私症説[51]道雄の不安
── 永吉克之 ──

投稿:  著者:


週末の夜、道雄は婚約したばかりの則子と横浜のカフェにいた。

ライトアップされたベイブリッジが遠くに浮かび上がっているのが見える大きな窓のそばのテーブルを前に、椅子をくっつけ合って寄り添い、この女性が僕の妻になるのか、この男性がわたしの夫になるのね、と何だか不思議な気持で互いの横顔を盗み見ながら、二人はカクテルを傾けて会話を楽しんでいた。新居の場所や子供の育て方まで、話題は尽きなかった。

そして、新婚旅行はどこにしようかという話になった。道雄がまず、スイスにスキーをしに行くというのはどうだいと切り出すと、則子は困った顔で答えた。

「うーん、寒いところには行きたくないな。だって、9月からアラスカに住むんだもん」
「......え?」

「大学時代につき合ってた人がアラスカに住んでて、仕事手伝ってくれないかって。それで一緒に住まないかって」

話が飲み込めない道雄だったが、どうやら放っておける話でもなさそうなので、問いただした。




「どういうこと? まさかその人と結婚するなんて言うんじゃないよね?」

「するのよ」

「......するのよって、じゃ僕との結婚はどうなるの?」

道雄はどんな表情をしたらいいのか判らず、困り笑いをしながら尋ねた。それを聞いて則子は首をかしげた。

「何言ってんのよ? わたしたちの結婚と何の関係があるの?」

「関係ない? ......よね、そうだよね。いや、ひょっとして婚約を解消するって言われるのかと思っちゃってさ」

「どうしてそんな風に思ったの?」

「だってアラスカがどうのこうの......まあいいや」

アラスカの話は一体何だったんだろう。道雄は気になっていたが、せっかくのいい雰囲気をこれ以上乱したくなかったので蒸し返さずにいた。きっと彼女の友達の話をしたのだろう、女の会話って、突然、関係のない話題に飛ぶことがあるからな、ということで納得した。

そして、結婚式の日取りに話が及んだ。

「式は、お互いの仕事の都合を考えると、10月あたりがいいんじゃないか?」

「10月はだめよ。9月に入る前がいいわ」

「どうして?」

「だから、9月にアラスカで結婚するって言ったじゃない。道雄との式はその前に挙げておきたいのよ」

「うん、それは聞いたけどさ、アラスカで結婚って、則子の友達かなんかの話だろ?」

「ううん、私のことよ」

椅子の背に深くもたれかかって、道雄はしばらく黙って天井を眺めた。そして体を起こして則子の方に向かい、彼女の眼を見つめながら冷静に尋ねた。

「僕と結婚する気はあるの?」

「また変なこと言う。当たり前でしょ? だからさっきからその話をしてるんじゃない。なぜ今頃になってそんなこと聞くの? ねえ」

則子は道雄の不可解な態度にすっかり困惑した様子で、しきりに瞬きをくり返した。

「ひょっとしたら僕の聞き違いかもしれないけど、さっき、則子が・アラスカに移住して・現地で・学生時代の恋人と結婚する、というようなことを言ったように聞こえたんだよ」

「そう言ったわよ」

「な、な、だろ。言っただろ。じゃ、僕はほとんど則子とは会えなくなるわけだよな、そうだろ」

道雄の声のボリュームが上がり始めた。

「ほとんどというより、二度と会えないかも......永住するつもりだから」

「いや、だからさ、それは僕と別れるということじゃないか。僕と結婚はできないということじゃないか!」

突っかかってくる道雄に、則子も少し反抗的な口調になった。

「どうしたのよ? どうしてわたしがアラスカで結婚したら、道雄と別れなきゃいけないの? それを何かの口実にしてるの? わたしと婚約したこと後悔してるの? そうなの?」

「ちがうちがう、全然ちがうよ!」

道雄は何と言えばいいのか判らなくなって、質問を変えた。

「そのアラスカの彼氏と僕と、どっちを愛してるの?」

「アラスカの彼氏よ」
「そ......」


引導を渡されたと感じた道雄は投げやりに言った。

「ああそうかい、やっぱりな。じゃ、なんだってオレと結婚するんだよ?」

いい雰囲気を乱したくないという気持はすでに跡形もなくなっていた。むしろこの苛立ちを彼女にぶつけてやりたかった。

粗野な言葉遣いに則子は萎縮し、眼から涙が溢れそうになっていた。

「どうして結婚するのかって、なんで今さらそんなこと聞くの? わたしたち
 がつき合って来たのは、そのためじゃなかったの?」

則子は左手の五指をいっぱいに広げて甲の側を道雄の顔の前に突き出しながら、涙声で言った。

「ほら婚約指輪...道雄が指にはめてくれた時から一度もはずしてないのよ......」

そして両手で顔を覆って、すすり泣きを始めた。

「あ、いや......悪かった」

道雄は、なにがなんだかさっぱり分らなかったが、則子が可哀想になってきたので、とにかく謝ってその場を収めた。

しかし突然、なにやら異世界に迷い込んだような恐怖感に襲われて、道男は気分が悪くなってきた。動悸が早くなり目眩がしてきた。早くこの場から離れないと、とんでもない状態に陥りそうな予感がしたので、すぐに店を出て徒歩で桜木町駅に向かった。則子もその後を追うようにして出た。

ふたりは駅まで来た。則子は道雄の様子がおかしいのを心配して、自分の家が近いから泊まって行くように言ったが、道雄はタクシーで帰るからと断って別れた。とにかく則子から離れたかったのだ。

その10分後、道雄は死んだ。

【則子の告白】

則子「あんなことになるとは思ってもみませんでした。道雄さんに、少し意地悪をしたかっただけなんです。あの頃、彼の異常なまでの嫉妬心を煩わしく思っていた私は、その嫉妬心を利用して彼を発狂させてやろうと思ったんです。

たとえば彼は、私の携帯に連絡が入るたびに、誰からだとか、どういう関係だとか、いちいち真顔で聞くのです。会社の同僚と飲みに行って、そのなかに男性がいたことをうっかりにでも口にしたら大変です。年齢から名前から容貌から性格から、もう根掘り葉掘り聞いた挙げ句、膨れっ面して口をきこうともしないのですから。

そんな彼のことだから、もし自分の婚約者が他の男性と、しかも遠い外国で結婚することになれば、嫉妬のあまり発狂するかもしれない、そうなったらいい気味だと思ったんです。だから私はアラスカにいた、かつての恋人の水口秀秋さんと結婚することを決心しました。道雄さんには、水口さんが私を誘ったように言いましたが、実は私が水口さんに国際電話でプロポーズしたんです。

でもあと一歩で道雄さんを発狂させることができるというときに、家に帰るなんて言い出すものだから、なにやら無性に腹が立って、タクシー乗り場まで送って行くのが悔しいから駅前で別れたんです。送って行っていれば彼も死なずにすんだかもしれません」

木村「なるほど、それで桜木町で別れる際に、うちで泊まるようにと道雄さんに言ったときの則子さんの態度が妙に白々しかったんですね?」

則子「それもあります。でもそれより、彼に冷たくされたのが辛かったんです。店を出てから桜木町まで歩いている間、いつもなら必ず腕を組んでくれるのに、あのときは、彼が黙ってさっさと先を歩いて行くんです。婚約者になって最初のデートだというのに、こんな気持にさせられるなんてと思うと、それが惨めで......」

木村「則子さんのご両親とお話になっているときの道雄さんは、とても爽やかで、そんなに扱いにくい人には見えませんでしたけど」

則子「外面がいい、って言うんでしょうか......」

木村「道雄さんの死は事故だったのか自殺だったのか、今でもはっきりしていません。実際私も、それが何かに気を取られての過った行動だったようにも見えたし、ある意志をもっての行動だったようにも見えました。則子さんはどちらだとお考えですか?」

則子「今ではどうでもいいことです。もし彼が生きていたら、私はきっとその執拗な猜疑心に縛り上げられて、牢獄のような結婚生活を送っていたでしょう。そう考えると事故でも自殺でも、とにかく死んでくれてよかったんだと、肯定的に考えられるようになりましたから」

【ながよしかつゆき/フリーターランス】thereisaship@yahoo.co.jp
今回のテキストは、2007年にブログに掲載したものです。
『怒りのブドウ球菌』電子版 前後編 Kindleストアにて販売中!

Kindleストア< http://amzn.to/ZoEP8e
>
無名藝人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
>