[2678] 人間は成長するのものなのか?

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<努力と報酬とを比べると常に報酬が努力を下回る>

■映画と夜と音楽と…[426]
 人間は成長するのものなのか?
 十河 進

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■映画と夜と音楽と…[426]
人間は成長するのものなのか?

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20090717140200.html
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●日本人のモラル低下を示す図書館の本への仕打ち

カミサンが市の図書館でパートとして働き始めて10年ほどになるだろうか。週に3日だけだが、土日のどちらかは必ず出勤している。最初は近くの分館だったけれど、数年前から少し離れた団地の中の分館に通っている。そのせいか、新刊情報に関してはかなり詳しくなっていて、最近の小説家については時々教えてもらうことがある。「誰々の本がよく動く」などと、実際の貸し出し現場の話は現実感がある。

以前に通っていた図書館は市内に10数カ所ある分館の中で最も利用率が悪く、カミサンに「たまには一緒にいって、本を借りてよ」などと、同伴出勤をねだるホステスみたいなこと(経験はないけれど)を言われたが、利用率が低いと問題にされることもあるという。毎日、貸出件数はどこの分館が少なかったかコンピュータで集計され、カミサンの分館はいつもビリだと嘆いていた。

昨年の春、日本冒険小説協会全国大会で「警官の血」がベストセラーになっていた佐々木譲さんと話していて、「カミサンが図書館でパートしているのですが、『警官の血』は100人待ちだと言っていましたよ」と言ったら、「それは、何かうれしいなあ」と佐々木さんは破顔した。作家にとっては、図書館の一冊を何百人に読まれても印税は増えない。でも、多くの人に読まれることを佐々木さんは素直に喜んでいた。

イギリスの図書館は貸出件数に応じて作家にいくらかペイされると聞いたが、日本の場合は「無料貸本屋」的存在になっている面は否定できない。本を買わない人は、本当に買わない。借りるのが当たり前と思っている。「あの本いいよ」と薦めると「貸して」と言う。そういう人に本を貸すと、まず返ってこない。本の価値を認めていないのだ。大切なものだと認識していたら、絶対に返す。彼らは、本当の本好きではない。

数年前に話題になった佐野眞一さんの「誰が『本』を殺すのか」というノンフィクションで、公立図書館の実態がレポートされていて唖然とした。たとえば、「五体不満足」が大ベストセラーになったとき、東京都のある区立図書館は数百冊を購入したという。おそらく、今はほとんど動いていないだろう。話題の時期は去ったのだ。回転しない本は整理するから、何冊かを残し何百冊が処分されたに違いない。

先日、カミサンに現在ベストセラーになっている山崎豊子の「運命の人」のリクエストを訊いたら、「もう一年待ちよ」と言う。「数百人のリクエストが入っている」とのことだった。ひとりの貸出期間は2週間(予約待ちがあると延長は認めないそうだ)だから、一冊の本で一年間にまわせるのは25人である。そこで、リクエストの多い本は何冊も購入することになる。

図書館には本好きの人がくるのだろうが、カミサンの話を聞くとトンデモナイ人々も多い。図書館の本を万引きする。借りた本を返さない。数カ月延滞しているので催促すると逆ギレされる。ページを切り抜く。書き込みをする。本を紛失したので「弁償してほしい」と言うと、「俺の税金で買った本なのに、なんで弁償しなきゃならん」と怒り出す。弁償する本は「ブックオフの100円本でいいですか」と訊く奥さんは、まだマシな方なのだ。

古い団地の中の分館だから、やってくるのはお年寄りが多いらしい。毎日、図書館で時間を潰す人もいる。僕が「トンデモナイ人は若い人?」と訊くと、年輩の人やお年寄りだという。そんな話を聞くと、人は歳を重ねても何も学ばないし、成長しないのではないかと思う。経験を重ねることは、自分を磨くことだ。しかし、経験を素通りさせたら何も学べない。人は自覚的に生きていかない限り、成長はできないのではないか。

●男の裏切りの現場を通りから見上げるみじめな女

恋人に裏切られた傷心を抱えたままさすらい、その中で出逢った他者を鏡として自分を成長させ、新しくなって戻ってきた女がいたなと、あまり脈絡はないけれど僕は少し前に見た映画を思い出した。その映画はラブ・ロマンスとして紹介されていたが、僕にはビルドゥングス・ロマンのように思えた。経験から学び、成長する人間が僕は昔から好きなのだ。

赤や青のネオンに彩られたマンハッタンの夜、女は通りから好きな男の部屋の窓を見張る。みじめな行為。自尊心もプライドもなくした行動だ。恋人の不実を、裏切りを確認することに何の意味があるのだろう。女は、その時点ですでに、恋人に新しい相手ができたことを確信している。恋人の誠実さを確認するために見張っているのではない。彼女は、もう恋人を信じていない。

昔、向田邦子のドラマ「阿修羅のごとく」を見ていたら、「疑心暗鬼」という言葉についてのセリフが出てきたのを憶えている。四姉妹の次女(八千草薫)は夫(緒形拳)の浮気を疑っている。次第に、その疑心が広がり、彼女は耐えられなくなる。「疑う心が、いもしない鬼の姿を暗闇に見るようになる」と、長女(加藤治子)に諭される。

「疑心暗鬼」とは「疑心、暗鬼を生ず」の略だ。人に疑う心が生まれると、それは次第に成長する。苦しいほど、人の心を圧迫する。日々、心が安まらず、何をしていても疑心に捉われた己を自覚する。いっそ、その疑いが真実だとわかった方がマシ、とさえ思う。恋人の裏切りが確実になったのなら、思い切れる。相手をなじることができる。罵れる。未練を断ち切れる。

女も、そう思って恋人の部屋の窓を見つめていたのかもしれない。もちろん、恋人の裏切りは確実になる。新しい相手が窓の向こうに見えたのだ。女は傷心を抱えて、いきつけのカフェの前に立つ。だが、入れない。彼女は、恋人に裏切られ、嫉妬心を抱えたままの自分を自覚している。そんな女のままで、カフェのマスターに会いたくない。今までの自分でいたくない。生まれ変わった自分を見せたい。そう思ったに違いない。

「カフェ・クルーチ」と書かれた店のカウンターには、大きなガラス瓶が置いてあり、中には様々が鍵が入れられていた。色とりどりに見えるのは、キーホルダーのせいだ。その鍵のひとつひとつに、様々な物語が宿っている。恋人が別の女と食事をしていたと聞き、疑心が生まれた夜、女はカフェのカウンターに男の部屋の鍵を放り投げ「彼がきたら鍵を返して!」とマスターに言付けた。

次の夜、女は再びカフェに現れてマスターから様々な鍵にまつわる物語を訊く。マスターはひとつの鍵を持ち「これは数年前、若いカップルが置いていったもの」と口を開く。そして、ある鍵を懐かしそうに掌にのせ「これはイギリスのマンチェスター出身の若者の鍵だった」と言う。若者は全米マラソン大会に参加し、その記事を書くはずだったがカフェのオーナーになったと語る。その鍵は、彼にかつての夢や希望を思い出させる。

「どうして棄てないの?」と訊く女に、マスターは「もし棄てたら、扉は永遠に閉じられたままだ」と答える。だからだろうか、数日後の夜、女は「あの鍵を返して」とやってくる。マスターは、恋人と復縁したのだろうと推察し、さみしそうな顔をする。彼は、すでに彼女を愛し始めている。そうして、女もそのことを感じている。

だから、恋人の部屋の窓を見上げた夜、恋人の裏切りを確信し、カフェの前までやってきた女は中に入れなかった。恋人への疑惑と嫉妬に苦しめられた夜、女はマスターの言葉と売れ残ったブルーベリー・パイに慰められた。マスターは優しく抱きしめてくれた。そんなマスターに、心変わりした男への未練を残したまま会えなかったのだ。変わらなければ…、そう決意した女はニューヨークを離れアメリカ中を放浪する。

●男の部屋を見上げ昔のみじめな自分を許容し微笑む女

ウォン・カーウァイ監督の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」(2007年)は、男に裏切られた女の成長と再生の物語だ。演じるのはノラ・ジョーンズ。僕はその名前を知ってはいたが、月刊プレイボーイの「ビル・エバンス特集号」でエバンスについて語っている彼女のプロフィールに「ラビ・シャンカールの娘」と書かれていて驚いた。父親は、60年代半ば、ビートルズに影響を与えた印度のシタール奏者である。

カフェのマスターであるジェレミー役はジュード・ロウ。今まで何本も彼の映画は見たけれど、この映画が一番いい。カウンターで眠ってしまったエリザベス(ノラ・ジョーンズ)の唇にパイのクリームがついている。彼はそれを手でとろうとして考え直し、口づけをする。その繊細な演技が印象に残る。彼が傷心のエリザベスをやさしく抱きしめる場面には、「花様年華」(2000年)でも使われた「夢二のテーマ」が流れる。流れるような美しい映像と共にそれを聴いた途端、僕は胸を締め付けられた。

ウォン・カーウァイ作品は物語の面白さを見せるというより、凝りに凝った映像と音楽で観客の心に直接響く切なさのようなものを伝えてくる。「マイ・ブルーベリー・ナイツ」では赤や紫で彩られたブルーベリー・パイのアップに白いクリームが溶けて流れるカットや、赤や青のライトで照明されたカフェ、ダイナー、バーのシーン、赤や青の字でメニューが書かれたガラス越しに写される会話シーンなどが登場人物たちの心情を表現する。

テネシー州メンフィスのバーでウェイトレスを始めたエリザベスは、カウンターで最後まで呑んでいる中年男アーニー(デヴィッド・ストラザーン)と知り合う。彼は警官で、去っていった妻を思いきれず、アルコール依存症を治そうと努力しながら、結局、いつも酒に溺れて人生の辛さを忘れようとしている。マット・スカダーのようにアルコール依存症患者の会合に参加し、禁酒をした印に白いチップをもらっているのだが、それはもう何枚もたまっている。

アル中の私立探偵「マット・スカダーのように」と僕は書いたが、この映画のシナリオにはウォン・カーウァイと共にローレンス・ブロックの名前がクレジットされている。マット・スカダーの生みの親で、マンハッタンの夜を舞台にした物語ならお手のものだ。もしかしたら、ウォン・カーウァイはローレンス・ブロックの愛読者だったのかもしれない。

アル中気味の警官と妻の物語は哀しい結末を迎え、エリザベスは何かを感じとる。生きるために必要な何かを得るのだ。それは、人生の深みを学ぶことに他ならない。互いに惹かれ愛し合いながら、どうにもならない関係がある。互いを傷つけ合うしかない関係…。エリザベスはメンフィスを去る警官の妻を見送りながら、共感でもなくエールでもない、それでいて心温まる何かを送る。

次にエリザベスが知り合うのは、ネバダ州の場末のカジノで強気にカードゲームを続けるレスリー(ナタリー・ポートマン)だ。賭けに出た大ばくちで負けてしまったレスリーは、車を買うために金を貯めているというエリザベスの話を聞き、その金を出資しないかと持ちかける。「負けたら私の車をあげるわ」と言うレスリーの指さす先には、オープンタイプのジャガーの新車がある。

エリザベスは承知しレスリーは賭けに戻る。賭けが終わり戻ってきたレスリーに「どうだったの」と訊くと、「車をあげるわ」とレスリーが答える。しかし、ラスベガスまで送ってほしいとレスリーが言い、ふたりの旅が始まる。やがてラスベガスにいるというレスリーの出資者は父親であり、二人の仲は修復不能なほどこじれ、深い確執があるらしいことがわかる。だが、その父親が入院し死にかけていると連絡が入る。

レスリーは自分を呼び戻すために父親が嘘をついているのだと断言する。「誰も信じちゃダメ」と、レスリーはエリザベスに教える。しかし、レスリーとの別れ際に「少しは信じなさいよ」とエリザベスは大声をあげるのだ。自分を棄てた妻を忘れられなかったアーニー、父親を愛しながら確執から抜けきれなかったレスリー、そんな他者との交流の中からエリザベスは成長し、再生する。一年後、彼女は再びカフェの前に立つ。

そのエリザベスには、一年前、カフェの電話で男を罵り「あいつに鍵を返しておいて!」と出ていった女の面影はない。彼女は、学び、成長し、再生したのだ。かつて嫉妬と傷心を抱えて見上げた恋人の部屋の窓には「空き室」の看板が出ている。彼女はそれを見上げ、一年前のみじめな自分を許容し、今はそんな次元から遠く隔たったところにいる人間の余裕を見せて微笑む。

成長することとは、かつて許せなかったものを許容できる余裕や包容力を獲得することなのかもしれない。それは、結局、自分以外の存在に対する優しさだ。だから、図書館(とは限らないけれど)で人を怒鳴ったりするような年寄りにだけはなりたくないな。穏やかに、ニコニコと微笑んでいる好々爺でありたいと自戒を込めて思う。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
7月9日から夏休みをとって帰省します。あちらは水不足が深刻なような話ですが、その後、改善されたのでしょうか。このテキストが掲載される頃には帰ってきているはずですが、もう梅雨明けになっているでしょうか。梅雨があければ暑い夏。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![99]
決定版! ミもフタもない英語学習法

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20090717140100.html
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旧Novaに通っていたころ、よく生徒仲間から「どうしたらそんなに上手く英語が話せるようになるの?」と聞かれることがあった。そういうのにまじめに答えてはいけない。いろいろ試してみた学習法の中で、これもよかった、あれもよかった、なんてことを並べ立てていくと、相手は次第に不機嫌になっていく。しまいにゃ「そんだけ勉強すりゃ、上手くなってあたりまえじゃない!」とかって、怒られちゃうのである。おもむろに腹のポケットのチャックを開けて、「翻訳コンニャク!」とでもやればよかったのかな?

ニュートンは偉大だ。万有引力を発見して名を馳せるようになってからは、上流階級の紳士淑女が集うサロンなどにも呼ばれるようになったに違いなく、行けば決まって「あの偉大な発見はどのようにしてなされたんですの?」なんて聞かれたに違いない。まじめに答えていると、相手がうんざりしているか爆睡していることを発見したに違いない。そこでひねり出した答えは世紀の傑作というほかはない。「りんごが木から落ちるのを見て」だってさ。

あのねぇ、万有引力の法則っていうのはねぇ、すべての物体にはお互いに引っ張り合う力が働いていて、その大きさfはそれぞれの質量m1、m2に比例し、重心間の距離rの2乗に反比例する、その比例定数Gはいつでもどこでも不変である、ってやつでしょ? 観察から帰納的に導き出されたケプラーの法則なんかを、演繹的に説明づけられちゃう根本原理なわけでしょ? それ、りんごの木、眺めててひらめくかぁ? みんなよく信じるよなぁ。

ヤフオクで競り落としたコンニャク、食べたら一夜にして英語がぺらぺらに話せるようになってました。なんてね。ふと気がつけば、今はもうすでに21世紀。あってもいいんじゃないかな? ひょっとしたらと思ってヤフオクをチェックしてみると……。なんとっ! 過去に何回か出てた形跡があるじゃんか! 翻訳コンニャク。競り落とされてるのもあるし。どうだったんだろ? ってなわけで、まじめに語る気があんまり起きないんですけど、今回は、英語学習法のことなど。

●パンパンの風船を見ると針でプチっとやりたくなる

ものは食うけど痩せられるダイエット法とか。何もしないけどお金が儲かるネットビジネス商材とか。勉強しないけど英語ができるようになる学習法とか。みんな、そういうの好きだよねぇ。で、どうするかというと、その秘訣が書いてある巻物を買うとか、ネットビジネス商材をダウンロードするとか、スクールに入会するとか、お金で解決しようとするんだよねぇ。

解決、しましたか?[Yes/No]

ウェルカム・トゥー・資本主義社会。かつて私は、大学の図書館で論文のコピーをとりながら、コピーをとるようなスピードで、論文の内容が頭に入っていくような魔法があるといいのになー、と思ったことがある。けど、そういう仕掛けは存在しないんだよねー。存在しないけど、ぎりぎり嘘にはならない宣伝文句で、さも存在するかのような感じを抱かせ、それで成り立つ商売なら存在するんだよねー。それが資本主義。

人々の夢、期待、射幸心、欠乏感、心の隙間、ラクしてズルしたい気持ち、そのへんをこちょこちょとくすぐって、ものの購買へと誘導すれば、ゼニになる。これ買うといいよ。だめだった? なら、これがあるよ。まただめだった? そういうときは、とっておきの、これ。なんてね。消費の無間地獄。まずそこを「学習」するのが英語学習の第一歩なのではないかと。

もういっこ。仮に英語を一所懸命勉強したとして、その結果得られるのは、英語力です。いい仕事が次から次へと舞い込み、お金ががっぽがっぽ儲かり、人々の尊敬と羨望を集め、異性にはモテまくり、ハワイのビーチでなぜか小さい傘がささった青いカクテルをすすりながら「太陽がいっぱいだぁ」なんてつぶやくとか(南仏でもいいけど)、そういうバラ色の生活が手中に、みたいなことは、起きません。せいぜいが、原稿料タダのメルマガに駄文を書きつづって、自己満足に浸ってるくらいが関の山です。保証します。

どこの英会話学校に行っても必ずいるんです。実力の伸びよりもプライドの伸びのほうが速い人。クレジットカードを使えば、まだ稼いでいないお金を使って買い物ができちゃうのと似て、せっせとスクール通いをすれば、まだ身につけていない実力を先取りしてプライドを肥えさせられちゃう。休日の街の軽薄な娯楽ムードには目もくれず、自己研鑽に努める、向上心あふれるワ・タ・シ。ああ、素敵ですねぇ。自己イメージと現実の実力との間の、どんどん進んでいく乖離、どこまで行って、ついにどうなるのか、ちょっと心配な私です。

たぶん、そういう人は、そういう人どうしでつるむんでしょうね。ポッシュ*なケーキ屋さんかなんかで、スイーツを前に、「私たち、こんなに自分磨きに励んで、キラキラ輝いているのに、釣り合うようないい男がいないのよねぇ」なんて嘆いているんじゃなかろうか。
 *posh:高級な、豪華な、上流階級の、上品な。

私はいい男ではないので、あんまり詳しくはないのですが、たぶん、いい男は「こいつにとっ捕まったらヤバイ」と直感すると、一瞬にして、ダサい男に化けます。これで完全インヴィジブル。スイーツ(笑)な淑女たちからは、まったく見えなくなります。そうやって、自分の姿勢を低くすることで、誰のプライドを傷つけることもなく、平穏のうちに、難を逃れている。忍法葉隠れの術。いい男がいないとお嘆きの貴女、そのへんの葉っぱをめくってみると、いるかもしれませんよ。

そうだ、他人事じゃなかった。数学専攻ではちっとも女の子が寄ってこないので、英会話だったらなんとかなるだろうと始めてみたけど、がんばってもがんばってもちっともモテず、人生を返してほしい、と嘆いている俺であった。詳しくは、前に書いたとおりです。まー、つまり、英語に英語以外のことを期待しちゃうと、ろくな結果を招かないということですな。

古典的な笑い話にこんなのがある。大学教授が一人でいるところへ女子学生が近づき、色仕掛けに出る。「ワタシ、単位をもらえるなら何でもします」「じゃ、勉強しなさい」。

●赤字を埋め合わせるには、楽しむしかない

ガキんちょに毛が生えた程度の私が、人生哲学めいたことを語るのはカタハライタイというものだが、ひとつ、これは言えるんじゃないかという仮説を温めているので、世に問うてみたい。名づけて「人生赤字の法則」。略して「性赤説」。何かというと、「努力と報酬とを比べると、常に報酬が努力を下回る」という法則。

一億円もらえるなら、どんなことでもしよう、と思う人はいるかもしれない。将棋を勉強して、プロになって、公式戦7タイトルを総ナメにすれば、年収一億は下りません。やってみます? 多分、山の2合目あたりのところで、もう要らないから、気ままな暮らしがいいや、と言って放り出すと思います。将棋でトップクラスのプロに至る努力と、年収一億円は、まったく釣り合っていません。私は羽生ではないけど、それくらいのことは分かります。

ホリエモンが破竹の勢いでガッポガッポ稼ぎまくってたころ、どっかの経済誌でインタビュー記事を読んだことがある。まあ、誰でもあやかりたいと思うのは自然なことで、いったいどういうふうに生きてるとそんなにお金が稼げるのか、聞いてみたい、というわけだ。ホリエモンはホリエモンで、そんなに特別なことはしていない、という調子で、どんな質問にも気前よく答えてくれる。

けどねぇ、私はそれを読んで、あ、俺はホリエモンじゃなくていいや、って思いましたね。具体的な数字は忘れちゃったけど、毎日、おびただしい数のメールが届くのを効率よくさばいていかなくてはならない。一通あたり数秒。件名に「〜について」だけではなく、内容の要約も書くようにと、みんなに言っておく。そして、大部分のメールはタイトルを一瞥しただけで、ボンボコボンボコごみ箱に捨てていく。捨てるメールは1秒足らずで。

読む必要ありと、ほぼ直感的に思ったのだけ、さっと目を通し、さらにその中で必要があるのだけ、手短に返事を書いて送る。そういうのも含めて1通あたり平均数秒。来る日も来る日も。丸一日、メールのやりとりだけでつぶすわけにはいかないのだ、と言っていた。ごもっとも。そんなせわしい生活、悪いけど俺はごめんだから。

勉強というのは決して面白いわけはないものだけれども、将来への布石として、我慢してやっておかなければならない、と思っている人は意外に多い。子供にそういうことを言う親も多そうだ。悪いことは言わないから、おやめなさい。あなたには向いていません。一流大学にパスして、いいところにするりと就職できて、すいすい昇進して、いい車に乗って、マイホームを建てて、安定な生活が送れる、その報酬に比べて、青春を台無しにして、人によっちゃ勉強よりも大切だという人生経験とやらを迷わずバッサリと切り捨て、睡眠時間まで削って、体を壊しそうなくらい勉強するという努力は、釣り合っていません。大赤字です。

で、この赤字分を埋め合わせるのは何かというと、対象そのものを楽しむことなんじゃないかと思います。英語にしろ将棋にしろ会社経営にしろ、基本のところに、それを楽しんでるっていうのがないと、続かないんじゃないか、って気がしています。英単語帳に萌えキャラが登場するのもいいし、化学の元素を擬人化してみるのもいいけど、真に楽しむというのは、そういう飾りつけで遊ぶことではなく、対象そのものに興味をもって、それに没入することがまったく苦にならないようにすること、なのではないかと思います。

●文化の違いを楽しもう

英語はコミュニケーションの手段であって、それ以外の手段ではない。特にプライドに餌をやるための手段にしないほうがいいのは、さきほど述べたとおり。コミュニケーションそのものを楽しむという姿勢で臨むのが一番。もちろん、青い目の外国人と面と向かって話をする楽しさは基本なのだが、もうひとつ、文化の違いに気づくという楽しみがある。

英語学習というものが、鉛筆はpencilで、道はroadで、馬はhorseで、かぼちゃはpumpkinだ、なんていう対応づけをひたすら記憶していって、置き換えるだけなら、機械的な作業であって、面白くもなんともない。ところが実際はそうはいかない。

デミ・ムーアの主演していた映画「The Butcher's Wife」は、直訳すれば「肉屋のかみさん」だ。まあ、そのタイトルじゃ、客が来ないのは想像に難くないけど、邦題はどうなったかというと「星の降る街」だ。"I love you." を夏目漱石は「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷は「わたし、死んでもいいわ」と訳したそうである。かっこいい! 私もトライしてみよう。
「や ら な い か」

いい文章の基本型は「起承転結」だという。これ、洋の東西を問わず、世界の共通認識だと思っている人は多い。ところがどっこい、英語には、起承転結に相当する表現がないのだ。表現がないということは、そういう概念もないということだ。ジーニアスの和英辞典では "logical development" と訳しているがこれは「論理的展開」ということであって、起承転結とは似ても似つかない。ネット上のALCの辞書には "introduction, development, turn, conclusion" とあり、ひとつひとつは忠実な訳だけど、全体をみるとき、いい文章の典型だなんて、きっと誰も思わないだろう。むしろ、混乱した文章のつくりだと思うかもしれない。もうひとつ、"quick getaway, build up, climax, ending" というのも載っているが、これは起承転結じゃなくて、オルガスムス曲線だね。あっちの人はそういうのをいい文章の典型だと思うのだろうか。
< http://www.alc.co.jp
>

以前、会社の研修で、早稲田大学教授の篠田義明先生の「テクニカル・ライティング」の講義を受けたことがある。その中で、分かりやすい文章の典型のひとつとして、
1.結論
2.理由、その1(最重要な理由)
3.理由、その2(第2に重要な理由)
4.理由、その3(第3に重要な理由)
5.再び結論
という構成を挙げていた。途中まで聞いて、この人の言いたいことは何だろう、と推量する必要がなく、受け手側に補完を要求しないという点で、明確である。また、文章の途中のどこでちょん切られたとしても、概要は分かる、という機能性がある。
< http://www.f.waseda.jp/shinoda/shinoda_001.htm
>

その逆は "beat around the bush" という。言いたい結論をなかなか言わず、遠巻きにぐるぐる回って、だんだんに中心に寄っていくという話のもっていき方である。日本では、言い出しづらい話を切り出すときに、相手が気色ばんで話がこじれたりしないように、顔色を見ながら徐々ににじり寄っていくというのは、スムーズなコミュニケーションのための話術であり、一種のマナーであったりもする。

生徒が教授のところにやってきて「あのー、母が病気なんです」。まぁ、わざわざ身の上話を聞いてもらいに来るわけがないから、言いたいことは、「レポートの提出が締め切りに間に合いそうにないので、もう少し待ってください」みたいなことなんだろうな、というのは教授もすぐに察しがつく。しかし、まぁ、にやにやしながら最後まで聞いてやるわけだ。

どうも西洋では、そういう話のもっていき方というのは、あまり歓迎されないらしい。聞く側が、話す側の言いたいことを察してあげなくてはならないというのは無用の負担であり、それは話す側の表現力の稚拙さのせい、ということになっちゃうらしい。言いたいことは何だ、さっさと言え、とイライラしちゃうらしい。

会社で、120%ぐらい日本人な上司をサンプルに使って実験してみた。「今度の月例の報告会ですが、私からの報告を免除していただきたいのですが」。めちゃめちゃ怒られましたね。「そういうことを簡単に言うな!」と。どういうことだ、と聞くので、私は理由1、理由2、理由3を用意していたのだが、理由1の半分も聞いてもらえず、却下。プラス、長い説教。

文化の違いは、おそらく宗教から来ているのだろうと思われることもある。嫉妬という感情の取り扱いが、明らかに違う。どうもキリスト教の影響の強い方面では、嫉妬は悪い感情、言い換えると罪だから、自分の中の嫉妬心をしっかり封印しておくのは個人の責任であるとみなされているようである。いいことがあると、躊躇なく吹聴してまわる。聞くほうも「君と僕とは友達だ、だから君にとっていいことがあったというのは、僕にとっても嬉しいことだ」という反応をする。それが当然だという共通認識ができている。だから、聞かれもしないのに「俺のガールフレンドが……」なんて話を普通にする。日本でそれやったら、そうとう嫌味なノロケ野郎、と嫌われるぞ。

日本だと、嫉妬という感情自体は自然なものであるから、それを起こさせるような、自慢話やノロケ話をするのは、するほうが悪い、という共通認識があるように思う。だから、人と会ったときも、いい話は置いておいて、暑いとか景気が悪いといったネガティブな話で、まず、共感の基盤を築いておく、みたいなとっかかり方をよくする。

これ、西洋人は、かなりいら立つようです。会って "Hi, what's up?" と聞かれて暗い話を返す人はあまりいない。なぜなのか聞いてみたら、自分の生活がうまくいっていないようなことを言えば、相手は、友達として助けてあげなきゃ、と思うわけで、余計な負担を押し付ける結果になる、だから悪い話はなるべくしないのが相手への配慮なんだ、と解説してくれた。この手の文化比較的な話は、ほんとにきりがないほどあるのですが、まあ、これくらいにして、要するに、人生赤字の法則の赤字部分を埋め合わせるには、こういうのを楽しんじゃうしかないと思うわけです。

さて、前置きが長くなったが、ここからは各論。お薦めの学習法などを具体的に二つ三つ挙げておきましょう。……のつもりだったのですが、紙面が尽きました。まぁ、だいたい想像はつくでしょう。ミもフタもない話です。学習時間を切り詰めるのは不可能、とか。ご要望があればそのうち。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

このごろ、スーツよりもセーラー服を着る機会が多い私。スネ毛が伸びてる暇がない。7月4日(土)は、会社の濃ゆ〜いヲタ仲間と池袋パセラでカラオケ。会社ではなかなかおおっぴらにできないヲタっぷりを全開にする会。私はわが内なる少女を解放。K柳さんは「鬼畜眼鏡」という18禁のBL系ゲームで二次創作小説を書いているという、バリバリの腐女子。昨年末にウチの会社から派遣切りに遭い、派遣元からも切られちゃったのだが、運良く別の会社で正社員として採用されている。新しい職場はヲタ要素ゼロだそうで。社員旅行のカラオケでは、オタクの定番である「アクエリオン」を歌ったが、それでもオタクだとはバレず、「パチンコやるなんて、意外だね」と言われたそう。エヴァもパチンコのキャラだと思われてて「あれ、面白いね。アニメ化すればいいのに」だって。オタクというのは、この世で例外的に存在する特殊な少数民族で、自分たちとは接点ゼロの世界と思ってるらしい。うーん。/広島県福山近辺に、知り合いが3人、偶然かたまって住んでいることが最近判明。しかも3人ともめっちゃ濃ゆ〜いオタク。カラオケ行こうって話が持ち上がっている。セーラー服持って、参じます。/なにかとお世話になっている劇団"MONT★SUCHT"(モントザハト)の公演が7月22日(水)にある。10時過ぎから、日蝕下の井の頭公園の全域を使って。劇団「虚飾集団廻天百眼」の公演『黒色サロス』の一部として、錬金術をテーマにしたパフォーマンス『沈黙の書〜太陽と月の結婚』を演じる。予約不要、入場無料。< http://montsucht.web.fc2.com/
>/これまたお世話になっている人形作家の八裕沙(やひろまさご)さんが、8月に個展を開催する。8月21日(金)〜30日(日)。銀座八丁目の木之庄美術(旧館)にて。7月12日(日)に案内はがき用の写真を撮った。EOS 5D MkIIで。写りは上々。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Park090712/
>

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■編集後記(7/17)

・映画「日本以外全部沈没」DVDをレンタルショップで見つけたので借りて来た。その前に、原作をさらっておこうと筒井康隆パニック短編集「日本以外全部沈没」(角川文庫)を読む。小説はわずか22ページ、そのあとに平石滋による25ページもの登場人物紹介が続く異色の構成だ。なぜ、人物紹介が必要かというと文庫の出た2006年には、作中の超有名人のは多くが死んでいるし(小説は1974年発表)、若い読者は知識がないので、小説のおもしろさがわからないからだ。シナトラ、ポンピドー、毛沢東、周恩来、蒋介石、グレース公妃、ニクソン、キッシンジャー、金日成、スハルト、コスイギン、そのほか世界中の元首、VIPが一堂に会している。日本以外に行く場所がないからだ。VIPたちは、夜な夜な新聞記者の溜まり場だったクラブに集まって来て、生き残りをかけて日本人に媚を売る。世界の中心であさましくも舞い上がった日本だったが……。という不条理で悪意満開の快作をどう映画化したか、期待して見たのだが……。原作シーンはわずかでチープ、主演級3若手大根のしょぼくてかったるい話が延々と続く。「とうてい我が国以外では上映不可能、在日外国人激怒必至な、破壊的パロディ映画が誕生した」とアマゾンにあるが、このレベルの低さではどこでも上映不可能だ。とうていパロディとは呼べないうすら寒さで、破壊力ゼロ。笑えたのはデーブ・スペクターのオヤジギャグ一発と筒井康隆の傲慢ぶりだけ。バカ映画以前の低能映画。100円レンタルでも腹立たしい。(柴田)
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アマゾンで見る(レビュー9件)
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DVDをアマゾンで見る(レビュー33件)
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・今日はDTP Booster 004(Osaka/20090717)/図書館の本に書き込む人がいる。人の本を自分の物のように使う神経はわからない。が、レポートのために借りたものだったので、要点に線がひかれてあって楽できた(オイ!)。/ダイエットに王道なし、なのよね。コアリズム試そうかと思っている今日この頃。英語の勉強法についてメールをくださった時はとっても優しかったのに、今日の原稿はちょっといじわる目線?/取引先の方と会うことになった。場所はビジネス街から離れたファッションビル地帯。喫茶店を探すのに一苦労。というのは喫煙できるお店がないからなのだ。あってもクーラーのないテラスか、落ち着かない内装のがちゃがちゃしたところ。以前は喫煙可だった古くからある喫茶店のいくつかも、全面禁煙になっていて驚いた。そのあたりにはしょっちゅう出かけているのだが、私の友人には喫煙者はおらず、何も考えずにお店に入っていた。ビジネス街には禁煙のお店の方が少なく、呑み会なんかだと当然禁煙のお店なんてないから、まったく意識したことがなかった。店を探すために暑い中歩き回って、思いのほか大変だと知ったよ。禁煙を考えている方へ。した方が選択肢が増えて自由になるよ〜。(hammer.mule)
< http://www.dtp-booster.com/vol04/
>  DTP Booster 004