私症説[07]ローマ字表記における夫婦のあり方
── 永吉克之 ──

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日本語の〈らりるれろ〉のローマ字表記は R ではなくて L を使うべきだという投書を新聞で読んだ。たしかに〈淫乱〉は、INRAN よりも INLAN の方が日本語の発音にずっと近い。俺は、あまりにも納得したので、その感動を表現するために、新聞をばりばりと八つ裂きにしてやった。

「わーまだ読んでないのにー!」
妻の咆哮を背に、俺は裸足で玄関先に飛び出した。しかし飛び出したものの、別段行くあてもなかったので、また部屋に戻った。
居間に入ると、食卓の上で妻が、ずたずたになった新聞を、ジグソーパズルのように、つなぎあわせながら読んでいた。

「どうだ、お前もそう思うだろ!」
「何がよ」
妻は新聞に目を落としたまま、投げ遣りに応えた。
「ローマ字の R は L にしなきゃだめだ。でないと、日本語はいつまでたっても、外国人にとって学ぶのが難しい言語のままだ」
「あ、そう」
「つまりだな……」

そのとき、畳の上に落ちていた折り込み広告に載っている、西武デパートのSEIBU というロゴが目に入った。
「U だ! U もそうだ!」



欧米人に SEIBU を発音させると、最後の母音に力を入れて〈セイブウ〉のように発音する。しかし日本人は、欧米人ほど U に力を入れないから、SEIB の方が日本語本来の発音に近い。

「ユーレカ〈われ、見出せり〉!」
俺は叫んで、発見の喜びを神に感謝するために台所に行くと、コンロの火でその広告を燃やした。そして、また裸足で表に飛び出ると、国道まで全力で走って行って、信号待ちをしていたが、さてこの発見をどこで発表したらいいのか判らず、家に戻った。居間に入ると、妻が羊羹を食べていた。

「ただいま」
「おかえり」
俺はこの発見を、まずは妻に誇ろうと思った。
「いいか、例えばだな、〈没落〉という言葉があるけど、これを現行のローマ字表記にすると、BOTSURAKU になるだろ」
と、手近にあった封筒にボールペンで書いた。
「あっ、それ今からポストに出しに行くんだから、書いちゃダメよ!」
「でも、実際、われわれ日本人が共通語で発音する場合、TSU と KU はほとんど無声音化するから、BOTSLAK でいいんだよ」
「だからその封筒に書いちゃだめだって言ってんのに、ばかー!」

俺はすっかり頭を抱え込んでしまった。
「おい、日本語のローマ字表記は問題だらけだぞ。何とかしなければ」
妻は、この深刻な問題にまったく関心を示さず、修正液で私の書いた字を消すのに懸命だった。
「しかし、お前はいつも俺のやることに冷淡だな。今俺は大変な使命を負っているのだ」
妻は、今週になって初めて、まともに俺の話に応じた。

「だったら、ついでに SEIBU の SEI もなんとかしてよ。律儀に〈セイブ〉なんて発音する日本人はいないわよ。〈セーブ〉が正しい発音よ」
なるほど、そういえば俺も「セーブ」と言っている。「御礼、刑事、丁寧」なんかも「オレー、ケージ、テーネー」だ。しかし、これはどうやってローマ字で表記するのだ。「丁寧」を TENE と書くと「テネ」と発音されてしまう。小学校で習った、E の上に ^ みたいな記号をつけて「エー」と発音させる方法は世界的には通じない。長音はどうすればいいのだ。しかし、俺はあることを思い出した。日本野球が世界に誇る王貞治だ。彼のユニフォームの背中にあった OH というローマ字。長音には H を使えばいいのだ。

「なんだ、H をつければいいじゃないか。〈セーブ〉だったら……」
俺がボールペンを手に取ると、妻はとっさに封筒を隠した。紙がなかったので、自分の手の平に書きながら説明した。
「SEHB とかけばいい。どうだ」
「ふふん」
妻は鼻で笑った。
「だったら〈平方根〉は? これは〈ヘイホウコン〉じゃなくて〈ヘーホーコン〉よ。これ、どうやってローマ字にするのよ、ねえ」
よりによって、日常はぜんぜん使わない言葉を持ち出した。何か企みがあるに決まっている。俺は、妻の腹の中を探りながら、手の平に書いた。

「長音だから H を使って HEHHOHKON でいいじゃないか」
「あはは。思った通りだわ。だめよ、そんなの。それだと〈ヘッホーコン〉って読まれちゃうでしょ」
なんという陰険な女だろう。
「じゃあ〈栄耀栄華〉は?」
「〈エーヨーエーガ〉なら、EHYOHEHGA だろう」
「それだと〈エヒョヘーガ〉じゃない。あなた、あたしの思った通りのことしてくれるわね。その馬鹿正直なところ、もう大好きよ」
もはや悪魔の知恵だ。しかし、頭のいい女ではある。結婚してよかった。

ともかく、日本語のローマ字表記を根本的に変えなくてはならない。俺は仕事を辞めて、ローマ字表記を改革する旅に出た。南北に長い日本列島なら、先ずは北から変えて行こうということで、北海道の千歳空港に降り立ったが、どこでそれを訴えたらいいのか判らず、俺は家に帰った。妻が消えていた。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、以下のブログにもほぼ同時掲載しています。
・無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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