わが逃走[125]父の思い出の巻 その3
── 齋藤 浩 ──

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母はもうすぐ後期高齢者だが、いまのところ元気だ。昔から好奇心旺盛で、今は源氏物語の講座なんかを聞きにいっては書物をひもとき面白がっている。

興味をもったことをもっと知りたい、研究したいという願望が健在なうちは、心も健康といえよう。しかし欲しい本が書店になかったり、注文しても何週間も待たされて在庫なし、なんてことが多いという。

だったらインターネットを使いなさいとiPadを勧めたところ、「あたしがインターネットしようとすると、おとうさん(オレの父)が嫌がるのよ」という。

なんじゃそりゃ!




そうなのだ。父はインターネットが嫌いなのだ。とはいえ、母の健康のためにもインターネット環境を、と思って夫婦で1台ずつiPadを買うようすすめたところ、

「たしかにお母さんにはiPadが向いてると思うよ。初心者だからね。でも俺はMacBookProの方がいいと思って、実はもう買っちゃった。こんど初期設定しに来てくれ」と父が言う。

ひと月前に会ったときには、「インターネットなんかいらない!」と言ってたのに。「いや、あのときはiPadは必要だけどインターネットなんか必要ないと言ったんだ」。

なんだか情報が錯綜している。それ意味わかんねーし。オレは釈然としないままS玉県Sたま市へと向かったのだ。

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父は武蔵野美術大学デザイン科在籍中に日宣美に入選。卒業後、老舗百貨店宣伝部に就職した。定年まで勤め上げ、いまは版画の制作に精を出しつつ悠々自適の生活を送っている。こう書くときちんとした人のように思えるが、実は昔から何かがずれていたのだ。

父は電話が大好きだった。オレが10代前半だった頃(80年代前半)の話である。電話は家に一台が基本だった当時、父は自分の部屋にも電話線を引き、電話器も複数所有していた。

しかし、たとえば休日にひとりで家にいるときに電話が鳴ってもまず出ない。帰宅したオレに「さっきの電話は15回も鳴ったよ」とか言う。父が好きなのはあくまでも電話器であり、通話は人一倍嫌いだったのだ。

電話器が好きだった父は、その後ビデオデッキが大好きになった。家に一台が基本だった当時、父はなんと13台も所有していたのだ!

しかし見たい番組を録画して楽しむとか、ビデオソフトを鑑賞するといったことはほとんどなかった。

父が好きなのはあくまでもビデオデッキであり、テレビ番組もビデオソフトも嫌いだったのだ。好きとか嫌いとかの問題ではないと思うのだが、父はどうも普通のひとと基準が違うらしい。

父は中古品を好む。新品なんてもったいない。中古品なら新品の値段で3台も買えてお得だといいい、結局父の部屋には13台のビデオデッキが。

しかもそれらは使われることもなく、きれいに梱包され積まれていたのだ。休日にはそれらをていねいに開封、適当な番組を録画し、故障してないことを確かめるとまた梱包して積み上げる。故障が見つかればすぐにサービスセンターへ修理を依頼する。

しかし、機械そのものに思い入れがあるのかというと、そうでもないらしい。結局2000年代の半ば頃、それらのビデオデッキは粗大ゴミとして引き取られていった。

オレは今まで父のこういった行動を不審に思っていたのだが、いま文章にしてみてやっと理解できた。父の趣味は電化製品の動作確認だったのだ。

父はテレビも好きだ。先日実家を訪れた際、薄型テレビを5台も持ってると自慢され驚いた。

しかし、父が好きなのはあくまでも受像機であり、番組にはほとんど興味を示さないのである。テレビはつけるが番組は見ない。つけっぱなしにするだけで内容を見たり聞いたりすることはあまりしないが、いつか見たい番組が現れたときに困らないよう、いつでも受信できる状態にしておきたいらしい。

その時が来るまで、動作確認を楽しみつつ音と光を発生する機械としてセッティングしておく。

どうやら家電量販店におけるテレビ売り場のような環境を理想としているようなのだ。そう考えればビデオデッキを積み上げることも納得がいく。

父はヒトがテレビを見ているといきなり勝手にチャンネルを変えて、その番組を見るでもなしにどっかへ行ってしまう。

これは自分が買ったテレビを他人(=オレ)の娯楽に使われることが悔しいからイジワルをしているのではないかと思っていた。

つまり父はテレビ番組を見て楽しいと感じたことはないので、自分の理解できない楽しさを味わう第三者をねたましく思っているのではないか。

しかし、好意的にとらえれば、ストーリーや情報といった"意味のあるもの"を純粋な光と音というレベルまで一旦解体し、ノイズとして楽むことを教えようとしていたのかもしれない。もしそうなら、それはものすごい美意識ともいえる。

20年ほど前「これからはパソコンの時代だ。パソコンは個人的なものではなく、もっとパーソナルな存在であるべきなんだ」と意味不明の発言をした父はMacintosh LC520を購入、以来Macにハマっていった。その後歴代iMacを次々と手に入れ、つい先日MacBook Proを購入したのは前述のとおり。

しかし、父はMacを使うことはあまり好きではなく、いつでも使える状態でMacを所有することが好きなのだ。

だから最新型でなくてもいいらしく、中古の型落ち品を何台も買う。しかし、常にシステムは最新の状態にしておかないと気が済まないらしいので厄介だ。

父は操作を覚えようとしない。20年ほど前から同じことを40〜50回くらい説明しているのだが、一度覚えると安心してしばらく使わなくなるため、再度使おうとしたら忘れているのでまた聞いてくる。

どうも「この操作はもう覚えたから使わなくていい」と考えるらしい。勉強嫌いの子供が嫌々漢字の練習をし、書けるようになったら「この漢字はもう覚えたから練習しなくていい」といって書けなくなるパターンに似ている。この時点ですでにベクトルがずれている。

そもそも、操作を覚えずに使いたいというのには無理がある。一般的には目的があるからこそ努力するわけだが、父の目的は努力せずに達成することにあるのだ。

で、いつか努力せずに達成したときのために、常に最新のシステムを用意しているわけだ。金のかかる人生だなあ。

こう書くと父は何も理解していないように思えるが、年賀状はMacでつくり、宛名データもMacで管理している。

どうもものすごく狭い範囲では理解しているが、全体の構造が全く見えていないようなのだ。

先日実家にて漢字を調べるときに『ことえり』で変換してみせたところ、「最近のMacは漢字辞典としてもつかえるのか! すごいなあ」と言われて驚いたのだが、冷静に考えてみると、父の認識パターンはひたすら一途なのだということがわかる。

つまり、ひらがなを目的の漢字に変換する動作は普段からしているし理解もできているのだが、漢字を忘れたとき、ひらがなを変換すれば目的の漢字が表示されるということには思い至らなかったようなのだ。

だって本にはそんなこと書いてなかったもんと言う。そりゃ書いてねえよな。この強くまっすぐな思考。

日常生活において「◯◯は健康にいい」と聞けば腹をこわすほど過剰摂取する行動からもその傾向が読み取れる。これは今にはじまったことではなくオレが物心ついたときからそうなのだ。

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さて、あれほどインターネットを毛嫌いしていた父がなぜ突然Wi-Fiネットワーク及びMacBook、iPadの導入を奨励しはじめたのかは謎のままである。

しかし、彼は3日ごとに主義主張が変わるので、本人がその気のうちに購入に踏み切らせた。両親と駅前の家電量販店で落ち合い、Wi-Fiベースステーションと母のiPadを入手、そのまま実家へと向かう。

ちなみに父はワイファイと言えない。ういひー、わいはー、うっふーなどと発音していたが、まだどれにも定着していないようだ。ギガバイトは相変わらず"ギバ"のままである。

さて、実家に着いて驚いた。いつのまに光ケーブルが引かれていたのだ。まじか。ろくにインターネットも見ないのに? 父に尋ねると「オマエ遅れてるねえ。3年前からウチは光だよ」という。

なるほど、父はインターネット上のコンテンツには全く興味がないものの、インターネットに接続できる環境が好きだったのだ。そして毎日Macを動作確認していたのだ。

母にネットを禁じたのは、動作確認というある意味純粋な行為に対し、目的という"欲"が介入することに、穢れのようなものを感じていたのかもしれない。

しかし、iPadという母専用のデバイスが導入された今、Macの純潔は保たれる。これなら父も満足であろう。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。