[3975] 小説非小説『徒労捜査官』誕生秘話

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《衝動に任せて行き当たりばったりに動く》

■私症説[73]
 小説非小説『徒労捜査官』誕生秘話
 永吉克之

■羽化の作法[新連載 01]
 25歳引き籠もりニート。四捨五入して30歳。
 武 盾一郎


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■私症説[73]
小説非小説『徒労捜査官』誕生秘話

永吉克之
< https://bn.dgcr.com/archives/20150911140200.html
>
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出版社から小説や自伝を出してもらうには、名のある文学賞を受賞するか、希代の凶悪少年犯罪で世間を震撼させるか、売れっ子お笑い芸人になるくらいしか方法がない。自費出版という手もあるがリスクが大きすぎる。

そこで、どうしても本を出したい私は、紙の本は諦めて電子出版を考えていた。電子書籍(以下「電書」)としては、すでに二冊もデジクリ文庫から出版してもらっているが、今度はエッセイ集ではなく、書き下ろしの中編小説を出してやろうと企てていた。

……いきなり脱線するが、この「紙の本」、もっと垢抜けした言い方はないものだろうか。元来、パルプか羊皮を原材料にした冊子が本だったのに、電書の出現で、それと区別するために、こんな身も蓋もない言い方を用いなければならないというのは、まっこと遺憾である。

同様に、携帯電話が割り込んできたせいで、「電話」で通じていたものが、「固定電話」とか「家電(いえでん)」とか呼んで区別しなければならなくなった。

また、ギターといえば、電気がなくても音をだせるギターが「ギター」だったのに、エレキギターがはびこってしまったために、「アコースティックギター」という長ったらしい呼称をちょうだいしてしまった。あまりに長いので「アコギ」なんていう阿漕な短縮形で呼ばれることもある。

本にしろ電話にしろギターにしろ、先達が、立てば歩めの親心、手塩にかけて育て上げた文化を、昨日今日生まれたような後発の勢力にほしいままにされるのは、いかにも業腹である。

この無念を、水戸黄門の名で知られる徳川光圀(1628〜1701)は辞世の句に込めている。

後から来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け

                 *

そんなことはどうでもいい。

出版する際のあれやこれやは原稿が完成してから考えりゃいいさと、バイトの合間にちびちびと書いていたのだが、あるときから、なおざりにしていた懸案が気になり出した。

「電書は売れない」とよく言われる。そのためか、無料の電書がつぎつぎと出版されているような状況で、お笑い芸人でも凶悪犯でもない私が、値段をつけて本を出してもいいものかどうかを巡って、丁々発止の自問自答を繰り広げた。

私「もし値段をつけるとすれば、いくらぐらいにしましょうか」

僕「300円ってとこじゃない?」

俺「そんなに高くしたら誰も買わねえよ。せいぜい100円ってとこだな」

吾輩「百圓だとすると千部賣れれば十萬圓か。吾輩の月収位にはなる」

拙者「ありえぬ。千部とは、貴公、乱心召されたか。百部も売れれば重畳でござろう」

わし「もうええもうええ。どうせゼニにならんのやったら、電書で配信するよりもネットにぶちまけて、多くの人らに読んでもろた方が、なんぼかええんちゃうんか!」

てなわけで、ブログサイトで連載することにしたのだが、ネットで公開したからといって、多くの人に読んでもらえるという保証はどこを探しても見つからない。机の中にもカバンの中にもない。

ネット小説(オンライン小説)なんてものは、遠く20世紀の昔からあるが、私はほとんど読んだことがないし、あまり読みたいとも思わない。長文をディスプレイで、延々とスクロールしながら読むのが苦痛だからだが、なぜ苦痛なのかを考えるのは苦痛だから考えない。

多分、これからもネット小説は読まないだろう。そんな人間がネット小説を発表しようというのだから、読んでもらえなくてもしかたがない。皆が俺の成功を邪魔しているという被害妄想に陥って世間に復讐してやろうと通り魔になる資格は、私にはない。

                 *

ディスプレイで長文を読むのはストレスフルなので、読者に飽きずに読み続けてもらうために奸策を弄さざるを得なかった。

35回(予定)に分けて連載することにした。ヴィジュアルを随所に挿入した。ご都合主義に徹した。整合性はいっさい無視した。とにかく奇をてらうことに力を注いだ。ま、いつもデジクリでやっているようなことではあるが。

そして、それらの努力が結実して、およそ小説とは呼べない代物を創造することに成功した。しかし小説と呼べないのなら何と呼ぶか。そこで……

◆にん‐ぴにん【人非人】

人道に外れた行いをする者。

……この言葉を天麩羅(英語では 「テンプレート」)にして、「人非人」の「人」に「小説」を代入し、「小説非小説」というカテゴリーをでっち上げて、そこに納まり返ることにした。

◆しょうせつ‐ひしょうせつ【小説非小説】

小説の道に外れた手法で書かれた小説。

                 *

毎週、火曜と金曜にこの小説非小説をアップする予定です。本日のデジクリが配信される時分には、第一話を読んでいただけることでありましょう。あらすじは紹介しません。私が書くものであれば、内容はだいたいご想像いただけるものと思います。

『徒労捜査官』< http://ironoxide.hatenablog.com/
>

【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも、ほぼ同時掲載しています。
『怒りのブドウ球菌』電子版 前後編 Kindleストアにて販売中!
Kindleストア< http://amzn.to/ZoEP8e
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無名藝人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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■羽化の作法[新連載 01]
25歳引き籠もりニート。四捨五入して30歳。

武 盾一郎
< https://bn.dgcr.com/archives/20150911140100.html
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こんにちは! 武盾一郎です。

今年2015年でアーティスト活動歴が20年になります。これを機にちょっと自分を振り返ってみようと思いました。そろそろ書いておかないと忘れちゃう可能性もありますし。

また、誰かがこれを読んで励まされたら嬉しいなあ、とも思ったのです。

僕は今、美の使者(お〜)。「(自分なりの)美を描きたい!」と結構本気で思ってますが、最初はそうでもなかったのです。

もっと、どうしようもない抑えようのないドロドロとした変なエネルギーに突き動かされ、振り回されていました。

衝動に任せて行き当たりばったりに動くと何かの具体性に接続します。そんな事象のひとつの軌跡をどうぞご覧ください。

誰かの背中をちょっとでも押してあげることができたら幸いです。

●新宿西口地下道段ボールハウス絵画

<1993年>

僕は25歳だった。

大学をやめてまでのめり込んだバンドが解散し、失恋し、やることもできることもなくなり、都内の西武新宿線沿いのアパートから埼玉の自宅に戻り、落ち込んで引き籠もっていた。要するに「引き籠もりニート」だった。

そんな時、妹が「とりあえず絵でも描いたら?」と、高校時代に通っていた美術予備校「彩光舎美術研究所」に案内してくれたのだ。

入学の面談で、担当の講師に「受験目的ではないが絵を描きたい。自己表現したい」と言ったのを覚えている。講師がなんと答えたかは憶えてないが、新学期から遅れること二か月の六月から僕は「彩光舎」に通い始めた。

昼間部はほとんどが一浪か二浪の19、20歳だった。僕は三浪以上の「多浪生」の類いに入るのだが、美術予備校の多浪生はおおよそ伝説的な存在だった。特別講習の時なんかにパッと登場してとても上手な石膏とかを描く、だが受験では落ちる、みたいな。

そんな予備校に、見た目の年齢が超多浪生なのにデッサンが初めての男が中途入学し、恐ろしく下手くそなデッサンを描いてみせていたのだった。

僕は「イチコ」と呼ばれることになった。それは「タケヲ(吉崎妙子)」が付けたニックネームだ。彩光舎に入学すると、タケヲはすでに自分のことを「タケヲ」って呼ばせていた。

そこに「武(タケ)」が入ってきてしまい、「タケ」がかぶっちゃうのでまずいと思ったのか、僕のことを「イチコ」と呼びはじめ、それが定着してしまったのだった。

1995年の4月までのおよそ二年間、彩光舎に通ってひたすらモチーフを見て描いていた。「美術予備校なんだから大学は受験しなさい」と言われて受けた東京芸術大学の鉛筆画一次試験を通ってしまったので、もう一年通ってみたのである。

二度目の受験で「まさかの合格」とはならなかったが、僕は「絵を描く作業」によって救われたのだった。そしてふと気が付いた。絵って本来「らくがき」だよなって。

<1995年>

3月20日、オウム真理教地下鉄サリン事件。ぼくはこの事件に大きなショックを受けた。

テレビで映し出されるオウム真理教の仕組みや活動は滑稽で、それは「日本という国家の写し鏡」だと思った。修行の姿、教祖を崇める歌と踊り、ヘッドギア、洗脳された信者たち、、醜悪でまるでマンガのように見えるオウム真理教の姿は「見事なまでに日本人の本質を可視化」していた。

これはすごい現代美術作品だ。アーティストが作品でその仕事をするべきなのに、新興宗教が犯罪でその仕事をしてしまっている。アートの完全な敗北だと思った。なんだかとてもくやしかった。

「自分の藝術をやらなければ」ともやもやしていた。

4月に数回だけデッサンをして僕は彩光舎をやめることにした。家に籠って50号キャンバスに「らくがき」を描き始めた。自分を吐き出そう。パースとか形とかそういうの気にするんじゃなく、ともかく思いついたことをキャンバスにぶつけてみよう、と。

数か月かけてその「らくがき」は完成した。すごく嬉しかった。誰かに見せたいと思った。しかし、何をどうすれば人に作品を見てもらえるのか皆目見当がつかなかった。当時はネットはおろか携帯電話もそんなに普及してなかったのである。

「やっぱりストリートで描こう」そう思った。

1995年8月14日。タケヲから一本の電話がかかってきた。「東北へのひとり旅から帰ってきたから、お茶でも飲もう」と。二人とも上尾市内に住んでいたので、とりあえず駅前の150円喫茶で会うことにした。

数か月ぶりの再会で喫茶店で話しているうちに、だんだん「絵、描きたいよね」みたいな話になってきた。

「新宿駅東口からしょんべん横町に抜ける数10メートルの地下道にゲリラ的に絵を描くなんてどう?」「うさぎの絵を新宿駅のプラットフォーム上に無数に描いて行くなんてのは?」「道路に直接絵を描いちゃおうか?」

そんな風に話しているうちに気分も盛り上がってきちゃって「じゃあ今から描こう!」「新宿に行って描こう!」と、なった。新宿である理由はさほどなかったのだが、なんとなく「そういうことは新宿だろう」と思ったのだ。

一旦家に戻って画材を取ってきて上尾駅に集合、ということなった。僕は大きいエスキース帳(650×500mm)と「20号サイズのキャンバスの木枠」を持ってきた。タケヲはラッカースプレーと豚毛の絵筆を持ってきた。

それらを抱え、二人は新宿に向かった。かさばる木枠は持ってきても何の役にも立たないのだが、そのことにまるで気が付かなかった。

新宿に着くと東口からしょんべん横町に抜ける地下道に行った。「描く」という視点からこの通りを初めて見てみる。なんか無理そうだ。歩くことはできても、ここに描くことはできそうにない。

新宿は誰もが表現をしてる都市だと思っていたけど、いざ自分がどこかに絵を描こうとウロウロしても、描く場所なんてないのだ。

「どうしよう、どうしよう」と西口の地下に入って行くと、段ボールハウスが目に入ってきた。とりあえず、ここに絵を描けるかも知れないから声をかけてみよう、と住人に話しかけてみることにした。

最初に目に入った段ボールハウスに近づく。扉となっている段ボールを「パスッ、パスッ」とノックして、「すいません」と二回ほど言った。

「なんじゃい?」

中から40代とおぼしき、肉付きのいい荒々しい感じの男の人が寝っ転がっていた体を起こしてきた。

「絵を描いている者なのですが、こちらの段ボールの家の外側に絵を描いてもよろしいでしょうか?」

「なんじゃい?」

「絵を描いている者なのですが、こちらの段ボールの家の外側に絵を描いてもよろしいでしょうか?」僕はもう一度同じことを言った。

「なんじゃい?」

産まれて初めて「ホームレス」と呼ばれる人との接触だった。相手は僕が言っている意味を飲み込むのにちょっと時間がかかったようだった。しばらくキョトンとしてたけど、意味が分かると意外なことにすんなりと「おお、いいよ」と言ってくれた。

家主は「新宿の寅さん」と呼ばれる佐々木さんだった。僕達はなんとなく「親分」と呼ぶことにした。

ササッと描きはじめようとしたんだけど、ここで面食らった。絵を描く面積がすごく大きいのだ。家としては小さい段ボールハウスだが、絵を描くキャンバスとして見ると、今まで彩光舎で描いてきたスケール感とはまるで違う。

最初にタケヲがラッカースプレーで少し描いてみる。どうにもスプレーは良くない。「筆で描いた方がいい」

佐々木さんの段ボールハウスに荷物を預かって貰って、ペンキを買いに池袋の東急ハンズに向かった。持ち金はそんなにない。どの色に絞るか結構悩んで、黒、ミルキーホワイト、ブルー、赤、キャラメルBの色を買い、再び新宿に戻った。

ふたりで段ボールハウスをじっと見つめた。先ほど、上尾の150円喫茶でタケヲとしゃべりながら小エスキース帳に下絵みたいなものを描いていたので、それを見てみた。

当時フランス核実験のニュースが世間を騒がせていた頃だったので、ゴジラのようなラクガキをしていた。
< http://img-cdn.jg.jugem.jp/f8f/1929022/20101207_1613347 >

しかし、実際に段ボールハウスを目の前にしてみると、あらかじめ用意していたイメージをこの場所に当てはめちゃいけない気がした。

何を描いたらいいのか正直分からなかった。ドロップアウトしてしまう自分を映し出すかのように佇んでいる段ボールハウス。僕は一生懸命「意味」を巡らせた。考えても何も出てこなかった。

しょうがないからそこに「フッ」と浮かんだものを、路面に広げた大エスキース帳に描いてタケヲに見せた。「人面魚」だった。

なぜかタケヲは否定しなかった。いざ。描き始める。僕は段ボールハウスに「アタリ」を描いた。タケヲがすぐに筆を加えて行く。

見る見るうちにイメージが段ボールハウスに甦ってくる。「つくっている」というより「よみがえってくる」感じがした。それはまるで「確かにここに存在するまだ目に見えないもの」が姿を現すようだった。

午後4時くらいから描き始めてあっという間に夜になり、そして帰りの電車はなくなっていた。僕らは朝までかかって二軒の段ボールハウスに絵を描いた。

一軒目は、佐々木さんの段ボールハウス。もう一軒はその左隣。「描いていいよ」と佐々木さんに言ってもらったので描いた。女性が住んでいるという話だったけど、人が住んでいる気配はあまり感じられなかった。そこに、つがいの人面魚を描きだした。

向かい合ったような構図で、オスは涙を流している。通行人から見ると、向かい合っている魚に見つめられるのだ。

< http://cardboard-house-painting.jp/media/m_shinjuku/first >
< http://cardboard-house-painting.jp/media/m_shinjuku/first2 >

新宿西口の地下は水槽の底みたいだった。空気はそこに溜まり、じっとしている。電車が走っている時間帯は通行人が空気をかき混ぜて行くが、夜中は人通りもずっと減り、対流を巻き起こすほどではなくなってしまう。

しかし、絶え間なく足音は地下に響き渡り、時折、叫び声やガラスビンの割れる音、車の音やサイレンが、溜まった空気をシャープな色に染めていた。

朝になり、へとへとになり、足下は缶ジュースの山となっていた。そしてそこには「絵が描かれた段ボールハウス」がしっかりと、確かに、あった。

僕たちは朝の9時に新宿を後にした。(つづく)


【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/アーティスト20周年】

振り返って今思うことは、かなり自分はマヌケなんだなあ。大真面目だったりするんですけどね。

傲慢にならず、卑屈にもならず、自信をきちんと持つことの難しさってありますよね。アーティスト収入額を確認して落ち込んだりしますが、極力他人と比較しないことですよね。

どうしても無意識的に比較してしまったりもするのですが、その時とっさに感じてしまう優越も嫉妬も無意味なのでとっとと捨てること。自分の仕事を淡々とかつ好奇心いっぱいで臨むことなんですよね。

PEACE CARD 関西展
< https://www.facebook.com/PeaceCardKansai
>
期間:9月8日(火)〜9月21日(月)※9/14(月)は休み
場所:ちいさいおうち Gallery Little house
参加者代表「5*SEASON」さん
< http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Eseason5/
>

・facebookページ< http://www.facebook.com/junichiro.take
>
・Twitter< http://twitter.com/Take_J
>
・take.junichiro@gmail.com

13月世の物語 ガブリエルガブリエラ
< https://twitter.com/G_G_jp
>
< https://www.facebook.com/GabrielGabriela.jp
>
< http://gabrielgabriela-jp.blogspot.jp/
>


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編集後記(09/11)

●曽野綾子「人間の愚かさについて」を読んだ(新潮新書、2015)。言いにくいことズバリと言ってのける。苦々しいが言うと角が立つかもと思うことを、堂々と言う。誰もが怖がって言わないことをサラッと言う。みごとな83歳である。たとえば、三十数年後の日本、かつて考えられなかったほどの深刻な老人問題を抱えた時代に突入する。「『お年寄りも安心して暮らせるようにしなければなりませんね』などという体裁のいい言葉は、現代でこそまあ流通しているが、その頃にはもはや聞かれなくなるだろう。どうしたら、老人を『始末できるか』が問題になる時代なのだ」。こんなハッキリ言う人初めてだよ。

全13話のタイトルが刺激的だ。金を出せば助けられたと思うのは甘い、安心して暮らせる老人などいなくなる、メディアの美談の類いには用心する、人間の愚かさと弱さは無限である、人間が大成するには日陰の部分が要る。そして自分に言い聞かせるような、野垂れ死にの最期は敗北を意味しない、人も家も軽やかに消えるのが願わしい、人を出し抜いてまで長く生きたくはない、「安心して暮らせる」という戯言、など。目下の筆者が深く恐れているのが認知症だ。そして気がついたのは、要するに生活をやめないことが肝要であるということ。「安心しない」毎日を過ごすのが、一番認知症を防ぐのに有効らしい。

彼女は40年間も海外の聖職者たちのボランティア活動にも協力してきたから、開発途上国の事情に詳しい。「一度でも、中近東やアフリカの部族紛争に残された、貧困、残虐、汚職、賄賂、盗み、他人への徹底した無関心、などの実態を見れば、平和を唱えているだけで、それが実現するなどということは、ほとんど戯言に近いから誰も言わない。(略)そういう人の中に、(略)自分が食べるパンの半分を与える精神が残っている。日本人は平和を唱えるが、自分の食べるはずのパンの半分を、惜しくても与えるという慈悲心はなく、貧困の救済は、行政(という名の他人)に任せればいいじゃない、と言うのである」。

いまの日本では、平和を唱えているだけでそれが実現するという、まったくの妄想を真に受けた人々が、国会の周辺に集まっている。分別のあるはずの年配者も多い。野党のレッテル貼りと虚言・妄言プロパガンダにころりと騙され、動員されて自己満足の善人たちだ。きっといい家庭人だろう。子供たちの未来を安全で希望のあるものにしたいと、心から願っているに違いない。それなのに、平和安全法制の整備でしか日本の国土を、日本の子供たちを守れないということをなぜ分からないのか。愚かなのは「戦争を許さない」のプラカードをもってデモする場所の大間違いだ。やるなら中国大使館の前だよ。 (柴田)

< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106106140/dgcrcom-22/
>
「人間の愚かさについて」


●永吉さんの『徒労捜査官』サイトが本日オープン。早速見に行ってみた。め、めんどくさいことを(笑)……さすがは永吉さんだ〜!

ポケモンがIngressの仕組みを利用して新しいスマホ用ゲームになる! 動画ではARでポケモン出現。モンスターボールを投げてポケモンゲットだぜ、交換だぜ、戦うんだぜ、のようだ。やってみたい〜!

ニュースによると、既存のポータル情報を利用するみたい。近所の戦略的拠点となっているショップ看板ポータルに、ピカチュウが出現する可能性があるってことか。捕まえてみたい〜。

もしポータルレベル(来週記載予定)によって、レアポケモンの出現率が変わるなら、いまどこのレベルが高いか、どこがいつも高くなりやすいかは、Ingressユーザーが詳しい。

外に出て運動不足が解消されたり、旅行好きになったりする? うちのパパ(Ingressユーザー)は凄いんだぜと出先で一緒に遊べる親子が増える? レベルの高いポータルでレアポケモンゲットしておけば、親戚の集まりで甥らにちやほやされる?(おばの妄想)

子供さんに遊ばせる場合は、怪しい場所(暗いところ、ひとけのない路地裏など含む)、時間帯によって様相を変える地域は避けてもらいたいなぁ。遊べる時間を制限しないと夜中に出歩くかもしれない。歩きスマホで交通事故にならないように注意だ。 (hammer.mule)

< http://ironoxide.hatenablog.com/
>
永吉さんの『徒労捜査官』サイト

< http://k-tai.impress.co.jp/docs/news/20150910_720532.html
>
「ポケモン」新プロジェクト、Ingressのナイアンティックとコラボ