[2844] 電子書籍・第二幕

投稿:  著者:


《意図的なネット遮断、私もする》

■私症説[16]
 ゴーストライター私
 永吉克之

■電網悠語:日々の想い[151]
 電子書籍・第二幕
 三井英樹

■ショート・ストーリーのKUNI[78]
 おしまいだ
 ヤマシタクニコ


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■私症説[16]
ゴーストライター私

永吉克之
< https://bn.dgcr.com/archives/20100513140300.html
>
───────────────────────────────────
あっしゃ、9官鳥でござんす。前回の続きのようになりやすが、そいつは読んでいただかずとも差し支えござんせん。ただ、亡くなった、あっしの師匠である永吉克之に代ってコラムを寄稿していたのが、師匠に飼われていた9官鳥のあっしだったってことを頭においといていただきてえ、それだけでござんす。

師匠が、自分の余命いくばくもねえことを覚ってから、永吉克之という人間が存在した証を残すために、やみくもに「二代目・永吉克之」のばらまきをお始めになりやした。しかし、心斎橋に庵を結んで隠遁生活をなさっていた師匠に代って、炊事洗濯、買い物から家畜の世話までをこなし、町内会の当番を務め、メルマガのゴーストライターを続けてきたあっしにゃ、名跡を継げとは仰っていただけねえんでござんす。

しかも、二代目を継がせる相手ってえのが、たまたま集金にやって来た新聞屋とか、飲み屋で知り合った客とか、高校生の時に文通をしていたオーストラリア人だとか、昔、不倫関係にあった女だとか、思いついた人間なら、誰であろうがもう手当たり次第。「二代目永吉克之」は、あっしの知ってるだけでも、ま、50人は下らねえでしょう。

そこであっしゃ、恐れながらとお尋ね申しやした。師匠、どういうご了簡で、手前にはご名跡をお譲りいただけねえんでしょうか、と。するってえと師匠は、こっちを見もせずにひと言、お前が9官鳥だからだ、とこう仰るんでさ。

そんなべらぼうな理屈を聞いて、はいわかりましたと頭を下げちゃ、お天道様に申し訳ねえ。どうもお世話になりやした、今日を限りにお暇させてもれえやすと、あっしゃ庵を飛び出して、生まれ育った大阪も飛び出して、旅から旅へと居処定めぬ渡り9官鳥になった、とまあそういう訳でござんす。

9官鳥がひとりで生きてゆく道は、無頼しかござんせん。鉄火場にもずいぶん出入りいたしやした。いかさまがバレて切り刻まれ、真冬の石狩川に放り込まれて凍死したこともござんした。まあ、見てやっとくんなせえ。

----9官鳥、着物の前をはだけて片肌になる。あちこちに刀傷が覗ける。

総身をかけて三十四か所の刀傷(※)。幸いなことに、河口まで流れていったあっしの骸(むくろ)を、竹竿で岸まで引き寄せて、手厚い介護をしてくれた、お小夜ってえ漁師の娘のおかげで、生き返ることができやした。そして、お小夜の親父さんが獲ってくる海松食(みるくい)を毎日喰って力が戻ると、泣いて引き止めようとするお小夜を振り切って、また、あてのねえ旅に出たのでござんす。
(※)歌舞伎「源氏店」で、切られ与三郎が同様の台詞を言う場面がある。

                 ■

お節介な野郎とお笑いくだせえ。流浪している間も、メルマガにゃずっと原稿を送っておりやした。ツイッターやmixiまで代りに書いてたんでござんすよ。もう師匠が何も書けなくなってるってこたあ承知しておりやしたから、育ててもらった御恩返しと、その恩人を棄てた罪滅ぼしのつもりで、寄稿していたってわけでござんす。

野球を観ながらツイッターやるのも悪くねえと、横浜スタジアムに、タイガース対ベイスターズの試合を観にいった時のことなんですが、それがデイゲームで、晩春の日差しを浴びた外野席のあちこちにタイガースファンの衣裳や旗や幟の黄色が混ざり込んで、内野席から見てると、それがなんだかピラフみてえで、やけに美味そうだったんでござんす。

そいつを見て、あっしゃあ無性に喰いたくなっちまってね。たまりきれずに、外野席に手を伸ばして、ひと掴みを口に入れたんですが、さあ、それがいけなかった。まあ、その不味いこと不味いこと。舌の上にのっけたとたんに腐った野菜と正露丸とが混じったような臭いが鼻から抜けていって、あっしゃ、腹ん中にあったもんまでいっしょに吐き出しちまいやした。

ええい、こん畜生! この球場じゃ客に豚の餌喰わせんのかい! いや豚だって吐き出しちまわあな。こんなもんが「ピラフ」ってえありがてえ名跡をいたでえてるなんざ、どうにもこうにも合点がいかねえ。おう、おいらが、これこそ紛れもねえ本物のピラフだってえのを作って見せてやっから、目ん玉ひん剥いてようっく見てやがれ、唐変木!

----9官鳥、着物の裾を尻っぱしょりにし、韋駄天走りで球場を去る。

本物のピラフを作るため、二度と帰るめえと誓った大阪に、師匠が住んでおいでの心斎橋の庵に、あっしゃあ戻ってめえりやした。そして、庵の戸の前にひざまずいて、師匠、どうぞあっしを煮るなり焼くなり、お好きなようになすっとくんなせえ。ですから後生だ、台所を使わしてやっちゃあもらえやせんか、と申しあげやした。

で、しばらくそこにじっとしておりやしたが返事がござんせん。引き戸には、つっかい棒がされてなくて、すっと開いたもんで、ごめんなすってと入ると、奥の部屋に、すでにお骨となった師匠が横たわっておいでだったんでござんす。

                 ■

この9官鳥の話は、多くの部分が創作だと私は見ている。まず名跡をばらまいたという話は完全な創作であろう。また、前回のコラムの執筆者ということになっていた海鼠紅一也なる人物も、実は架空の存在で、9官鳥がその名を使っていたのだ。つまり、そもそも誰も二代目を襲名などしていなかったのである。さらに言うと、9官鳥が「師匠」と呼ぶ永吉克之なる人物も創作だったのではないかと思う。

大胆に踏み込んだ推理をしてみよう。それは、9官鳥すらも創作だということだ。そして、永吉克之や9官鳥や心斎橋やピラフを創り出したのは、私なのではないかということである。したがって、いま読者諸氏が読んでおられるこのテキストも、永吉克之という名前を借りて、私が書いているのかもしれないのだ。いまキーボードを打っているのは、私なのか、永吉氏なのか、それともまた別の誰かなのか、それは不可知の領域に属する。

あるいは、9官鳥の話に創作はなく、逆に私という存在が創作だという考え方もできる。そもそも私は実在せず、私がいない世界で起きたことを、9官鳥が記述したのかもしれないのである。いずれにせよ、今回の一件は「自己」とは何かという、古来より、多くの哲人を悩ませてきた問題に新しい地平を見出す契機となるかもしれない。

【私/わたし】

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■電網悠語:日々の想い[151]
電子書籍 第二幕

三井英樹
< https://bn.dgcr.com/archives/20100513140200.html
>
───────────────────────────────────
綺麗な足を組んだ女性が向かいの座席にいる。熱心に活字を追っている。こちらに向けた表紙から、それが「悩む力」だと分かる。真剣に読む眼差しが鋭い。本人には申し訳ないが、その多少の悩ましい姿とそのタイトルが笑いを誘う。

電車の中ではマンガも相変わらず多い。しかも、中高年が増えた気がする。大事にブックカバーをして大切に読んでいそうな方にもよく会う。先日は横山三国志と蒼天航路を読んでいる人に出会い、一人で感動していた。流行マンガだけではない、古典的なものも読まれている。小さな本の中に広がる世界に笑いながらウルウルしながら没頭している姿は、平和でいい。

最近、電車の中で本を読んでいる人が心なし増えた気がする。出版業界の縮小が叫ばれる中、妙な気分だ。でも、BOOKOFF(ブックオフ)の混雑ぶりやレンタルコミックの拡大を考えると、出版業界は縮小しているようでも、活字(含マンガ)の流通量は実は増えているのではないかと思えてくる。しかも、真剣な眼差しは、さして昔と変わりなく。

逆に新聞を広げている人を見る機会が減った。更に5年前だと新聞を綺麗に折りたたんで邪魔にならないように読める人が多かったのに、それが激減した。無駄に広げて邪魔な御仁は、明らかに新聞で育っていない事を態度で語っている。生粋の新聞人はあんな読み方はしない。新聞を正しく読めることは、大人であることも意味し、邪魔な読み方は恥ずかしい行為と思われたはずだから。

自分の生活の中でも、新聞の位置付けは変わった。40年来慣れ親しんだA紙を捨てたのは、ほぼ一年前だ。ただ、理由は不要だからではなかった。くだらないコラムに対する編集方針に呆れ、抗議を形で表した。大人気ないことなのかも知れないが、明らかに間違ったものを売られることに、NOと言う事こそ必要だと思った。数週間は、新聞を広げている時間が恋しかった。実のところ、情報収集で困ったという感覚はほぼない。欲しい情報は、新聞に当てていた時間分で、ネットから充分過ぎるほど得られた。恋しかったのは、ファンの音も全くしない世界で、ただ大きな紙をめくる音とそれがすれる音のみという空間だった気がする。

この本と新聞の様子だけで未来を考えるのは余りに乱暴だけれど、情報の形や大きさが意味する事柄の大きさを感じている。新聞は、あの大きさ故に、今までは読み易かった。でも今は、読みにくい。ノスタルジーは感じるけれど、決して最適な姿勢で読める訳ではない。逆に本、特に文庫本やコミックサイズは、何とか持ち歩けるそこそこ適切なサイズなのだろう。だから捨てられない。もちろん、情報の種類も体裁も何もかも違う。でも新聞がもし文庫本サイズで、俯瞰性を維持できたとしたら、今捨てる気にはなっていない気がする。コンテンツ自体に魅力がなくなった訳ではないのは、ケータイでニュースを読み漁るのがやめられないことからも分かる。


文字は本や紙面という「束縛」を離れたがっているように見える。文字にとって、紙面という物理制約は邪魔になりつつある。新聞が邪魔なように。ケータイの大きさもやや小さすぎる。ニュース提供者側が変に情報を間引くので、充分な情報量に届かないケースも多い。それでも電車内読書家を見ても、文字情報へのニーズは決して小さくない。そして、その動きの裏には、文字情報(マンガでも良いのだが)が誘う世界の意味も関係しているように思っている。

文学少年とは程遠い少年期を過ごした私だが、本の世界に入り込める時間は大切な宝物だったのだと思う。日頃活字に飢えることはなかったけれど、たまにのめり込める作品に出会ったとき、まさに日が暮れるまで、部屋が暗くなるのを忘れて読み耽った。脳内に広がる霧のような情景、日頃はマンガばかり読んでいたので、その明確な視覚情報と対極にある微妙に儚い世界。でも、そのどちらもが記憶に刻み込まれ、そして非日常への入り口であり舞台だった。勉強が好きでもなかった私にとって、本の世界は唯一集中することができる場とも言える存在だったのかもしれない。

Webというかコンピュータの世界を仕事として、失ったものはこうした時間や空間だったのではないかと最近思い始めている。便利さを追い求めることを第一としてしまったが故に、何でもこのモニター越しに解決したくなる自分がいる。アプリケーションをいれ、プラグインを加え、様々な設定とショートカットを用いて、少ないクリックで様々な情報に辿り着ける状態。

おかげで、常に仕事に情報に追われる状態が出来上がる。ボーっとすることが罪でもあるかのようにその時間を排除して、「ボクに気付いて」と仕事自身に叫ばせて、処理していく。システマティックに組み上げた仕掛けに深夜も終電もなく、エンドレスな日常が展開される。

更に、そんな自分の環境を悪いと思えない自分がいる。情報を処理していくこと、適切に処理できること、見栄え良く処理していくこと、それ自体が目標でもあり、努力してそこを目指している。

でも、年齢のせいか最近は時々油切れになる自分に気付く。でも、仕事の達成感が自分への給油所でもある。Steve Jobsが言うように、生まれてからこのかた、人生の大部分を占めているは仕事であり、そこでの成功が一番の幸福感の素である。私はそうした生き方をしてきたし、多分これからもそうする。別に威張ることではなく、仕事と趣味とが不可分なだけである。趣味もネットに依存している部分が多いし、そこから仕事に展開できるアイデアももらう。それはきっとこの業界にいる多くの人たちとの共通点だとも思っている。だからネットジャンキーと自嘲気味に自己紹介するときも、どこか誇らしく思っているし、周りが同業者なら君もそうだよねと同調を求めている。

それでも実は油は切れる。息も切れる。どこかで何かを補充しなければ進めないことを自覚する瞬間がある。「補充」と位置づけてはいるけれど、ネットを漁って得られる情報量でまかなえるものではない。むしろ逆の何か。情報流入がない状態が欲しい。だから意図的にネットを遮断したりする。敢えてパソコンを開けない。ケータイでネットに近づかない。それが、あの頃の読書の時間だった気がしている。ネットから離れて、Twitterからの誘いを断って、何者からも邪魔されない、干渉されない世界で、何かに没頭できる時間を作る。何かひとつのことに数時間集中できた満足感は、便利さに囲まれて様々な事柄を処理できる喜びとは別の次元で嬉しい。


今、iPadのおかげで、電子書籍の第二幕が開こうとしている。第三と呼ぶべきかもしれない。何度ものチャレンジがあり、死屍累々たる様々なデバイスの山が残っている。でも今度は本当の幕が上がるのかもしれないと期待している。

幾つかの電子書籍端末を眺めながら、どう使うかを考える。何でもできる状態を目指そうと、やはり脳内で誰かが囁く。でも同時に、いやいや単機能に絞ろうよと声がする。PCモニターはずっと仕事の友だった。そこでくつろげる様には、私はできてはいない。そして今私に足りないのは、ネット作業から離れて、何かに集中できる環境なのではないだろうか。ブラウザでの読書は、やはり何か違うのだ。

単純にPDFやtext形式の「書籍」が読めることに期待したい。そこそこのレスポンスでページがめくれ、何十冊もの本棚を500g程度(可能なら300台)に凝縮できて、目が疲れなくて、PCの横に置けて。ネットは巨大本棚への道としては活用する。仕事の切れ目にさっと持ち上げ、本の世界に没入できる環境。逃げ込む先として、物語や魅力的な理論の世界はうってつけだ。

デジタルという、様々な形式に変換でき、再利用が可能で、重さという束縛からの解放をもたらし、そこそこの満員電車の中でも読めて、ページの折り曲がり曲線に合わせて、顔を左右運動させなくてもよい状況。そう、デジタルとは、対アナログという意味から、状況や環境を意味し始めている気さえする。

「書を捨て野にいでよ」から「PCを置き書に浸れ」というべきか。書に記された価値への再帰を最新技術が誘っている。だからこそ敢えて単機能という方向性もありなのだろう。ネットは書籍を図書館から開放した、電子書籍デバイスは、活字を書籍から開放する。デジタルの意味が「流通」から、「再現」を超えて更に別物になってきた気がする。今度の幕は楽しみだ。

 参考:mitmix: [備忘録] 電子書籍系
 < http://www.mitmix.net/2010/05/ebook.html
>
 当然、Android系に大期待です、当面白黒で充分だし。

【みつい・ひでき】感想などはmit_dgcr(a)yahoo.co.jpまで
久々で冗長になってしまったかもしれません、また暫く書かせていただきます。
よろしくお願いしますm(_"_)m
・mitmix < http://www.mitmix.net/
>
・Twitter < http://twitter.com/mit
>
・あ、セミナーやります。大阪で(私は不参加になりそうですが)。
Adobe CS5や、MS Silverlightの最新情報の予定です、お時間あれば。RIAコンソーシアム・ビジネスセミナーin 大阪 〜RIAベンダー最新技術動向〜
< http://www.riac.jp/2010/04/b-in-ria.html
>

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ショート・ストーリーのKUNI[78]
おしまいだ

ヤマシタクニコ
< https://bn.dgcr.com/archives/20100513140100.html
>
───────────────────────────────────
ある日、作家・石山岩雄宅のダイニングキッチンから、わめき声ともなんともつかぬおそろしい声が聞こえてきた。岩雄の妻・鉄子はあわてて室内に入った。

「どうしたんですの、あなたっ」
「あああああ、私はもうだめだ、もうおしまいだ」
「どうしたんですか、いったい」
「とと、トースターにトーストが」
「それでいいじゃありませんか。トースターに炊飯器が入ってるほうが変ですわ」

「そうじゃないのだ。今、私は創作活動に行き詰まり、パンでも焼いて食べようかと思って、見よ、この6枚切り食パンを手にトースターの扉を開けたのだ。すると、すでにこのように焼き上がってすっかり冷めたトーストがある。おそらく私がすでに焼いたのに、それを忘れてもう一回同じことをしようとしたのだ。私はいよいよぼけ始めた。おしまいだ。おしまいだ。こんなぼけた頭でそもそも小説が書けるはずがない。ああ私の人生はいま終わった」

「一体何事かと思えばそういうことだったんですか。驚かせないでくださいな」
「なんだその反応は。おまえ、まさか私がこれまでにも同じようなぼけの数々をはたらいていたので、もはや驚くに足らぬとでもいうのか。そうか。私はそんなに以前からぼけていたのか。おまえたちは気づいていながら気づいていないふりをしていたのだな」
「まさか。そ、そんなはずがないじゃないですか」
「じゃあ何だというのだ」

「そそ、それは、えっと、ああ、思い出しましたわ。そのトーストは私のですわ。さっき急におなかがすいたので、トーストでも、と思って入れたのにすっかり忘れていましたわ。ほほほほほ。最近物忘れがひどくて」
「そうか。私ではなかったのか。それなら少し安心だ」

そこへ息子の鋼一がやってきて冷蔵庫の扉を開けながら
「あーあ、またこんなものが」
「どうしたの、鋼一」
「アイスクリームを食べようと冷凍庫を開けたらホッチキスが入ってた。やってらんないぜ、もう」
「なんだって、それは私のホッチキスではないか。ゆうべから、ないないと思って探していたのだ。ああ、こんなによく冷えて、うっすら霜までついて」
「霜取り機能が弱っているのかしら」
「そういう問題じゃない。さては私はいよいよぼけて、無意識のうちにそんなところへホッチキスを入れたのか。ああ、なさけない。やっぱり私はおしまいだ」
「鋼一、よく考えなさい。そのホッチキスは、あなたがそこに置いたんじゃないの」
「ええっ」

鉄子は鋼一の足をぎゅっと踏みつけて言った。
「あなたは忘れたかもしれないけど、おととい『ホッチキスはよく冷やしたほうがたくさん綴じられるらしい。wi-fiか3Gかは問題じゃない、温度が大事なんだ』と言ってたじゃない。おおかたツイッターか何かで読んだんでしょ。ほら、そうでしょそうでしょ」
「ええ? あー。そういえばそうだった、かな。ははははは。すっかり忘れていたよ。いま思い出した。おれってばか」
「おまえたち、私をかばってうそを言ってるのではないだろうな」
「まままさか。そんなことあるはずないじゃないですか」
「おれがおやじをかばうわけないだろ」
「それもそうだな。ちょっと安心したよ」

そこへ娘の錫子がやってきた。
「あー、もうやんなっちゃう。なんであたしのお気に入りのトートバッグに冷凍ギョウザが入ってるわけ。すっかり溶けて濡れてるしくさいし。どうせまたパパ」
「私が何をしたというんだ、錫子」

鉄子があわてて錫子の首を絞めあげながら
「錫子ったらおかしな子ねえ、突然『パパ、パパ、パンパカパーンパパパパンパカパーン、今週のハイライト』なんて言いだして。漫画トリオはもう解散したのよ。横山ノックは死んだのよ」
「あたし、そんなこと言ってないわ」

また鋼一が
「やばい。今度はラーメン鉢の中にひげそりが」
「鋼一、いちいち細かいことを言わなくてもいいでしょ。そんなことにこだわってるから日本のケータイはガラパゴスなんて言われるんだわ。あなた、なんでも、なんでもありませんわ」
「やっぱり私をかばってるんじゃないのか、鉄子、正直に言ってくれ。ひょっとして私は本当にぼけて、とんでもないことを」

「私があなたをかばったりするはずがありませんわ。なぜなら私、あなたのことは前から大嫌いですもの。何が悲しくて」
「なんだって。それは本当か」
「ええ、あなたの顔も声も、ひげの生え方も、貧乏揺すりのくせもカップヌードルのふたを全部はがさずくっつけたまま食べるところも、あなたの好きな天地真理もみんな嫌いですわ。なんで結婚したのか自分でもわかりませんの」
「そうか、それなら安心だ。私はまだぼけていないのだな」

錫子が岩雄のズボンのすそをめくりながら
「もー、またあたしのレギンスはいてるじゃない。それ、パッチじゃないんだってば。やっぱパパぼけてんじゃん」
「錫子、なんてことを。パパはぼけてませんっ。前からそっちの趣味があるだけなの」
「ええっ、そうなんだ」

自分の部屋から鋼一が戻ってきて
「洋服ダンスを開けたら下着姿の知らないおじさんがいたんだけど」
「なんだって。ああ、私はついにそんなことまでやってしまったのか。鉄子、やっぱり私はもうだめだ。いっそ極上の寿司と天ぷらを食べて死んでやる」
「あなた、気にしないで。鋼一、そんなことで騒がないで。どこの家庭にもあることじゃないの、そんなこと。お父さんはぼけてませんっ」
「いや、そうじゃなくて」

そのとき、岩雄がわめき声ともなんともつかぬ一段とおそろしい声を出した。
「うわああああ。私はいま突然思い出した」
「あなた、なんですの、何を思いだしたんですの」
「私は、ぼけた作家が主人公の小説を書こうとしていたんだ。それで自分で体験するために作家魂を発揮して、ホッチキスを冷凍庫に入れたり、錫子のレギンスをはいたりしていたのだった。そのことをすっかり忘れていた」
「ええっ、ではぼけたふりをしていたんですか、いえ、ぼけたふりをしていたつもりがほんとにぼけていたんですか。じゃなくて、ええっ、どういうことなんですか」

「私にわかるわけがないだろ。これはレギンスとスパッツの違い以上に難しい問題だ」
「自分の能力を超えた作品に挑戦しようとしていたのね。惚れ直しましたわ、あなた」
「それより、あのおじさんをなんとかしろよ」
「鋼一、しつこいわ。あなたにはがっかりよ。時代はiPadでkindleで電子出版なのに」
「あーっ、なんということだ。すでに私は自分で冒頭部分も書いておきながらすっかり忘れていたようだ。おしまいだ、おしまいだ」

鉄子と錫子と鋼一がパソコンの画面をのぞき込むとそこには次のように書かれていた。

ある日、作家・石山岩雄宅のダイニングキッチンからわめき声ともなんともつかぬおそろしい声が...

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
< http://midtan.net/
>
< http://yamashitakuniko.posterous.com/
>

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■編集後記(5/13)

・GW中に見ようと思ってレンタルショップに映画DVDを漁りに行った時は、すでにめぼしい作品は払底しており、旧作品群の棚をじっくり見て回る気力もなく、たまたま「いつでも100円棚」に残っていた、「ヴァン・ヘルシング」と「300」を借りた。これらもだいぶ旧作だが。「ヴァン・ヘルシング」は欧州伝承の3大モンスターに加え、新ヒーローとして「不死身のモンスターハンター」が登場するというご機嫌な企画だ。ところが、途中でこれはかつて地上波で見たことに気がついた。それでも最後まで楽しめたが。「300」は、わずか300名の軍勢で100万のペルシア軍を迎え撃つ、スパルタ王レオニダスの物語だ。圧倒的な敵に対して、レオニダスはどんな作戦を用いたのかというと何もなく、地の利を得ただけで、あとは戦士たちの真っ向勝負である。ひたすら血しぶき肉弾戦。スパルタ人の鍛え上げられた肉体(+画像処理)による戦闘シーンがじつに美しい。Wikipediaによれば「ごく一部を除いてすべてスタジオで撮影され、背景などもCGで編集したものが多い」そうで、実写を超えた映像美が創造されていた。ストーリーが史実と違うのは問題ではないが、輜重が無視されているのが気になった。レオニダスが「朝の食事を準備し存分に食べよ」と命じるが、300人は武器以外なにも持たずに行軍してきたんだよ。まあいいか。「マトリックス」よりもわかりやすく、「レッドクリフ」よりもおもしろい。DVDを見た翌日、なんと地上波で放映しており、再度しっかり見たのであった。滅びを覚悟して無謀な戦いに挑む男の話って好きだな。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000U5HX3C/dgcrcom-22/
>
→アマゾンで見る(レビュー156件)

・本物のピラフ食べたい。/意図的なネット遮断、私もする。お正月、GW、お盆休みあたり。休みだからと甘えられる時に。急ぎの場合は電話してもらうことにして。iLiad持っているけど、iPadのカラー画面とアプリは魅力的だ〜。/スパッツでええやん〜と思ったことがある、YES。/続き。公園もスポーツショップのある場所も観光地。GW中は観光客でごった返していて、普段はそのあたりには行かないのに、何故この時期に行くんだ私は、と思ったよ。特にショップ近辺は人が多すぎてスムーズに歩けない。ふと見るとH&Mがあって、そういえば大阪にできたんだったな〜と同行者に話したら、「H&Mって何? ほっともっと?」と言われてしまう。もう「ほっともっと」にしか見えない......。クリスピー・クリーム・ドーナツの列ができていて、夕方にも拘らず1時間待ち。大阪人は並ばないけどなぁ、どうせ時期が過ぎると並ばずに買えるし、並んでいる時間に他に行った方が......と思ったさ。ミスター・ドーナツも「カフェ アンドナンド」にリニューアルしていて、今まで見たことのないほどの混雑ぶり。観光地中央部分(食い倒れ太郎人形がある)に突入すると、夜なのにネオンのせいで昼のような明るさ。韓国語や中国語の看板のあるお店の店頭には、大量のプラスチック製皮むき器やスライサーが売られていて、もしかして外国にはこの手のグッズはあまりないのかも、と思ったり。あちらに行かれる際のお土産にいいかも〜。(hammer.mule)
< http://www.hottomotto.com/
>
大阪はほっかほっか亭の方が多いような
< http://www.hm.com/jp/
>  H&M
< http://krispykreme.jp/
>  クリスピー・クリーム・ドーナツ
< http://www.andonand.jp
>  カフェ アンドナンド
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001TV1I8W/dgcrcom-22/
>
クリッパー皮むき
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0027VTE4I/dgcrcom-22/
>
ニュースライサー