デジタルちゃいろ[35]コミュニケーションと言語と不思議な友情と
── browneyes ──

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ワタシは異国の方々とコミュニケーションするのが好きである。何故なのかは分からないが、幼い頃からそうなので、今更理由を探しても、知恵が付いた後の後付けにしかならなそうなので難しい。

コミュニケーションに使える道具は、日本語と拙い英語のみ。しかも英語は、過去の交友関係を忠実に反映している様で、米国人と話すと「きみ、ゲットー出身の友だちいるでしょ」と突っ込まれることもある。

アクセントで育ちや出身をシビアに嫌らしく判断するという英国人には、米語的の細分化は問われないものの、英国の外に出た事のない人には逆に、米語アクセントを面白がられたりもする。このあたりは場当たり的に耳で覚えている非ネイティブには如何ともしがたい。

その上、英語のブラッシュアップ欲は潰えてしまっているため、いつまで経っても仕事には活かせないレベルに留まっている。

英語をきちんと道具として使うようになったのは、ワタシの場合は非英語圏の友人とのコミュニケーションで必要に迫られてのことだった。相手は日本在住数年目だったこともあり、簡単なコミュニケーションは相手が耳で覚えた日本語でほぼ事足りる。

しかし、仲良くなっていくにつれ、どんどんと話題も内容も複雑になっていく。政治や経済や文化や、将来の夢や悩み事や相談事、仕事のことや家族のこと、等々。そうなると相手の日本語にも限界がある、かといって、こちらは相手の母語は一切わからない。

そこで共通言語として英語をしぶしぶ使うようになった。相手も非ネイティブが故に、発音や文法がラフなのはお互い様、という前提が、よくある「日本人は完璧な英語を話そうとする」の部分をスキップさせてくれて、道具としての英語を活用するコトが特別なことではない、しかも楽しい、という体験を与えてくれた気がする。




そんな感じで、相手が英語か日本語がわかる異人さんとであればコミュニケーションをオフラインでもオンラインでも積極的にとるようになって久しいのだが、最近になって共通の言語をほぼ持たない人とたまに出くわすようになった。さすがにこればっかりはオンラインではあり得ないことだけど。

昨年ちょっとしたご縁で知り合った中華料理店の中国人シェフも、必要最低限の共通言語を持ってるとは言えない知人の一人だ。厳密に言うと、ワタシ自身がその方自身とサシでコミュニケーションをとる仲、ではない。

ワタシとその中国人さんの間にいる、そのお店のホールを取り仕切ってる日本人の方とセットで知り合った。今年の春は、身内的な人たちだけの春節(というか春節大晦日)にも誘って戴いたりした。その二人の関係がとても興味深い。

シェフさんは過去の短期滞在を除いても、現在日本在住数年目。日本語はかなり苦手。苦手な割におしゃべりで、何かを伝えようと試みるものの、何が言いたいのかさっぱりわからないコトの方が多い。

同じ漢字圏なので、手元に筆記用具があれば、多少は補間可能。大事な話でシェフさんが「しっかり伝えたい」「しっかり聞きたい」と急いた気持ちになると(そう、シェフさんはせっかちでもある)、話半分で紙とペンを誰かに要求したり、なんてことも時折(笑)。

実はワタシ、以前、ボランティアで某自治体で日本語教師をやっていたこともあり、資格は取らずのボランティアながら、その際に、教えるための教育もけっこうしっかり目に受講させられた。

講座でも、日本語習得度の低い異国の方が話す不完全な日本語を、「実際は何が言いたいのか」推測するのは、人より得意な方だった。

シェフさんの場合は、そんなワタシでもお手上げレベル。なんでだろう、中国語話者だとなまじ日本語の音読み言葉と被ってしまって、耳から脳に届く前に色んなオトが混同されてしまうのかな。

しかも、その発話のせいなのか、せっかちな彼の日本語会話のクセなのか分からないが、何を聞いても、本当に必要最低限の単語の羅列の域を出ないセンテンス未満の言葉にしか聞えない。日本語未習得者とはいえども、ここまでの人はあまり出会ったことがない。

例えば、彼の作った辛い料理をこちらが「これ、おいしい」と言ったところ、前後に聞き取れない何かを言いながら「からい、おいしい」と満面の笑みで言ってくるが、オウム返しの同意なのか、辛いモノは美味しいね、なのか、辛いけど美味しいね、なのか、彼自身も辛いのが好きだと言いたいのか、全く判別がつかない。

考えてみると、上述の、始めて英語を使うに至った友人と、日本在住歴は同程度だと思うのだが、日本に限らずその土地の言語習得度合いは、その土地の中での母国(語圏)のコミュニティの大きさと反比例して下がるケースが多いように思う。

その土地の言葉を使わなくても暮らせる・暮らせない、仕事が出来る・出来ない、という違いは言語習得の必要性は大きく関わってくる。必要性があまりなければ、いくらその土地にいても、そんなコトに時間を使う余裕はないだろう。

恐らく日本で最も多い印象の中華料理店、料理人さんの腕もピンキリで、単純に母国の料理の提供なら出来そう、みたいな動機で始めただけ、みたいなお店もあれば、母国でもきちんとその道の経験を積んだ人もいる。

件のシェフさんは母国でしっかり修行をした料理人で、なにがしかの受賞もしているそう。メダルも見せて貰った。なので、日本で商売、と言っても、自ら積極的に言葉でアプローチする、というのは優先順位としては低いのかもしれない。自分の腕で勝負であり、腕が頼り、そして腕が誇りなのだろう。

そんなシェフさんと仲介日本人さんは、シェフさんの以前いたお店で、客と料理人として出会ったそうです。きっかけ詳細まではわかりませんが、何故か意気投合して、度々お酒を飲んだりする仲になり、彼の故郷、中国に何度か連れて行ってもらったり、そして、遂には共にお店を始めるに至ったとのこと。

仲介日本人さんからそんな話を聞いている間も、厨房を出たり入ったりしながらシェフさんは脇にいて、仲介日本人さんは折に触れ「ね、あの時はこうだったよね。」とシェフさんに話しかける。もしくは、仲介日本人さんの話題を把握して、シェフさん自ら、合いの手を入れる。

どこから日本語(のつもり)でどこから中国語なのかも判断のつかない言葉で。それに日本人さんは「ああ、そうだった、そうだった」的な相づちを打つ。

普段からそんなやり取りをしているのだが、ある時、今更的に「で、仲介日本人さん、中国語しゃべれるんですよね?」と尋ねると、ニコニコしながら「いいえ、全然」ときっぱり。これはある意味衝撃。

確かに、仲介日本人さんの方が中国語らしきものを話しているのは聞いたことがない。中国語の出来ないこちらに気兼ねして、ワタシがいる時は極力日本語のみでやり取りをしているのかと思ってたのに、そうではなかったらしい。

あなたたち、じゃあ、そもそもどうやって意気投合出来たの? しかも長いつきあいだよね? 挙げ句に一緒にお店やってるのに??

仲介日本人さん曰く、彼ら二人は、本人達も不思議なくらい本当に、言葉半分で相手の言わんとしていることが理解しあえていて、信頼し合っている、らしい。で、今に至っている、とのこと。

いくら考えても解せないのだが、実際、お店も続いているし、二人の友情は目の前で繰り広げられているのだから、確かにそうなのだろう。

恐らく、長年のつきあいで、仲介日本人さんにはシェフさんの話す中国語風日本語のパターンが、誰よりもきちんと把握できているのかもしれない。事実、シェフさんが日本語(らしきもの)を話しても、仲介日本人さんの通訳がないと、こちらの理解度は更に半減する(笑)。

日本人同士でも、コミュニケーションが不十分だと上手くいかなくなる場面も多々ある。でも、こうやって、トリガーになるキーワードさえあれば、豊かな表現力を持つ共通言語を、事実上持たずに上手くいくケースもある。

そうやって考えると、言葉は究極、不要になってしまうのか。いや、キーワードとしての最低限の共通語彙は必要なんだから、やっぱり道具としての言葉はある程度は必要なんだろう。

言葉とコミュニケーションは、しっかり別のモノとして考えないといけないっていうことなのかな。どちらか一方だけで成立するものではないから、これまでずっと、その二つをセットで考えていた気がするけど、そういうコトなんだ、という新たな気づき。

つい先日、お店を訪れた時は、仲介日本人さんが不在だった。シェフさんだけでも勿論ニコニコ迎えてはくれるけど、また彼ら二人が揃っている時の、不思議で素敵なやり取りを眺めに美味しいモノを食べに行こう。

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■今回のどこかの国の音楽

□BO Chamane Bartabas Spiridon Chirchiguin
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今回は音楽というか、オトというか、しかもどこかの国限定という訳ですらありません。口琴びよよーん。ワタシのお得意の南亜細亜にも勿論、日本にも、あとはフィリピンやイルクーツクあたりも口琴では結構有名なようですね。

上記は以前見た「シャーマン」という、シベリア〜イルクーツクが舞台のフランス映画。映像と音がとてもよかった。トレイラーはこちら。

□Chamane (1996) Bartabas
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口琴については短いながらわかりやすい記事があったので、そちらを見るとざっくり把握できそうです。

□ヤクーツクで「口琴」の世界大会が開幕...日本からも代表参加
└< http://j.mp/13nPCnR
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こちらは印度。印度だとラジャスタン方面でよく見かける気がしますね。ちなみにパキスタンのカゥワーリの途中でもたまに演奏してるのを見かけます。

□LANGAS MUSICIANS FROM BARNAWA (Rajasthan, India) 6
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勢い余ってワタシも、どこかのフェスで粗悪品を購入して持ってはいますが、せいぜい鳴らせても三往復くらいです。こんな風にきれいに奏でてみたいものです。

【browneyes】 dc@browneyes.in

日常スナップ撮り続けてます。
アパレル屋→本屋→キャスティング屋→ウェブ屋(←いまここ)
しつつなんでも屋。
□立ち寄り先一覧 < http://start.io/browneyes
>
□デジタルちゃいろ:今回のどこかの国の音楽プレイリストまとめ
└< http://j.mp/xA0gHF
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ぼちぼちやっと暖かくなり始めて、都内近郊あちこちの公園で行われる各国フェスもシーズン到来! といった感じ。ワタシは4月下旬に上野で行われたパキスタンバザールしか行ってはいない。我ながらブレがない(笑)。

昨年に引き続き登場したBadar Ali Khanのカゥワーリを堪能してきた。来日にあたって、他にも単独ライブなどやっていたようだが、日本人しか見に来ないライブは今回はパスした。

昨年も思ったのだが、カゥワーリって、奏者は確かに固定されているものの、本来が音楽を通じて聴き手がトランス状態に陥って神との一体感を得る、というもの。なので、ただ演奏を聴くだけでは完結してないなぁ、ということ。

そうやって突き詰めると、カゥワーリに親しんでいる聴衆も必要不可欠なのだ。聴いたそれぞれが思い思いに熱狂する・踊り出す・陶酔する、そして札びらがバラ撒かれる。それを受け、手奏者も更に熱を帯びる。この相乗効果でやっと完結。

多少は知識があっても、ワタシですら、その、芯から熱狂する聴衆にはなりきれない。パキスタンバザールは近隣の在日パキスタン人も多く集まるので、色々な条件が一致するとそれが起きる。運良くワタシが見に行った回は今回最高の盛り上がりだったようだ。

ルピーやドルなどの紙幣(日本円は高額紙幣すぎるので無理)は終始空に舞い、老いも若きも正面に押し寄せて舞い踊る。それを見ながら、パキスタン人女性三人組の記念撮影を頼まれてパチリ、「あっ、これじゃちょっとかっこ悪いわね」とドゥパタ(頭のスカーフ)を下ろして、髪を整えて再度パチリ。聴衆を含めてのカゥワーリを眺めるワタシ自身も、外野として非常に楽しかった。