Otaku ワールドへようこそ![111]芸術は爆発かもしれないが、素人芸術論は自爆かもしれない
── GrowHair ──

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芸術論というほどの仰々しい形でないにせよ、芸術についてこのごろ思い悩むところを語ってみたい。語ってみようかなぁ。語れるといいなぁ。甚だ自信がない。

恥の多い生涯を送ってきた私ではあるが、そこからまったく教訓を得てこなかったわけではない。いい年こいたおっさんが、セーラー服着てうっふんあっふん言ってる姿を晒したりなんかして恥ずかしくないのかと問われれば、まあ多少恥ずかしくないこともないのだが、これはまだいい。違和感を逆手に取ったギャグだと言ってしまえば収まる。傍からどう映ろうと、本人は気分よくうっとりと自己陶酔に浸れて、とても楽しくてよろしい。精神の健康法としても、お薦めしたい。

どうにも恥ずかしくていけないのは、よく知らないことについて、得々と語ってしまうこと。わが身の丈をわきまえない無謀な背伸び。以前、あるプロの将棋指しが、こんなエッセイを書いていた。イベントなどで、アマチュア指導対局の場を設けると、よく見かけるタイプがいるという。中学生くらい。野球帽をかぶって来る。手合い(ハンディキャップ。強いほうが駒を落とす)は、と聞くと平手(ハンディなし)を希望してくる。初手で端歩を突いてくる。指し手から見えてくる棋力はアマチュア4〜5級。当然、コテンパンにやられる。すると、二度と姿を見せない。看板でも持って帰るつもりだったのだろうか。

聞いてるだけで身もだえしてしまう。こういうのは若いときだけにしておきたい。ところが、どうも私のようなド素人が芸術論などぶつというのは、この野球帽少年の同類という予感がしてならない。その道に生きる方々にしてみれば「アンタ、まだそんなレベルのところをうろくさして悩んでいるのかぃ? 先は長いよ」と言いたくなるかもしれない。けど、まあ、思わないことについては書けないから、思うところを書く以外にないではないか、と開き直って書いちゃうわけである。読み返すことはきっと一生しないと思う。



●叩かれてひと皮むける痛さよし

前回ちょこっと書いたことだが、昨年末に催した人形と写真のグループ展「臘月祭」は、総合的にみて、まあ、成功だったといえる。ならば「ああ、これでよかったのだ。俺、よくがんばった」と自己肯定の気持ちになれたかというと、まるで逆で、「多くの方々に足を運んでいただけたのは、うれしい、ありがたいを通り越して畏れ多い。自分が展示したものがそんな光栄に値するだろうか。ああ、だめだだめだ、こんなことじゃいけない」とひとり煩悶してしまった。

しかも、会期中のたまたま同じ日に美登利さんと武さんから、強烈な駄目出しを食らう。意地悪くけちょんけちょんにけなされて、泣いて帰ってきたというのではない。それならまだしも反発が利く。そうではなくて、前々から自分でも薄々とは感じてたけど、あえて見ないように蓋をしてた弱点を真正面から指摘されてしまったのである。これは深く刺さった。あいたたたたたた...。あー、やっぱり見破られてる、ごまかせないわぁ。

このぐうの音も出ないほどに打ちのめされる感覚、痛いは痛いんだけど、ある種の快感を伴うもののようで、打ちのめされても打ちのめされても何度でも立ち上がって、また壁に向かって突進できるような気がする。

自分の撮る写真の弱点は、単純に言っちゃえば、2点ある。ひとつは、馬鹿のひとつ覚えみたいにマンネリ化した手法に頼りすぎてること。もうひとつは、スタンダードが壊せなくなっていること。前者を美登利さんに、後者を武さんに言われちゃったのである。

多重露光が面白そうだとピンときたのはいつのことだったか。2000年にはその手法を使ったコスプレ写真をウェブサイトに載せているので、多分、その年の早春だったようだ。うわっ、十年一日のごとく、って言葉どおりじゃん。中野哲学堂でボケの花を撮っていて、ふと、これ、二重露光したら面白いんじゃなかろうか、と思いついたのが最初である。その手法自体は私が発明したわけでもなんでもなく、古典的なものであるが。

だいたい、カメラにその機構が備わっているわけだし。底部に小さなポッチがついていて、それを押し込んでおいてからフィルム巻上げレバーをむいぃと回転させると、軽い感触で空回りして、中のフィルムは送られないようになっている。絞りを開放にして、被写界深度を浅くする。花にピントを合わせる。背景は完全にボケて形をなさず、もやもやとした模様になっている。

露出補正は±0Ex か、シャッター速度を速めて1/2Exぐらいマイナスする。次の露光では、背景にピントを合わせる。やはり開放絞りで、シャッター速度で3/2Exぐらいマイナス補正する。こうすることによって、背景のもやもやのなかに、淡く形を描き加えることができるはずだ。それによって、主題の花が副題の枝から浮き上がるように強調されるはずだ、という計算。

現像が仕上がるまでの丸一日、ずっとわくわくしっぱなしだった。で、出てきた絵が、ちゃんと計算通り。絞り込んでパンフォーカスにするのとは全然違った効果。もやっふわっとした非現実的な感じ。これ、いけるじゃん。後からではあるが、まったく同じ手法が、写真雑誌にプロの手によって書かれているのを読んだ。結局、手法そのものに独自性があるわけではなく、その手法を使って何を撮れば面白い仕上がりになるか、そこで腕を発揮するしかないわけだ。

よし、練習しよう。すべての駒を二重露光で撮るぞという決意で、向ヶ丘遊園に行き、丸一日、撮りまくってきた。おお、いけるいける。で、調子に乗ってそればっかやって、今に至る、というわけである。その間、デジタルに乗り換えたことで、合成のしかたが変わった。カメラには多重露光の機能が備わっていないので、2枚別々の駒として撮っておいて、後からPhotoshopで合成するのである。

これは手間がかかるので、以前のように何十枚も二重撮りばっかというわけにはいかなくなったが、埋め合わせてお釣のくるメリットがある。レンズによってはピント位置によって画角が変わってしまうのを、Photoshop上で一方の画像を拡大することで合わせ込むことができる、手持ち撮影したときの位置のズレをPhotoshop上でなおすことができる、2枚の合成比率を後から自由自在にいじれるので、撮る時点ではどちらも標準の露出でよい。合成の精度が格段に向上した上に、仕上がりの絵を心ゆくまで調整することができるようになったのである。

しかし、それに頼りすぎた。この手法を使うことが、私の写真の特徴であり個性である、という勘違いに薄々感づいていながら、しっかり向き合うことを避けてきた。そこへ美登利さんから「もう二重撮りやめたら?」と言われちゃったのである。

そうそう、手法そのものに個性が備わるわけでもなんでもなく、手法は私の所有物ではないのだ。この事実としっかり向き合うためにも、ここで気前よく公開しちゃいます。これ、少し練習してコツをつかめば、きっと誰でも比較的簡単に面白い効果の写真を撮ることができます。ぜひ試してみてください。

ここでは、手前にピントが合っている画像を"ImageA.jpg"、奥に合っている画像を"ImageB.jpg"としておきます。

( 1)Photoshop を立ち上げる

( 2)メニューから[ファイル]-[開く]を選び、"ImageA.jpg"と"ImageB.jpg"を両方開く。

( 3)ImageA を選択して、背景レイヤーをドラッグして、ImageBの中へドロップ→「背景」と「レイヤー1」の2つのレイヤーができる

( 4)ImageAを閉じる

( 5)「レイヤー1」の表示/非表示を切り替え、同じ対象物が小さく写っているのはどっちの画像か、確認する。また、小さいほうを何倍に拡大すれば大きいほうに合うか、目星をつけておく

( 6)もし、「背景」レイヤーのほうが小さい場合、背景レイヤーで右ボタンでメニューを出し、[背景からレイヤーへ]を選択して、「レイヤー0」に変更する

( 7)小さいほうのレイヤーを選択しておき、メニューから[編集]-[自由変形]を選んで、拡大倍率を指定して拡大する。拡大倍率のWとHはロックして連動させる。必要ならば回転も指定する。[○]をつついて決定する

( 8)2つの画像の大きさが合っていなければ、ヒストリーの[自由変形]で右ボタンを押して、[削除]を選んで、ステップ(7)をやりなおし

( 9)「レイヤー1」をアクティブにした状態で、ツールから[移動ツール]を選択して、位置合わせする。画像を500%ぐらいに拡大して、微調整する。「レイヤー1」の表示/非表示を切り替えて、「ナビゲータ」の画像で、位置が合っているかを確認する

(10)2枚の画像が著しくずれている場合、絵柄切れが起きて、市松模様が表示されていることがある。この場合は、メニューから[イメージ]-[カンバスサイズ]を選択して、カットする。

(11)「レイヤー1」をアクティブにした状態で、不透明度を調整する。あるいは、2重露光に近い効果を出すためには、メニューから[イメージ]-[画像操作]を選択して、描画モードとして[スクリーン]を選択して、倍率を適当に指定する。

(12)メニューから[ファイル]-[保存]を選択して、画像を保存する。のちの変更に備えて作業の状態を保存しておく場合は "*.psd" で。画像だけでよければ "*.jpg" で。画質は90%ぐらいでOK。

これを公開したことをもって、第1の弱点から決別できれば。とか何とか言いながら、この手法、まだまだ続けます。頼りすぎるのをやめるってだけで、きっぱり捨てちゃうわけではなく。だって、現実こっちのほうが売れ行きがいいんだもん。

さて、第2の弱点、すなわち、スタンダードが外せない、について。これは、1年ぐらい前から意識はしていた。どうも自分の撮るものは、構図が型にはまりすぎて、不自由だ。もっと柔軟な発想で、変な構図のものを撮れるようになるべきではないか。

どんな芸事も、守・破・離のステップを踏んで上達すると言われる。まずは先人の築き上げた型を踏襲し、基本を身につける。それから、あえて型を壊しにかかる。しかし、壊そう壊そうと意識して壊していたのでは、結局型の呪縛から精神が開放されていない。最終的には型から離れていくことで、個性が完成する、というもの。将棋では「定跡は覚えて忘れろ」「名人に定跡なし」といった格言がある。

その感じ、感覚的には非常によく分かる。小学生のころ、一時期、書道を習っていたことがある。先生はよく「個性とクセは違う。クセは早くから矯正すべきものであって、これを個性と勘違いしてはならない」と言った。基本ができてない人の書くバランスの悪い字は、醜いだけのクセ字。まず、最初のステップは、お手本通りの字が書けるようになるまで、ひたすら単調で退屈な模倣練習を積むしかない。ピカソだって、若いころは教科書通りの上手な絵を描いていた。

聞くところによると、最近の教育は個性を重んじるとかいう題目の下で、守のステップを軽くすっ飛ばしちゃう傾向にあるらしい。クセ字を矯正することなく、むしろ奨励してしまう愚行。それはやめてくれと言いたい。ジャイアンの歌は個性ではない。まずは基本の型が大事、というのは間違いないことと信じている。ただ、多少の疑問がないわけではない。

第一に、芸術家の書く字は、書道的な観点からすると、矯正しなくてはならないひどいクセ字が多い。だけど、なんとなく、そのクセ字にはどこか味わいがあって、直しちゃいけないもののようにも思える。第二に、この段階である程度の完成度をみたところで安心しきって、次の破の段階に進めなくなっちゃった人をどうすればいいか、ということ。

それが、私。壊せなくなっている。あえて壊そうとすればできなくもないが、どう見たってただの下手糞な写真にしかならず、それを作品だと称して展示する気にはとうていなれない。ひとたび破の段階に足を踏み入れたら、きっと紆余曲折の苦難の道がそこにあって、次の完成の段階に至るまでがすご〜く長いんだろうな。そう考えると、この場所に留まっていたほうが安全なのではないかと足がすくむ。

それで武さんからは「こんな優等生の写真、要らない。それを俺に言わすために見せに来たんだろ」と。実に痛いところを的確に突かれた。「優等生」という言葉は芸術的観点からすると、けなし言葉になるよなぁ、やっぱり。「絵葉書のような写真」というのも似たようなニュアンスだ。「教科書通りの歌い方」とか。つまりは、上手だけれども味わいに欠く、ということ。

まあ、優等生なら優等生として、その場所に居直るという手はないこともない。書家に言わせると、楷書で書くときが一番緊張するらしい。基本に忠実でなくてはならず、小手先のごまかしが利かない。歌だって、童謡をちゃんと歌うのがきっと一番難しい。小節を回したりして変に飾りをつけるのはイヤラシイだけで、正攻法でいかないとならない。質の高い童話を書くのは、きっとものすごく難しい。どうせ読むのは子供なんだから「子供だまし」って言葉もあるくらいで、テキトーに書いたってどうにでもごまかせるさ、という姿勢がちょっとでもあると、必ず露呈しそうだ。

私は、小手先のゴマカシを徹底的に排除し、堂々と正攻法で行く、と宣言すれば、それは芸術に向きあうひとつの姿勢としてアリ、というか立派だと思う。40年くらい前、写真を撮る人は、芸術家というよりは神経質な技師だったと思う。なにしろ露出が適正で、ピントがちゃんと合ってて、ブレてもいない、それだけのことでも大変だったのだから。カタクリの花とか、ゴクラクチョウカとか、カワセミとか、写真家好みの被写体というのがあって、それをどんな観点からアラを見つけようとしても、非の打ちどころないように完璧に撮るのが写真家の腕の見せどころだった。プラトンのイデアに限りなく近いもの。クラシック音楽のようなもの。

けど、今、そっちへ行こうとすると、すぐに行き詰りそう。誰かが一度完成度の非常に高いのを撮っちゃったら、それを超えるのは至難の業に違いないし、過去にわんさかいた腕の立つ写真家たちと真正面から勝負、というのは、それはそれでしんどい。ピンボケや手ブレを悪いものと決めつけずに、自由にやろうじゃん、というのがアートとしての写真の今の傾向だったりもするようだし。

私自身も、スタンダードを壊しにかかって必死にあがいている人のその姿勢を尊敬の念をもって見ているし、柔軟な発想ができる人をうらやましいと思う。やっぱ、行くならそっちだろうなぁ。柔軟な発想力って、神様に手を合わせてくれくれくれくれ言ってても、授けてはくれないだろうなぁ。がむしゃらに撮って撮って撮りまくっているうちに「おう、そこの兄ちゃん、その真摯な姿勢、気に入ったぜ、授けてやろう」とか言ってポンと投げてよこしてもらえるようなものなのかも。撮ってる間だけ考えてりゃいいってもんじゃなく、ものをどういう姿勢で見るかという、普段からの生きる姿勢の根幹にかかわることだったりもするんだろうなぁ。

そんな気負いを秘めて、1月10日(日)と1月30日(土)に、花で練習撮り。ローズマリーとか、たんぽぽとか、福寿草とか、水仙とか。撮りながら考えたあれやこれやを今回は語ってみようと思ってたのですが、そこまでたどり着かないうちに、紙面と気力が尽きました。続きはそのうち。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

人形作家10人の作品の写真を撮って展示したグループ展「臘月祭」が終わっても、やっぱり撮影待ちの人形たちに並ばれてる感じ。グループ展開催中に、Gallery 156を通じて人形写真撮影の依頼が来た。見にいらした人形作家さんからで、ポートフォリオ用の写真を撮ってください、とのこと。その時点ではまだ面識がなかった。吉村眸さん。在廊していた八裕さんってば、私の行状をいきなりバラしてくれちゃった。セーラー服のこととか。や〜ひ〜ろ〜、やりやがったな!

もっとも、メールのやりとりの段階で「一度お会いしてお茶でもしばきませんか」とお誘いした際には、待合わせで見つけられるようにと仕方なくセーラー服の写真を送っちゃったわけだけども。これで話を白紙撤回されなかったのだから、やはり芸術家は違う。まだ20代半ばだというのに、2年前にすでに個展を開催している。なんか、レベル高っ。彼女のお住まいが埼玉、私の職場も埼玉ということで、1月27日(水)、仕事帰りの夜9時からStarbucksで打合せ。仕事の上がり際、K原さんと話し込んじゃって、時間をうっかり。

「きゃ〜、デートに遅れちゃう〜」。この歳になって、らしからぬことであたふたする私。間に合ったけど。若くてきれいで明るく聡明で育ちのよいお嬢さんという印象。ひぇ〜、なんとお詫びしたらよいか...。こんなやつですみません。国立大学の教育学部の美術科を卒業してからも、研究生として大学に残っているのだそうで。高校で教鞭をとったり、家庭教師をしたりもしているのだそうで。私の中では「優等生」のイメージ。あ、もちろんけなし文句ではなく。若くてきれいで明るく聡明で育ちのよいお嬢さん、嫌いじゃないです。そういうわけで、第1回目の撮影は2月6日(土)に決定。がんばります。
< http://ennui.in/sinclairs/
>

◇いつもお世話になっている劇団MONT★SUCHTが主催するイベント
『Rosengarten I』が、2月19日(金)・20日(土)15:00〜22:00、渋谷ギャラリーLE DECO 1Fで開催されます。16世紀の錬金術の書『哲学者の薔薇園』をモチーフにしたサロンイベントです。錬金術の死と再生、黒化→白化→赤化の過程を辿る如く、モノクロームの荒廃した風景に真紅の薔薇が咲き乱れる中、神秘的なパフォーマンスやライブが繰り広げられます。

19時まではお茶を飲みながら映像やタロットで寛いでいただける時間、以降はパフォーマンスタイムとなります。実は私も一枚かんでます。イベントなどで撮ってきたMONT★SUCHTのパフォーマンス写真を展示します。チラシの裏面にはプロフィールを載せてもらっています。写真入りで。私が被写体の写真ってこんなのしかないんですけど、と言って渡したセーラー服姿のが、採用されちゃってます。自爆攻撃っ。
< http://montsucht.web.fc2.com/rosengarten/
>

◇イベントや教室展で何回かお目にかかっている、人形作家の清水真理さんの人形展が2月11日(木・祝)〜3月8日(月)、浅草橋のパラボリカ・ビスで開催されます。月〜金/13:00〜20:00 土日祝/12:00〜19:00。入場料500円。
< http://garirewo.s318.xrea.com/strnew/
>