Otaku ワールドへようこそ![138]セーラー服と社会学
── GrowHair ──

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このところセーラー服を着て外出することの多い私であるが、これは、リアル女子高生に大笑いされているのをモテていると勘違いしているといったイタい理由からでは決してなく、もっと高尚な狙いあってのことである。現代社会のエッセンスを抽出するためのフィールドワークという位置づけである。つまり、社会学研究の一環。

自分があたかも透明人間になったかのような視点で社会を眺めて特徴を発見していくアプローチを「観察社会学」と呼ぶことにすると、その社会の中に本来自然な形では存在しえないはずの要素を人為的に放り込み、人々の反応から特徴をつかみ出すアプローチは「実験社会学」と呼ぶことができよう。

高度にシステム化され、平和と秩序が維持された都会の風景の中に、セーラー服のおっさんを投入することによって、現代社会のどのような側面が見えてくるか。表面的には何の騒ぎも起きず、日常の営みが平和に継続されていくものの、それはシステムが何の影響も受けずに回っているということであって、人々が相互理解や共感によってつながり合い、互いを受容しあい、社会が一体化しているということではない。考えや価値観のばらばらな個が、相互の深い領域にあえて踏み込まないことによって無用の軋轢を避け、スムーズな社会運営が維持されている「共感なき平穏」という特徴が見えてきたことを報告したい。

余談だが。人類は2種類に大別される。透明人間と不透明人間である。前者は見えないので得体が知れない。後者は全容が不透明なので、やはり得体が知れない。ゆえにすべての人類は得体が知れない。



●騒ぎは起きない

フィールドワークの詳細については前回すでに報告しているので、ここでは概略だけ述べておこう。まず、どんな姿であったかについては、目撃者からどう見えていたかという観点から、ツイッターへの書き込みを総合すると、「落ち武者、仙人、あるいはダンブルドア校長のような風貌の、推定60代から70代のおじいさんが、セーラー服を着て堂々と歩いていた。頭は禿げており、ヒゲを三つ編みにしてリボンをつけていた。中学生が持つようなスクールバッグを持ち、大きな尻尾のストラップをつけていた。スカートはかなり短く、スネ毛は剃ってあり、紺のハイソックスにローファ」。その姿の異様さについては、「人類にはまだ早すぎた」とのコメントもある。

この姿で、日常行くところは会社以外、ほぼ行った。喫茶店、ラーメン屋、回転寿司、居酒屋、メイドバー、カラオケ店、漫画喫茶、ヨドバシカメラ、不動産屋、など。出没地域は中野、新宿、渋谷、池袋、高田馬場、原宿、秋葉原、浅草橋、代官山、下北沢、鶴見、八重洲、市ヶ谷など。

それで、一体何が起きるかというと、端的に言って、何も起きない。大声でののしる者もなく、人だかりもできず、通報する者もなく、職質もされず、石を投げられることもなく、店から追い出されることもない。

大声で笑う人はいる。特に、若い女性。箸が転んでもおかしい年頃の子は、おっさんがセーラー服着ててもおかしいようで。女性二人連れで歩いていて、私の姿を発見するなり、一方が他方の肩を借りて、ギャハハギャハハと笑い崩れる姿など、よく目にする。大笑いする人は、こちらから認識できているよりも多いかもしれない。というのは、すれ違ってから振り返って大笑いしてる人がけっこういるらしいから。というか、少し離れて後ろを歩いた人の証言によると、みんな振り返って笑ってるらしい。

電車の中では、無反応な人が多い。ぜんぜん関心がないのか、あるいは気になって仕方がないけど顔には表さないようにしているのかは、判然としない。後者だとしたら、たいへん礼儀正しい態度だといえる。大人の男性はほとんどが無表情。無関心なのか、笑いをこらえているのか、不快になっちゃったのか、さっぱり読み取れない。

話しかけてくる人は、あまりいない。そうだよね、勇気要るよね。頭おかしい人かも、って思うと、ちょっと怖いよね。もし立場が逆だったら、私も無理かも。笑った勢いで思わず、って人がたまにいる。「いい女が立ってるかと思って見れば...」。「ひー、どうもすみません」。

信じないかもしれないが、全力で力強く大絶賛してくれる人もいる。そんなにほめられると、いや〜、やっぱり間違ってなかったんだ、よかったよかった、......と勘違いしそうになる。写真撮らせてください、と断ってくる人もいて、これまた礼儀正しい。一人が撮り始めると、通りすがりに、じゃあ私も、みたいな感じで撮ってく人がけっこういて、人だかりができそうになるときがある。

子供は真っ正直に反応するので、こっちが恥ずかしくなるときがある。御茶ノ水駅のホームで総武線の電車を待っていると、向かいの新宿方面のホームに停車中の総武線の電車のドア越しに、小学校高学年ぐらいの男の子二人が、ものすごくびっくりした顔で、ずっとこっちを凝視していた。もっと小さい子は、目の前の現実を素直に受容しているふうの子が多い。

ネガティブな反応は、ほとんどない。けど、ぜんぜんないわけではない。カップルでいた男性から、聞こえよがしに「きったねー、何考えてんだ」とか。電車で空席に座ったら、隣の若い男性がすっと立って、違う車両へと逃げていったとか。

●システム化とセグメンテーション化の現代日本社会

現代の日本社会はどのような特徴を有しているといえるだろうか。

まず第一に、システム化社会であると思う。システム化社会を次のように定義してみよう。社会を構成する人々が、その社会において最優先すべき課題は、あらゆるトラブルや不足を回避し、安全性、安定性、利便性、快適性を維持するような仕組みを構築することであるという共通認識をもち、実際に法、ルール、基準、マニュアルの整備や、防災、防犯、生活物資やエネルギーの供給、交通、商取引などの仕組みの構築が細部へ細部へと急速に進んでいく社会。

世の中において、事件、事故、トラブル、物資やエネルギーの供給不足、不快な出来事、不便さの我慢などが起きるのは、システムがまだ不完全であるせいだ、と考える人が多くなってきているのでないだろうか。人々のモラルのレベルが下がったせいであり、教育によって改善を図るべきであると唱える人はあまり多くなく、事あるごとに、システムがより緻密化、厳密化していくような気がする。

軽犯罪法をみると、それにひっかかる行為のリストの中には、けっこう笑えるものがある。「正当な理由がなくて他人の標灯または街路などに設けられた灯火を消す」など。これ、どうやったら消せるんでしょ?「するな」と諭すよりも、しようと思ってもできないような仕組みを作っちゃったほうが、確実。モラルよりも仕組みのほうが合理的。

システム化が進むことにより、人間の尊厳がないがしろにされていくのではないかと懸念して抵抗を示す人も減ってきているように感じる。かつては、国民全員に番号が割り振られてデータベース管理されたりしたら、人間の尊厳にかかわる、と言って猛反対する人が多くいたが、ひとたび住基ネットが導入されてみたら、なんかもうどうでもよくなってきてはいないだろうか。公道に防犯カメラを設置するのも、すっかり定着して、今やそこいらじゅうだし。個人の尊厳よりも社会秩序の維持が優先されることを人々が受け入れるようになってきている。

万事マニュアル化も、当たり前のトレンドになっている気がする。かつては「マニュアル対応」といえば、お役所の窓口の係の人や、ファーストフード店のアルバイト店員が、場のニーズに応じた柔軟な対応ができず、マニュアル通りの杓子定規な対応しかできないのがまるでロボットのようで奇妙に映るのを揶揄する言葉であった。なんか最近は、マニュアル対応のほうが安心するって人が多いのではなかろうか。

もし自分だけが他のお客と異なる対応をされたりしたら、それが厚遇にせよ冷遇にせよ、居心地が悪い。あるいは、日によって店員によって対応がまちまちだったりしたら、気が気じゃない。いつ、誰が行っても、誰が対応しても、均一で予測可能な対応。まったく印象に残らない。それが安心、快適。場に応じたきめ細かい対応が必要なら、多種多様な場面を想定してマニュアルのほうをきめ細かくしていけばいい。いつも行く店で、今回だけ「いらっしゃいませ、こんばんは」ではなく、「こんばんは、いらっしゃいませ」だったら、その夜はとてもじゃないが眠れそうにない。

社会維持システムの構築が最優先だとすると、その陰には、順位を下げられたさまざまな営みがある。哲学・宗教・思想、純粋科学・学術、芸術・文化・芸能、政治理念(イデオロギー)、国家の経済的繁栄、富国強兵、国際社会における自国の存在感、倫理・奉仕精神、個人の尊厳、知性・教養の研鑽、立身出世・地位向上、家族や友人の関係性、娯楽・快楽・祭り、など。

これらのどれよりもシステム化を上に置くというのは、まるで我々がみずからシステムに従属するロボットのようになろうと指向しているみたいで奇妙な感じがしなくもないし、それでよく生きている意味が見いだせるなぁ、と若干心配にならなくもない。

旅行に行くのは、事前にできるだけ多く情報を収集し、かけたコストに対して得たパフォーマンスの比率が高かったことをもって、お得感を楽しむことを目的とするゲームってことで、いいんだっけ? つまるところ人生もまた、システムを知悉し、上手に活用することによって、人よりもちょっとだけ得することを目的として営み続けるコストパフォーマンスゲームってことで、いんだっけ?  なんという形而下的な。楽しいかなぁ?

が、しかし実際、今の社会がシステム化社会であること自体には、同意していただけるのではないでしょうか?

さて、第二に、情報のセグメンテーション化があると思う。

これについては、'08年4月25日(金)にこの欄をまるまる一回使って論じているので、興味があれば参照してください。
< https://bn.dgcr.com/archives/20080425140100.html
>

定義に関する箇所を抜き出しておくと、感覚的には、情報の流通を誰かが意図的にブロックしているわけでもないのに、現実の情報の流れに相当の偏りが自然に生じてしまうような状態になっているとき、私は「情報がセグメンテーション化しているなぁ」と感じている。定義しようとすると、次のような感じ。情報のセグメンテーション化とは、ある社会の内部を情報が流通する際の伝達のしかたの構造において、個々の情報単位がそれの属する分野に関心のある人たちであらかじめ構成された集団の間を非常に迅速にあまねく流通するけれども、その集団の外ではほとんど流通することのないような情報伝達構造のことである。

「情報のセグメンテーション化」という呼称は、私が勝手につけただけであるからして、同じ概念を違う言葉で言い表している社会学者はきっといるだろうと前々から思ってはいた。実は、宮台真司氏の言うところの「島宇宙」に近いことを最近知った。

宮台氏の島宇宙とは、主として中学・高校の状況について表した概念だが、クラスのような大きな単位でのまとまり感は消滅し、人と人とのつながりが3〜4人の小集団に分離してしまっている状態をいう。コミュニケーションは小集団内で閉じており、誰もが自分の属する集団の外のことには無関心なので、小集団間のコミュニケーションはほとんど起きない(宮台真司『制服少女たちの選択』講談社1994/11)。

情報伝達が小区画内に限られているという点においてはほとんど同じといえよう。もっとも「情報のセグメンテーション化」のほうは、地理的に近いとか、実際によく顔を合わせるといった近さによる仲良しグループとは限らなくて、たとえばmixiコミュのような、共通の関心によって寄り集まった人為的なグループをイメージしている。

だから、たとえば、山登りと将棋とメイドさんが好きな人は、それぞれの関心によって形成された3つのグループに属して、それぞれのグループの空気に応じて情報をやりとりする、というイメージである。

「アトム社会」という用語を25年くらい前に聞いた気もするが、何だっけ? ちょっと定義が見当たらない。

この傾向がいっそう進むと、3〜4人の小集団でさえいずれは自然解体し、一人一人がバラバラになっていくのではないかという気がする。新たな出会いは、機会も少ないし、ストレスになるし、で敷居が高い。一方、別れは、着信拒否で済んじゃうので、チョー便利。たいていの恋愛はそうやって終わるのではなかろうか。今にみんな等しく仲間はずれ。

第三に、苦情社会になってきたと言えるのではなかろうか。

社会のシステム化が進んで、ものごとがおおむねスムーズに回っていく傍ら、モンスターペアレンツのような、かつてあまり見なかったタイプのお騒がせな人たちが出現したりしてきている。しかし、これも、システム化社会の必然の帰結という気がする。

たいていのシステムは、アクセス権限が複数にレベル分けされている。管理者レベルと一般ユーザーレベルのように。お店の人とお客さん、作る人と使う人。スタッフ参加とサークル参加と一般参加。どのレベルのアクセス権限を持っているかによって、人々の立場が分かれる。ごく少数の管理者。多数の一般ユーザー。その他の非ユーザー。

自動改札システムの管理者は、おそらく食品衛生の管理者ではない。同じ人物であっても、個々のシステムによって、立場が変わる。「関係者以外立入禁止」のドアはそこらじゅうにあるが、その中で、自分が入る権限を持っているドアはごく少数であろう。

一般ユーザーは、システムそのものを変える権限を与えられていない。なので、システムに何らかの問題があって不利益をこうむった場合、自力では解決できない。解決の責を負わないという気楽さはあるものの、人を頼りにするしか道はないという不自由さもある。管理者に苦情を言うしかない。苦情にも正当性・妥当性のレベルがグラデーションのようにある。「それは言わないとダメだろ」レベルから「そこまで言うか」レベルまで。

このところよく苦情関連のことが話題になるが、一般的な型として言えば、「私が不快な思いをしたのは、不快な思いをさせた側が悪いのか」とくくることができそうである。一律にこうだということはできず、ケースバイケースの問題となる。社会通念だって時代や地域によって変わるし。

Yahoo! のサイトのコーナーのひとつに「yahoo 知恵袋」というのがあり、誰かが投稿した質問に、みんなで答えていくことができる。そこに、女性の下着売り場に男性が入ることをどう思うか、という質問が寄せられ、熱い議論になっていた。議論というか、大の大人がこんな些末な話題に全力を投入して、感情むき出しのなじり合い叩き合い。読んでるだけで具合が悪くなりそう。

だいたい、そもそもの質問は、正確には「女性の下着売り場に立ち入る男性をどう思うか」ではないのである。その質問自体は以前に出ていて、「快く思わない人がいる」のは理解できると、あらかじめ断っている。そのときの議論の中に、「男性が下着売り場にいるとそれだけで変質者」「カップルで来ていると男性も連れてくる女性もバカだと思う」「売り場で男性を見たら睨む、聞こえるように文句を言う」といった意見が出ていたが、ただ単に買い物にくる男性やカップルを、来ただけで白い目で見ることは妥当性はあるのか。「このように激しく非難する女性をどう思うか」という質問なのである。ちなみに、質問者は女性である。

ところが、これに対する回答が、またすごい。質問者が前進させようとしている議論を、その意図丸無視で後退させて蒸し返しているだけ。「私もイヤです。下着売り場に平気な顔で来れる男性が。男らしくなさそうで」「私は嫌なんですよね。服や化粧品ならまだ許せるんですが、下着って本来なら気を許した家族や彼氏しか見られないものじゃないですか」「世間の目を気にしないような男性とは付き合いたくない」。

だ〜か〜ら〜、下着売り場に来る男性についての質問じゃなくて、それを激しく叩く女性をどう思うかって、質問なのに〜。不快に思う人がいるのは承知してるって、元の質問の中にちゃんと書いてあるのに〜。そのズレを指摘する人もいる。「あのさ、答えてる一部の人たち、質問者の質問よく読めよ!」。

ただ、言葉の調子が強いもんだから、内容にではなく、調子に反応する答えが返ってくる。「なぜそんなにファビョッてるの? 下着屋で嫌な思いでもしたの?」。ここまで徹底した議論のかみ合わなさ、ちょっとした狂気を感じてぞくぞくする。

かみ合わない議論に対しては、たとえ整理するつもりで割って入ったとしても、それがうまくいくことは皆無で、混乱した議論をいっそう混乱させたという徒労感に終わることがほとんどである。なので、私としては、相手にしないことにしている。ただ、現代社会において、まともなコミュニケーションがいかに成り立ちづらいかを実感できるための資料としては、我慢して読まなきゃいけないのかなぁ、とも思う。ほんっと、具合悪くなりそ。

さて、話を元に戻して、ポイントは「私が不快な思いをしたのは、不快な思いをさせた側が悪いのか」にある。同じカテゴリに属する問題についてはすべて同じ結論に至るべきだ、というわけにはいかないけど、例はいろいろあげられる。男性と女性の立場をひっくり返して、電車の中で化粧をする女性をどう思うか、とか。

私の個人的な意見としては、プライベートな空間に閉じ込めておいたほうが適切と思われる行為を、公の場所で見てしまうというのは、多少の気まずさを伴うけど、迷惑とか不快というほどのこととは感じていない。以前、夕刻に、志木あたりから池袋まで、田舎のイモねーちゃんが夜の蝶に変身していくさまをとっくりと拝見させてもらったことがあり、けっこうな恐怖ではあったけど、いい勉強をさせてもらってありがとう、の気持ちもある。まあ、こっちだってセーラー服を着て電車に乗ったりするわけだから、文句の言える立場では、ないわな。

テレビの番組が韓流に偏っているのが気に入らない、だったかの理由で、テレビ局の前に大勢の人が集まって抗議デモしたり、スポンサーの商品の不買運動を展開したり、ってことがあったらしい。気に入らないと思うこと自体は分かるとして、抗議デモに不買運動って、どうなんでしょ? テレビ番組って制作するのに費用がかかるわけだけど、アナタがお金を払ってるわけではないんでしょ?

ってことは、テレビ局って、アナタを楽しませる目的で存在してるわけではなくて、制作費を極力抑えつつも、視聴率を稼ぐことによってより多額の広告料をもらうことで、利益を得るのが目的の商売なんでは? 気に入らないのなら見ない、では解決にならないのでしょうか?

自分が不快に思うことと、抗議という行動に出ることとの間には、客観的な視点から正当性・妥当性を個別に検討する、というワンステップが入るのが望ましかろう。案件ごとに、正当性の度合いがまちまちだろうから。ところが、世の中には、そのふたつが考えなしに直結しちゃってる人が多くなってきているように感じる。これはちょっと怖い。コミュニケーションの範囲が狭いからそうなる? 小さなお山の大将。オレ様。

余談だが、下着販売会社ピーチ・ジョンが広告にAKB48のメンバーを起用し、9月7日から3,000円以上商品を購入するとポスターが先着でもらえるというキャンペーンを行った結果、新宿のルミネ店が男性客でにぎわったらしい。時代の空気もまた常に変化してるってことか。

さて、前置きが長くなったが、以上のような社会背景を踏まえた上で、セーラー服とおっさんを用いた実験社会学的アプローチによって、どんなことが裏付けられたのか、論じてみたい。......のつもりだったが、前置きが長すぎて、本論を書く紙面がなくなってしまった。続きはまたそのうち気が向いたときにでも。もし街で、セーラー服を着たおっさんを見かけたときは、社会学の研究にいそしんでいるのだとご理解いただき、暖かい目で見守っていただけるとたいへんありがたいです。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp セーラー服仙人カメコ社会学者。

前回、「30歳以上で、セーラー服で来店するとラーメンがタダ」という鶴見の「ラーメンショップ高梨」をご紹介しました。映像作家の寺嶋真里さんが、条件をクリアしたことを記念に、コラボ企画として、上記達成の上、申し出た方、先着一名様に限り、最新作『アリスが落ちた穴の中』の豪華版DVDボックスをプレゼントします。9月15日(木)時点でまだ受け取った方はいないそうです。

ラーメンと寺嶋さんのDVDボックスがタダになったとしても、セーラー服のほうがまだ高い、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが。セーラー服は、一着持っていると、ものすごく遊べるし、勉強になります。私たちが前例という名のレールをつけておいたので、敷居がだいぶん低くなっているんじゃないかと。いい機会では?

店に置いてきた私の写真を地デジ波に乗せていただいたテレビ朝日の「さきっちょ☆」、ディレクタ氏によると、視聴者からの苦情は一件もなかったとのこと。時代は、セーラー服のおっさんを受け入れる方向に?

店の情報は、こちら。不定休なので、電話してから行くのがお薦め。
< http://r.tabelog.com/kanagawa/A1402/A140210/14036225/
>

寺嶋さんの映像作品は、年内は、パリ、山形、名古屋、神田、高円寺で上映されます。作品のウェブサイトに徐々に情報がアップされていきます。
< http://www.rose-alice.net/
>

読んだだけで具合が悪くなりそうな例の議論は、こちら。
耐性のある方はどうぞ。
< http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1241161107
>