武&山根の展覧会レビュー 特別編 犬の散歩のような制作スタンス
── 武 盾一郎 ──

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明けましておめでとうございます。さて、今回は山根氏が諸事情により大阪に帰っておりますので、チャットレビューではなく武盾一郎のピンでお送り致します。年明け早々からイレギュラー原稿となった2010年、今年もよろしくお願い申し上げます!

2010年、今年の書き初めは「原点」と致しました。
< http://homepage.mac.com/take_junichiro/iblog/C622270572/E20100105211052/
>

原点とは何か? 「宇宙」、「海」、「大地」も原点ですね。最も幼い頃の記憶も原点かも知れません。子供の頃から胸の中に抱えてきた「イメージ」も原点ですよね。小さい頃、絵を描くのは好きでした。まあ誰でも小さい頃は好きなんでしょう、楽しいですよね。

ところが僕は自分が感じてる事、思ってる事に自信が持てず、それ以前に「自分が居るのかどうか」が分らない感覚を持っていました。友人が自分の意見を述べてる姿を見て「なんで○○は自分が居ることが当然だと思ってるんだろう?」という風に不思議に思っていたのです。それが後の表現したい欲求に繋がっていったような気もします。

思春期になると僕は音楽に目覚めます。これも案外誰でもそうですよね。当時にしては大きなスピーカが家にあり、目を閉じてスピーカに耳を当てると身体が揺れて全身を包んでくれるような感じがしました。絵や音楽が好きで表現したい欲求を抱えていた、ごく普通の痛い男の子だったのでしょう。

本格的に絵を描き始めるのは25歳からでした。2年間は浦和にある彩光舎という美術予備校の油画科で絵を描いていました。そして1995年27歳、新宿西口地下道の段ボールハウス群に絵を描くところから、アーティスト活動を開始することになるのです。それから15年後、2010年の今年、「アーティスト活動歴15年目にして初個展」があります。といってもまだ半年先なんですが、きっとすぐに来てしまうのでしょう。

◇武盾一郎『Real Fantasia』展
会期:2010年7月9日(金)〜7月18(日)※12日(月)は休み
場所:ギャラリーTEN(東京都台東区谷中2-4-2 TEL/FAX.03-3821-1490)
< http://blogs.dion.ne.jp/blogten/
>
主に2009年に描いたちょっと大きめサイズのドローイングを展示します。
< http://www.flickr.com/photos/take-junichiro/sets/72157622548658193/show/
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●僕の「Real Fantasia」

僕は埼玉県上尾市に住んでまして、自宅アトリエで制作しています。なるべく毎日のんびりゆったり散歩するようにしています。そこで見かける風景たちがあります。草花や木々、住宅、電線、小さな神社、ふと見上げた雲、夕焼け、都内より広い夜空。

それから、電車に乗って出かける時なんかの窓の向こうを流れる建物の風景、緑、空。それら日常にあるちょっとした印象たちの、曖昧な記憶がちりばめられています。そんな小さな粒々たち、命のような霊のようなものが、儚げに、またはしたたかに、無数に息づいて、宇宙を形作っているような、そんな風景画です。

僕の脳内で行なわれている、宇宙を掌握するための情報処理図なのかもしれません。星と草花がなんとなく同じ場所にあるような、そんな宇宙観を僕は持っています。こんな感じも近いかも知れません。
「天(あめ)の海に 雲の波立ち月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」
(柿本人麻呂)

僕はいつも「向こう側」に行きたくてしょうがありませんでした。どうしてそう思っていたのかよく分かりませんが、それが宇宙に惹かれることと少し関係があるような気がしています。

僕は星空を眺めるのが好きでした、なんとも言えず不思議でそして哀しくて切ない気持ちになるんですが、なんだかホッとするしワクワクする何かもある。「あの星に行ってみたいなあ」と思ったりしたものでした。星空を見て宇宙を想う時の、あのなんとも言えない気持ち。が好きだったのです。

「絵とはファンタジーそものもの」であると僕は考えています。ファンタジーとは現実を観ないようにするための道具ではなく、ヒリヒリと現実をリアルに感じるからこそ生じる世界の別角度からの真実であると思うのです。そんな思いもあり、展覧会のタイトルを「Real Fantasia」としました。

●僕の絵の描き方

ではどのように絵を描いてるのか、僕の制作法の秘密を紹介しようと思います。

1──描き始め。昇天しながら、引く、描く、引っ掻く

描き始めはいつも緊張します。描き始めに意識することは集中力を高めることです。例えるなら、ちょっとアレなんですが、何かに憑依されるように、または宇宙と交信するように、「イッテル」状態を作ります。

これは自然の神々とコンタクトする、太古の昔のシャーマンの儀式のようなものとイメージしてます。かなーり恥ずかしい動画ですが、例えばこんな感じです。記憶にはもうない幼い頃のラクガキを呼び醒ますように、またはラスコー洞窟壁画の遥か10,000年前とシンクロするように、と。
< http://take-junichiro.tumblr.com/post/161252446/drawing-648mmx1016mm-2009-07-31
>

最も原初な絵はきっと引っ掻き線のようだと思うのですが、そのようにドローイングを始めます。分りにくいですがこんな感じです。
< http://twitpic.com/ybnes
>

大体30〜40分、ライブペインティングのようなノリで描きますのでクタクタになります。その日はこれで制作終了したりします。

2──線が自己増殖していくように描く

次からはひたすらに地味な作業です。呪術めいた儀式で描かれた線が、生命を持って自律的に増殖するイメジージでコツコツと描いて行きます。人の手で描いてるけど、なんらかの自然現象のようになるよう、構図の天地を定めず描き進めて行きます。また、フラクタルや、宇宙の写真が脳細胞やミクロの写真と似ているような、マクロコスモス=ミクロコスモスの法則性のようなものも感じさせるように意識します。

線をよく見ると、つたなかったり、だらしなさそうだったり、します。落ちこぼれのような線、ダメっぽい線。エリートのようなピシッと決まってる線を、僕は描けないのです。それらの決して優秀ではない線たちによって「美」に辿り着きたいと思って描いています。

3──制作中は緩やかな拘束の日々

制作は予定がない限り毎日続きます。日々のちょっとした気分の違いが、織り重なって絵になっていくことをイメージします。調子の良い日もそうでない日もありますが、そんな気分が混ざり合うようにゆっくり淡々と描いて行きます。それでも10年前までは、自分を追いつめるように描いていました。「ぎりぎりの感覚でひたすら描く」のが自分のスタイルだと思っていました。しかし、最近は変わりました。

今は「犬の散歩」のような制作が良いと思ってます。僕は犬を飼ったことがないのですが。飼い主は散歩の時間に毎日家に帰らなければならない。毎日が犬の散歩によって緩やかに拘束されています。しかし、犬の散歩は犬のためでもありながら、飼い主のためでもあるような気がするんです。飼い主のライフスタイルの中に組み込まれていて、もし犬の散歩をしなくても良い事態(飼い犬を失うとか)が来たら、きっと愕然とすると思うのです。

犬の散歩は決意的にするものでもなく、義務感だけでするものでもなく、笑い転げるほど楽しいわけではないけど、日常の大切な営みとして飼い主の心の根幹にも関わっている。そんな犬の散歩のような制作スタンスで描いています。

4──終わりはなんとなく

648mm×1016mmサイズの紙で大体1ヶ月くらいかかります。描いても描いても進んでいる感じがしない制作過程なのですが、それでもコツコツ描いてると、突然霧が晴れたように完成が近づいてるのが分る時が来るのです。そこからがまた長いのですが。

絵を何度見ても「見てしまう目」から「描く目」に移行しなかったら完成です。完成はなんとなく訪れます。別に山の頂上に到着したような達成感があるわけではありません。ひとつ作品が描き終わると、とてもつまらないような気持ちになります。ちょっとふさぎ込むような、夏休みが終わるような「あーあ」というな感じ。そしてまた1に戻り繰り返します。

●なぜドローイング、線画なのか

新宿段ボールハウスペインティングは、ペンキを使い、色面を使った絵が割と多かったと思います。
< http://cardboard-house-painting.jp/mt/archives/cat2/index.php
>

色で面を作る作業から、線を引いて行く、に移行していくんですが、ではなぜそうなったのか? 実のところ良く分からないんですが、今の段階で言葉に出来ることは以下のふたつです。

1・芸術が西洋美術史観に基づいている残念感から解放させたいと考えると「線」になった
2・金がなさすぎて、画材が捨ててあるボールペンだったのがきっかけで「線」になった

なんとなく2のような気がするんですが、それだけではないと思いたいんです。思想と現実が一致したのが線だったんだ、と。線と言っても、綺麗な直線や曲線はどことなく避けてるような気がします。
「直線に神は宿らない」(フンデルト・ワッサー)

そして線の魅力は以下の3点にあると今は考えています。

1・輪郭線は現実には存在しない
2・文字は線である
3・最も原初的な絵は棒で地面を引っ掻いたような線である可能性が高い

                 ◆

現代美術がこれだけいろいろある中で、「絵画」という超アナクロな表現メディアを使用してること自体を考える必要があります。と思ったけど、考える必要もないような気がしてるんです。

エコアート、地域活性アート、政治社会的アート、コミュニティーアートが流行っています、これらは「期待に応えるアート」であって、アートはそれら結果の欲しいクライアントの喜ぶテイノヨイ道具であることを意味します。多分それで良いのでしょう。

がしかし、今僕が絵を描いているってのはそれとは無関係の別の所にあります。意味も有用性もないリアリティーってあると思うのです。なんとなく、ただそれだけだったりするのかも知れません。生きる理由も死ぬ理由もない。そうなった時、あれこれ悩み考えてるつもりの自我とは全然違う次元で自分の命は生きようとしてるんだなあ、と。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/運だと思います】
take.junichiro@gmail.com
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246表現者会議
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