メグマガ[02]生ものですので、お早めにお召し上がりください/こいぬまめぐみ

投稿:  著者:  読了時間:5分(本文:約2,300文字)



終電間際の改札、別れ際の彼の一言は私を嬉しくさせた。彼に手を振った私は改札を抜け、電光掲示板の最終電車の発車時刻に目線を移す。

──あと1分。

少しだけサイズの大きいパンプスが踵から抜けないように気遣いながら、ホームへ向かう階段を駆け下りる。電車のまもなくの発車を告げるメロディーが耳に入る。階段からいちばん近いところで開くドアに駆け込む。

──間に合った。

私をその日最後の乗客にした電車は、終点へ向けて出発した。一番端の座席に座り、乱れた息を整える。ふと向かいの窓に映る自分と目が合った瞬間、頭の中で何かが引っかかる。

──あれ、私さっき何が嬉しかったんだっけ。





私の感情には、賞味期限がある。

ずっと誰かに、聞いてみたかったことがある。

「あなたの感情には、賞味期限がありますか?」

いや、これでは私にしか理解できないような気がするので、もっとわかりやすく質問を変えよう。

「楽しかった、嬉しかった、悔しかった、悲しかった、などとという感情を、時間が経っても感じたそのときと同じくらいの鮮度で思い出せますか?」

これから書くことを読まれてしまうと、私と関係性の深い人ほど傷つけてしまうのではないかという想像が働く。しかし、これを読んだ人の中に私と同じ悩みを抱える人がいるのではないか、もしくはその解決策を知る人がいるのではないかという、この現状が変わるかもしれない未来への期待が上回ったことが、これを言葉にすることを決意させた。

冒頭のような出来事が、頻繁に起こる。感情を揺さぶられる出来事が起こって、その後それとは関係のない何か別の行為や出来事が挟まると、それまでに抱いていた感情を忘れてしまう。忘れてしまうというより、リセットされてしまうと言った方が適切だろうか。

一昨日の朝、玄関で消臭剤を落として床に散乱した大量のつぶつぶのジェルを見て絶望したことも、一週間前に雨の日のミスタードーナッツで、母との関係がうまくいかなくてふと涙をこぼしてしまったことも、夏休みに広告会社の二次インターンへ進めなくて悔しかったことも、高校時代にとある人に抱いていたあの特別な感情も、今はもう思い出せない。

いや、そういうことがあったという事実としては覚えているのである。冒頭の嬉しかった理由は、冷静に脈絡を辿れば彼のあの一言であったことを思い出す。消臭剤が落ちた原因もどのようにして片付けたかということも、ミスタードーナッツで泣いた理由も順を追って説明できるし、広告会社のインターンから得た教訓も、高校時代のあの人の名前もメールのやりとりも覚えている。

しかしそれは、「感情の記憶」としてではなく、「事実としての記憶」としてインプットされているのだ。こういう感情を抱いたという「事実」は思い出すことができても、抱いたそのときと同じくらいの鮮度で「感情」を思い出すことはできない。

「楽しかったと思った」ということは思い出せても、そのときに「楽しかったな」という感情は湧き上がって来ない。何の感情も湧いてこない。感情を伴わない、単なる事実としての記憶という形で積み重なっていくのだ。

そしてそのスピードは恐ろしく速く、鮮度を落とさずに思い出せるのは長くて二日、短いと数分から数時間ほどで色褪せていってしまう。

これを自覚したきっかけとなった出来事がある。

予備校でひとつ年上の男性と仲良くなった。年が近いこともあって、授業内容の話や就職活動の体験談で盛り上がり、何度か授業終わりに食事に行ったり、途中までいっしょに帰ったりもした。

そして何度目かに会ったとき、想いを告げられた。ハッとした。それは彼が私に想いを寄せていたからではなかった。自分の何かしらの言動は彼の感情を揺さぶり、彼は私といっしょに過ごす時間の中で、少しずつ私に対する好意的な感情を積み重ねていたんだ。その結果が今、この状況なんだ。

膨大な時間が絶えず流れる記憶の河の中で、その流れをせき止め、水流を変えてしまうように横たわる大きな石、これが感情なんだ、頭の中にそのイメージを浮かべたら、めまいがした。

みんなは、楽しかった記憶を思い出すとき「楽しかったな」という感情もセットで思い出せるのだろうか。嬉しかった言葉を思い出すと、今でも心が躍るのだろうか。悔しかった出来事を、今でも飛躍のバネにできているのだろうか。

どうしてもこれを知りたかったことが、意を決した冒頭の質問の理由である。

ある人はこう話していた。「毎日書いている日記には、事実だけしか書かないようにしている。だって感情は思い出せるじゃん」この発言には大層驚いた(と記憶している)が、しかし私はその真逆の方法をとっている。

(私に限ってかもしれないが)感情は生ものである。おいしく思い出せるうちに、その日に感情を揺さぶられた出来事や、誰かとの会話を文字に残す。楽しかった(はず)、嬉しかった(はず)、感銘を受けた(はず)のことを、少しでも忘れないようにするために。思い出すヒントにするために。

言うなれば、感情の冷凍保存である。再びそのページをめくったとき、鮮度を保った感情が解凍される未来に期待して。これは、感情の賞味期限を少しでも延ばすための、私なりの愛しいひと手間である。

あの日あの時のあの感情は、何W(ワット)で何分温めたらいいのだろうか。


【こいぬまめぐみ】
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武蔵大学社会学部メディア社会学科在学中。宣伝会議コピーライター養成講座108期。現在、はてなブログ「インターフォンショッキング」にて、「おもしろい人に自分よりおもしろいと思う友だちを紹介してもらったら、13人目には誰に会えるのか」を検証中。