ショート・ストーリーのKUNI[186]にらの海
── ヤマシタクニコ ──

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あるところに男がひとりで住んでいた。小説や雑文を書いて収入を得ていたが、中年を過ぎてからは書く題材にいつも窮するようになった。

締め切り間際にはいつも吐き気がするほど苦しむ。若いうちはおもしろいように書きたいことが湧いてきたのに、泉はすっかり枯れ果てたようだ。

──いっそのこと、こんなことはやめてしまおうか。所詮おれには向いていなかったのかもしれない。

そう思ったときに彼はひとりの女と出会い、ともに暮らすようになった。すると、書く題材もまた浮かんできた。いや、女がそれを与えてくれるのだ。




とはいっても、別に女が物語の筋書きを考えてくれたわけではない。

彼が欲しているのはささやかな契機、小さなはずみのようなものだ。それがあれば永年の経験を生かして、なんとか物語に仕上げることができた。

女は彼とはまったく違う世界に生きてきたようだ。彼の知らない語彙を持ち、思いもつかない発想をする。それが彼のなまった神経に刺激を与え、さびついた回路が動き出す。

どこにも行けないと思っていた部屋にふと気付けば窓があり、外気が吹き渡って音楽を奏でるような。女は彼にとって窓だった。

──ああおなかいっぱいだ。もう耳かきほども食べられないよ。

──耳かきで飯を食うやつがいるか。

──あはは。ほんとだねえ。

他愛のない会話をしているうちに、何かはっとひらめいたりする。

──雨が降ってきたからちょっと出かけてくる。

そう言ったこともあり、ほんとうに雨の中を散歩に行く女だ。後を追いながらなんだか楽しかった。見たこともない料理を思いついてつくる。食べてみると悪くない。鍋で金魚を飼い始める。

──おまえがいると小説のネタが浮かぶよ。

──ほんと? じゃああたし、がんばるよ。

──何をどうがんばるんだ。

──あれ、ほんとだね。どうがんばればいいんだろう。でも、あんたの小説、
好きだから…だから、がんばるよ…。

彼と女は一見まったく違っていた。多くの人が、二人には何の共通点もないと思っただろう。だが、本当は近いものを持っていた。からだの奥の、深いところに。お互いがお互いを呼び合っていた。

だからこそ、それは時には予想もつかぬ亀裂を生み出すこともあった。

あるとき、つまらない口論がいつになく尾をひいた。彼も女も引き下がらなかった。どうにも険悪な雰囲気になった。

と思っていると、彼の内から得体の知れない塊がどんどん膨れあがってきて、抑えきれなくなった。

彼の手はひとりでに動き、その手が女の首に伸びる。なんということだろう、気がつけば彼は女を絞め殺していたのだ。

ものを言わなくなった女を前に、彼はしばしぼうぜんとしていたが、やがて庭に穴を掘り、そこに女を埋めた。体中ががくがくと震えた。恐ろしさで胸が締め付けられた。だが、誰にも何も話さず、隠し通した。

彼はふたたびひとりになり、ふたたび書く題材に窮するようになった。それでも書き続けてはいたが、自分でも拙いとわかっていた。このまま書き続けても誰も読んでくれなくなるだろう。自業自得だと思った。

女がいなくなってからどれくらい経っただろう。長く打ち捨てた庭を見ると、女を埋めたあたりにさわさわと青い草が茂っていた。やがてそれは小さな白い花を咲かせ、花が終わったあとには黒い種がいくつもできた。

──何も植えた憶えはないのに…

何気なくその種を手にとってみた。手のひらで転がしたり目を近づけたりしているうち、種の表面にしわとも傷ともつかない微細な模様があることに気付いた。しかも、それはよく見ると文字のようなのだ。

 ミ ミ カ キ

──耳かき?

女の言葉を思い出した。

──耳かきほども食べられないよ…

彼はあわてて他の種を集め、さまざまな角度から眺めてみた。どれにも、同じように小さな、文字に見える模様があった。

あるものには「ワ ラ」、また別の種には「カ サ ナ リ」と見える文字があった。タ ノ シ イ、フ シ ギ、ナ ベ…

──あの女だ。まちがいない…。

たちまち何か湧いてくるものがある。ばらばらな言葉に過ぎないのに。女の無邪気な笑い顔が浮かぶ。

──あたし、がんばるよ。あんたの小説、好きだから…。

どういうことだろう。自分が殺した女なのに。指先にはいまでもきゃしゃな首の骨の感触が残っていて、思い出すたび震えが始まるのに。

だが、一方では早くも書きたくてたまらなくなっていた。新たな小説。書きたい、書きたい、書きたい! そんな気持ちになったのはひさしぶりだった。

彼はいくつもの種を握りしめ、部屋に戻るともう書き始めていた。文字通り時間がたつのを忘れて書き、未明に心地よい疲労とともに書き終えた。笑い出したい気持ちだった。おれは書ける、おれは書ける!

それ以来ふたたび、彼は次々と新しい小説を書くことができた。種に記された言葉はひとつとして同じ言葉はなかった。毎日、いくつかの種を取っては謎解きに挑むように思いをめぐらすのが日課になった。

夜、布団の中でふと冷静になってみると、わずか数ミリの種に本当に文字が記されていただろうかと思う。自分は何かの幻覚をみているのではないだろうか。

だが、それでもいいと思った。書いたものは高く評価された。執筆の依頼がどんどん来るようになった。ファンレターも来た。あなたの小説を愛読しています。一度お会いしたいと思っています…。

その女も小説のファンだと言った。

夏の日のことだ。事前の連絡もなしに女がやってきて、「あなたの書くものがとても好きなの」と言った。それから家に上がり込んだ。女は若くはなかったが美しく、手もなく彼はとりこになった。夜昼ともに過ごし、汗まみれになって快楽をむさぼりつつ、どこかで思う。

──これでまた新しい材料ができた。おれはまた書けるだろう。

ところが、その女が居座ってしばらく経つと気付いた。書けない。何も浮かばない。これはどういうことだ。

庭に出てみて彼は驚いた。あの青々と茂っていた草がすっかりなくなっている。

──庭に草が生えていたと思うが…。

──ああ、にらね。

──あれは…にら、なのか?

──そうよ。昨日も食べたじゃない。

──食べた?

──私が炒めて出したら「おいしい、おいしい」と言って食べたじゃない…。

あわてて彼はもう一度庭に出た。あれは、にらだったのか。

白い星のような花が輪になって咲く。そのままのかたちで種ができ、やがてその種を包んでいた皮がかさかさになり、風が吹くと細い茎がゆらゆら揺れた。

そして黒い種がこぼれる。あれはにらだったのか。だが、目の前のにらは乱暴に根元から刈られ、ずたずたになっていた。彼は膝を折り、ただぼうぜんとそれを見ていた。

それでもいくらか残ったにらは実を結んだし、根が残った株からはまたどんどんと青い葉が伸びた。だが、何かが変わってしまったのだろう。彼が収穫した種には確かに文字が読み取れたが、すべて同じ文字だった。

モウ オシマイ

モウ オシマイ

モウ オシマイ

モウ オシマイ

モウ オシマイ

モウ オシマイ

モウ オシマイ

突然押しかけてきた女はやがてまた突然に、どこかに消えた。

彼は「モウ オシマイ」と読める種を皿いっぱいに盛り、毎日見つめていたが、やがて何か浮かんだらしくゆっくりと、長い小説を書きはじめた。それが彼の最後にして最高の小説と、後に呼ばれるものになった。

主亡き後、庭は一面繁茂したにらの海となり、いまもさわさわと風に吹かれているそうだ。


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今日、突然トースターが壊れた。突然といっても30年ものなので本人はだいぶ前からしんどいしんどいと言ってたのかもしれない。ほとんど毎日使うものなので、さっそくネットで物色中。ちなみに、トーストしたパンにバターとママレードを塗るのが最近のお気に入りです。