わが逃走[121]モノクロが好きだ。の巻
── 齋藤 浩 ──

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ここ一年ちょっと、趣味の写真はほとんどモノクロフィルムで撮っている。それまではカラーが当たり前で、モノクロは教育用とかノスタルジーを演出するための手段、みたいな認識だった。

ところが、である。

二年ほど前、ひょんなことから憧れのカメラ、ライカM3と50ミリレンズを手に入れたのだ。まずカラーで撮ってみたところ、現代のレンズのような鮮かさには欠けるが、階調の美しさに目をみはる結果となった。

そうこうしてるうち、そのレンズは(当時ポピュラーだった)モノクロフィルムを前提に設計しているということに気づき、ためしにネオパンSSで撮ってみたところ、仕上りのあまりの美しさに腰を抜かしたのだった。

それ以来、すっかりモノクロにハマってしまったオレなのです。

モノクロの魅力をひと言で表すのは難しい。なんでもアリもいいが"色彩を用いずに表現せよ"というルールはとても楽しいし、こうした条件があってこそ創意工夫する余地が生まれる。

いわゆるクリエイティビティが刺激されるってやつか。

また撮影の際、ファインダーに捉えた世界から脳内で色彩を取り除き、モノクロームの世界をイメージしてからシャッターを切る。この行程のおかげで、かなり納得のいく写真が撮れるようになった気がする。




仕上がりをイメージしながら制作する。これは写真だけでなく、すべてのクリエイティブにおいて基本だ。

しかし、自動化された世の中ではつい忘れがちになってしまう。それを改めて意識できるのがモノクロの醍醐味だと思う。

上達を体感できる自己克服型創造遊びの、最もシンプルなもののひとつが、モノクロ写真なのではなかろうか、てなことを考える今日この頃なのである。

そもそも情報過多な昨今、色彩がそこまで重要か? とも思う。ビビッドな世界の中では逆にモノクロームの方が目立つし、目的に対し色彩に必然性がないのであれば、それを排除した世界のほうが、惑わされずに本質が伝わる。

もともとカラー写真は爆撃対象を確認するための軍事技術であり、つまり、説明を目的として開発されたという経緯がある。

人はめんどくさいことが嫌いだ。つまり本能的に説明を嫌う。努力も嫌う。説明されたことはすぐに忘れるし、その意味を知ろうともしない。しかし、自分で興味を持った物事は忘れない。

モノクロ写真は色彩を見る者の想像に委ねる。

例えばリンゴの写真を見せられると、自分の記憶の中におけるリンゴの赤を想像する。

自分でそうしようと努力するのではなく、見た瞬間、自分が今までに見たリンゴの中で最も美しい赤を思い出し、その写真にあてはめてしまうのだ。

純粋な階調だけで表現された形態や質感に、受け手の記憶が組合わされる。

すべてを語らないこと。一部を受け手に委ねることで、そのビジュアルはより印象に残るものとなる。

もちろん、色彩だけでなく露出や構図なども含めて言えることだが、強い写真というものは、だいたいそんな構造なのではなかろうか。

さて、いざモノクロ写真を撮ろうとした場合、モノクロフィルムで撮影するというのが最初に思いつく方法だろう。オーソドックスかつ確実な手段である。

これ以外にも、デジカメで撮ってモノクロ変換したり、カラーフィルムをモノクロに焼いたり、なんて方法がある。

しかしこれを実行するとなると、甘えとの戦いになる。

デジカメだと「すぐに確認できるからいいや」。カラーだと「後でモノクロに変換できるから、とりあえずカラーで撮っておこう」。

こういった気持ちを抑え込むだけの強い意志のある人は問題ないが、オレの場合、基本的に隙だらけの性格なので、ついつい甘えてしまう。

その結果、緊張感がなくなり、必然性のない写真になってしまう場合が多い。

しかし、デジタル全盛の今はその方法が当たり前だし、今後モノクロフィルムの入手が難しくなったらそうせざるを得ないだろう。

たしかに色彩を主軸として構成したつもりの写真でも、モノクロ変換してみたら意外とイケる、なんて発見もある。

実際、撮影時の印象をイメージしつつ現像ソフトをいじくる行為は、暗室作業と同じくらいタノシイし、クセになるほどオモシロイと言える。

とはいえ、フィルムがあるうちはフィルムで撮る方が、気持ちに隙ができない分いい写真が撮れるような気がする。

あくまで気がするだけですけどね。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられ
ないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィ
ックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。