ユーレカの日々[44]私の好きなオリンピック/まつむらまきお

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スポーツを見ることに、まったく興味がない私だが、オリンピックの開会式の大掛かりなショーは毎回毎回、楽しみにしている。

はじめて、開会式スゲー! と思ったのはアルベールビル冬季オリンピックの開会式、1992年のことだ。たまたま、夜にテレビをつけたところ、開会式の選手入場の場面だった。

オリンピックにまったく興味のない私は、さっさとチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたのだが、その手が止まった。選手たちを誘導する女性のコスチュームが奇妙奇天烈なモノだったのだ。





●アルベールの開会式

こういった行進の誘導は、国名・チーム名などが書かれたプラカードを掲げるのが普通だ。高校野球では制服の学生がその役を担うし、僕自身ボーイスカウト時代になにかのパレードで誘導役をやったことがある。

ところが、画面に映しだされている誘導役の女性は国名が書かれたプラカードを手で持っていない。アーチ型のプラカードは直接、頭にくっついているのだ。

もっとオカシイのは、コスチュームだ。誘導役の女性たちは白いボディスーツを着て、その上から直径1.5メートルほどの透明のビニールボールを着ている。この時点でオカシイ。ビニールボールは着るものではない。普通、着ない。

しかしそう表現するしかない。パンパンに膨らんだビニールボールを着ているのだ。さらにビニールボールの中には紙切れが入っていて、女性は歩きながら手をヒラヒラさせると、その紙がボールの中で舞う。

丁度、クリスマスの飾り物「スノーボール」の上に人間の頭が出ていて、頭の上にはプラカード、スノーボールの下には足があって、歩いているという状態。その後ろを選手団たちは手を振りながら入場している。

スタイルのよいキンパツ碧眼の女性だからオシャレに見えるが、一歩間違えればコントのコスチュームだ。そういえばオリンピックはフランスだったっけ。

この人達がぎゅうぎゅう詰めになった控室を想像すると、笑うしかない。さすがに面白いことをやるなぁ、なんてことを思いながら見入っていると、次のフランス国歌斉唱の場面で度肝を抜かれた。

式典の国歌斉唱と言えば、全員が起立。楽団の生演奏で全員が厳かに歌うものだろう。会場は日没で真っ暗。そこにピンスポットがあたると、民族衣装の少女がひとり立っている。

そして、この少女が無伴奏、アカペラのソロで歌い始めたのだ。しかも、歌いながらその少女は、一本の棒でするすると空中に掲げられていく。その高さ、10メートル以上。たった一本の棒で、である。そして暗転。斉唱はない。最後までこの少女のアカペラソロ。

そしてショーである。これはもう、筆舌に尽くしがたい。一言で言うなら「史上最大の大道芸」。人々が地から湧き出、宙を舞う。楽器と一体になったパフォーマー。大がかりで素敵なデザインのセット。単なる群舞ではなく、物語性があるパフォーマンスが会場いっぱいに繰り広げられる。

音楽もコスチュームもダンスもセットもライティングも、想像を絶するものだったし、それを実現している技術、創意工夫(はたしてこの舞台の奈落はどうなっているのか!)に圧倒された。

この演出を行ったのはフィリップ・ドゥクフレ、私と同い年で、当時若干31歳だったという(インターネットもない時代。そんな情報は最近になって知ったことだ)。

どんな表現でもそうなのだが、その表現でしかできないことこそが最上だろう。マンガでしかできない表現、映画でしかできない表現、文章でしかできない表現……テクノロジーがいくら進化しても、そういったレガシーな表現が廃れないのは、それでしかできないことがあるからだ。

そういう意味で、この開会式は、オリンピックの開会式でしかできない、最上の芸術だった。

Albertville 1992 Opening Ceremony | La Marseillaise
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ああ、これを生で見れる人たちはなんと幸福なことか! どうやったらこれを生で見れる? フランスに飛ぶか? いや、一番いい場所で見れるのは、アスリートになることだ。

じゃあ、今から身体を鍛えてオリンピックを目指そう。いや、それでは間に合わない。だってこの開会式は、これ一度きりなのだ。なんという贅沢なショーなのだろうか。

それ以降、オリンピックの開会式は毎回、楽しみに見るようになった。バルセロナもよかったし、数年前のロンドンは実にイギリスらしいユーモア感覚で、大笑いさせてもらった。

ちなみに、開会式には興味を持って見るが、競技にはまったく興味を持てず、一試合たりとも見ることはない。

●オリンピック芸術部門

調べてみるとオリンピック(近代)っていうのは、フランスのクーベルタン男爵が古代ギリシアのオリンピアの祭典を復活させようと言い出して、1896年、アテネで始まったそうだ。

オリンピックの発祥は古代ギリシアの……という先入観で、なんとなく伝統と格式があるような気がするが、案外歴史は浅い。エッフェル塔とほぼ同い年だ。

今回調べてみて初めて知ったのだが、当初は「スポーツ部門」と「芸術部門」があり、芸術部門はスポーツをモチーフに、絵画、彫刻、文学、建築、音楽があって、順位を競ったのだそうだ。

芸術部門は1912年から1948年の全7回の大会で正式競技だった。藤田嗣治は、1936年のベルリンで銅メダルをとっている。

芸術部門! これは楽しそうではないか。

さらにWikiを読んでみると、古代オリンピックではかの暴君ネロ(芸人になりたいほどの芸事好き)が自分の歌を披露するために、オリンピックで音楽競技を追加し自ら出場、相当ひどいものだったのを無理矢理優勝したが、その記録は死後抹消されたらしい。

おもわずジャイアンを思い起こし笑ってしまった。まぁ、古代ローマの時代にも、オリンピックには芸術部門があったのだ。

近代オリンピックで戦後、芸術部門がなくなってしまったのは、審査に色々と文句が出た結果だそうだ。現代でも、フィギュアなど芸術点については色々と問題視されることがあるらしい。うーむ、なんてヤボな。

もともとオリンピックは「メダルの数よりも、参加することに意義がある」といわれる、アマチュアリズム精神にのっとった、祭典のはずだ。メダルだって、まぁがんばったね、おめでとう〜、というノリだったんじゃないのか。

大会の規模が大きくなり、各国の関係などがからんで、要は「まじめな人」がメダルを「権威」と解釈しだしたから、そんな「ヤボ」なクレームが出たんだろうなぁ。

だってテレビの「欽ちゃんの仮装大賞」で、高い演出力の大人の出し物を差し置いて、子ども一人の出し物が優勝しちゃっても、だれも文句言わないじゃないか。

●コミケを正式種目に

オリンピックの芸術部門、現代であれば当然、映画やマンガ、ゲームなどもアリだろう。スポーツをモチーフに様々な作品が発表される。

スポーツ競技が世界規模の体育祭なら、こちらは世界規模の文化祭だ。選手村には世界中からあらゆるジャンルのアマチュアのアーティストが集い、交流する。いやもう、考えただけでもワクワクする。

東京オリンピックでは、会場のひとつに東京ビッグサイトが予定されている。あそこはコミケをはじめとする、アマチュアのマンガの販売イベントが多く開催される「聖地」だ。

これがオリンピックのために、追い出される(しかも準備のため、前年かららしい)。もし、オリンピックに芸術部門が存続していたら、コミケは追い出されるどころか、オリンピックの正式種目になっていたかもしれない。

コミケだけじゃないぞ。スポーツテーマ限定ならテニミュ(わかんない人はググッてください)なんか、舞台部門で日本代表確定だ。そんなオリンピックなら、ぜひ参加したいものだ。

アルベールビルオリンピックの開会式を見た時は、面白すぎるステージに、なぜこれがオリンピックの開会式なのか疑問だったのだが、なるほど、本来オリンピックはこういった精神だったんじゃないか。

イタリア、フランス、イギリスといったヨーロッパの人たちはそういうことをちゃんと受け継いでいるんじゃないだろうか。

●メダル30個とれなきゃクビ

さて、東京オリンピック。競技場といい、エンブレムといい、連日のこのグダグダ加減は、スポーツに興味のない私ですら、本当にウンザリさせられる。

一番ウンザリしたのは遠藤五輪担当大臣が「30個取れと厳命している。取れなかったらクビになる人が出ると思っている」と言ったというニュース。ほんと、バカじゃないかと思う。

役人のだれかがクビになるかどうかなんて、だれが望んでいるの? ちっとも楽しくないじゃないか? もともとは、アマチュアリズムであり、賞だって余興にすぎないのではないのか?

しかし、どうやらこの人が考える祭典は、人々が平和に楽しむことではなく、生け贄を捧げるようなモノだと思っているらしい。暴君ネロのカラオケショー以下だ。やれやれだ。

この大臣だけじゃない。過去どのオリンピックも、日本のメダル数ばかりが話題になる。そういう風潮を見るたびに、私はオリンピックから興味を失う。

結局、スタジアムにせよ、エンブレムにせよ、「ちゃんとしなくては恥ずかしい」というところから始まって、「ちゃんとした人から一番いい人を選ぼう」(双方ともハードルがめちゃくちゃ高いコンペ)という権威主義が見事に滑ったってことじゃないのか。

そもそもそういう考え方がオリンピック精神から外れているような気がする。

●五輪のシンボル

「五輪」のマークは、古代ギリシアの祭殿にあった「休戦」の紋章をモダンにアレンジしたもの。

古代オリンピアの祭典を復活させよう、というのが近代オリンピックなのだから、そのルーツがシンボルとなり、五大陸、それがチェーンとして繋がっている(元の紋章は繋がっていない)という新しい解釈が付け加えられた。

これに対して、だれも「昔のアイデアのパクリだ」「昔のデザインのパクリだ」とは言わない。逆に由来とコンセプトがはっきりしているから、誰もが納得するゆらぎのないものになっている。デザイナーの仕事としても、解釈と創意工夫が素人にもわかる。

東京オリンピックのエンブレムがあれだけ炎上したのは、デザイナーのコンプライアンスの問題だが、それが泥沼化していった一因に、エンブレムデザインにオリンピックとしての説得力が皆無だったからだと思う。

アルファベットすべてを組めるとか、円が日の丸を意味しているとか。いや、それがオリンピックとどう関係があるの? あのマークは東京ガスのものでも、東京メトロのものでも、東京タワーのものでも成立してしまう。

それどころか、「T」以外もできるということは、なんのシンボルでもいい、ということになってしまう。

似てるとか、デザイナーの他の仕事の醜聞とかで炎上してしまったが、もし五輪のシンボル同様、オリンピック、スポーツに明確に由来しているものであれば、あそこまで炎上しなかったのではないかと思う。

●なぜオリンピックをやるんだっけ?

今のオリンピックに芸術部門があったらどうなっていたのだろうか。先にコミケの話を書いたが、今の日本では、現実にはそうハッピーなことにはならないだろう。「有名な賞をいくつ以上受賞したことがある」人たちの作品を「ありがたく拝見」するようなものになっているかもしれない。

それどころか、そこに描かれていることが「似ている、似ていない」だの「○○を想起させるからけしからん」だの「国として恥ずかしい」だの、もっとややこしいことになっているような気がする。そう考えると芸術部門がなくなったのは幸いかもしれない。

オリンピックは、スポーツの祭典である以前に、平和の祭典だった。古代ギリシア人はオリンピックを神聖視し、その期間は休戦期間としたそうだ。

私の今のオリンピックに対する心配事は、国際情勢が悪化して、いくつかの国がオリンピックをボイコットするような事態にならないだろうかということだ。

「ちゃんと」しなくてはならないのは、立派なスタジアムでも、メダルの数でもなく、よい国際関係を維持して、休戦してでも参加したいイベントにすることのはずだよね。

【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
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