ショート・ストーリーのKUNI[176]花菖蒲
── ヤマシタクニコ ──

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その頃彼は金もなく職もなく、毎日を無為に過ごしていた。元来こつこつと勤める生活に興味はなく、漠然と絵描きになりたいと思っていた。

簡単に認められるとは思えないが、自分より下手な人間が世間でもてはやされている様子を見るとどうにも納得できない。転職を何度か繰り返してはどれも自分に向いていない、やはり絵描きだと思うが覚悟が決まらない。

次第に、口から出るのは不満ばかりとなり、妻はそんな彼に愛想をつかして出て行った。まったく彼の脳髄を支配しているものは梅雨空のごとくどんよりとした気分であった。

その日はぶらぶらと歩いているうちに「菖蒲園」の看板を見つけ、なんとなく入った。入り口に小屋があり、胡麻塩頭の無愛想な親父に入園料を払えと言われ、よほど入らずに帰ろうかと思った。だが、入園料を取るくらいだからそれなりの見ものなのかも知れぬと思い直した。

果たして、特に珍しい品種もないが、園内はよく手入れされ、園路に沿った柵の中では色とりどりの花々が今を盛りと咲き誇っている。

彼は、いつも携帯している手帳を取り出し、鉛筆でスケッチを始めた。真っ白に紫の覆輪、濃い青紫の絞りに鮮やかな黄色が差したもの、濃厚な桃色一色のもの。いくら描いても描ききれない。




中にひとつ、大ぶりの外花被は雪のように白く、内花被に紫を刷毛で刷いたように見える品種で、殊の外美しく咲き誇っている花があった。あまりの豊満さにしばし彼は鉛筆を持ったまま見惚れ、それからわれに返って描き始めた。

すると、おかしなことだが、花のほうでも彼を見つめているような気がするのだ。ゆらりと花びらが動く。次の瞬間、彼は思わず声を出すところだった。

真っ白な花びらの陰から、一匹の甲虫が現れたからだ。

それは、身の丈一寸ほど、黒い体に黒と白のまだらの脚と、同じ色の触角を持つ虫で、ゆっくりと彼のほうに目を向けた。触角がゆらめいた、と思ったその瞬間、彼の意識が遠のいた。

次に目覚めたときは見知らぬ部屋にいた。

室内は香がたきしめられ、何かの植物で編んだ覆いを通して鈍い光が照らしている。彼は蔓草模様の布貼りの長椅子に横たわり、そばに一人の女がいて、しきりに彼の右の腕をさすっていた。

何者かに腕をねじりあげられたような痛みがあったが、それが次第に遠のいていく。

「気をつけないと。あのひとは嫉妬深いから」

女があの花菖蒲であることはすぐにわかった。ふっくりとした白い肌。全身からえもいわれぬ艶めいた気が漂う。

「あのひと?」

聞きながら、すぐにわかった。彼の脳裏に黒くて大きな甲虫の姿が浮かぶ。黒白のまだらの脚も硬そうで、いかにも凶暴な感じだ。

だが、目の前の女はその恐怖を忘れさせるほどに艶かしい。自然のなりゆきのように彼は女と交わる。女の白い肌は上気するほどに細かな網目のような血管を浮かび上がらせ、はかなく見えてむしろ強い力で彼を包み込むようだ。彼は溶ける。溶けながらかつて味わったことのない幸福を感じる。

そのとき、がたんと音がして玄関のほうにだれかがやってきた気配がした。女はあわてて離れ、彼に「隠れて」と、部屋の片隅の物入れを示す。

言われるままに物入れの扉をあけ、身を隠すと、やがて大きな男が入ってくる。肌が真っ黒な上に身につけている衣服がことごとく黒い。手袋にだけ、白い縞模様がある。そしてその手袋をしたまま、男はすぐに女を抱き、さっきまで彼がいた寝台で交わり始める。彼は籐で編んだ扉の隙間からそれを見た。

朝になると黒い男はどこかへ去っていった。

「もういいわよ」

女が言い、彼は扉の外に出た。

夜になるとまた黒い男がやってきた。彼はまた扉の中から一部始終を見ていた。そんなふうに毎日が過ぎる。彼は部屋から一歩も出ず、女との情事にふける。

食べるものには不自由しない。いや、違う。前の日、その前の日、自分が何を食べたかが思い出せない。空腹感はないが食事をした記憶がない。あるのは女と交わった快楽の記憶だけだ。

「あの男のどこがいいのだ」

彼が問い詰めても女は答えない。

「おまえとふたりだけで暮らしたい」

女はやはり答えない。

「おれは、今はこんなだが、きっとひとかどの絵描きになってみせる。おまえにふさわしく」

女は三日月のような薄い笑みを浮かべる。

同じ日が何日、何十日と続く。どうしたことだろう。この暮らしは何かおかしい。頭のどこかでは感じているが認めたくない。女と交わり、夜になると黒い男と女の様子を物陰から見る毎日。

ふと気づくと、彼はすっかり紙も筆も持たなくなっているが、どうでもいいと思う。

女は次第にやつれてくる。白い肌はわずかに黄味を帯び、少しずつ張りを失う。手の甲の肉が落ち、青筋が浮かんでくる。

「どこか具合でも悪いのか」

女は首を振る。

「そうじゃないことはわかってるでしょ」

彼は少し狼狽する。確かに。この幸福は限られた時間のものだ。少し考えればわかることだが、彼はわかりたくなかった。いずれ来る終わりを思うといてもたってもいられない。どうにかしたいというあせりと、どうにもならない投げやりな気分が入り乱れ、結局は女の肌のぬくもりに逃げてしまう。

さらに何十日かが経ち、女の顔にも首にもしわが目立つようになる。弾むようだった乳房もだらりと垂れ下がる。彼は相変わらず女に夢中だが、懇願せずにはいられない。

「あの男と別れてくれ。おれはせめて、これから先の時間、おまえをおれだけのものにしたい」

返事がない。

「頼む!」

それである晩、男がやってきたとき、彼はわざと戸棚の中で音を立てた。

「だれだ」

男が言うのと同時に彼は飛び出し、男に襲いかかる。

「何をする」

体格では黒い男のほうがはるかに勝る。彼と黒い男は組んず解れつ狭い室内を転げ回った。テーブルにぶつかり、何かの瓶が落ちて割れ、掛け布は引き千切られ、飲みさしの酒がこぼれる。

「おまえがいないほうがあのひとのためだ!」

彼が叫ぶと黒い男も叫んだ。

「おまえに何がわかる!」

自分の倍以上の重みに圧し潰されそうになり、彼は思わず手にした菁滋の花生けを投げつけた。と、それは女の顔に命中する。

気がつくと彼は土の上に倒れていた。あたりを見まわし、そこが菖蒲園の園路であることを理解するまで長い時間がかかった。

「あああ、こんなことになって」

朦朧とした頭で声の方向を見ると、雇われて花殻摘みをしているらしい年老いた男が立っている。老人の前に、今は無残に形を変えたあの花があった。

花菖蒲は盛りを過ぎるとまず花弁に細かなしわがより、そして次第に縁からまくれあがり、ついに褐色を帯びた小さなくしゃくしゃの塊になってしまう。

その花菖蒲の花殻は一番上のほうがひどくへしゃげていた。何かに打たれたように。そして、それにもかかわらずまくれた花弁の中に黒い甲虫をしっかりと抱き込んでいた。甲虫は脚を上げて半ば仰向けになり、死んでいるようだった。

「この花の美しさは、開き始めたときから際立っていた。毎年毎年数え切れない花が咲くが、あんな花は見たことがないと思った。なのに、二日も持たなかった」

二日?! たった二日のことだったのか。

「普通はもう少し長くもつのだがね。私は、虫のせいだと思う」

「その…黒い虫の…」

「いや。これじゃなく…どこから来たのか薄汚い芋虫のようなのがこの花にまとわりついて離れなくてね。いまいましいことだ。もう逃げたのか、今は見えないが」

老人は花殻を黒い虫ごと摘み取って、持っていた布袋に入れた。袋の中には無数の花殻が詰め込まれているのだろう。

彼は身体中の力が抜けたように重い足取りで出口に向かった。小屋の中から胡麻塩頭の親父が、丸二日ぶりに園を出ようとする彼を不審げに見た。


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時々公園に行く。地元の公園にはたいてい池がある。というより、ため池がもともと多い地域で、ため池の周囲が公園として整備されたのだ。そして、その池には亀が多い。

水面に点々がいっぱい見えるので何かと思ってメガネをかけたら、半分頭を出した亀の群れだということがわかって「げー」と思ったり。でも、ぷか〜ぷか〜と浮かんでる亀を見てるとなんだか幸せそうだ。私は亀になりたい(え、もう充分のんびりしてますか)。