[3884] 世紀末のオープンカーの時代を思い出す

投稿:  著者:  読了時間:16分(本文:約7,500文字)


《これって景気がよくなってるってこと? 》

■わが逃走[157]
 世紀末のオープンカーの時代を思い出す
 齋藤 浩

■もじもじトーク[17]
 縁側のある風景
 関口浩之




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■わが逃走[157]
世紀末のオープンカーの時代を思い出す

齋藤 浩
< http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20150402140200.html >
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デザインとは思想である。

プロダクトの"見た目"について考えてみる。

作り手側が使い手の立場を考えているか、他のこと(金儲けのことやライバルのことなど)を考えているかは、その形状に現れるように思えてならない。

"一番手"の商品がヒットすると、競合他社は似たような商品を出して対抗するが、大抵の場合、"一番手"にはかなわない。

これはつまり、二番手以降はどうしても一番手を意識してしまう。一番手を見て、それに追いつき追い越そうとする意識が強くなり、使い手に対するメッセージが希薄になってしまうことに由来するのではないだろうか。

デザインとはコミュニケーションである。

形状をとおして作り手の思想を使い手が感じることができれば、それはいいデザインである可能性が高い。

たとえば、これからの自動車はこうあるべきだ、という作り手からのメッセージをスタイリングやドライビングフィールを通して伝えられれば、プロダクトデザインは広告としても機能する、と言える。

何を言いたいかというと、この度ホンダから発表されたS660は、私にとって四半世紀ぶりの「乗りたい!」と思わせるクルマだったのだ。

では四半世紀前に何があったのかというと、世紀末のバブルとともに散った、華やかなるスポーツカー、オープンカーブーム。

以下、個人的な記憶と主観に基づいた話なので、史実と異なる点もあると思われるので、居酒屋トーク的思い出話と思った上で読んでいただきたい。

ことの発端はNSXではなく、やはりユーノス・ロードスターだったと思う。

NSXが日本製のフェラーリであったのに対し、ロードスターは全く新しいオープンスタイルのスポーツカーだった。

スポーツカーになりきれない、スポーツカー風のクルマしか選択肢がなかった時代にドライビングそのものを楽しむという考え方を、見た瞬間に理解させたクルマこそロードスターだ。

いいデザインのクルマはかっこいいクルマと同義語と捉えられがちだが、本当の意味でいいデザインとは、作り手の思想が形状という言語で使い手に伝わるプロダクトを指す。

当時オープンカーは時代遅れというか、今でいうオワコン的な扱いであり、ラインナップはゼロに近かった。あったとしても、金持ちの道楽に的を絞った高価なものや、旧型モデルをベースになんとか延命しているもの、既存車両の屋根を取っ払ったモデルなど。最新の設計による真っ当なものは皆無だった。

そこに完全なる新生ライトウェイトスポーツカーとして、しかもオープン2シーターのみのラインナップでロードスターは登場した。

この潔さに誰もがメーカーの本気を信じたし、クルマをモテるためのツールとしか捉えていなかった層にも運転の楽しさを知る者が増え裾野が拡大、ここに一大スオープンカーブームが巻き起こったのだった。

ロードスターに続け! と世界中のメーカーがこぞってオープン2シーターモデルを投入した結果、晴れた休日ともなると、そこら中がオープンカーだらけとなった。

しかしいずれも潔いプロダクトとはいえず、ロードスターの思想に並ぶ明快さを持ったモデルは少なかったように思う。

ここでライバル車とおぼしきものを思い出してみる。

┌BMW Z3

BMWまでも! とその登場に驚いたが、アメリカ人が好きそうなグラマーな、
悪く言えば西海岸的頭悪そうなスタイリングで登場したため、誠実なヨーロッ
パらしさを期待した層からは敬遠された。

バルケッタ.........その名のとおり小舟のようなフォルムで登場。好みの別れるスタイリング。個人的に見た目は良かったけどFFというのがいただけなかった。FRの面白さをロードスターが知らしめた後だったこともあり、よけい残念な印象。

MGF.........素直にかっこいいし、上品。英国の歴史と伝統を感じるが、ロードスターのVスペシャル登場後だったためか、本家にもかかわらず、まがい品に見えてしまうのは不思議である。

デルソル.........いかにもマーケティング的。電動ハードトップがウリだが、ロードスターとの差別化を狙うあまり本質を忘れた印象。

S2000.........登場が遅すぎ。見た目も内容も保守的に思えた。

MR-S.........マーケティング的には正解だったのだろう。しかしポルシェの劣化コピーのような外観や、アルミに見える内装パーツが実際は塗装だったりとニセモノ感が災いしてか、あまり売れなかったようだ。マーケティングは占いではないことの証明。

ロードスターはこれら後続のプロダクトを平然とぶっちぎる。しかし軽自動車の世界には個性的なモデルも多かった。中でもコンセプトの潔さが光ったのは以下の2モデル。

ビート.........ホンダ車の中で、オリジナリティという意味では、俄然ビートに軍配が上がる。しかしホンダの本気はあくまでもNSXであり、ビートはシャレという立ち位置だった。シマウマ柄のシートやおもちゃのバイクのようなメーターまわりの意匠からも、そのあたりを伺い知ることができる。

カプチーノ.........軽のオープンをシャレでなく本気で見せたのがスズキ・カプチーノ。軽自動車ながらもスズキのフラッグシップモデルである。

ロングノーズ、ショートデッキの本格的な設計。分割収納式の屋根と熱線入りリアウィンドウのコンビネーションは、オープンカーの欠点に対する見事な提案だった。しかし148万円(だったかな)と軽にしては高価であり、すでに中古市場にあふれていたロードスターの値段と比較されるという不幸な側面もあった。


さて、いろいろ挙げたが結局いずれも一代限りで、血筋を保てたのはロードスターのみ(だったはず)。

で、今回発表されたS660は、この時期に発表された『ビート』の後継車種といえる。

淡々と代を重ねて来たロードスターが初代の魅力を越えられないのに対し、S660はあきらかにビートよりも美しく(オレ基準)作り手の本気を感じるのだ。

しかし、ロードスターも黙っちゃいない。販売間近の次期モデルは、アルファロメオと共通プラットフォームという付加価値つきで、印象をいままでとガラッと変えて登場する。

これって景気がよくなってるってこと?

四半世紀前のビートやロードスターのカタログや広告を見ながらデザインを学んだ身としては、当時を越える"伝わる"グラフィックデザインにも期待したい。いずれにせよ、活気が出てきたってことは喜ばしいことである。


【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
< http://tongpoographics.jp/ >

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。


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■もじもじトーク[17]
縁側のある風景

関口浩之
< http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20150402140100.html >
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こんにちは! もじもじトークの関口浩之です。今回はわたしの幼少期の家の話です。

●群馬県生まれです

僕は1960年に群馬県でおぎゃ〜と生まれました。当時の地名は、群馬県新田郡笠懸村大字なんちゃらという長閑な田舎でした。

そういえば、数年前、ネット上でグンマネタ、盛り上がりましたね。

・群馬に入ったら二度と戻れない!
・群馬県庁はジャングルの中にある!
・群馬県民はグンマーと呼ばれるw ......などなど。

群馬県民(今は東京都民ですが)としては、悔しいという気持ちもありましたが(笑)、それよりも「群馬が話題になってありがとう☆」という寛大な心持ちでした。

群馬県民って、寛大というか、まぁ、あんまし気しないという気質なんだと思います......。たしか知名度ランキングで最下位をとってしまったので、そんな噂が流れたと聞いています。

でも、、、いま、[群馬 画像]でGoogle検索したら、なんとーーー、いまだに、群馬県庁らしき怪しい建造物の写真や、槍を持ったグンマ県民らしき写真が上位に出てくるではありませんか!!!(爆笑)

でも、ゆるキャラグランプリ2014で『ぐんまちゃん』が堂々の一位に輝きました! そして、富岡製糸場が世界文化遺産にも選ばれました! 最近は群馬の知名度がぐ〜んとUPしたんじゃないかと自負しております。郷土愛!(笑)

●幼少期の風景です

幼少期の写真がほとんど残ってないのですが一枚ありました。

では、思いきって写真アップしちゃいましょう! じゃーん!
< http://goo.gl/E1SMDv >

あれっ、さっき話題になった風景、そのものじゃん^_^ グンマネタに触れなければよかった...と少し後悔してます(笑)

はい。『縁側』がある風景ですね〜。

この縁側って、すごくよくできたシステムだと思うんです。家族が生活するエリアと外の世界とをうまく隔てていますよね。ほんと大胆でオープンな空間システムです。バルコニーでは実現できないですよね。

よだれを垂らしている小さいほうが僕なんですが、写真撮られた記憶あるんです。うん、そんな気がする......。

そういえば毎日のように、近所のおじさん、おばさんがやってきて、縁側でお茶飲みながら井戸端会議してましたね。縁側会議?

うちの家族がみんな畑仕事で不在でも「柿をちっとんべ置いてぐから、みんなで食べて」と言って、縁側に置いてっちゃったりするのも日常茶飯事でした。

ちっとんべと言っても30個ぐら袋に入っているのです^_^ ちっとんべ(=少し)の定義がすごいんです。おもてなし精神ですかね。

そして、メモが置いてなくても、誰が置いていったかは家族は想像がついてしまうのです。すごい。

この縁側システム、客人をおもてなししつつも、お互い深入りはしない絶妙なバランスの空間だと思います。

今だと、防犯上、一軒家で縁側を設置するのは難しいと思いますが、1960年代前半ぐらいまではそんなオープンシステム(?)もありだった時代かもしれませんね。

クーラーがない時代だったので、一軒家でも夜に鍵を掛けずに寝ていました......。

●当時の電話システムです

当時の電話システムを紹介します。これです!
< http://goo.gl/nL9ecp >

見た目はレトロですが、仕組みとコンテンツがすごいんです!

僕の実家の電話番号は「へ-7」でした。市外局番が「あ/い/う/お...」で、電話番号が「1/2/3/4/5...」の組み合わせです。なので「への7番」です。

電話をかけるときは受話器をとって「こちらへ-7番ですが、い-1番にかけてください」と交換手さんに伝えると、相手のスピーカに対して「い-1番さん、お電話ですよー」と交換手のお姉さんが呼び出してくれるんです。ちゃんとピアツーピアなのだ^_^

このスピーカ、相手を呼び出すためだけではなく、普段はラジオを流したり、青果市場ニュースを流したりします。「有線」とか「有線電話」と呼んでいたと記憶してます。

一番すごいと思ったのは、ローカルニュースや緊急連絡コンテンツです。たとえば「関口さん家の豚さんが家畜舎から脱走したので見つけたら連絡してねー」とかの緊急連絡に使用してもらえます。

50年前に僕の住んでいたエリアは、1,000世帯ぐらいの規模のコミュニテイだったので、このシステムでも成り立ったんでしょうね。当時は数千人の人口の村でしたが、ベットタウン化がすすみ人口が10倍以上に膨れ上がった町になりました。

●当時の看板です

1960年代の看板をいくつか紹介します。これです!
< http://goo.gl/teF7kP >

この頃の看板は手書きだったのでしょうか? どうやって看板を作ったのか知ってる人、誰か教えて〜。

うーん、どれも素敵ですよね!!! 製品写真とCMタレントさんと文字だけ。

キャッチコピーがストレートですね。「おいしいですよ!」と。これは美味しいに違いない^_^

「金鳥」の書体、堂々として主張がすごいです。

看板もそうですが、建造物や製品プロダクトも、その時代に応じた素晴らしいものが生まれてますよね。

レトロなものを単純に「かっけ〜」と感じるのも正解だと思います。僕もそんなノリで心踊っちゃうこと、よくあります。でも、その時代の社会背景や歴史を調べてみると更に楽しいです。

【せきぐち・ひろゆき】sekiguchi115@gmail.com
Webフォント エバンジェリスト
< http://fontplus.jp/ >

1960年生まれ。群馬県桐生市出身。電子機器メーカーにて日本語DTPシステムやプリンタ、プロッタの仕事に10年間従事した後、1995年にインターネット関連企業へ転じる。1996年、大手インターネット検索サービスの立ち上げプロジェクトのコンテンツプロデューサを担当。

その後、ECサイトのシステム構築やコンサルタント、インターネット決済事業の立ち上げプロジェクトなどに従事。現在は、日本語Webフォントサービス「FONTPLUS(フォントプラス)」の普及のため、日本全国を飛び回っている。

小さい頃から電子機器やオーディオの組み立て(真空管やトランジスタの時代から)や天体観測などが大好き。パソコンは漢字トークやMS-DOS、パソコン通信の時代から勤しむ。家電オタク。テニスフリーク。


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編集後記(04/02)

●野地秩嘉「TOKYOオリンピック物語」を読んだ(小学館文庫、2013/単行本は2011)。この企画の取材を始めたのが1995年、完成して出版するまで15年もかかったという。この本は東京オリンピックを題材としているが、登場するのはオリンピック競技の選手ではない。東海道新幹線、首都高速、東京モノレールといった大会のためのインフラに関わった人たちでもない。グラフィックデザイン、リアルタイムシステム、選手村食堂、警備、記録映画、ピクトグラムなどで、大会を裏で支えた人たちだ。そんな東京オリンピックを現場で担った人々の肉声を聞ける最後の機会に、筆者の取材は間に合った。Good Job!

オリンピック史上、東京は屈指の成功例といわれるが、その背後に知られざる人々の働きがあったことをこの本であらためて知る。知られざる人々と言っても、錚々たる顔ぶれである。亀倉雄策、早崎治、村越襄、勝見勝、福田繁雄、道吉剛、早川良雄、竹下亨(日本IBMエンジニア)、村上信夫、飯田亮、市川崑、黛敏郎、谷川俊太郎、長野重一、宮川一夫、亀田佐(映画助監督)、山口益夫(スポーツ専門キャメラマン)etc.......括弧付きの人は知らなかったが、他はすべて知っている。わたしが仕事で取材した人も何人かいる。でも、東京オリンピックを成功させた人のひとりであったことに気づかなかった。

リアルタイムで競技の結果を集計したのは、歴史上、東京オリンピックが初めてのことだ。コンピュータのリアルタイムシステムを開発したのは日本IBMで、当時32歳の竹下亨がリーダーだった。日本IBMが組織委に確約したのは全種目の競技結果を速報するシステムを構築すること、及び記録を集大成して東京大会のマスター・レコードブック(公式記録)を作ることで、どちらも宣伝のため無償で請け負った。3名でスタートし、ピーク時には263名が投入された。このサクセスストーリーがとくに興味深かった。結局、裏方たちは誰もがたいした報酬は得ていなかったが、熱にうかされたように仕事に励んだ。

東京オリンピックは、世界最新、最高の技術で世界からの人々を迎えようといった向こう見ずな計画だった。東海道新幹線開業がオリンピック開会の直前に間に合うなど、インフラ整備の面からも、がむしゃらな情熱の産物だった。あの頃、全国民は確かに日本の未来を東京オリンピックに託していた。国民がひとつにまとまる、戦後初めての機会だった。では、2020年の東京オリンピックで国民はひとつにまとまることができるか。おそらくできまい。日本はどんどん劣化し、情熱を失った国になっている。昭和30年代を知る人は、この1964東京オリンピック「知られざる奇跡の物語」に必ず感動するだろう。(柴田)

野地秩嘉「TOKYOオリンピック物語」
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094088768/dgcrcom-22/ >


●3月末に住宅ローンの借換実行をした。金利が下がり続けているので、一昨年ぐらいからやりたいとは思っていたのだ。

それまでは半分がフラット35S(固定金利で当初10年は金利優遇措置がある)、残り半分が都銀の変動。この変動が借りた当初からずーっと同じ1%未満のまま。当初はかなりの優遇幅で良かったのだけれど、最近はどこも優遇幅を広げているし、低金利だし全部を固定へ借換したいなぁと思っていた。

昨年の今頃だったか、そろそろ底だろうと考えてシミュレーションをすると200万以上浮く。そこであるモーゲージバンクに相談に行ったら、手数料含めるとほぼ同じか、パターンによっては逆に増えるとのこと。

変動金利が将来上がると想定して、その上がり部分を圧縮できるだろうというもので、上がるのはまだ先だと思っていたから手間が増えるだけだなぁと及び腰になった。

行員さんにふと「金利の動向はどうなると思います?」と聞いたら、「ぼくの個人的な見解ですけど、まだ下がると思いますよ。」と漏らしてくれた。それまで結構突っ込んでいろいろな会話をしていたので、話してくれたのだろう。続く。(hammer.mule)