わが逃走[158]花の話/齋藤 浩

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春といえば花の季節である。風景のひとつとして、咲く花の色彩にはなんともいえぬ美しさを感じるが、さて花そのものはどうかといえば、昔からどうもその良さがわからない。

高校生のとき、一緒にデッサンしていたS山君が「花ってなんて美しいんだろう。自然が作り上げた最高の芸術品は花だと思うよ」なんて言ったのを聞いて、ホントにそう思うヤツっているんだ! と驚いたもんだ。

そんな私にも例外があった。カラーというサトイモ科の植物だけは美しいと思っていたのだ。しかし、実はあれは花ではなく仏炎苞という、"がく"の一種と聞き、なるほど、オレの感覚は筋金入りだと思ったのだった。

決して嫌いというわけじゃない。しかし今でも花はどうも苦手だ。

なにせ生殖器なわけだからグロいし、はずかしい。じっと見つめて観察なんてできないのである。葉や根には機能や生命力から来る美しさも感じるのだが、花となると、どうにも恥ずかしいことこの上なし。




なので、花柄というものの良さも、なかなかに理解しがたいのだ。とくに具象的なヤツ。

子供の頃、なぜ魔法瓶や炊飯器が花柄なのか理解できなかったし、そもそもなぜ機能と無関係な花をそこに描くのかわからない。

「花柄は売れるから」というのは答えになっていない。なぜ売れる? きれいだから?

美しさで勝負するなら炊飯器のフォルムでそれを表現すべきだし、白いだけだと"持たない"から花でも描いとくか、という蛇足的な考えは邪道である。逃げでしかない。

そもそも私は「花はきれいなもの」という決めつけが許せない。

みんながきれいと言ってるんだからきれいなのよ! ってことなのか。その決めつけ由来の記号をプリントすれば、なんでもきれいになるという考えは実に安直である。見た目も安っぽいし心根も安っぽい。

安っぽいから受け入れられないのか? いや違う。

たとえそれがマイセンのミルクポットだったとしても、形状と装飾の相乗効果によって美術品としての価値が認められているものだとしても、その良さがどうしても理解できないのだ。

オレは花が嫌いなのか?

それが「装飾」だから嫌いなのか?

アールヌーボーやアールデコまでいっちゃえば、花をモチーフにした線と面の対比の美しさに共感するし、身近なものでいえば松永真デザインのスコッティの箱なんざ超一級品の花柄といえる。

あれは、お花畑を走る列車の窓からスローシャッターでとらえた風景だよね。風景としての花、直接見せずに感じさせる花。花の表現はやはりこのくらいがイイと思う。

さて、前に述べたように、花とは生殖器である。

私はそういうものが描かれた皿でさしみを食べる気にならない。と言って気づいたが、花柄の皿にさしみ、これはある意味女体盛りと言えよう。

私は昔から食欲と性欲が同居できないたちで、ノーパンしゃぶしゃぶやわかめ酒等にはまったく興味がない。セックスしながらフレンチのフルコースを食べたいとも思わないし、エロ本を読みながら弁当も食えん。

ということは、花柄が求められる背景には、深層心理への女体盛りOK文化の浸透があるといえるのではないだろうか。

40年前に死んだ祖父・三郎の遺言は「遊ぶときは遊べ。勉強するときは勉強しろ。何事にもけじめを付けられる、節度ある人生を歩め。」であった。しかし、私はいかにして遊びながら仕事をするかをテーマとした人生を歩んでしまい、常に罪悪感に苛まされてきたのである。

そこへ来てこの発見だ。性欲と食欲をきっちり分けた人生を歩んできたし、今後もそうできる自信がある。ようやく祖父に対する後ろめたさから解放され、行く手に待つは花ざかりな人生、ということで、こいつあ春から縁起がいいや。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。