私症説[35]男にも泣く権利はあるのか
── 永吉克之 ──

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♪三味(しゃみ)と踊りは習いもするが習わなくても女は泣ける〜
(笹みどり「下町育ち」)

平成二十四年以降に生まれた読者は、恐らくこの曲を知らないだろう。歌詞の意味は、三味線と踊りは師匠に教えてもらって覚えるものだが、誰にも教えてもらわなくても、女は泣くことの作法を知っている、とかなんとか、まあそういうことである。

こんなことを書くと、また女性から反撥を買いそうだが、女性は泣けるからいい。悲しくても嬉しくても悔しくても涙を流せる。あくびをしても涙を流せる。そしてそれが絵になる。女の涙が絵になるという伝統は日本だけのものではなかろう。

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昔の話だが、私が交際していたある女性は、ケンカになると必ず泣いた。自分が一方的にまくし立てておいてワーッと泣くのだ。こっちが反撃しようとする暇を与えずに泣くのだから、紳士協定に反する。

「永吉くんがそんな回りくどいこと言うからアタシだって腹が立つじゃないのなによその言い方アタシがいつも邪魔してるみたいに言ってさそんなにイヤだったらもういいアタシだって永吉くんみたいなドンくさい男ほんとは大嫌いだったんだからもうアタシのいる所にこないでワー!!!(泣)」

という風に、罵倒から号泣へシームレスに移行するというテクニックを、生得的に持っているかのように巧みに操るのだ。
もっと高度なテクニックを使って、罵声を浴びせたうえにヒトの顔をフルスウィングで引っぱたいておいて泣くこともあった。
「だいっ嫌い! バシッ! ワー!!!(泣)」

涙を見たらもう戦意を喪失してしまう。このテクニックを「ヒット・アンド・アウェイ」と呼ぶ。これが最も奏功した場合には、さらに男に謝らせることまでできるのである。
「ああ、泣かなくてもいいじゃないか。ごめん。僕も言い過ぎたよ」
まあ、これは私の時代の若い女性であって、今の若いコのことは、わしゃ知らんがね。




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絵になる男の涙は、何かを達成した時の涙くらいのものだ。ただし達成といっても、スポーツで世界タイトルを奪取したとか、そのくらいの偉業でないとダメだ。梅干しの種飛ばし大会で優勝したくらいで泣いたりしたら逆に笑われる。......と、生まれたときからそう思っていたが、存外そうでもなさそうだ。

先日、大阪の千日前にある居酒屋(地下鉄千日前線なんば駅から徒歩5分)で、焼き鳥の盛り合わせを食べながら、私より10歳ほどヤングな女性に突撃取材を敢行した。

「泣く男ってさぁ、君はどう思うのやねんかいな?」
「まあ、泣き落としみたいなことする男はイヤねでんがな」
「テレビドラマを観て泣く男なんて最低だよねでっしゃろ?」
「そんなことないわよ。感受性の豊か人なんだなって思うわまんがな」
「要するに、泣くことそのものには良いも悪いもなくて、どういう時に、どういう風に泣くかってことだよねでおますやろか?」
「結局そういうことよねまんねんでんねん」

とまあ、そんなことだった。つまり想像していたより、女性は男の涙に寛容なのでありましたとさ。でも今の若いコがどうかは、僕ァ知らんよ。

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てなわけで、男性もわんわん泣いていいことになったのであった。だいたい、男性にも涙腺が備わっているのだから、男が泣く権利も憲法で保障されてしかるべきだ。これを行使しないのは宝の持ち腐れである。せっかく銃を所持していながら誰も射殺しないまま錆びつかせてしまうようなものだ。

だからといって、女性と同じような泣き方をしても許されるというものではない。「よよ」と泣く、「さめざめ」と泣く、「しくしく」と泣く、が女性の泣き方だという定義があるわけではないが、どうも女性的なニュアンスがある。「ごむごむ」とか「まぬまぬ」とか、男の泣き方に相応しい擬声語も考え出さなくてはならない。

また泣きの様式も、女性のように8種類の決まった形があるわけではないので、これも男性向けに考案しなければならないし、それらをどう使い分けるのかも決めておく必要がある。問題が山積みだ。正直なところ、この件からは手を引きたいと思っていた。

「まったく厄介な仕事を引き受けちまって、泣きたい心境だよですたい」
大阪で女性に取材した帰りに、博多の中洲にあるキャバクラ(地下鉄箱崎線・空港線中洲川端駅から徒歩5分)に寄って、キャバ嬢のひとりに愚痴をこぼしたら、彼女も男の涙に興味を感じたらしく、いろいろ訊いてきた。

「嬉し涙って流したことあるのですたい?」
「そういや、ないねえばい」
「じゃあ、永吉さんの人生で嬉しいことがなかったってことよねですたい」
「嬉しいことか......何にもなかったような気がするなぁ。辛かったことか腹が立ったことか恥かいたことしか思いつかないよばい」

自分の幸薄き人生を顧みると、急に悲しくなってきて涙が溢れ出した。私が思わず腕で涙を拭うと、キャバ嬢が手を叩いた。
「それよ。その泣き方、男らしいわですたーい!」

そうだ。これが男泣きというものだ。私はこの、腕で涙を拭う泣き方を「アスタラビスタ様式」と名付けた。女性と対等になるためには、様式をあと7種類も考案しなければならないが、とにかく第一歩は踏み出した。

店を出たものの、まだ飲み足りなかったので、足を延ばしてもう一軒、仙台にある馴染みのノーパンしゃぶしゃぶ店(地下鉄南北線勾当台公園駅から徒歩5分)に行った。そのついでにシャブ嬢に訊いてみた。
「あのさ、キミ、男の涙って、どうおもうだべ」
「そうねぇ。男泣きはヴァイヤ・コンディオス様式で見るのが最高よねだべ」

愕然とした。仙台ではすでに男の泣き方が様式として確立していたのだ。私は居ても立ってもいられなくなり、いつも持ち歩いているタッパーに、残ったしゃぶしゃぶ肉を詰め込み、ジョッキのビールを水筒に移して店を飛び出した。

笑ってやってくれ。私は自分が男泣き様式の創始者として、重い十字架を背負っているつもりでいたのだ。私がそんなお節介をしなくても庶民は必要があれば、どこの誰がということもなく自らそれを生み出すものだ。

庶民という一見野放図な群は、本人達も気づかないうちに個々がひとつの細胞となり、相互作用し、時代の要求に応じようと、あたかもひとりの人間であるかのように行動する。私は迂闊にもそれを失念していたのであった。

【ながよしのかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも、ほぼ同時掲載しています。
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