ユーレカの日々[46]テレビの街で飲み歩き/まつむらまきお

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最近、お気に入りのテレビ番組は「飲み歩き系」だ。

レストランや、料理を紹介するグルメ番組は数多いが、「飲み歩き系」はそういったものではない。ただただ、呑んでいる人たちを見る、という番組をぼくは「飲み歩き系ドキュメンタリー」と名付ている。

最初は意識していなかったのだが、気が付くとハードディスクの録画は飲み歩き系ばかりになっている。





●深夜食堂

そういう番組を見るようになったきっかけは、最初は2009年に放映されていた深夜ドラマ「深夜食堂」。新宿の裏路地にある小さな食堂を舞台に、そこに現れる様々な客の人間ドラマだ。ドラマを見るまで原作マンガも知らなかったので、見たのはほんの偶然だ。

グルメ番組はA級であろうがB級であろうが、「珍しいもの」「特別なもの」を取り上げるのが普通だ。このドラマでも毎回、ひとつの料理が取り上げられるのだが、特別な料理は一切登場しない。「たまごやき」だとか「焼きそば」だとか、本当にどこにでもある、普通の料理しか出てこない。

このドラマ(原作漫画)の発明は、そういったありきたりの料理こそ、人それぞれ、なにか思い入れのある特別な料理である、ということを貫いた点だろう。

ドラマとしては、水商売だとか不倫だとか苦学生だとかをテーマにした、かなりベタな人情話なのだが、毎回30分完結という短い尺でしみじみと語られるのを、深夜テレビで見るのが好きだった。若いころはこんなしみったれたドラマは大嫌いだったはずなんだが。

こういう店は、居心地がよさそうだが、じゃあ実際に町で見かけたら入るかといえば、一見さんはとても入りにくい。

そう、ぼくはこのドラマで発見してしまったのだ。入りにくそうな店は面白い。

●世界入りにくい居酒屋

入りにくそうな店は面白いが、入りにくい。ううむ、この矛盾をどうしたらよいものか、なんて思っていたら、昨年の夏からNHKのBSでそのままズバリのタイトルの番組、「世界入りにくい居酒屋」がはじまった。

世界各地の居酒屋をレポートする番組で、毎回、ひとつの店が舞台となり、名物を紹介しつつ、そこに出入りする人々を観察する。その土地々々の食べ物飲み物も美味しそうだが、それよりもそこに集まる人々、店の主人や常連客の様子が面白い。

特にラテン系の国は平日昼間っからヘベレケで、歌うわ、ナンパするわと大騒ぎである。それだけなのだが、これがとても楽しい番組に仕上がっている。

以前コラムで書いた「世界ふれあい街歩き」同様、レポーターは姿を見せず、声だけの出演の女性二人が「おいしそ〜」とか「おじさん、大丈夫かなぁ」とか、映像を見ながらダベるという趣向。この演出が実に秀逸で、実際にその店を訪れて、飲み食いしながら店の中の様子を観察しているような気分になれる。

現実でも、他の客の話に思わず聞き入ったりすることがあるが、そういった臨場感が演出されているのだ。なんでも女性二人のナレーションはビデオを初見で一発録りだそうで、ラフな感じがいかにも酒場で心地いい。

●夜の街を徘徊する

もうひとつ、今面白い番組が「夜の街を徘徊する」。マツコ・デラックスが夜の街をひとり、当てもなく徘徊するという番組。飲み屋に限っているわけではないが、飲み成分がかなり多めだ。

街歩き番組は、大阪ローカル番組「夜はクネクネ」という名作があった(83年〜86年放映)。大阪・毎日放送の名物アナウンサー、角淳一と、あのねのねの原田伸郎が街をただブラブラと当てもなく歩き、出会った人と話をするという番組。

関西人はもともと、しゃべるのが好きだ。テレビを見ながらテレビに突っ込むなど日常茶飯事。同様の企画で「豪快御影屋」という番組もあり、こちらは久本朋子が東京の街を歩くというものだった。どちらの番組もパーソナリティが「押しが強くない、聞き上手」というところが、街歩きで出会う人々の魅力を引き出していた。

「徘徊」のマツコ・デラックスもまた、人の魅力を引き出すことに長けた人だ。夜に出会う人々、それぞれのドラマを魅力的に見せてくれる。

●ドキュメント72時間

「ドキュメント72時間」は書店、キオスク、街頭、そして飲み屋など、様々な場所、シチュエーションを三日間、定点観察するNHKのドキュメンタリー番組で、2006年からやっているらしい(ぼくが見始めたのはこの一年)。飲み歩き番組ではないが、飲み屋も時々舞台になる。

普段の生活でよく知って入るけど、入ったことがないような場所を題材に、そこに出入りする人々を観察するという着眼点がよい。一見単なる群衆だが、一人ひとりにフォーカスしてみると、それぞれの人生、目的がドラマチックに浮かび上がってくる。

ナレーションの人情話的なまとめ方がちょっと鼻につくが、毎回毎回、新しい視点を提供してくれる。

●役割を脱いだキャラクター

これらの番組が見ていて面白く、気持ちいいのは、登場する誰もが人間として素直だからだ。たとえば「入りにくい居酒屋」で盛り上がっている客に話しかける。昼間からヘベレケな人が、職業は弁護士だったり、郵便局員だったりする。そしてそれぞれの人生、ドラマが見えてくる。

人間はだれもが、社会においてなんらかの「役割」を演じている。会社員だったり、教員だったり、店員であったり、客であったり、親であったり、子であったり。社会という物語の登場人物であることを義務として、粛々とその役割を演じ続ける。

しかし、実際にはその役割の下には、その人その人の人間性が隠れている。人
生があり、思想があり、ドラマがある。

本来、様々な人の集合が社会であったはずが、合理化された現代では個性は追いやられ、社会的な役割が主役になってしまった。やれコンプライアンスだ、マニュアルだと、役割を守ることばかりが人生になっているように思える。

先日、ユニクロで買い物をした時、袋を留めてているテープの端が、めくりやすいように折り返されていたのに気がついた。妻に聞くと、ユニクロはいつもそうだという。その店員個人の気遣いではなく、接客マニュアル化されているということだろう。

ユニクロの店員はいつも明るく気持ちいい接客をしてくれるが、テープの端というようなことまで全員が「役割」としてやらされているのかと思うと陰鬱な気分になる。この国で生きていくには、そこまでキャラクターを隠して、役割を演じなくてはならないのかと思うとゾッとする。

夜の街では、様々な役割という仮面が剥がされ、それぞれの本当の顔が見えてくる。役割を介して接しているだけではわからない、それぞれの人のキャラクターだ。それを見るとすごく安心する。

ああ、ちゃんと人は人だった、と思える。

●テレビの街を飲み歩く

そんなわけで、飲み歩き番組ばかり見てしまうこの頃なのだが、今回、この話を書こうと思って、ちょっと躊躇してしまった。客観的に見てみると、これはかなり変な風景だ。50過ぎた中年が、人が飲み食いしているのを真夜中の自宅のテレビで見る。妙というか、寂しいというか、アブナイというか。

そう思ってしまったのは、最近ビデオで見た二本の映画があるからだ。「26世紀青年」というカルト映画で描かれる26世紀の未来では、生活が便利になりすぎて、人間の知能はどんどん低下してしまっている。

人々は考えることをしなくなった結果、考えることができなくなっている。ヒット映画は「尻」という映画で、二時間、画面一杯に人の尻がずっと上映されている。それを観客はゲラゲラ笑いながら見ている。

テリー・ギリアムの「ゼロの未来」では、仕事が徹底的に抽象化し、仕事のための仕事になっている未来で、そこからさらに引きこもってしまう主人公が描かれる。ヴァーチャル空間で女性に恋をするが、現実のその女性を拒絶してしまう。

どちらも現代文明を強烈に風刺した作品なのだが、飲み歩き番組を夜中に一人で酒を飲みながら見ている中年男という風景が、あまりにもこれらの映画の場面と重なってしまう。自分がかなり危ない。

ふと、嫌な考えが脳裏に浮かぶ。「入りにくい居酒屋」や「夜の街を徘徊する」「ドキュメンタリー72時間」はすべて、ある目的のために作られているのではないか。役割を演じることに疲れた人々を安心させるために、そして人々が従順に役割を演じ続けられるように、すべてが巧妙に作りこまれた心理操作なのではないか。

ジョン・カーペンターの「ゼイリブ」という映画のことを思い出す。あの映画では一見平和に見える現代社会が、実はすでにエイリアンに乗っ取られていて、あらゆるメディアにはサブリミナル効果で「服従しろ」といったメッセージが仕込まれているという話だった。

そういえば昨今、テレビドキュメンタリーのヤラセや、報道の偏向、印象操作がやたら報道されている。

いかんいかん。テレビを見ながら飲み過ぎたのか。明日は現実の夜の街を徘徊することにしよう。


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
twitter:http://www.twitter.com/makio_matsumura
http://www.makion.net/ mailto:makio@makion.net

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