ショート・ストーリーのKUNI[182]鳥の頭
── ヤマシタクニコ ──

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制度が変わったのが正確にいつのことだったか、だれも覚えていない。現政権になってからであることは確かだが。

気がつくと街にはりめぐらされた道路はルート1からルート3までに分けられていて、住民は並行する3つの道路のいずれかを選択させられていた。

ピエール・ワダは毎朝、ルート2を歩いて職場に通う。少し前まではルート1を歩いていた。そこは制限速度の上限がなく、みんな飛ばしていた。腕を振り、大きなストライドで、すきあらば前を行く人間を追い越そうとしていた。




ルート1のまわりはそんな人びとによって起こされた風が吹き、埃が舞い、それらはおよそ1.5メートル高度を下げて設置されたルート2に降り注ぐ。

ルート2はルート1よりややゆっくりとしたスピードの人たちが歩いている。多くはリタイアしたけれどまだまだ元気だという人びとで、制限速度の上限が設けられている。それより速く歩く者は処罰の対象になる。

ルート3を歩くのはほとんどが高齢者、もしくは何らかの障害をかかえている者だ。人びとはとてもゆっくりと、中にはふらつきながら歩いている者もいるが、追い越す者もいない。

それぞれの道にはまったく違った空気が流れている。ルート3は3つの道路の中で最も低い位置にある。ルート1は仰ぎ見る高みだ。

ピエールはルート1から2に変更申請したのとほぼ同時に職場を変わった。職場では毎日、住区内のあらゆるびんのラベルを整理したり発注したりしている。以前の職場では何をしていただろう? 忘れた。思い出したくもない。

ピエールはまだ高齢者という年齢ではない。同年齢の友人たちの多くはまだ忙しく働き、ルート1を闊歩している。だが、ピエールはもううんざりだと思う。

「今日は曇りだ」
日に何度も、ピエールは窓から外を眺める。空は見飽きることがない。

いつからそのようなヘルメットをかぶるようになったのかは、だいたい覚えている。2年と3か月前からだ。ヘルメットがあまりに突飛な形で、そんなものを率先してかぶる者はだれもいなかったから。

鳥、それも思い切り醜悪な鳥の頭部を模したかたちだったから。色がどんよりした灰色であることも不評だった。だが、事故防止のため、すべての住民は歩行時に着用することが義務づけられた。2年3か月前から。

「あなたにはよかったわね」
妻のアリス・ワダが言う。
「そのヘルメットが似合う人はあなたくらいよ」

ピエールは異議を唱えることができない。ピエールの頭部は大きくはげ上がり、露出した頭皮は皮膚病によって赤みを帯び、醜い凸凹が生じていた。

それは年々大きく明瞭になり、今ではあたかも大きな爬虫類がピエールの頭を抱きかかえ、舌なめずりしているように見えて初対面の人をぎょっとさせる。

それが、ヘルメットによってすっかり覆い隠されるのだ。はじめてヘルメットを装着したときの安堵感を、ピエールは忘れることができない。ヘルメットさえあれば、ピエールはやさしくほほえむこともできたし、本来の理知的な瞳を輝かせることもできた。

現政権は何をするにも、ごく簡単な説明しかしなくていいと思っているようだ。そして個々の立法のほとんどは、エネルギー不足からくるものとされていた。車はよほどのことがない限り個人が使うことはできなくなった。

人びとの移動手段ははただ歩くことだけだ。ごく特別な場合を除いては職住近接が強固に推し進められたので、それで間に合うわけだ。

ある朝、ルート2を歩いていると、きゃっという叫び声が聞こえた。ルート1のほうだ。見上げると、前方を向いてざくざくと歩いて行く人びと──ひとり残らず灰色のヘルメットを着けている──の中で若い女が一人だけこちらに顔を向け、途方に暮れている。

──逆走か。ルートの入り口を間違えたんだ。

ピエールは咄嗟にルート1とルート2を隔てる法面に駆け寄り、女のほうへ腕を伸ばした。女もすぐに気づき、腕を差し出した。ルート1の歩行者がぶつかり、怒鳴る。

「危ないじゃないか!」
「何のつもりだ!」
「通報するぞ!」
「逆走するようなやつはここを歩くな!」

女はいったんは腕をひっこめて縮こまったが、低くなった姿勢のまま、歩行者の隙間から、思い切ってルート2にダイブした。

ピエールはほとんど転倒しそうになりながら、なんとか女を支えた。女は大きなヘルメットを装着した頭を上げ、ピエールを見上げた。間近で見るとまだ若い、美しい女だった。女はピエールの上着の袖をぎゅっと握って言った。

──怖かった。たくさんの鳥の頭がこちらに向かって、おそろしいスピードでどんどんどんどん歩いてくるの…。

女はメイ・ナカノという名前で、文房具の卸商に勤めていると言った。だが、それきりだ。メイはルート1を歩く。ピエールはそれ以降、ルート1の歩行者群をちらちらと見ながら歩く。

メイの姿には何度か気づいた。向こうも気づいたと思う。だが、当然ながらルート1の歩行者は速いので後ろからやってきたと思うと背を向け、ずんずんと遠ざかっていく。でも、メイが振り返って自分を見たこともある。

メイは少し無理をして速く歩いているようにみえる。気のせいかもしれないけれど。

ピエールは仕事中に時折放心するようになる。ふとページを繰った書物に「愛は容姿と関係ない」といった類いのフレーズを見つけるが、それで意気揚々とするほど若くない。

家の近くに自転車を一日単位で貸し出す店がある。自転車さえ個人で所有することは難しいが、レンタルを利用することはできる。月給の1割くらいがふっとぶ料金ではあるが。

ピエールは自転車を借り、メイと二人乗りで出かける場面を思い描く。どこへ行こう。むかし小学校だったところがこぎれいな公園になったと聞いたっけ。そこがいいか。いや、まだ樹木も貧弱だし、それより川辺がいいな。釣りをしたり水遊びに興じる子供達を横目にのんびりと走るのだ。

堤防の上は眺望も良く、晴れた日なら遠くの山の上の鉄塔や、展望台も見えるはずだ。そういえば、遠くの山が時々青や紫に見えるのはどうしてだったっけ。

ピエールは貸し自転車屋の前で料金表を見ながら、注意深くメモを取る。サイクリングのいいところは、ヘルメットを着けたままでもおかしくないということだ。無意識にそう考えていた自分に気づき、ピエールは少し気が重くなる。

その日、ピエールはラベルの注文取りに出かけた。会社所有の自転車で、街のいちばんはずれの地区まで行き、地図を頼りに裏通りをくねくねと進んだ。

突然、目の前に「○○○○文房具」という看板が現れて、はっとする。その看板が立っているのは雑居ビルの入り口で、ビルの2階を示す赤い矢印が添えてある。ピエールは自転車にまたがったまま少し後ずさり、道の反対側から2階を見上げる。

ブラインドを巻き上げた窓ガラス越しに室内の様子が見えた。窓の近くに男が背を向けて座っており、その男のもとへ制服を着た女子社員がやってくる。男と何か話して、また去っていく。

じっと見ているピエールを不審げに見る通りがかりの人の視線に気づき、もうやめようかと思ったとき、メイが現れた。汚れたガラス越しにでもメイはすぐにわかった。目鼻立ちのくっきりした美しい顔立ち。

だが、なんということだろう。メイの額には大きな黒ずんだこぶがあった。ソフトボールくらいもあるこぶで、前髪ではとても隠しきれないような。大きめのサイズのヘルメットで、はじめて隠せるような。

ピエールは呆然としてメイを見上げていた。メイは、こちらにまったく気づいていないようだった。

日が落ちて家に帰り、食事をすませ、アリスが「おやすみ」を言うまで、ピエールはいつも以上に無口だった。

ひとりになるとピエールはバルコニーに出て夜の街を見下ろした。そのどこかに、こぶのある女をかくまうように、街は灯りで輝いていた。

ぼくはどうするのだろう。ぼくはどうしたいのだろう。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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スタバのコーヒーが苦手だ。とても一杯飲みきれないし……と思ってたら、スタバのコーヒーは一番小さいサイズでも240mlもあるそうだ。それで、自分が家でいつも飲んでいるカップでいつものちょうどいい量を測ってみると、なんと110mlもなかった。道理で飲みきれないはずだ。

しかも、あのカップだとなかなか冷めないし(私、猫舌かも)。やっぱりコーヒーは家で挽いて飲むのが一番だ。それもモカかキリマン。