わが逃走[127]脳内で犬を飼う 〜 遠い散歩 の巻
── 齋藤 浩 ──

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アサヒとは脳内で飼っている犬の名前だ。こう書くとアサヒは非実在犬と思われがちだが、ちゃんとこの世に存在している。

ことのおこりは10年ほど前にさかのぼる。

現在の集合住宅に越してきてしばらく経ったある日、いつものようにベランダでおふとんを干していたところ、向かいの新聞販売店の軒先でまるくなっている犬と目があった。

ハスキーみたいでもあり、柴犬のようでもある。体が黒くて顔が白い。精悍さは微塵もないが愛嬌はある。

なんとなく気にするようになり、朝起きたらまずベランダからアサヒの姿を見るのが日課となり、そうこうしているうちに、まるで自分が飼っている犬のような気がしてきたものだから、人間の脳とは不思議なものだ。

自分の犬なら名前をつけねば、という訳でひとんちの犬に勝手にアサヒと名付けたのであるが、しまいにはなぜ自分の犬が向かいの新聞販売店の軒先にいるのか不思議に思うようになり、結果的に「アサヒのエサやりと散歩を毎月3940円で依頼したところ、それではもらいすぎなので当店で扱っている商品をお納めください、と毎朝新聞が配達されている」という設定をつくり納得した。

毎月25日頃には新聞販売店の方からわざわざエサ代の集金に来てくれるのだ。こことのつきあいも10年近くになる。




不満があるとすれば、暑い日や寒い日にはアサヒをおうちの中に入れてしまうことだ。

ちゃんとベランダから見えるところに出しておいてくれないと困る。

少なくともハスキーの血が入ってるんだから、夏はまだしも冬はちゃんと外に出しておいてほしい。

「ウチの子を甘やかさないでください」と、何度か文句言いに行きたくなったが、そんな気持ちをなんとかおし留めていたのだった。

アサヒはそんなにおりこうじゃないので、救急車のサイレンやちり紙交換の声を聞くと、つい遠吠えしてしまう。最近ではなんでもないのに遠吠えする。とくに日曜日の夜は、わおーんと悲しげに鳴くのだ。

明日からまた仕事だー。という私の念波を受信してしまうのだろうか。おおアサヒよ、オレ気持ちを本当にわかってくれるのはおまえだけかもしれない。

アサヒは最近スフィンクスごっこが好きだ。

ギザの三大ピラミッドを守護するがごとく、背筋を伸ばしてきちんとおすわりするのだ。腹を出して仰向けで寝ていたいままでのアサヒと比べるとかなりなイメチェンだ。アサヒよ、一体なにがあったのだ。

しかし、スフィンクスのポーズは3分ももたず、つぎに見に行くとまた腹だして寝ている。

そういえばアサヒは昨年夏頃から急に年老いてきた。歩き方もよたよたしているし、白髪も目立つ。当然毛並みも美しくない。

秋も深まったある日、集金のお兄さんに(さりげなく)尋ねたところ、「ああ、あの犬ならもうすぐ死にますよ。鳴き声がうるさくてスミマセン、昨日もまたおしかりを受けて...」なんてことを言う。

いやいや、オレは自分の犬のように思っているからと(さりげなく)答え、何事もなかったかのように3940円を支払う。

アサヒがもうすぐ死ぬ!

その後しばらくは脳内が真っ白になり、毎日仕事の最中に何度もベランダに出てアサヒの様子をうかがった。

しかし、数週間観察しているとそこまで衰えているようにも見えず、何かの間違いのような気もしてくる。

翌月の集金のお兄さん(先月とはちがう人)にも(さりげなく)尋ねてみたところ、「去年の夏頃は病気だったんですけど、もう元気になりましたよ。ホント鳴き声がうるさくてスミマセン...」とのことだった。

先月のお兄さん、情報が古いよ。やっぱりアサヒは元気なんだ! よかったよかった。平静を装いつつ3940円を支払う。

冬が過ぎ、春が来た。アサヒは相変わらずだらしなく寝ている。

そして梅雨に入った頃、アサヒの姿が見えなくなった。

また家の中に入れているのだろうか。雨だからってうちの子を甘やかさないでほしい。


翌日もいない。何かあったのか。

あくる日、犬小屋が撤去される。アサヒの身に何かあったんだ。死んじゃったのかな。いや、前もそんなことあったけど、アサヒは元気だったんだ。

もう、心配で心配でめしものどをとおらない。夜寝ていても遠吠えが聞こえない。とても心配である。

いきなり新聞販売店に踏み込んで「犬がいないけどどーしたの?」と聞くのも変な人なので、夕刊を配達するお兄さんを待ち構えて、さりげなく偶然を装って聞き出すことにした。

夕方、一階の階段付近をさりげなくうろついていると、お兄さんが来た。

「あ、こんにちは。最近犬がいないようだけど、どうしたの?」
「ああ、所長が変わったので引越していきました」
「死んじゃったのかと思ったよー」
「あはは、元気ですよー」

よかった。本当によかった。アサヒは元気だった。でも、もうここにアサヒはいないんだ。そう思うととても寂しくなる。

いまごろは飼い主さんと旅してるのかな。脳裏に夕暮れの山々に向かって歩くアサヒの姿が浮かぶ。

「わんわん。飼い主さん、どこまでいくの?」
「あの遠いおやまの向こうまでいくんだよ」
「そうなの?」

アサヒは何も考えず「つかれたわん。ぐう」と、今日も寝てしまったのだろう。

アサヒが遠いおやまの向こうに着くのはいつのことだろう。

今日もおふとんを干すときに、アサヒの小屋があったあたりをつい見てしまう
のだ。


【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。