ショート・ストーリーのKUNI[170]女友達/ヤマシタクニコ

投稿:  著者:  読了時間:7分(本文:約3,100文字)



その頃私は、いっぱいいっぱいだった。

自分がどこを向いているのかわからないとでもいうか。目の前の仕事は山積みだったが、何もかも、もうどうなってもかまわないという気がした。

駅のホームでコートのポケットに手をつっこみ、今日の面接に来る人はどんな人だっけ、どんな質問をしようか、などとぼんやりと考えていると、不意にポケットの中で何かにふれた。私は、きゃっと声をあげた。

ポケットの中の私の右手にふれたのは、誰かの「手」だった。

まるでホラー小説みたいな状況にそのとき私がすぐに慣れることができたのは、不思議といえば不思議だ。私はよほどどうでもいいと思っていたのか。私をとりまく日常に関して。いや、それだけではない。その手はとてもやさしかったのだ。

(だれ?)

私は声に出さず話しかけてみた。すぐに、やはり声ではなく、直に感じられるやり方で、返事があった。




──さあ?

相手はそう言い、私の右手にふれる手に少し力が加わった。あたたかかった。だれかとそんなふうに手をつなぐなんてこと、長い間忘れていた。

職場ではいつもの時間が過ぎていった。面接は可もなく不可もなくといった感じで終わり、結論は保留ということになった。私の右手はボールペンで走り書きをしたり、キーボードをたたいたり、コンビニで小銭を出したりした。

5時を過ぎると、私は待ちきれないように仕事を終え、コートを羽織って外に出た。ポケットの中で私の右手はふたたび「手」に出会えた。私はほっとした。

その日、私は一人暮らしのアパートの一室で、寝る間際までコートを着ていた。ポケットの中の手にふれていたかった。

(あなたはどこにいるの?)

問いかけてすぐに、自分で笑った。はたしてポケットの中の手も笑いながら

──そうよ。あなたのコートのポケットの中よ。

と言った。それから、ちょっと考えなおす様子があり、

──ここはね...。南アメリカ。

(南アメリカですって?)

──つまり、あなたのいるところの、裏側。私は、地球の裏側からあなたにコンタクトしてるの。おもしろくない? 私の手はものすごく長いのよ。

(おもしろい!)

私は笑った。楽しくなった。

(オーラ!  あらためて、はじめまして!)

──はじめまして。はは。

(そちらはどんな感じ? こちらはまだ冬で、寒いわ。そっちは夏?)

──夏の終わりよ。私は海の上にいるの。空がとても広いわ。

(海の上? 航海中?)

──まあそんなところよ。

私は南半球の紺碧にかがやく海を思い浮かべた。潮風が強くて眉をひそめる、会ったことのない人を想像した。なんだか愉快だった。

──嘘だと思ってる?

そう言われて、嘘だと思う選択肢もあったと、はじめて気づく。

(まさか! 信じるわ)


気がつくと私は声に出して笑っていたらしい。電車の乗客たちが不審気な目で私を見ていた。

私は会社を辞めて、ひとりで仕事をすることにした。ずいぶん前から漠然と考えてはいたが、思い切ってポケットの中の彼女──手の持ち主──に打ち明けてみたところ、一も二もなく賛成してくれたのだ。

──それ、いいわ、絶対。やるべきよ。

(ほんとは、少し不安なんだけど)

──ちょっとくらいスリルがあったほうが楽しいじゃない?

(そうね、そうかも)

──新しい生活っていいものよ。応援するわ。南半球の片隅からね。

知らず知らずのうちに涙がにじんでくる。

私は彼女にいくら感謝してもし足りない。彼女がいなかったら、私は永遠に会社を辞められなかったろう。

私の毎日はすべて、日々のスケジュールから人間関係まで会社に関わることで占められていたから、会社を辞めたらすべてなくなるような気がしていた。

でも、いまは彼女がいる。そして、会社を辞めたことは好都合でもあった。一日中コートを着ていたりポケットに手を入れていても変な目で見られないから。

(今日は何してるの?)

──港に立ち寄った。陸に上がるのは久しぶりよ。新しい靴を買いたいわ。あと、お鍋を買うの。深目の両手鍋。

(お鍋か。いいわね。私も買おうかな)

──いい調理器具があるとうきうきするわね。このフライパンなら失敗しなさそう、とか。自分の腕のことは棚に上げて。

(私も時間ができたから、今までつくったことのない料理をつくってみるわ)

──あなたの見たことのない野菜や果物が、こちらにはあるのよ。見たらきっとびっくりするわ。ものすごく大きなピーマンとかね。

ポケットの中の彼女との、とりとめないおしゃべりが楽しい。不思議なポケット。地球の裏側とつながっているなんて。

取り返しのつかないことを私はしてしまう。

ある日、新しい仕事を通じて知り合った男友達と飲んでいた私は、軽い気持ちで男を部屋に入れた。酔っていたのだ。

「はは、一人暮らしはこれだからなあ。春になってもコートを吊るしっぱなしとは。だけど、これ、男でも着られそうなコートだな」

あっと思ったときはもう遅かった。男がおもしろがってコートをハンガーからはずし、袖に手を通した。ポケットに手を入れようとした。きゃあっ、という彼女の悲鳴が聞こえた気がした。

「やめて!」

私は走り寄り、あっけにとられている男からコートを奪い取る。

「どうしたんだよ」

私の顔はひきつっていただろう。コートを、しわくちゃになりそうなくらいぎゅっと抱きしめて。

「ごめん。そんなつもりはなかったけど、君を傷つけたようだね。謝るよ」

この人は悪くない。悪いのは軽率な私だ。

やはりというべきか、翌日もその翌日も、私は彼女の手にふれることができない。何か月も経ったころ、短い再会があった。ほとんどあきらめながらポケットにそっと手を入れると彼女がいた。私は飛び上がるほどうれしかったが、努めて平静を装って言った。

(オーラ! 元気?)

──元気よ。

(ひさしぶりよね)

──うん。実はね...

(実は?)

──実は、実家でいろいろあってね。それでまあ、忙しくて。

(そうなんだ?)

──悪いけど、今日もあまり時間がなくて。そのうち、ゆっくり話せると思う。それだけ言いたくて。

(そうなの?)

──誤解しないでね。私は何も気を悪くしてないから。またね。

手は以前と同じようにあたたかだった。またね、と言うとき、彼女は私の手にとんとん、とふれた。彼女が私を気づかっていることは感じ取れた。そのときも、私のそばにはあのときの男友達がいた。彼はとてもいい人だ。彼女のことは秘密にしていたけど。

地球の裏側。南半球の広々とした海。海を渡る風。まぶしい太陽。私には雑誌のグラビアか絵本の中の世界でしかない、遠い世界。でも私の右手は、確かにつながっていた。

それから何年も経った。私はあの男友達と少しの間いっしよに暮らしたが、またひとりに戻った。

ある日私はFacebookで「知り合いかも」に見知らぬ女性の名前を見つける。

アルゼンチン在住、「航海が趣味」となっている。プロフ画像はないし「基本データ」を見ても、ほとんど何もわからない。

単なる偶然か。いや、アルゼンチンに住んでいて航海が趣味の女性はいくらでもいるだろうから、偶然の一致にもならないかも。

でももしや、と私は思う。

そして、まるでそれが手がかりになるとでもいうように、私の手にとんとん、とふれてきたあのあたたかさを思い浮かべる。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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先日のこと。ショッピングセンターに向かって歩いていたら、少し前を歩いていた男性が突然Uターンした。そして私とすれちがうとき、ひとりごとなのだろうがかなりはっきりと「トイレ行っとこ」。笑いをこらえるのに苦労した。