まにまにころころ[79]ざっくり日本の歴史(後編その1)江戸幕府の全十五代将軍イッキ見
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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こんにちわん、コロこと川合です。花燃ゆ、ついに禁門の変がおこり、主人公の配偶者、久坂玄瑞も亡くなりました。もう見ていないような気もしますが、幕末志士のファンが見たら別の悲しさで涙を流すんじゃないかというくらいの、それはそれは残念な最期でした……地元・長州の方の感想を聞いてみたい。

そんな花燃ゆ、次回からは大奥編。文が長州藩の大奥に働きに出て、おしんのようにいじめられるストーリーなんですって。へー。

さて、そこから遡ること約260年。今回のまにころは、開幕のあたりから。




◎──江戸時代

今回からついに江戸時代。といっても、徳川家康が江戸幕府を開いたところを江戸時代の起点とすれば、前回の大坂の陣は江戸時代の話なんですけどね。

江戸時代は、長いわ、出来事も多いわ、資料も多いわで、何をどう書こうかも悩ましいところで。たぶん話もあっちこっちに飛んでしまう予感が今から既にしているのですが、最初くらい、ずどんと一本道でなにかを書こうと思います。

ということで、今回は、江戸幕府の全十五代将軍イッキ見ということに。以下、年月日は基本的に旧暦に沿ったものです。

◎──初代・家康(いえやす)
1542年12月26日生、1616年4月17日没、75歳。在位2年(1603年2月12日〜1605年4月16日)、大御所10年。

説明不要の初代将軍。でも、実際の在位はたったの2年で、早々に二代目の秀忠に譲っています。もっとも、その後も大御所として実権を握っていますけれども。

江戸時代と言えば家康、というイメージなのは当然ですが、家康は60年以上、戦国〜安土桃山時代に生きた人で。家康が過ごした「江戸時代」は13年だけ。その13年で、その後260年以上続く江戸時代の基盤を作ったのはすごいです。

大坂の陣の翌春には亡くなっているので、秀頼がもう少しでも粘ってていれば、歴史は少し違っていたかもしれません。

家康はこの先続いていく徳川時代のために、尾張、紀州、水戸の「御三家」を創設して、血のバックアップを用意しました。家康自身はそんなもの必要ないくらいに子だくさんなんですけどね。

◎──二代・秀忠(ひでただ)
1579年4月7日生、1632年1月24日没、54歳。在位18年(1605年4月16日〜1623年7月27日)、大御所9年。

家康の三男です。長男じゃないんです。長男(信康)はゴタゴタがあって、秀忠が生まれた年に信長の要求に応じた家康の命令で切腹しています。次男(秀康)は、秀吉の養子になった後、結城家を継いでいます。三代目の家光以降は原則、長男から順に家を継ぐことになりました。

関ヶ原の戦いに遅刻した話もあってか、凡庸な人という評判ですが、まあ父親と比べられたら辛いところでしょう。なお家康は、徳川家が幕府の将軍として代々君臨していく上で、将軍は優秀でなくてもいいようなシステムを構築したと言われています。

とはいえ、家康の後を継いで、立ち上げ期の幕府運営を軌道に乗せていったわけですから、秀忠も立派です。恐妻家だったそうですけどね。奥さんはいわゆる江姫。淀殿の妹、浅井三姉妹の末っ子です。つまり、信長の姪っ子です。そりゃ怖いわ……

◎──三代・家光(いえみつ)
1604年7月17日生、1651年4月20日没、48歳。在位28年(1623年7月27日〜1651年4月20日)。

家康や秀忠と違って、生まれからして江戸時代。生まれながらの将軍である、と宣言した話は有名です。両親は弟のほうをかわいがって、そちらに継がせたかったようですが、家康が直々に出向いて家光を後継者にするよう定めました。

なので、家光は親よりもおじいちゃん大好きっ子でした。秀忠が家光でなくて弟に継がせたがってるみたいだと家康にチクったのは、家光の乳母だったあの春日局です。

家光も、家康、秀忠が築いてきたものを立派に引き継ぎ、きっちり江戸幕府の基盤を整えました。いわゆる鎖国と呼ばれるものが完成したのも家光の時です。

◎──四代・家綱(いえつな)
1641年8月3日生、1680年5月8日没、40歳。在位29年(1651年8月18日〜1680年5月8日)。

家光もそうでしたが、家綱も幼少の頃から病弱だったそうで。家光は家康に薬を調合してもらったりしつつ、将軍職に就く頃にはそこそこ元気になっていたようですが、家綱は家光が亡くなって将軍に就いたのがまだ11歳の時のこと。

将軍になってからも数年は大奥で寝起きしていたそうです。そのせいかどうかは定かじゃないですが、心優しい人だったとのこと。父親の家光はまだ家康や秀忠といった戦国時代を生きた人の下で育ちましたが、家綱は秀忠も亡くなりしばらくしてから生まれていますので、そういったことも関係しているのかもしれません。家綱以降、政策的にも戦国の空気は薄れて、文治政治へと移っていきます。

◎──五代・綱吉(つなよし)
1646年1月8日生、1709年1月10日没、64歳。在位29年(1680年8月23日〜1709年1月10日)。

家綱は病気で急死してしまい、後継者問題が起こりました。家綱には二人の弟がいて、真ん中の弟は既に亡くなっているものの、その弟には息子がいました。末の弟に継がせるか、真ん中の弟の息子に継がせるか。

一説には、結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を、宮将軍として擁立しようという動きもあったとか、色々と揉めたようですが、末の弟の綱吉が継ぐことに。なお水戸黄門こと光圀は真ん中の弟の息子(後の家宣)をプッシュしていたそうです。

さてこの綱吉、生類憐れみの令で有名な「犬公方」です。この人の評価は大変割れていて、暗君派、名君派、最初は名君だったのに暗君になった派などなど、未だに評価が定まっていない模様。面白いので、またそのうち詳しく。

綱吉の時代には、あの忠臣蔵として有名な赤穂事件が起こっていまして、その赤穂事件の顛末がまた綱吉の評価にも関わってきています。未だに大激論。

◎──六代・家宣(いえのぶ)
1662年4月25日生、1712年10月14日没、51歳。在位3年(1709年5月1日〜1712年10月14日)。

綱吉と五代目を争った、家綱の真ん中の弟の嫡男です。綱吉にも息子がおらず、六代目が回ってきました。五代目争奪以外にもなにかと振り回される人生で、苦労したためか文武両道の立派な人だったそうです。

短い在位ながらも多方面で才能を発揮したと言われていますが、家宣が政治顧問として取り立てた新井白石の評価は分かれるところです。

◎──七代・家継(いえつぐ)
1709年7月3日生、1716年4月30日没、8歳。在位3年(1713年4月2日〜1716年4月30日)。

5歳で将軍に就き、8歳で亡くなった家継。もちろんなんの実績も残せず。家宣は風邪をこじらせて亡くなる直前に、まずは尾張の吉道に継がせて、その後で家継をと言い遺していたそうですが、そんなことをすれば話がややこしくなるからと、新井白石たちが家継に家を継がせることに。

ちびっ子将軍ということで、大奥の影響力が強まり、大奥は権力争いの中枢に。一方で、当の家継は病弱で。結局、8歳という年齢でこの世を去り、後継者問題が再び発生することになりました。しかも今回は秀忠の血統が絶えた。家康が御三家を創設した意味がここへきて生きてきたわけです。

◎──八代・吉宗(よしむね)
1684年10月21日生、1751年6月20日没、68歳。在位29年(1716年8月13日〜1745年9月25日)、大御所6年。

さて、暴れん坊の登場です。誰が継ぐのかこれまた色々とあったようですし、紀州の吉宗自身も、尾張か水戸が継いだらいいやん、って言っていたとの話もあるのですが、結果はご存じの通り。暴れん坊将軍こと松平健、もとい、吉宗が八代目に就任しました。

享保の改革と呼ばれる幕政改革を行うなど、大いに活躍した名君で、中興の祖と言われていますが、吉宗の評価も分かれています。まあ誰でも何か大きな事をすれば、評価は分かれますけどね。

先ほど、吉宗は八代目を尾張か水戸が継げばいいと言ったらしいと書きましたが、どこまで本気だったのか。そう言って何度も辞退したとのことなのですが、吉宗は息子の中から田安家、一橋家を創設して両卿とし、死後には後継の家重の子から清水家が創設され「御三卿」となりました。

家康が尾張、紀州、水戸と御三家を用意していて、その紀州から迎えられた吉宗。その吉宗が御三卿を用意したということは、要するに、将軍家の流れから尾張と水戸を排除して、自分の血で独占する気まんまんってことですよね。これは最後の最後で崩れるわけですけども、まあその話はまた後で。

◎──九代・家重(いえしげ)
1711年12月21日生、1761年6月12日没、51歳。在位15年(1745年11月2日〜1760年5月13日)、大御所1年。

言語障害がありながらも聡明で優しい将軍だったという評価があるかと思えば、虚弱な上に酒におぼれて病気がちで、芸事好きで文武はそっちのけだったとの評価もあったり、評価は真っ二つ。ただ家臣も息子も優秀だったそうです。

◎──十代・家治(いえはる)
1737年5月22日生、1786年8月25日没、50歳。在位26年(1760年9月2日〜1786年8月25日)。

幼少の頃から優秀だったと噂の、家重の嫡男。誰もが期待して、祖父の吉宗も英才教育を施したそうです。そのまま文武に長けた聡明な将軍となって、人材登用も精力的に。もっとも有名なのが田沼意次の登用です。田沼意次と言えば、賄賂のイメージばかり強いですが、敏腕政治家だったようです。

池波正太郎の『剣客商売』は田沼意次が出てくるので、家治時代のお話ですね。

◎──十一代・家斉(いえなり)
1773年10月5日生、1841年閏1月30日没、69歳。在位50年(1787年4月15日〜1837年4月2日)、大御所4年。

一橋家から養子で迎えた十一代将軍。在位50年は十五代中で最長です。家斉と言えば、政治より何より、好色で有名。特定されているだけで16人、実際には40人はいたという側室に55人の子という、もう、異常というレベルです。戦国時代と違い、そこまで必要ないのに。家康でさえ、側室は20人程度です。

政治は松平定信を登用しての寛政の改革に始まって、大御所時代含めて54年も権力をもっていたので、その間にはまあ色々なことがありました。天保の飢饉がおこったり、大塩平八郎の乱がおこったり、モリソン号事件がおこったり。

一方、江戸を代表する化政文化が花開いたのも家斉の時代です。

◎──十二代・家慶(いえよし)
1793年5月14日生、1853年6月22日没、61歳。
在位16年(1837年9月2日〜1853年6月22日)。

家斉の次男で、兄が夭折したために世継ぎとなったのが家慶。将軍に就いたのは45歳の時。お父さんが元気だったからね……色んな意味で。

水野忠邦を登用して天保の改革を行わせるも不発。家慶も暗愚だの凡庸だのと評されることが多いみたいですが、武芸を奨励するなど、この後の激動の時代を結果的に支えたという一面も。

そんなこんなのうちにペリーの黒船がやってきて、ドタバタのうちに病に倒れ、後事を託して逝去。

◎──十三代・家定(いえさだ)
1824年4月8日生、1858年7月6日没、35歳。在位5年(1853年11月23日〜1858年7月6日)。

家慶も27人の子だくさんだったが、みな夭折。成人したのは家定ともうひとりの二人だけ。その最後の兄弟も、家定の将軍就任からほどなく逝去。27分の1で託された将軍職は、黒船来航問題という歴代の最難問をかかえているという。

たいていの将軍は評価が分かれてきた中で、家定はもう、ぼっこぼこに低評価ばかり。挙げ句に最後は後継者問題勃発という。まあ低評価なのは時代のせいとも言えるかもしれませんけどね。国難の極みになにもできず。開国へ。

◎──十四代・家茂(いえもち)
1846年閏5月24日生、1866年7月20日没、21歳。在位8年(1858年12月1日〜1866年7月20日)。

後継者争いの末、紀州から迎えられた十四代。幕末の国難を一手に引き受けたとも言える苦労人。安政の大獄、和宮降嫁、上洛、8月18日の政変、禁門の変、四か国連合艦隊による砲撃、そして長州征伐の最中に病死。幕臣からは慕われ、勝海舟も後年に家茂のことを語る際には涙を浮かべたそうです。

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』、ど真ん中の時代です。

◎──十五代・慶喜(よしのぶ)
1837年9月29日生、1913年11月22日没、77歳。在位1年(1866年12月5日〜1867年12月12日)。

最後の徳川将軍。一橋家から迎えられた将軍ですが、元は水戸藩出身。吉宗の血筋ではないんです。水戸から一橋に養子へ行き、そこからさらに養子に。

若い頃から聡明で、水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれながら、斉昭は他家へ出したりせずに水戸に留めていたところ、時の将軍だった家慶に幸か不幸か見いだされてしまって一橋家の跡取りとなるよう命じられて。

その一橋慶喜がさらに約10年後、今度は十四代将軍の後継者争いに担ぎ出され。最終的には、十五代の後継者としてまた担ぎ出されて、将軍に。

慶喜が育った水戸藩は徳川御三家ながら勤王で知られる藩。結局、慶喜は最後まで天皇に忠義を尽くす形で徳川の時代に幕を下ろしました。戊辰戦争では、立場的に朝敵とされてしまいますが、慶喜は朝廷に恭順。その後、明治時代に入ってからも、忠義を尽くしました。

◎──次回はまた江戸時代の最初に戻ります

十五代、およそ260年をざっと見てきましたが、さすがに長かったですね……次回はまた最初に戻って、その時々の興味深いエピソードなどを拾ってみます。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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