私症説[59]愛と憎しみの印度カレー専門店
── 永吉克之 ──

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その喫茶店には、客がひとり店主がひとりいるだけで、無縁仏ばかりを埋葬した墓場のように静かだった。

と、テーブル席で、無言の行を実践しているかのように押し黙ってメニューを見ていた男性客が突如、カウンターにいた老店主に向かって怒鳴った。

「すいません、キーマカレーください」

店主が叫んだ。

「辛さはどうしましょう?」

客はカッとなって言い返した。

「ええ、そうですね......中辛にしてください」

マスターがコンロに放火して、カレー鍋をかき混ぜていると、ドア鈴の轟音とともに、若い淫らな男女のカップルが店内に乱入してきて、カウンター席を略奪した。




カレーを混ぜているのを邪魔された店主は、腹立ち紛れにがなり立てた。

「よう俊樹、久しぶりじゃないか」

「マスター、ご無沙汰してます。繁忙期だったんでね、なかなかお店に来られなかったけど、やっとヒマになりましたよ」

「そう、よかったね。で、どんな仕事してたんだっけ?」

これまでに何回も説明したことをまた聞かれ、俊樹は、怒り心頭に発して絶叫した。

「もうマスター、そろそろ覚えてくださいよ。フォトグラファーですよ、写真館の。七五三の記念撮影で忙しかったんですから」

ふたりの怒号が飛び交うのをよそに、メニューに眼を通していた、俊樹の恋人、美紗子が店主に向かってわめきちらした。

「何がいいかしら......野菜サンドとホットミルクがいただけます?」

「はいよ。で、旦那さんは何にする?」

旦那さん、と嘲弄され、逆上した俊樹は店主に噛みついた。

「やだなあ、マスター、そんなのまだですよ」

「"まだ"っていうことは、いつかは、ってことだよね?」

蛇のように執拗な穿鑿に業を煮やした俊樹は、ついに火を噴いた。

「......まあ、いずれはね」

それを聞いていた美紗子は驚愕して、俊樹の耳元で唸った。

「いま俊樹が言ったことほんと? "いずれは"って」

「......ああ。一人前のフォトグラファーになったら必ずね」

俊樹は美紗子の眼を睨み据えて、そう咆哮した。

「うれしいわ......」

胴間声を上げて狂喜した美紗子だったが、嬉しさのあまり、ついにはテーブルを掻きむしって号泣し始めた。

「ああ、その頬をつたう涙。きれいだよ」

俊樹はそういって美紗子を罵倒すると、バッグからカメラを取り出し、涙で化粧が流れて真黒になった恋人の醜い顔に向けて、情け容赦なくシャッターを押し続けた。

店の片隅でカレーを食べていた客が、この店で自分ひとりが、つんぼ桟敷におかれていることに絶望し、慟哭しながら、カウンターの3人にすがり寄った。

「ちょっとお邪魔します。なんだか楽しそうですね」

俊樹は、どこの馬の骨か知れないよそ者が近づいてきたので、牙を剥いた。

「あ、いや。つまんない話をお聞かせしてすみません」

「実は、私も写真やってましてね」

客は、大地も裂けよとばかりに名刺をテーブルに叩きつけた。

「いやー、びっくり!」

名刺の名前を見た俊樹が悶絶するのを見て、店主と美紗子は凍りついた。美紗子は恐怖に失禁しながら俊樹に向かって血声を絞り出した。

「ねえねえ、この人だれー?」

俊樹はこの傍若無人なアマをどやしつけた。

「だれー、なんて失礼だよ。こちらは唐神鹿梵仏(とうじんろくぼんぶつ)さん! 有名なフォトグラファー。僕らの世界じゃ、カリスマ的な存在なんだ。すみません、お顔を知らなかったもので......」

唐神鹿は、俺様の顔も知らないとは、この無知無教養の下郎が、と蔑みながら吐きすてるように言った。

「いいんですよ。俳優じゃないんだから顔なんかどうでも」

そして、さらに罵詈讒謗を俊樹に浴びせかけた。

「俊樹さん、でしたっけ? どうです、よかったらしばらくうちのスタジオでアシスタントしてみませんか? お話を聞いてると、アウトドアな写真が撮りたいようですね。うちはかなり手広くやってますから、チャンスが回ってくると思いますよ」

「え! でも僕の写真の腕がどの程度のものか......」

唐神鹿は、自分がせっかく誘ってやったのを俊樹が素直に受けようとしなかったことの屈辱で理性を失い、思わず俊樹の胸ぐらを掴んで恫喝した。

「大丈夫。私は人を見る眼には絶対の自信があるんです。あなたならやれますよ!」

顔をまだらに染めた美紗子は狂人の眼つきで俊樹に飛びついた。

「よかったわね、旦那様、ふふふっ」

「うん、僕はやるよ、奥様、はははっ」

至上の歓喜が、ふたりを忘我の境地に到らせ、人目もはばからず全裸になり、カウンターの上で愛欲の所業に溺れることを許した。

しかし店主は、今度は自分がつんぼ桟敷におかれたことに気がつき、店主としての立場をないがしろにされた怒りで前後の見境がつかなくなり、唐神鹿の頭に狙いを定めて包丁を振りあげながら言い放った。

「俊樹をよろしくお願いします。おっちょこちょいな奴ですけど、わたしには息子みたいに可愛くてね、ははは」

「任せてください。お父さん、ははは」

4人はいつまでも、狂人のように笑い続け、ケダモノのようにまぐわい続けた。

【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
今回のテキストは、以前ブログに掲載したテキストに手を加えたものです。

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