ユーレカの日々[49]絵が上手いということがよくわからない/まつむらまきお

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期末である。美大勤務なので、年明けからずっと合評とか卒業制作とか進級準備に追われている。課題を与え、方法を手ほどきし、進捗をチェックし、アドバイスをし、仕上がりを評価する。

その中でも、成績をつけるというのは、ぼくが最も苦手とする仕事の一つだ。大学で教えるようになってから、人前でしゃべるとか、アドバイスするとか、以前は苦手だと思っていたことも随分慣れたが、この「成績をつける」ということだけは今でも慣れない。

というのは、ぼくには「絵が上手い」ということがよくわからないのだ。

ぼく自身は絵の授業は持っていなくて、マンガ、絵本、Flashとかの構成・演出系なのだが、他のデッサンだとか、風景だとか、いろんな課題で、いろんな学生の作品を目にする。

特に高学年の、制作や進路の相談だと、トータルでその学生の能力を見ないと、アドバイスができない。そういった中で、学生はみんな、絵が「もっと上手くなりたい」とか、教員も「あの学生は上手くなった」とか、まぁ、「絵が上手い」という表現をよく使う。

こんな時、他人の言う「上手い」という意味がわからないことがある。

「え? これが上手いの?」とか「え? なぜ上手いと思うの?」とか、わからないことがある。




●上手い下手がなかった頃

とりあえず、僕の考える「上手い、下手」についてお話しよう。少し長い話になる。

幼稚園に上がる前から、絵を描くことと、お話を考えることが大好きだった。小学生時代、近所の児童画の教室に通い始める。アトリエには、先生(現代美術の「具体」作家である今井祝雄先生)の現代美術作品がゴロゴロころがっていて、そこで自由に絵を描いていた。

上手い、下手ということは、まったく関係のない世界だった。ただ、時おり先生が子どもたちの絵を児童画コンテストに応募してくれ、そこで初めて、佳作だとか入選だとか、そういう評価というものがあることを知る。

小学生だから、単純に賞状をもらえた、もらえなかったということだけが、嬉しさや悔しさで、なぜ、自分の絵が入選、もしくは落選なのかなんてことは、児童画展を見に行ってもさっぱりわからない。

上手い、下手という概念そのものが、まだ、自分の中になかったのだ。だってそうでしょう? ぼくは体育が苦手で、走るのが遅いと順位が最下位になる。だからますます体育がキライになる。

絵を描いたり、お話を作るのは、そういうのとは違うから好きになったのだ。ただ、描くことで、白い紙の中に絵が出来上がっていくという行為が、そしてそれをいつでも自分で見ることができるという行為が好きだったのだ。

●上手くなりたい

その後、中学になって、マンガというものに出会ってしまって、上手くなるということを意識しはじめる。それまでは、好き勝手に描いていればよかったのだが、マンガとなるとそうはいかない。

まず、どのコマも同じ人間に見えるように安定して描けなくては物語が成立しないし、描きたい状況、場所や人物のポーズを、そうわかるように描ける必要がある。

ここではじめて、「自分は絵が描ける人間だ」と思っていたのが、「全然描けない」ということを自覚させられる。

マンガというのがよく出来ているのが、台詞だとか、記号的な表現(リボンをつけているのが主人公とか)を利用することで、描けない部分を充分に補うことができる。

そういう方法そのものが、マンガの面白さでもあるので、描けないことは、描き始めた頃には、あまり問題にならない。だから、絵がまだ下手でも、マンガを描くことは面白かった。

しかし、それにも限界がある。描きたい場面を思いつくのに、自動車が描けない、猫が描けない、と描けないことにどんどんぶち当たっていくのだ。

「マンガの描き方」の本を買って、勉強する。描く手順や考え方を知って、やってみると、たしかに少し上手くなる。たとえば顔を描くとき、小学生時代は適当に描いていたのだが、丸を描いて、十字の補助線を描いて、という手順を知ると、絵が安定し、角度を変えるようなことができるようになる。

高校に入って、写生やらデッサンやらクロッキーやら、それまでとは違う「描くトレーニング」をはじめると、だんだん「描く」ということがわかって、それなりになんでも描くことが出来るようになってくる。マンガの方も、なんとか作品を描くことができるようになる。

そうすると、それまで気にしていなかった、自分と、他の人の描いたものの違いということがわかってくる。

みんな、上手い(色んなものが描けている)。自分は下手だ(描けないものがまだまだある)。

先生や有名な画家やマンガ家の描いたものは、先生だから、大人だから上手いと思っていた。だから大人になれば、自分も上手くなると思っていた。実際は、そうではないということを知るわけだ。

●自分なりに描きたいものが描ける=上手い

というわけで、ぼくにとって「絵が上手くなりたい」というのは「自分なりに描きたいものが描ける技術を身につけたい」という解釈である。

いろんなものを素早くサラサラと描く人に対し、「あの人は絵が上手いですね」という言い方をする。これは描いた絵の質のことではなく、なんでも描けるというその人が持っている技術が巧み(巧い)という意味だ。

ところが、この概念だと、「一枚の絵」に対して「上手い」というのはおかしいことになる。絵を一枚みたところで、その描き手がなんでも描けるかどうかなんて、わからないからだ。りんごのデッサンは上手く描けているが、みかんは上手く描けないかもしれない。

ちなみに、入試デッサンは上手い下手を見るのではなく、複雑なものが描けるかどうかで、描くトレーニングをどれだけやってきたかを見極める。つまり、他の科目同様、学習レベルの判定であり、上手い下手ではない。

●素人さんは写実=上手い

世間一般では、こういった「デッサンの上手さ」、形がとれている、立体感がある、ということが、絵全般に対する「上手さ」と混同されている。

義務教育の9年間美術の時間があるので、日本人はすべて、絵について教育を受けている。しかし、今はどうか知らないが、昔は美術の時間では、絵の描き方なんか教えてくれなかった。

「見て、思った通り描きましょう」だけで、物のカタチをどうすればうまく描けるのかは、教えてもらった記憶がない(透視図法はやった気がするが、あれは技術の時間だったかも)。

たまたま上手く描けた人は次のステップに進み、上手く描けなかった人は苦手意識だけを持って、その後絵から離れていく。走るのが遅かったからスポーツがキライになるのと同じだ。

そういった「世間一般」からすれば、「写実=上手い」となる。描写の技術面のみを見るからだ。フォトリアリスティックな絵を見ると「上手い!」となる。

しかし、美術を勉強した人からすれば、それはテクニックの一つ、手段の一つに過ぎないので、そういう部分だけで作品を「上手い」と評することはない。

●ヘタウマあたりから、よくわからなくなっている?

80年代のイラストムーブメントの中で、湯村輝彦に代表される「ヘタウマ」というのがあった。それまでの「上手主義」へのアンチテーゼとして、この定義はとても面白いのだが、同時に世間における「上手い」という言葉の定義をややこしくしてしまった。

デザイン論などでは、「絵として技巧は下手だが、センスが上手い」というように説明されるが、これがややこしい。

たとえば湯村氏のオロナミンCの広告は、グラフィック、印刷技術を知り尽くしているからできる表現であって、普通にイラストレーションとして上手い(センスももちろん)。

湯村氏の絵を「こういう上手さもある」とすればよかったのだけど、「下手だけど」としちゃった。真意とは別に、上手い、下手という意味を「形がとれてるかどうか」など表面的なことを指すようになってしまった。

●マンガの絵の上手い=仕上げがキレイ

マンガとか絵本とかアニメといったコンテンツの「上手さ」は、物語と演出が主眼となり、絵はそれ表現できているかどうかが、上手さの基準となる。

しかし、一般、特に若年層のマンガ、アニメファンたちは、「形が安定している」「線がなめらか」「仕上げがキレイ」といったことだけで、「このマンガ家は絵が上手い」と思ってしまう。

会社員時代、「西岸良平のマンガ、好きなんだよねぇ。絵は下手なんだけど」というおじさんがいた。ぼくは西岸良平の絵を下手と思ったことがないので、ちょっとびっくりしたことを覚えている。

最近でも「進撃の巨人」の絵が下手と言われているのを知ったときは「???」だったし、名前は出さないが上手いと言われるマンガ家の絵が、ぼくから見れば下手以外なにものでもないことも多い。

ほとんどの場合は、キャラクターの立体感が安定していて、線がキレイなら上手い、という中学生レベルなのだが、時々、論評などでもそういう言い方をされると、なんだか薄っぺらい物の見かただなぁと思う。

●仕事としての絵の上手さ

イラストなど、実務で絵を描く世界では「上手い」は「仕事として」という前提で語られる。上手いイラストレーターとは、企画の内容をよく理解し、要求を様々な方法で実現でき、さらにクライアントの期待を上回る成果を出せる人だろう。

こういった現場で、絵のスタイル(写実やらデフォルメやら)は、中華料理かフレンチか懐石か、というのと同じで、どれが上手い(美味い)なんてことは意味がない。その時の目的(どれが食べたいか)で選ぶだけの話だ。

中華に決めた時点でようやく、どの店が美味い、まずいということになる。それだって「今回は陳建一じゃなくて王将でいい」とか「3時間待ちのラーメン食べてみたけど、チキンラーメンの方がずっといい」という場合もある。

だから同じ業界内であれば、絵の上手い下手は「仕事が上手い」ことであって、それは仕事としての技術を指す。絵の技術はその一部であり、「写実=上手い」なんてことにはならない。「あの人は上手い」というのは、絵ではなく、仕事のことを指す。

ところが、業界が異なると「上手い」と言っても、全然違う意味になっていたりする。ファインアート業界とマンガ業界と広告業界では、仕事の評価基準(要求される上手さの基準)が全然違うからだ。

こっちの言っている「上手い」と、相手の言っている「上手い」がまったく咬み合わない。そういうことが度々起きる。

去年大騒ぎになった、オリンピックのシンボル騒ぎも、世間と業界の「いいデザイン」という言葉の意味の違いがよく語られた。あれは一般の人たちが「いいデザイン」ということをわかっていなかったという面もたしかにあるのだが、逆に業界が世間一般の認識と違うことを自覚していなかったことの方が、問題としては大きいと思う。

●絶対的な上手さはあるのか

とまぁ、ぼくにとって、その人(なんでも自由に描ける上手さ)や、その業界の仕事(仕事が上手い)を知らないと、その絵が上手いかどうかは判断ができない。その理由を説明するだけでもこんなに長くくどい文章になってしまう。

だからそう簡単に第三者に「上手い」という言い方をしないのだが、他の人はそうではないらしいく、けっこう「上手い」という言い方をする。ここがどうしてもひっかかる。それってどういう意味なの? と。

世間の人たちは、一体どういう基準で絵の上手い下手という話をするのだろう?単にみんな、写実的かどうかを言ってるのか? 自分の専門の文脈の中のことを言っているのか? 好き嫌いのことを言っているのか?

みんな意味に無頓着で使っているだけならまだいいのだが、ひょっとして、ぼくだけが知らない、なにか絶対的な基準というのが存在するのか? 人類が追求し続けている絶対的な「上手さ」というものが存在するのか?

絵が上手いとは、ぼくにとって永遠に解けない謎の一つなのだが、もし世間もそうなら、「絵がうまいとはどういうことか」というテーマで、本やら論評やらディスカッションやらがあるはず。

ところが、そういうテーマはほとんど見たことがない。絵の指南書なんかも、その点の定義がされているのをほとんど見たことがない。

だからぼくには、「絵が上手い」ということがよくわからない。だれかわかるように、説明してくれませんか?


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
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ディアゴスティーニの「週刊ミレニアム・ファルコン」2号を買った(現在最新刊は4号)。砲塔基部である。ぐるぐる廻る部分である。1号ではいまいちリアリティがなかったが、この基部はやばい。ラウンジのホログラムチェス台もやばい。

1号買った時の約3倍(当社比)で、定期購読(2年で100号、20万)を正当化する理由を必死で考えている自分がいる。うううううううう。どうする! マキオン!? 「週刊サンダーバード2号」もあるんだぞ!?(つづく)