私症説[19]読書作法の衰退を憂える
── 永吉克之 ──

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iPadもKindleも、使うことはおろか肉眼で見たことすらない人間の言うことだから、その辺りは差し引いて読んでいただきたい。

読書をしている間は、ソファにふんぞり返って両脚をテーブルの上にのせ、本を左手〈ゆんで〉に持ち、右手〈めて〉を背もたれの後ろに投げ出した姿勢をとっているのが、私にとって最も安楽で、かつ精神的充実を得られるのである。その際、右手の薬指は、背もたれの裏に空いた穴につっこんで、内容物を掻き回していなければならない。これが「千曲玉楼〈ちくまぎょくろう〉」という読書作法である。

さて。端末で読書をする場合、私が長年かかって身につけたこの読書作法を捨て去らなければならない。当然だ。例えばiPadは何十キロあるのか知らないが、写真で見た限りでは、およそ片手で持てる代物ではないからである。

そうなると、端末用にまた新たな読書作法を考案し、改良し、洗練し、身につけなければならない。千曲玉楼を自家薬籠中のものにするのに15年以上を費やしたのだ。このうえさらに同じ年月を作法の習得にかける気力はない。さしあたり、腹這いの体勢で新聞を読むときの作法「たまゆら」、コンビニで立ち読みをするときの作法「DEMMAN」などで対応しようと考えている。



夏が終わり、心地よい涼風が家の中を吹き抜ける季節になると、昼食後、畳の上で、右を下にして横たわり、ふたつに折った座布団で本を持った右手を支え、左手を右の腕〈かいな〉にそえた体勢で読書をする「チャーリー」を使い始めるのだが、この作法なら重い端末でも片手で持てないことはない。

しかしながら、食後の満腹感と全身を渡る涼風の心地よさから眠気を催したときに仰向けになって、開いた本を顔の上にのせて、しばしの夢見心地を楽しむ「盧生〈ろせい〉」は、端末では不可能だ。ディスプレイは吸水性ゼロだから、顔が分泌する脂でヌルヌルして気持ち悪いし、何十キロもあるものを顔面にのせていては痛くて、夢を見るどころではないだろう。いや、それ以前に、鼻が邪魔して顔面の上には載らないと思う。

かくの如く、テレビ放送の地デジ化と同様、書籍の電子化の勢いは、抗うことのできない奔流となって、私のささやかな快楽を、泡沫のように呑み込んでしまおうとしているのだ。

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長時間にわたって外出する時は、たいてい本を携行するのだが、私はカバンというものを持つのが大嫌いなので、本はジャケットのポケットに入れることにしている。文庫サイズなら楽に入るし、私の変色してマダラになった安物の唾棄すべきコートのポケットならB5サイズでも充分入る。

ところが、それを端末で読むとなると話はちがう。写真で見る限り、到底ジャケットのポケットに入る大きさとは思えない。私の油染みたホツレだらけの野暮で無意味なコートのポケットなら入るかもしれないが、そんな大きな精密機器をポケットなんぞに入れて出歩くような蛮勇引力はもちあわせていない。もし、泥酔運転で歩道に乗り上げてきたタンクローリーに正面衝突でもされようものなら、ショックで端末が故障する恐れがあるからだ。

本はおもに、AMAZONかBOOKOFFで買うので、紙のカバーをかけてもらえないから、電車のなかで読むときも本は全裸のままだが、私はその方が好きだ。著者の心情に思いを巡らせるに、一刀三拝して書き上げた労作の表紙を、あたかも恥部のように隠蔽するのはいかがなものか。ましていわんや、文庫本のカバー(書店でかけてもらうカバーじゃなくて、表紙にもともと被せてある、タイトルやイラストなんかが入ったカバー。ややこしいな...)をはずして、裏返しにしてまた表紙にかけている人をたまに見るが、これはムゴい。関節を逆に曲げられたような気分だ。

本を尊ぶ心があるのなら、むしろ表紙を、ひとりでも多くの乗客の眼に触れさせ、できれば音読して、著書の素晴らしさを車内にあまねく伝えるべきだろう。それでもなお隠したいというのであれば、電車の座席で読書をする際の作法「出雲」を用いることによって、誰にも本のタイトルを知られずにすむのだが、一朝一夕に身につくものではないので、これについては触れないでおこう。

従って、誰の何という本を読んでいるのかを、あくまで秘匿したい向きには端末は安心なわけだ。カバーをしなくても、表紙がディスプレイの中にあるのだから、表紙をめくってしまえば両隣の乗客にも恥部を見られずにすむ。

▼1400年の歴史を持つ装丁専門店「トミタ装幀」35代目主人は語る

この店の創業者が、ここ大阪の船場に店を開いたんは、まだ飛鳥に都があった頃ですわ。その頃はまだまだ装丁ゆうもんがあんまり知られとらん頃で、注文が入らんもんやさかい、ご近所のお宅を一軒一軒回って小商いしながら、ときどき近江や紀伊の方まで足を伸ばして、トミタ装幀の名を広めていったて聞いとります。

25代目の時でっしゃろか。それまでの苦労が実って、日本国内どころか明国あたりからも注文が来るようになりました。その頃はもう、装丁屋ゆうたら珍しゅうのうなってましたけど、日本で一番のシェアと信用をいただいとったトミタ装幀の評判が、明国の皇帝にお耳に入ったっちゅうわけですわ。

当時、明国は朱印船の来航を禁止しとりましたよって、トンキンてゆう、今のベトナムの都市の港で荷揚げしてから、陸路を伝って首都の北京までの2000キロ余を、装丁を満載した荷車を引いて何べんも往復したんやそうですわ。ほんまご苦労な話でんな(笑)。その後も、鎖国や維新や戦争やといろいろとおましたけど、トミタ装幀の暖簾だけは守ってきました。

そやけど、このところの電子書籍の普及で、装丁の需要も減る一方で、例えばこの装丁でっけど(そういって、ご主人は店頭に並べてあった装丁のひとつを手に取った)、一時は毎日20本は出たもんだす。それが今では10日以上棚晒しですわ。1400年続いた店をわての代で畳まんならんのかと思うと、ご先祖様に申し訳のうてねえ。

......インタビューの帰りがけ、ご主人が「よろしかったら」と言って、その装丁をくださった。肌触りといい薫りといい光沢といい、これほどの意匠を凝らした装丁が売れなくなっているという現実を知って、私はやりきれない気持ちでいっぱいになった。

帰宅すると、さっそくトミタ装幀の装丁を使って、BOOKOFFで買った町田康の『くっすん大黒』を読んだ。読書作法は、玄関口で正座して読むときに使う「破羅韋相〈はらいそ〉」だった。腰に負担がかかるので、腰痛を発症して以来使っていなかった作法をあえて使ったのは、トミタ装幀のご主人の心痛を少しでも分かち合えるような気がしたからである。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
このテキストは、私のブログにも、ほぼ同時掲載しています。
・無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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