私症説[52]月がとっても青いから遠回りすることの何が罪なのか
── 永吉克之 ──

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♪ 月がとっても青いから 遠回りして帰ろ〜

菅原都々子『月がとっても青いから』(テイチク・昭和30年)
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仕事帰り、疲れているうえに空腹でイライラしているときにわざわざ遠回りをして帰宅するなんて苦行に励む人は少ない。そんな時は1メートルでも余計な距離は歩きたくないし、1分でも無駄な時間は使いたくないものだ。

ところが奇妙なことがある。私は通勤に、大阪市内にある南海線の天下茶屋駅を利用している。階段を上ったところに改札口があるのだが、わずか23段の階段を使わず、階段と並走しているエスカレーターを利用するためにわざわざ長い列を作って健気に待っている人々がいる(私もそんな健気なひとりである)。

まあ、仕事帰りなら疲れていて、わずかでも体力を使いたくないから機械に上まで運んでもらいたい心情は理解できる。しかし、そんなありがたいエスカレーターを歩いて上る人たちが必ずいる。

その時は私も疲れていたが、飽くなき探究心が疲労に打ち克って、23段の階段を歩いて上るのと、エスカレーターを歩いて上るのとでは、どのくらい時間に差が出るか両方で測ってみたら、エスカレーターの方が5秒早く上りきった。




この5秒にどれほどの価値があるのだろうか。5秒違ったって乗る電車は同じだから、5秒早く帰宅できるわけでもなさそうだ。つまり、5秒であろうが0.5秒であろうが、Time が money になろうがなるまいが、彼らにとって早い(速い)ことは無条件に「善」なのである。

蛇足ながら、エスカレーターは、歩いたり、まして駆け上がったりするのに適した設計はされておらず、じっと立っているのが本来の乗り方らしい。

■巧遅は拙速に如かず

......という故事成語がある。孫子の言葉として知られていたがどうもそうではないらしい。それはともかく、どんなに仕事の出来がよくてもこう時間がかかっちゃかわなねえ、ちったぁ出来が悪くても速え方がいいやね、というような場合に遣われる。

これは古代中国だけでなく、世界にあまねく通用する万古不易の真理である。ひと月かけて畢生の傑作を描くイラストレーターより、一日で、まあこんなもんでしょ的な絵を描くイラストレーターの方が仕事は多いだろう。

血液検査やらMRIやらで何日もかけて検査をして、確実な診断を下す医師より、問診だけで「ま、風邪ですな。はい次」と、問答無用にかたずける医師の方が患者をたくさんさばけるから、稼げるだろう。

職業に限らず、あらゆることにおいて非能率というのは「悪」なのである。非能率であることのどこをどういじってもチャームポイントにはならない。

せいぜいのところ、「きみって何やらせても要領悪いけど、でもそんなところが放っておけないんだよなぁ」という、保護者と被保護者のような関係にある男女においてはあり得るかもしれない。

ちなみに私は、手際の悪い女性マニアを自認するものである。携帯や財布などを取り出すたびに、いちいち大きなバッグを地面に置いて、「あれぇ、どこに入れたかしら」とバッグの中を引っ掻き回すその姿に、私の胸がざわめくのだ。

そう感じるのは私が女性を見下しているからだろうか。仮にそうだとしても好きなものは好きなのだからしかたがない。誰も私を止めることはできない。歳が歳だからこの嗜好は尽未来際、直らないだろう。変態とでも発情河馬とでも好きなように呼ぶがいい。

それはともかく、地球上にあるすべてのものが、その重力から自由になれないのと同じで、われわれも「能率」の桎梏から自由になることはできない。われわれはみな能率の奴隷「能奴」(※)なのだ。能率という名の獄丁の鞭で追われながら働く能奴なのである。

※解説するまでもなく作者は「農奴」にひっかけている。

例えば、飲み会に知人たちを誘う場合、ひとりひとりにメールを送って都合を聞くなんてかったるいことしないでさ、Facebookでグループ作ってやりとりした方が手っ取り早いじゃん、と考える。その瞬間に人は能奴に堕するのだ。

■参禅

すでに故人となったが、禅宗の一派である曹洞宗の平木幹栄(ひらきかんえい)禅師の名を、読者諸氏は耳にされたことがあるだろうか。おそらくないと思う。私も初めて聞いた。なにしろいま私が創造した人物なのだから。どんな人物なのかはわからないが、書きながら考えてゆくつもりである。

わが大阪府堺市には大小の寺院がむやみに多い。仁徳天皇陵だけが堺の売りではない。寺巡りも観光としては価値があるが、それはともかく、平木幹栄禅師が住職を勤める玄建寺もそのひとつで、去年の夏、毎週日曜の早朝に開かれている坐禅会に参加した。

参禅の初日。夏とはいえ空は真っ暗だった。坐禅が始まるのは4時30分からだが、4時に本堂に入ったらもう参加者が数人集まっていた。

そのなかに、剃髪に作務衣、痩せてはいるが背丈が六尺以上、精悍な顔立ちながらどこか風雅で、厳寒の北陸で漁師をしながら、ふたりの男子とひとりの女子を東京の一流大学に進学させた父親のような趣をまとった初老の男性がいた。

それが平木幹栄禅師だとすぐにわかったので、声をかけた。

「あのぅ、坊主、ちょっといいですか?」

(後日人から聞いたのだが、住職の地位にある人には「坊主」ではなく「住職」という呼称を遣うらしい)

「はい、なんでしょう」

「坐禅で何が得られるのですか?」

「何も考えず、只管(ひたすら)坐る。それが曹洞宗の坐禅です」

禅師はたったそれだけ言って去ろうとするので、私はカッとなった。ないがし
ろにされるのは大嫌いなのだ。私は禅師の襟首を掴んで引き止め、訴えた。

■人間性を圧殺する能率──禅師への問い

「実は私、年齢のせいもあるんですけど、仕事の能率がひどく悪くて職場でいつも嫌味を言われるんです。

《もう3か月以上この仕事をしているのだから、そろそろ人並みの能率で作業してくださいよ。ほら、あそこにいる李ビアンカさん、彼女は先週入ったばかりなのに、永吉さんより仕事はずっと速いですよ。美人だし》

......たしかに、李ビアンカは若くて美人だから大好物ですよ。しかし新米と比較されるなんて屈辱じゃないですか。

いったい能率が良いことのどこがそんなに良いんですか? 能率が悪いことの何が悪いんですか? 能率的であることと非能率的であることは、良し悪しの問題じゃなくて、種類の違いなんですよ。

非能率というのは能率の一種なんです。別名《サルバトーレ能率》とも《無帰合性能率》とも呼ばれています。英語では proleutomic efficiency といいます。この proleutomic (プロルートミック)という英単語ですが辞書には載っていません。いま、ふと思いついたんです。

また、proleutomic には「遊び」といったニュアンスがあります。しかしこれは、女遊びとか火遊びとかいう「遊び」ではないんです。

機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりをもたすこと。「ハンドルの─」(大辞泉より)

という場合の遊びで、だから proleutomic efficiency を強いて訳すと、ゆとりある能率ということになるのでしょうか。それが能奴どもにはわからないんですね」

腕組みをして私の話をじっと聴いていた禅師が、突然女の声で笑い出した。「自分の無力を、そんな自分勝手な理屈で糊塗しようとするから、あなたはいつまでたっても麓の人なのよ!」

禅師が、自分の脳天に両手の爪をめりこませると、自らの体を左右に引き裂いた。するとなかから、李ビアンカが現れたのである。

「平木禅師の正体は貴様だったのか! この妖怪め。僕と結婚してくれ!」

「いいわ。でもあたし来年、還暦よ」

こうして、すべての難問は大団円の狂躁なかでうやむやになった。手に負えない問題はうやむやにするに限る。それが禅師の教えだったのだろう。合掌。

【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも、ほぼ同時掲載しています。
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