私症説[30]サンド・ストーム〜砂嵐のなかで
── 永吉克之 ──

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例えば、瓶入りのコーヒーがなくなりそうだと思ったら、その時点で新しいコーヒーを買っておくのが常識だと思うのだが、どういうわけか私にはそれができない。だから、飲もうとしたときに切れているのを思い出して買いに行く......ほどの行動力はないので、一日をコーヒーなしで過ごすことになる。

先月、私がデジクリを休載した原因も、この「コーヒーがなくなってから買いに行くの法則」に適っている。

7月23日。一台しかないパソコンがぶっ壊れてぶっ潰れた。サポート期間は17世紀に終わっていたが、とりあえずサポセンにすがろうとしたら、機種が古うて部品がないから修理は無理ですわ、ここはひとつ、新しいの買うたらどないでっか、大将。と言われて、たった6年しか使っていないマシンを買い換えたわけである。

人間で6歳といえば、小学校1年生。人生最初の学び舎で、我が子がどれだけ成長してくれるか、親ならば誰しも抱く期待を、その門出で奪われてしまったのである。アプリケーションが充実し、さあこれからという時の惨劇であった。

冷蔵庫だって、もう20年は使っているが、もんのすごく汚くなった以外は、買ったときと変わらない勢いで24時間労働に耐えている。電子レンジだって、どろっどろに汚れていて、魚とか野菜とかいろんな食材の臭いが混ざったガスを放っているが15年以上ちゃんと仕事をしている。インターフォンもそうだ。ボタンを押しても反応しなくなって久しいが、我が命果つるまで使い続ける所存である。

彼らと違って、あたら若い命を散らした私のパソコンは、「まさに蜉蝣(かげろふ)のやうな奴であつた」と未来永劫に語り継がれることであらう。



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壊れる数ヶ月前から、マシンがときどき奇妙な動作をするようになっていた。急にファンの音が大きくなったり、何かを引っ掻くような音を発したり、「○○は地球を征服しにきたエイリアンだから殺せ」という命令の電波を私の脳に送ってきたりしていたのだった。

とはいえ、作業に支障はなかったので、まあ今年いっぱいは持つざんしょと楽観していたところ、運命の7月23日、ガリガリ君を齧りながらデジクリの原稿を書こうとしていたら、突然画面が真っ暗になって、くいだおれ太郎の顔が真ん中にアップで出現し、パワーボタンを押してもコードを抜いても消えなくなってしまった。キーボードを見ると文字が全部タガログ語に変わっている。ガリガリ君もうまか棒に変わっていた。

そんなわけで、新しいマシンを買いに行かなくちゃ行かなくちゃと思っているうちに8月を素っ飛ばして9月になり、中旬近くになってやっと手にしたというのが事の顛末である。

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パソコンのことはどうでもいい。奇しくも、マシンがいかれた翌日の7月24日は、テレビのアナログ放送が終了する日。私は地デジへの対応はなーんにもしていなかったので、パソコンに続いてテレビが逝去してから一月半、のどかな日々を過ごしたのであった。

朝起きてから仕事に出るまで、時計代わりにテレビをつけっ放しにしていた習慣が抜けず、朝はとりあえずテレビをつけないと何だか手持ち無沙汰で視線の落ち着く先がないので、ある時、仕方なく砂嵐を見始めた。

砂嵐をしばらく眺めていると、鍋の中で沸騰した水の泡が次々と立ち上っていくのを側面から見ているような気がしてくる。さらに見続けていると、泡と泡の隙間が黒く見えてきて、それがまるで黒い鳥の大群が舞っているような壮観な光景に変わる。リーダー格の鳥が向きを変えると同時に、群れもいっせいに向きを変える、という行動を繰り返している。

そうやって2時間ほど砂嵐を見つめていたら、それぞれの粒子と粒子の隙間に、ときどき人の顔のようなものが無数に浮かんでくることに気がついた。いったい何だろうと、テレビに顔を近づけてさらに3時間睨んでいると、そのひとつがどうも山本さんの顔らしいことがわかった。

山本さんを見るのは久しぶりだった。八百屋がうまく行かず店を畳んだとは聞いていたけれど、こんなところで働いているとは思わなかった。また5時間ほど砂嵐を眺めていたら山本さんから電話が入った。

「なんでそんな所にいるんですか?」
「いやもう、この歳で仕事といやぁ砂嵐くれぇしかねえもんでね」
「やってて楽しいですか?」
「楽しかねえけど、しようがねえ。年金だけじゃやっていけねえからね。ま、そりゃいいんだけど、永吉さん、ちーとテレビの裏に回ってカバーを外してやっちゃもらえませんかね」

カバーを外すと、中から汗まみれの山本さんが出てきた。
「しばらくここで休憩させておくんなさい」
「抜けても大丈夫なんですか?」
「人ならいっぱいいるから大丈夫。それにサボりながらでねえとやってられませんや、こんな仕事。ああ、まだ2時間もある」

高齢になるほど仕事の選択肢が少なくなり、特殊な技術や資格を持っていない人はきつい肉体労働をするしかなくなる。真面目を絵に描いたような人物だった山本さんがサボっているところを見るのは、少しショックだった。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも、ほぼ同時掲載しています。
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