[3231] 家族にとって「ちょうど良い家」

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《もう、運命としか言えないでしょう》

■買物王子の家づくり[24]
 家族にとって「ちょうど良い家」
 石原 強

■ショート・ストーリーのKUNI[114]
 今夜はカレーよ
 ヤマシタクニコ

■ローマでMANGA[50]
 糸は「ちばてつや」だった
 midori




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■買物王子の家づくり[24]
家族にとって「ちょうど良い家」

石原 強
< https://bn.dgcr.com/archives/20120322140300.html
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工事もひととおり完了して、2010年からスタートした家づくりも約2年を経て終了です。家づくりの最中は、人生に一度きりの一番大きな買い物と意気込んでいたので、なんだか気が抜けました。相当に肩に力が入っていたと思います。

●二人の息子は「階段」がお気に入り。

新しい家が家族の生活の場所として定着してきたように感じます。息子たちは特に階段がお気に入りです。長男カケルは、階段に座って絵本を読んだり、おもちゃを並べたりして遊んでいます。「隙間からモノを落とすと危ない」と何度注意しても聞きません。それを見ている次男ワタルも階段を登りたがって、フェンスに掴まって「開けて」と大騒ぎします。

これまでも、お風呂が好きだった二人ですが、新しい家のお風呂になったら、親が上がってからも、いつまでも入っていて出てこなくなってしまいました。広くて親子三人で入っても大丈夫。湯船の中でに腰かけるための段があるので、まだ小さいワタルでもそこに座るとお湯が多くても大丈夫。一人で出入りできるようにもなりました。

未だ部屋は片付いていない。散らかっているくらいが、自分の家らしいと強がってみるけど、やっぱりスッキリと暮らしたい。そのためにはやはりモノが多すぎることが問題なので、さらに処分をすることを決心しました。実行までは時間がかかりそうですけど、せめてこれ以上増やさないようにしよう。

細かいところは改善の余地がある。収納を増やすために棚を加えたい、雨が降るとベランダがびしょ濡れになるのでデッキをひきたい、小さい庭だけど緑を植えたい、あげ始めたら切りがない程、手を加えたいところはある。それはゆっくり足して行くつもりです。

●終わってしまうのも寂しい「家づくり」

仕事ではずっと他人の為にモノ作りをしてきましたが、自分のお金で、自分のためのモノ作りを依頼したのは始めての経験でした。

きっかけは、二人目が生まれて、住んでいるマンションが手狭になったことでした。毎日窮屈な感じがして、住まいを変えれば何かがかわるという期待感でした。でも家を探し始めたら、比較するにも条件が複雑で、目眩を覚えました。そして自分達の条件に合うものが、本当に見つかるのか不安になったこともありました。

建築家から提案されるプランは、土地の制約をかいくぐった見事なもので驚かされました。プランが固まった後は、モノ作り、もの選びの楽しさがありました。プランも都度細かく修正を入れました。建て始めてからは、できるだけ現場に足を運びました。最後は毎日通ってました。

家づくりの間にいろんなことを学びました。後で役に立つからということではなくて、純粋に好奇心で一杯でした。いろんなものを新しい事を見たり聞いたりして考えたり発見があったりと刺激的だったので、もう終わりだと思うと、ちょっと寂しい気分でもあります。

●「心地よい生活」を実現した家

家づくりとは、自分達の「心地よい生活」とはどんなものかを考えて、それを実現するプロセスだった気がします。

家づくりも最初は手探りでした。他の人の話をきいたり、本を読んだりしました。要望もいろいろあってなかなか絞り込めませんでした。様々な制限があるので、すべての願いを叶えることはできません。欲しい条件の中でも、比べたらこれは我慢してもいい、なくても大丈夫という事も沢山ありました。

自分達に本当に必要なものを選んで、同時に不必要なものをバッサリと切り落とすことが大事なのだと気がつきました。それからは、特別にデザインがカッコいいとか、豪華で自慢できるとかそういうことではなく、家族にとって「ちょうど良い家」にすることを目指しました。

おかげで自分たちが居心地がいい家ができました。サイズが小さすぎず、大きすぎない。オープンすぎず、閉じてもいない。家族の気配が感じられるなにもかもがです。今のところ不満な点は見つかりません。でもこの家は、他の人にとっても心地良いのかと問われると、そうではないと答えます。

家に友人を招待したら、リビングに入って「なんでこんなに天井高いの? もう一部屋作った方が良かったんじゃない?」と言われました。確かに天井が高いことなんて生活には何の役にも立たないんだけど、その無駄を気に入っているのです。

「自分の城ができましたね」と声をかけてくれる人もいます。意味が異なることを承知で言うと「城」っていう言葉からは、動かない頑丈な感じがするので、ちょっと違和感があります。そんな堅苦しいものではなくて、着心地の良い服を仕立てた感じです。

生活に必須の「衣食住」という三要素の中でも「住」は自由がきかないと思って距離がありました。与えられた環境を受け入れるしかない。それが家づくりを通して身近に感じるようになりました。

最後に、当たり前ですが家は一人では作れません。Boo-Hoo-Woo.comのオカザキさん、ミヤケさん、建築家のフルヤさん、工務店のオオハラさん、ほかにも本当に沢山の人の手で出来上がりました。名前を知らない、顔も合わせなかった人だっています。家づくりに関わってくれた全員に感謝します。

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家づくりに一年間おつきあいいただきありがとうございました。今回でこの連載は終了します。また新しいテーマを探して戻ってこようと思ってますので、そのときはまたよろしくお願いします。

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■ショート・ストーリーのKUNI[114]
今夜はカレーよ

ヤマシタクニコ
< https://bn.dgcr.com/archives/20120322140200.html
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今日のママはカメレオンだった。

ぼくたちのママは料理があまり得意じゃない。だけど、カレーだけは、とびっきりおいしい。

「今夜はカレーよ」
ママがそう言うとぼくたちーーぼくと双子の弟、サトルーーはとびあがって喜ぶ。早く食べたくて、わくわくして、できあがるまで待っていられない。タイムマシンでカレーのできあがった瞬間にジャンプしたいくらいだ。

でも、ママはいつも言う。
「これからカレーを作るから、その間、絶対のぞかないでね」
そして、キッチンのドアをぴったり閉めてしまう。真夏だろうといつだろうと。そう言われたら、だれだって、かえって見たくなるものだ。いや、ちがう。そうじゃない。

ぼくたちはドアのすき間から漂ってくるにおいに誘われ、いつのまにか、自分でも気づかないうちにキッチンの前にいる。そして、すきまからそっとのぞかずにはいられないのだ。

「見える?」
「見えるよ、ほら」
「ああ・・・ほんとだ」

ママはぼくたちが見ているとも知らず、調理台に向かい、すり鉢になにかを入れてごりごりとつぶしていた。ママは、最初、悲しそうだった。眉根にしわを寄せ、口元はかたく結び、目を見開いて。ごりごり、ごりごり。その手にどんどん力が加わるようだ。

「いつもと同じだ」
「ママが変身し始めた!」

ママの目はどんどん大きくふくれあがり、飛び出してくる。背は盛り上がり、顔つきがけわしくなり、息づかいが荒くなり、結んでいた口元はいつのまにかだらんとたれさがる。

その口からちろちろと舌の先がのぞく。と思うと、その舌がひゅっ! とのびて、1メートルほども離れたところにあったスプーンを一瞬でつかんだ。ぼくたちはおどろき、声をあげないようにするのがひと苦労だった。

「今日のママは......」
「カメレオン?!」

そのとき、緑色の皮膚に包まれた片目をこちらに向け、もう片方の目はすり鉢に向けたまま、ママがにたりと笑った、ような気がした。ぼくたちはぎゃーっと叫びーーそれでも必死で声を殺すことは忘れなかったーードアの前から転がるように走り去った。

それから数時間後、できあがったカレーはものすごくおいしかった。スプーンで口に運ぶひとさじひとさじがおいしさのかたまりだった。ぼくたちふたりは顔を見合わせ、うなずきあった。

「ママのカレーは最高だな!」
「カメレオンのママでもな!」
もちろん、そんなことは口には出さなかったけど。

最初にママのカレー作りをのぞいたときのことを、今でも覚えている。ぼくたちは今より小さかった。だから、ママは「ぜったいに、ぜったいに、このドアをあけては、だめよ」と、何度もくりかえし言った。

もちろんぼくたちは約束した。
そして、約束を破った。
「サトル」
「なんだい、マモル」
「見たいなあ」
「うん、見たい」

そっとドアに近づき、すき間からのぞくと、ママは今日と同じように、調理台の上でスパイスと格闘していた。ぼくたちはただ、大好きなママがカレーを作っているところが見たかっただけだった。ママは、ごりごりと音をさせながら、もともと眉が下がり気味で、そのせいで悲しげに見える顔をいっそう悲しげに見せていた。

そのうち、ママはどんどん、われを忘れてカレー作りに没入していった。目は焦点を結ばず、体は硬直し始めた。大量の汗をかいているようだ。ぼくたちは、ママの具合が悪くなったのだと思った。

キッチンに入っていって、ママ、どうしたの?! と言おうとして、でも、決してのぞいてはいけないと言われたことを思い出し、ものすごく困って、困って、どうしていいかわからなくなった。

ぼくもサトルも、ドアの前でへたりこんでしくしくと涙を流し始めたとき、ママの背中がめきめきと盛り上がって翼がはえ、口がとがって、体中が羽根でおおわれはじめた。すり鉢の前にいるママはみるみる大きな一羽の鳥となり、背中の翼はいまにも飛んでいきそうにはばたきを始め、キッチンの空気を揺らせた。本当なんだ。

だって、そのとき起こった風で天井のライトがゆうらゆうら揺れていたし、いまでも、その様子が思い浮かぶのだから! もうぼくたちはただ口をぽかんと開け、見ているだけだった。

そして、その大きな鳥がつくったカレーは、とてもおいしかった。

それが最初。そして、それから何度も、ぼくとサトルはキッチンの前で、あのどきどきするものを見てきた。声を殺し、身を硬くして、ほんの数ミリのドアのすき間から、見えるものを見てきた。

あるときはママは巨大なハンミョウになった。別のあるときはカブトガニだった。うそじゃない。ほんとうなんだ。ママは硬い外骨格に包まれたからだでのたうつようにスパイスを挽き、スープを煮立て、フライパンを揺すり、ぼくたちは恐怖と期待でふるえあがり、ドアの前に釘付けになったまま微動だにできずそれを見ていた。

そして数時間後、なにごともなかったかのようにドアが開き、ママが疲れ果てた顔で言うのだ。
「さあ、カレーができたわ」
ぼくたちは歓声をあげる。すばらしい時間のはじまり。

ある日、サトルが言った。
「ママには、こいびとがいるんだ」
「こいびと?」
サトルはうなずいた。
「このあいだ、ママがそのひとと一緒にいるところを見たんだ」
「どうして、こいびととわかるんだ」
「そんなの、わかるよ。だれにだって」
「ふうん」

サトルによると、そのひとはママと同じスーパーに勤めている。野菜の仕入れ担当でベジタさんと呼ばれている。背はあまり高くないが、がっしりしていて声が大きい。

「別に......こいびとがいたっていいんじゃないか?」
「もちろんいいんだけど、ママはベジタさんといるときは、なんだか違う顔なんだ」
「違う顔?」
「うん」
サトルは何を言いたいのだろうと思った。

また別の日、サトルが言った。
「今日、ママがベジタさんと並んで歩いてるところを見た」
「で?」
「ママはとても楽しそうだった」
「楽しそうならいいじゃないか」

そういって、ぼくははっとした。おととい、ママのカレーを食べたとき、なんだか少しちがうような気がしたのだ。なんといえばいいのか、そう、パンチが足りない、ていうか。

さらにぼくは思い出した。あるときママに聞いたことがあった。
「どうしてママのカレーはおいしいの?」
「さあ? 気持ちが入っているからじゃないのかしら」

気持ち。
そうか。気持ち、なんだ。

ママはカレーをつくらなくなった。キッチンにこもり、決してのぞかないでと言うこともなくなった。悪い予感があたったと思った。ベジタさんのせいだ。そうとしか考えられない。

「ママがベジタさんのバイクに乗ってた。二人乗りしてたんだ」
ベジタさんは仕事に行くときもどこに行くのでもバイクに乗る。バイク好きなのだ。
「ママはベジタさんにしがみついて、とても楽しそうだった。笑ってた」
サトルが言うのをぼくは黙って聞いているだけだ。ぼくたち子どもにわかるわけがない。

そう。ぼくたちにはわからない。ぼくたちがもっと小さかったころ。パパが生きていたころ。パパが突然死んで、ママがぼくたちと残されたとき、ママがどんな思いをしてきたか。知っているのはママがいつも悲しげな顔をしていたこと。パパがいたころはあまり作らなかったカレーを、なぜか時々つくるようになったこと。そして、少しずつカレー作りの腕をあげてきたこと。

「ママのカレーが食べたいなあ」
「ぼくも」
「しばらく食べてないし」
ぼくたちはたまりかねて、頼んでみた。
「そう? そんなに言うならつくってみようか」

ママはほほえんで言った。そういえば最近のママはおだやかにほほえんでいる日が多い。

できあがったカレーはおそろしくまずいものだった。それは食べてみるまでもなくわかっていた。ぼくたちはドアのすきまからいつものように見ていたが、ママはついに、鳥にもカメレオンにもハンミョウにも変身しなかったから。ママは、ただのおばさんにみえた。

ぼくたちはママが好きだった。でも、それ以上にママの作ったカレーが大好きだった。ママのカレーはおいしいなんてものじゃなかった。わくわく、ぞくぞくして、やがて食べ終わるときがくると思うと悲しくなるほどだった。どんな詩人だってママのカレーの味を表現しつくすことはできないだろう。

ある日突然たくさんの人がやってきて、ママのカレーがノーベル賞に決まったと言っても、ぼくたちはおどろかなかっただろう。ママのカレーは、誰が何と言おうと、最高だった。だけど、ママは、ただのママなのだ。ああ、なんだか涙が出る。

そんなに深く考えていたわけじゃない。だけど、ぼくたちふたりの結論は同じところにいきついた。ぼくとサトルはある晩、ロープを持って外に出た。そして、ベジタさんがいつも早朝にバイクで通る道にそれを張っておいた。

ぼくたちは現場を見たわけではない。だれも見ていなかった。なのに、バイクに乗ったベジタさんがロープにひっかかり、空にまいあがり、それがきれいな弧を描きながらスローモーションフィルムみたいに落ちてきて、路面にたたきつけられる場面を何人もの人が見てきたように話した。

打ちどころが悪くてベジタさんはまもなく死んだ。そのことをぼくたちが知ったのはママの口からだったか、それともテレビのニュースだったのか。
「警察では何者かが故意にロープを張ったとみて捜査を進めています」

ママはぼくたちの前では泣かなかった。ただ、なにかがこわれたみたいで、あまりものを言わなくなった。ぼくたちはしんぼう強く待った。

ふた月が過ぎたある日、ママが言った。
「今夜はカレーよ」
ぼくたちはうなずき、待ちに待った日がきたと思った。
「作ってるところは絶対に見ないでね」

いつもと同じだ! ぼくたちの期待がいやがうえにも高まる。だから、いつものように、ぼくとサトルは約束を破ってドアの前のすきまからママを見守った。

ママは調理台に何種類ものスパイスを入れたすり鉢を置き、ごりごりとすり始めた。以前と同じく、下がり気味の眉のせいで悲しげに見える以外、ほとんど無表情で。でも、その手が少しずつ早くなり、ママのたましいは次第に別の世界に向かい始める。

息づかいが荒くなり、腕から肩にかけての筋肉が硬くなっているのがTシャツの上からでもわかる。そうだ、ママ、その調子だ。ぼくたちが目をこらして見ていると、がくっ! とママの首が揺れて肩から何かが盛り上がり、天井に向かって成長していった。

みるみるそれが雄大な翼へと変わっていくかに思えたとき、ママがふとわれに返ったように目をまたたかせた。その目から涙がはらはらとこぼれ、腕の動きが止まり、すると翼はしぼみかけた。ママ! だめだ。がんばるんだ! ぼくたちは声に出さず、祈り続けた。それが通じたか、ママはまた手を動かし始め、翼は張りを取り戻した。

そして、ママの体は分厚い皮膚でおおわれ、唇は鋭い歯をあわせもつくちばしになり、いつのまにかキッチンには一匹の翼竜がいた。その翼竜は丸い大きな目から静かに涙を流しながら、いつまでもスパイスを挽いていた。

何時間か後、髪を乱し、やつれたママがキッチンから出てきた。
「カレーができたわ」

ママのカレーはやはり最高だった。以前と比べると少し味が変わったようにも思うが、そのうちママも勘を取り戻すだろう。ぼくたちはママのカレーが大好きだ。ママのカレーのためなら、ぼくたちは何だってするのだ。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
< http://midtan.net/
>
< http://yamashitakuniko.posterous.com/
>

「スターウォーズ」のアナキン役で出ていたジェイク・ロイドの現在の写真を見てちょっとびっくり。先頃亡くなったデイビー・ジョーンズの晩年の写真もかなりびっくりしたけど。ジュリーも太るし、人間は変わるんだなあ。ひとごとじゃないぞと言われそうだけど。

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■ローマでMANGA[50]
糸は「ちばてつや」だった

midori
< https://bn.dgcr.com/archives/20120322140100.html
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今回、「ローマでMANGA」というタイトルで書き始めて50回目の節目を迎えました。この節目に、今後は話題をちょこっと変えようと思うに至ったきっかけが起こったとは、神様はお見通しだったのか......。

話題を変えようと思ったきっかけは、先日来伊された東京大学大学院教育学研究科教授の白石さやさんにお会いしたこと(お会いした当初は互いに「先生」と呼び合っていたけど、白石さんのほうから「先生はやめましょうか」と言ってくださって苗字+さんで呼びあいました)。

白石さんはコーネル大学の文化人類学部で東南アジア研究のPh.Dを取得し、国民国家、近代的学校教育、近代家族、近代的子供期等の研究をされてきましたが、1990年代頃から東南アジアの子ども達の生活がマンガやアニメによって大きく変化してきたこと、それがアメリカや欧州での普及の仕方と異なることから関心をお持ちになり、15年余りにわたって世界の各都市での調査を重ねて来られたとのこと。

その調査をもとに「文化のグローバル化モデル」として本にまとめたいとお考えで、「欧州での普及に関しては『Candy Candy』以来の先進国としてのイタリアを見逃すわけにはいきません」ということでイタリアにいらっしゃり、日本アニメを吹き替えている声優、オタクたち、マンガ学校の生徒に混ざって私もインタビューを受けました。

講談社のモーニング編集部で「ローマ支局」をしていたことや、イタリアでのマンガの推移、日本MANGAの広まり方など、知っていることや私の考察をお話するととても面白がって、「こういうこと本に書いてくださいよ」とまで言ってくださったのでした。

日本の大学で「マンガ科」なるものが設置されていること、それが増えていることは知っていますが、そのほとんどが専門学校のようにMANGAの描き方を教えることに止まってことに不満を覚え、大学であるからにはMANGAについて分析と考察をする学科があってもいいのではと常々思ってました。

この件には白石さんも同意見で、それが生まれない背景には、MANGAを考察の対象とする人が少ないことや、情報の蓄積がないのだとのご意見でした。私の経験や知識がそうした情報蓄積の一部になれば、今までしてきたことも無駄ではないと強く思い、その発表をとりあえず置いておく場にこのデジクリが最適と、今回から私とMANGAとイタリアの関わりを、過去に遡って情報蓄積したいと思います。

第一回目は題して「糸は『ちばてつや』だった」

私がイタリアに住んで、MANGAに関わった仕事や活動をするようになったのは「ちばてつやさん」のせいというのは嘘だけど、なにかつながりの細い糸はある。私とちばてつやさんの間に介するのは講談社だ。

もったいぶってないでさっさと言うと、まず、1962年に創刊された講談社の「少女フレンド」で読んだちばてつや氏の「ユキの太陽」で、8歳の私は頭をぶん殴られたという"事件"がある。

それまでも少年誌でちば氏の作品は読んでいた。でも私は女の子である。「ちかいの魔球」は面白く読んだけど、ちょっと距離があった。「ユカをよぶ海」や「リナ」も読んだはずだけれど、頭をぶん殴られなかった。なぜなのかは謎。この二話を読んだ時はまだ小さすぎたのかもしれない(字を読めるようになったのは早かった)。

ユキが私と同年代という設定だったせいか、少女マンガなのにそれまでのよよと泣き崩れる主人公と違って元気いっぱいだったせいか。。。

第一話は、孤児のユキが孤児院に迎えに来た里親のおじさんの頭を、嬉しくてシャベルでぶん殴ってしまうところで終わった。私は続きが読みたくて読みたくて、じっとしていられない一週間を過ごし、また次の週も続きを読みたくて読みたくて、毎週50円を握って近所の薬局へ「少女フレンド」を買いにいくのが楽しみで仕方がなかった。

大きく時間が飛ぶ。短大を出た友だちが講談社の子会社に就職し、「少年マガジン」編集部に配属された。私を買ってくれていたその友人が、「少年マガジン」の編集者を紹介してくれた。その編集者、阿久津さんが、ちばてつやさんの担当編集者だったのだ。当時は「あしたのジョー」の連載中だった。

だから、ちばてつやさんとは直接面識がないのだけれど、私の中では人生の転機の中で姿を表した方なのだ。阿久津さんには私の絵を見てもらったりしたけれど、少年誌には合わずに仕事には発展しなかった。でも、友だちも交えて時々お寿司をご馳走になり、編集の仕事の話を聞くのは大きな楽しみだった。

それから話はさらに4年後に飛ぶ。私が大学を卒業したのは、不況不況と言われていた年だった。実際、4年制への募集は一件しかなかった。女子の四大卒は大いに敬遠された年だった。

私も他の同窓生も、それぞれに入社試験を受けに行ったのだった。私はどこもかしこも落ちて、知り合いを通じて籐家具の製造販売会社に就職した。「デザイナー」という触れ込みだったけれど、まずは現場からということで販売店へ回された。

本当にデザイナーとしてやる気があれば、自分でどんどんデザインして案を上げていけばよかったのだけど、立体ものはどうも...やりたかったのは平面だし...と自分で境を作り、不満をためながら販売員に一年半ほど収まっていた。

1978年、同じ学部に通って卒業後も付き合っていた友人Yに二人でヨーロッパを旅行しようと提案された。不満だった就職先を未練なくあっさり辞めて、3か月の南ヨーロッパ旅行に出発。イタリアに恋して「一年は住んでみたい」という思いを胸に帰国。その思いを実現すべく派遣店員でお金を貯めて、翌年、またイタリアのローマの地を踏んだのだった。

ローマでは土産物屋さんで働いたり、語学学校に通ったりしながら、私はある下心を持って講談社にコンタクトをとった。下心とは、ゆくゆく何か仕事になっちゃったりして......というものであり、イタリアで発売されるマンガ月刊誌をことごとく購入し、出版社、版型、掲載作品の作者名、タイトル邦訳、内容のあらすじなどを書いて阿久津さんに送るというものだった。

これが、その後の私のイタリアにおけるマンガとMANGAに関わっていく道をつけたことになるわけ。これも、神の思し召しではないかと思ってしまうのだが、私がイタリアを訪れた1978年というのは、それまでのイタリアにおけるマンガのあり方を一変するマンガ月刊雑誌が創刊され始めて間もない時、そして「一年の予定で」再び戻ってきた1979年以降は、次々とマンガ月刊誌が創刊されたのだった。

その後、5年程度でこのムーブメントは消えてしまうのだが、ちょうど、創刊ブームの時に長期滞在しに来た、というのは、もう、運命としか言えないでしょう。

それまでのイタリアのマンガ界状況は知らなかったし、否、多くの日本人と同じように、世界中どこでもマンガがあるのは当たり前と考えていたので(自分にとって当然のことは他人にも当然とつい思ってしまいますよね)、イタリアのマンガ界がその時に大きく変わったのだとは、後になってわかってきた事実だった。

私がイタリアに来た時にあった雑誌は──

◯Diabolik(1962年創刊)
< http://www.diabolik.it/
>
< http://www.diabolik.it/popup_cronologia1.asp?id=16
>
姉妹作家が描くスマートな泥棒カップルの話。白黒単行本、毎回読み切り。

◯Tex(1973年創刊)
< http://www.sergiobonellieditore.it/auto/cpers_index?pers=tex
>
カウボーイが主人公の単行本、白黒。単行本ごとに読み切りではなく、何号かにわたっての中編。作家、作画家、ペン入れ、表紙絵とチームで制作して週刊を可能にしている。出版社のSergio Bonelli Editoriでは、こうしたチームを幾つか作り、現在では30近くのタイトルを発行している。

◯Lancio story(1974年創刊)
◯Skorpio(1977年創刊)
< http://www.editorialeaurea.it/
>
どちらもEura Editoriale社刊。これは週刊だったような記憶がある。大きさは日本のMANGA単行本より若干大きめ程度。表紙はカラーで、内容は白黒。主にスペイン、スペイン経由のアルゼンチンの作家の作品を複数載せていた。つまり、この出版社が開拓、育てた作家のオリジナル作品ではなく既成の作品の出版権のみを購入して出版なので、安価で頻度の高い出版を可能にした、というわけ。

◯Linus
◯AlterLinus(1974年創刊)
◯Alter Alter(1977年創刊)
< http://www.slumberland.it/contenuto.php?tipo=rivista&id=2&nome=alterlinus_/_alteralter_/_il_grande_alter
>
どちらもMilano Libriという出版社刊で、読み物とマンガが半々くらいの雑誌。版型は変形A4版(若干縦が短い)。

"Linus"は、ご存知、シュルツの「ピーナッツ」を主に掲載。他の二誌はヨーロッパマンガに興味がある人なら知っている、フランスの作家メビウスの作品も時々載せていた。

アルゼンチン、スペインでデビュー、活躍していたイタリア人作家を取り上げ逆輸入でイタリア人作家の技量を知らしめた(Hugo Pratt)。
セクシーコミックス「Valentina」の作家Guido Crepaxのデビューもこの雑誌。

私が阿久津さんに送るようになってから、この雑誌からSergio Toppi, Filippo Scozzari, Andrea Pazienzaという後の(と言ってもほんの数年なのだけど)大御所を輩出し、新しいイタリア・コミックス・ムーブメントを起こした「バルボリーネ・グループ(Mattotti, Carpinteri, Igort, Jori, Kramsky)」の作品を載せ、実験的コミックスを世に出した。同時期、「悪い子達」の雑誌が次々と出た。読み物も多く、マンガも読み物もタブーを無視したアングラ的内容。

◯IL MALE(悪)(1977年創刊)
実験的な作品ばかり載せた月刊誌。

◯Il Cannibale(食人)(1979年創刊)
Vincenzo Sparagna というジャーナリスト、作家、イラストレーターがIL MALEから離れて作った雑誌。

◯Frigidaire(不感症)(1980年創刊)
< http://www.frigolandia.eu/catalogo_frigidaire_1_24.htm
>

Sparagna 氏が実験的、意欲的作家群Stefano Tamburini、Filippo Scozzari、 Andrea Pazienza、Massimo Mattioli、Tanino Liberatoreと共に創刊。先に記述した「バルボリーネ・グループ」に名を連ねた作家がほとんど。その中で雑誌創刊に関わっていないが、作家としてIgortも参加。このIgortが後に講談社モーニングと関わりを持ち、私が引きこまれていく。
Igort < http://www.igort.com/home.html
>

◯Corto Maltese(1983年創刊)
Fumetti RIZZOLI/MILANO LIBRI, Collana CORTO MALTESE RIVISTA

イタリアの大手出版社Rizzoli、後にMilano Libriから創刊された「良い子の」マンガ雑誌。アングラ的ではなく、ちゃんとストーリーがあり、伝統的なイタリアコミックスと比べて洗練された絵柄のマンガ作品を載せた。

雑誌タイトルと同名の、大御所Hugo Prattが1966年から描いているストーリーを表看板に持ってきた。先出のCrepaxやPazienzaも名を連ねた。ここで連載を始めた柔らかい線のMilo Manaraが大人気を博した。この作家は各雑誌で引っ張りだこになり、読者の食指を動かすために大々的に掲載をうたいながら実際はカラーイラスト一枚の掲載だったりして、読者の当てがはずれて少しづつ漫画雑誌の読者離れを引き起こした間接的原因となった、と私は考えている。
Milo Manara < http://www.milomanara.it/
>

その他にも、

◯1989
スペイン、アルゼンチンの作家のSF専門誌。結構長く発行して、年代が進んでタイトルの1989年になってしまった時は一挙に2989(年)に改タイトル。この年に辿り着く前に廃刊。

◯Metal Hurlant
フランスの同名雑誌のイタリア語版。こちらもSF。

◯Pilot
< http://www.fumetto-online.it/it/ricerca_editore.php?EDITORE=NUOVA%20FRONTIERA&COLLANA=PILOT&vall=1
>
フランスの同名雑誌のイタリア語版。フランスコミックスの一般人の日常や愛憎の葛藤など描いた、ポップアート調の洒落た雰囲気の漫画雑誌。中とじで、見開きで一枚絵になる表紙も他の雑誌と違っていた。一枚、雑誌から表紙だけはがして額に入れて部屋に飾っていたことがある。

◯Comic Art
遅れて出てきた月刊誌。ローマの同名出版社刊。後にこの編集長兼出版社代表者と会ったこともあるけれど、その人柄からもいかにも「この形態が売れてるから便乗しよう」というだけで発刊、ポリシーがなく読んで気持ちのよい雑誌ではなかった。

イタリアマンガ界の概要を言えば、それまで幼児、子供を対象にしたビジュアル雑誌にほそぼそとギャク調の短編マンガか、大人向けの白黒ポケット版がいくつかある程度だった。

そこへ70年代の中頃に、オトナの文化的素養を持つ読者の鑑賞に耐えられる、美術的、社会的、哲学的な作品が出始め、70年代終わりから80年代始めにかけて怒涛のごとく現れた。私の渡伊の時期はそんな大事な時期と重なったわけだ。

(イタリアのマンガの概略については飛鳥新社刊「euromanga」2号の読み物「イタリアの漫画」で知識を得られます。下記アマゾンのURL、「中身検索」でこの記事の全文を読めちゃいます)
< http://www.amazon.co.jp/dp/4870319055/
>

さて、これで私の「情報蓄積」の下地塗りが完成。次回から私が関わった具体的な事例を紹介して組み立てていきます。

【みどり】midorigo@mac.com

国会中継みてますかー? NHKだと大事な所で切ったりするので、ぜひニコニコ動画で。民主党がどんな政治をしているのか、国民の義務として確かめましょう。たとえば、3月19日の参院予算委員会。
< http://www.nicovideo.jp/watch/sm17296977
>

主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/
>

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編集後記(03/22)

●読売新聞3/18の読者投稿欄「論壇風発」のテーマは「外国人労働者」だった。トップに掲載されているのは、「日本の人口減少は加速して労働力が不足するから、経済や社会の活性化を図るためには外国人労働者の受け入れは不可欠だろう」とほとんど思考停止状態で一般論をのたまう71歳無職。全7編中6編が同様の積極的賛成論、1編が消極的賛成論である。

いわく「私が今まで出会った外国人労働者は、勤勉で仕事にも手を抜かない人たちばかりだ」「外国人労働者とのつながりの大切さにも思いを巡らせる必要がある」「永住してもらうことを視野にサポート態勢を作る必要がある」「挨拶されると気持ちがいい。さらに交流を進めたい」などと、警戒感は皆無である。さらには「私たちが外国人の文化や習慣を正しく理解し、しっかりした受け入れ態勢を整えれば、治安への不安はないと思う」いう元法廷通訳もいる。これは明らかな間違いで、日本の文化と習慣を正しく理解すべきは外国人労働者の側ではないか。唯一の消極派は、トラブルや不安を取り除くため、あらかじめ共存の方法を考えておく必要があると書く。ああ日本人はお人好しにもほどがある。というより世界を知らない大バカである。

そして、この欄でいう外国人労働者とはなにか。現状の「専門的・技術的職種のみ受け入れ」だけでなく、単純労働者まで含んでいるようである。そこはハッキリ分離しなければならない。単純労働者まで受け入れを認めたら日本は終わる。そのことはヨーロッパ各国の、とりかえしのつかない大失敗が証明している。言論人の署名入りの外国人労働者導入賛成論ではなく、署名はあれどほとんど匿名同様な人たちの投稿という形態を用いて、新聞は一定の方向に世論を誘導しようとしている。賛成ムードを醸成しようとしている。在京6紙すべてが、専門的・技術的分野とは評価されていない分野における外国人労働者の受け入れに賛成しているのだ。ますます新聞は信用できない。(柴田)

●自分のための......共感します。天井の高さの無駄もわかります。必要ですよね。連載ありがとうございました!/ひとごとじゃないと思う今日この頃です。ワタクシ今までの人生の中で一番太ってます......。/国会中継、たまに見てます、というか聞いています。/疲れ目。最近なら経理ソフトへの入力、きつめスケジュールでのコーディング作業、長時間セミナーでのスクリーン凝視、観劇などが重なると目が痛い。頭痛もする。読書すらしんどい。で、Siriやオーディオブック。後者はとうとうfebeの月会員になってしまった。購入するのは持っている本が多いが、耳から聞くと新鮮。オーディオブックの良いところは、繰り返し聞くことが苦にならないところ、場所を選ばないところ。家事をしながら、歩きながら、お風呂に入りながら聞ける。聞き逃しても、二度目、三度目で聞けばいいし、読んだことのある本なら少々飛ばしても理解できる。febeの欠点は、新しい本がなかなか発売されないところ、まだまだ数の足りないところ。オーディオブックの欠点は時間がかかるところ。本なら一時間程度で読める本でも、朗読されたら三倍はかかる。倍速版の用意されているものもあるが、ながら聞きなので倍速だと聴き取れない(hammer.mule)
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