるのだった。

東京駅に着くと、ほとんど同時に列車がホームに入ってきた。しばらくすると両親が列車を降りてきた。僕は、両親に東京見物をさせるつもりで「はとバスに乗ろう」と提案し、両親が同意した。僕らは東京駅南口から出る「はとバス」に乗り込んだ。

最初にいったのは皇居前広場だった。父親がカメラを取り出した。「はとバス」のバスガイドさんがやってきた。「撮ってさしあげますわ」と彼女はにこやかに笑顔で言った。彼女には、僕が親孝行な息子に見えたのかもしれない。僕は両親をいたわる孝行息子を精一杯演じていた。カメラを構えた彼女は言った。

──やさしい息子さんですね。

「はとバス」のガイドさんにシャッターを押してもらった写真は、その後、写真立てに入れられ実家の居間に飾られた。あれから40年近くが経ったが、今も実家の飾り棚に置かれている。その色褪せた写真の中で、20歳の僕は気取った表情の両親と並んで、途方に暮れたような顔をしている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
先日、57歳になった。やれやれ、と思いつつ、あの村上春樹さんだって59歳なのだと慰める。今日の朝日新聞の書評に取り上げられた本の著者紹介を見ると、僕と同年の人が三人もいた。みんな、がんばっているなあという印象です。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■うちゅうじん通信[33]
うちゅう人は勉強不足

高橋里季
< https://bn.dgcr.com/archives/20081114140200.html
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前回テキストで、シニフィエをシニフェと書き、シニフィアンをシニファンと書きました。それで、柴田編集長から確認のメールが来ていたのに、私ったら気づかずに、結局、訂正が間に合わなくて、そのまま掲載ということになりました。
前回テキスト
< https://bn.dgcr.com/archives/20081031140200.html
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だけど、私は学生の時から、何十年も、ずっとシニフェ、シニファンと間違えて覚えていたんです。それで今回、びっくりして、ソシュールの本とか取り出してみたけど、どの本にだって、ちゃんとシニフィエ、シニフィアンと書いてあります。

どうして間違えて覚えたのかなぁ。しかも私は、前回思いついた「シニフェな太陽」という語感がすっかり気に入って、「なんか、個展や本のタイトルにしたいくらいだわ〜」とご満悦だったのです。う〜ん「シニフィエな太陽」では、ちょっと違う感じ。パティシエとかマロニエみたいな感じで読むのかしら?

覚え違いと言えば、私は「携帯」をずっとスイタイだと思っていました。何回も間違いを指摘されても覚えずに、またスイタイと読んでしまって、「携帯電話」をケータイと言うようになってからやっと覚えることができました。

今週は、茂木健一郎さんの本、「脳を活かす仕事術」と「脳を活かす勉強法」を読みました。この本の中では、仕事の能率アップのために「英語を習得して」って書いてある。私は、英語習得については、苦手意識があります。

私が高校生の時に、アメリカで暮らしている伯父が、子供たちを連れて日本に遊びに来ました。私と同じ年頃の、イトコの女の子は、チアガールをしていて、髪は金髪だし、目も青くて、すごく奇麗でした。その両親は二人とも日本人なのに、どうして目が青いのか、まったくアメリカ人に見えました。コンタクトだったのかなぁ。

私と父が、その家族の泊まっているホテルに会いに行って、ホテルのレストランで食事をしました。そこでは、ピアノとヴァイオリンかなにかの演奏があって、その頃の日本の流行歌を演奏していました。それで私は、その女の子に話かけようと、「この曲は、日本で今、一番流行している曲です。」って英語で言おうとしたんです。

ところが、どうしても「ミュージック」の発音が通じないの。私は、自分では英語が話せると思っていました。学校の成績は良かったんです。だけど、どうしても通じなかった。その頃の私は、将来はクリエイティブ系に進むべく、なんだってやるわと思っていたので、「ミュージック」が言えなくてどうすればいいの? という感じ。

小学校の時から英語の本は独学で読んでいたし、少なくとも、その時までに、10年くらいは英語の教科書みたいなモノには触れていたのに、がっかりして、「英語を将来の仕事のツールにはできないな」と思いました。ダメだな。と思ってしまったんです。その時からかも? 受験用の勉強はしても、英語を実際に使って、旅行をしてみようとか、作詞をしてみようとかいう気持ちはなくなってしまいました。なんだか微妙で。初めて外国人と会話をしてみた、というのとも違う、だって、そのイトコは、アメリカで育った日本人なんだし、簡単な日本語の方が、伝わるみたいでした。

どうなんでしょう? お互いに外国語の言葉は、書けない読めない話せないけど、聞けば意味は判るから、お互いに自国語で話せば大丈夫とかいうことにはならないのかなぁ?

実際に、その頃の日本の音楽(ポップス)の流行という面でも、そういう動きはあったと思います。一時期、ポップスのサビの部分だけ、簡単なカタカナ英語で、っていうオキマリのパターンが、それだけで、もうナンカ変じゃない?っていう風潮があって、「日本語の詩で作る」ことだったり、「いっそ全部英語」とか、日本語だけど英語やフランス語みたいなイントネーションになるように曲をつけると洋楽っぽいとか、インストゥルメンタルの方向性とかいうことがありました。この時期というのは、私としては、日本人としての劣等感を意識しだした頃でした。(劣等感を乗り越えるためにガンバル! というよりは、割り切りの早い性格だったかも、私?)

私は本などに書いてあることは、なんでも試してみたくなるんですが、英語で海外の最新の論文を読みこなすというのは、やっぱり無理だと思うので、茂木健一郎さんのような方が、海外の科学の論文の成果などをなるべく早く、日本語でわかりやすい本にして教えてくれるといいなぁ、と思います。でも本当は、日本がなんだって最先端だから、日本の著作を読んでいれば大丈夫! だったら一番いいなぁ。

もうひとつ、学生の頃のことを思い出したのは、筑紫哲也さんの訃報で「朝日ジャーナル」のこと。学生の時に、この雑誌をいつもバッグに入れていました。

デザイン学校では、とにかく時間が足りませんでした。一週間で何10時間は必ず眠ると決めていて、平均4時間くらいで、休日には6時間くらいは眠れるの。そうやって、毎日課題をやるんですが、学校帰りに資料を集めたり、画材を準備して、帰宅してから、どんなに早くても課題に4時間はかかるんです。絵の具の扱いなどで失敗したら、必ずやりなおすので、朝までということも度々。

本も、記号論だとかソシュールだとかで、一週間に4冊くらいは先生が薦める本を読まなければならなかったし、私は、とにかく「やった方がいい」と教えられたことは、全部やることに決めていたから、毎日が睡魔との戦いでした。

睡眠不足とは言っても、シンセサイザーで曲を作ったりしていたので、データ入力とか、勉強することが他の学生よりも多かったのかもしれません。眠っていたようなのに、ハッと気がつくと曲が完成していたり、デザインの課題が机の上に出来上がっていたりするので、私は、いつも本当に「私が眠っているあいだに、神様がやっておいてくれたんじゃないかしら?」と思うほどでした。

そういえば、学生の頃は、眠くてウワゴトのように私が何かをしゃべっても、ちゃんとフォローしてくれる友人が、側に居たような気がします。たとえば、「シニフェとね、シニファンがね、よくわからなくってね……。」「うんうん、シニフィエとシニフィアンね、あれ難しいよね。」とかね。

それで、社会問題については「朝日ジャーナル」のみ。あとは電車の中吊り広告を見るだけと決めていました。芸能人の名前は知らなくてもいいと決めて、流行の曲は一度聞いてコード進行がわからない時だけ確かめて、曲名などは覚えませんでした。流行色はCMYKの数値を色見本で確かめるだけ。ファッションのブランド名は覚えなくても、新しい服のラインはカッティングだけ確かめるの。

そんな感じだったから、時代感覚とか、社会問題のムードは、「朝日ジャーナル」で知る雰囲気に頼っていて、そして学生の私は、デザインの課題に没頭していても、社会と繋がっている気がして安心でした。コンセプトに使う言葉や、使わない方がいい言葉は、だいたい「朝日ジャーナル」の文体から推察していたと思います。私は、「朝日ジャーナルは、違うな。私より前の世代の感覚だな。」と感じていて、そのズレを意識するのが大切だったんです。なんとなく「朝日ジャーナル」が懐かしく、さびしい気持ちです。

今回は、自分の勉強不足を反省したせいか、茂木健一郎さんの本を読んだのですが、勉強法の本としては、池谷裕二著「脳の仕組みと科学的勉強法」「記憶力を強くする」も面白かったので、オススメです。

【たかはし・りき/イラストレーター】riki@tc4.so-net.ne.jp

・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
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■ところのほんとのところ[6]
出発前のストレス&あたふた

所 幸則
< https://bn.dgcr.com/archives/20081114140100.html
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パリの画家のお世話も終盤にかかり、40代のキュレーターで忙しくてなかなかスケジュールがあわない人をつかまえるために、彼が出席してる展覧会のオープニングが終わる20時頃に迎えに行き、ぼくのところまで連れて来て、作品を見てもらい、いろいろ意見を聞いた。

ほんとのところ、そこまで〜っというほどズバズバ、作品への意見や画廊の現状や百貨店の絵の販売ルートの話など幅広く教えてくれて、いろんな東京アート事情がわかって、すごくよかったと思う。

紹介するにしても金曜の夜にやっとあえて、二日後の日曜日の朝に成田から帰ってしまうとなるとどうしようもないので、次回はゆっくり来て下さいという話でまとまった。実際、東京に5日間滞在ではどうしようもないよー、と僕も本当は思っていた。せめて週をまたいで9〜10日あればいいのに。

そして帰る直前の土曜日に、森美術館の館長と会ってきた。会うまではどんな人かわからずちょっと怖そうなイメージをもっていた(勝手にビビってるだけ)『ところ』でしたが、会ってみるととっても物腰の柔らかい人だったので安心して話ができた。半分は共通の友人についての話だったけれど(笑)。

結局、ミュージアムショップに少しスペースをとって作品の展示販売をやってみましょうか、ってことになったので、とりあえずよかったかな。画家さんも喜んで帰って行って、さあ、今度は僕がパリ行きの用意をしなきゃってことになるんだけど。

ほんとにいままでなかったようなプレッシャーで、なんだか何も手につかなくて落ち着かない。そこにスポッと玄光社「フォトテクニック」から取材が入った。年の始めに撮った、生まれて初めてのグラビア写真集の仕事についてだった。ちょっとビックリしたんだけれど。なんにせよ、面白いと思ってくれたから依頼されたということなので取材を受けて、さあ、いよいよ準備だ! と思ったけれど、どうにもストレスで体調が悪い。

果ては、パリにも行きたくないよ〜とか言い出す始末、登校拒否みたいなものかな〜。ギリギリになってなんとか頑張って動き出したころ、デジクリの柴田編集長がパリに持って行くプリントを見に来てくれて、ほんと嬉しかった。とても面白がってくれたので、元気が出て動く気になった、ほんとに。

作品とテーマについての短い文章と、プロフィールを配置したPDFファイルを、CD-Rに焼いて持っていくことにした。文章の翻訳をマイミクに頼んだのだが、芸術的表現の部分は自信ないという。そこで、やってもらえるかどうか不安だったけど、日本のアートを紹介する本を最近アメリカで出した人に一応メールしてみた。

今月は韓国で仕事があると言ってたので、今は韓国にいるはずだ。無理かなー、いや絶対無理だろうと思ってたら、「仕事で死んでるけど、このままパリに持って行かせるわけにはいかないじゃない?」というコメントとともに、翻訳文が送られて来た。じつはPDFファイルも作ったことがなかったので、いろんな人に電話したり迷惑をかけながらやっとできて、20枚ほど焼いてみる。

うーん、やっぱなんかジャケット代わりのものがいるなあ、ってことで。ちゃっちゃっとデザインして、プリントアウト。セットし終わったのが、出発の前日の夜24時を回っていた。さらに、CDだけでは見てもらえない可能性も考慮して、作品をA5サイズにプリントアウトし、裏に英文の解説を貼る。それが終わるともう2時をまわっていた。

出発当日の朝に、新しいライトルームのちょっとしたコツをレクチャーしてもらう(ありがとう! A社のKさん!)。最後の準備をしているところに、今度は「コマーシャル・フォト」から作品掲載と取材の依頼。データは送る手配をして、取材の方は前泊するホテルで夜間に電話でやりとりしてなんとかクリアー。なんだかこういう時に限っていろんな事がかさなるもんだなあと、あたふたする『ところ』でした。

飛行機も寝過ごすことなく無事乗れて、今はパリでこの原稿書いています。ドキドキしてるけど、まあここまで来たらね。

着いた当初しばらくネットにつながらなかったけれど、深夜に繋がったら大量のメールが届いていて、その中にイタリアの「ZOOM」の編集長からのを発見。17日〜18日に東京で会いたい、イタリアでの展示とセミナーをやってほしいという内容だった。

僕はそのときパリなんだけど、パリで会えないものだろうか?
パリに来てまであたふたしている『ところ』でした。

【ところ・ゆきのり】写真家
CHIAROSCUARO所幸則
< http://tokoroyukinori.seesaa.net/
>
所幸則公式サイト
< http://tokoroyukinori.com/
>

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■編集後記(11/14)

・喪中はがきがポツポツ届いている。わたしのような年齢になると、このお知らせを毎年何通も受け取る。今後も増える一方だろう。今年は、わたしも喪中はがきを出す側に回って、いま宛名書きをしている。わたしに届く年賀状の半分以上が、デジタルクリエイター関係である。いろいろなタイプの絵や写真、デザインの年賀状を見るのがうれしいお正月行事だったが、来年はそうはいかない。このメールマガジンを読まれている、毎年わたしに年賀状を下さるクリエイターのみなさん、そんなわけで「年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」(定型文だけどちょっとヘンな表現だな)ので、よろしくお願いいたします。/先日、テレビで「ニンニン介護」の話題をやっていた。高齢者が高齢者の介護をする(しなくてはならない)「老老介護」のことは知っている。高齢化社会の大問題である。でも、「ニンニン介護」とはなんだ。介護には忍耐が必要なことから、忍耐忍耐とこころがけながら行う介護のことかと一瞬思った。でもその正体は「認知症の高齢者が認知症の家族を介護する」ことで、その形態が次第に増えて来たという。周囲が気づかないような軽い認知症なら日常生活は可能だから、重い認知症の配偶者を介護するのだが、その番組では虐待に近い場面も映していて心が痛む。妻に「ニンニン介護って知ってるか」と聞いたら、「うーん、ニンねえ、妊婦同士が助け合うってことかな、でも介護とは言わないなあ」。娘に問うたら「忍者ハットリ君か」と答えた、というのは作り話だけど。子どもの頃は「忍者」になりたくてたまらなかったわたしだが、歳とって「認者」にはなれそうだ。(柴田)

・英語を学べば能率アップ? 茂木健一郎さんの本、見てみようっと。/化粧品会社からDMが届いた。手にとってすぐに思ったこと。これは海外で印刷したものじゃないか? アメリカや中国の雑誌と同じにおいがする。表面がつるつるカラーで、触るとぬめっとした感じ。においは書けないから伝えられないんだが、日本の雑誌でこのようなにおいと手触りのものを触ったことないよなぁと。ただ単に、日本の雑誌社がこの印刷方法を好まないだけなのか? 事務や説明書に使われる紙も違うよね。通販で買った商品の説明書で、国内産でないとわかったり。などと、つれづれに書く。ネタないのよぉ。/22日夜、ジュンク堂大阪本店で前垣和義氏のトークセッション「大阪ってやっぱり面白い 大阪ってほんま奥深い」開催。ケンミンショーなどで大阪に関するコメントをしている教授でありんす。(hammer.mule)
< http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk-osaka.html
>  知識散歩
< http://www.h3.dion.ne.jp/%7Emydo/img/20081120 >
パーティーもあるでよ
< http://www.h3.dion.ne.jp/%7Emydo/
>  前垣さん