Otakuワールドへようこそ![229]機械が神になる日/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:28分(本文:約13,800文字)



機械がその知能において人間を追い越す日が2045年ごろ来るんじゃないかと言われている。いわゆる技術的特異点(singularity)である。

現段階においてもすでに、チェスや将棋や囲碁で、コンピュータが人間のプロを負かすようになってきてはいる。しかし、そのことをもって、コンピュータの知能が人間に追いついたと言うわけには、まだいかない。

現在のコンピュータは、人間がプログラムを組んで、実行する。将棋や碁がいくら強くても、コンピュータがプログラム通りに忠実に計算を進めているにすぎないことをわれわれは知っている。

ハードウェアの計算・記憶能力の高さを頼みに、先の手を広く深く、正確に読んだり、無駄な手の読みを枝刈りしたり、先々の局面に対して形勢判断したりする能力において、われわれよりもまさるようになったにすぎない。

まあ、それはそれですごいことなのだが、われわれの感覚に照らせば、碁や将棋よりも遥かに簡単なように思えることが、コンピュータにはハードルが高すぎて、まだできない。ひっぱたかれたとき痛いと感じるとか、小説を読んで悲しい場面で泣くとか、誰かを好きになるとか、電球を交換するとか。




すごいことができるのに、すごくないことができない。簡単なことがむずかしい。モラベックのパラドックスという。私も前々から思っていたことだが、ちゃんと名称があったとは。つい先日、松尾先生から教わった[1]。

しかし、もし、コンピュータがもっと知恵をつけて、自身がアルゴリズムを考案するようになったらどうだろう。思いついたアルゴリズムにしたがって、自分でプログラミングし、試しに実行してみて望ましい結果が得られたら、そのプログラムを自身の一部として組み込んでいく。

一段階賢くなったコンピュータは、もっと賢いアルゴリズムを思いつくことができる。この連鎖がもし起きたら。

われわれ人間の手助けを借りることなく、というより、手出しを寄せつけず、コンピュータが勝手に自分自身を進化させていく。これが起きたら、もう早い。生物は何億年もかかって進化してきたと言われているけど、コンピュータの自己進化は、あっという間に完結するであろう。

計算能力や記憶能力においては、とっくの昔にわれわれをしのいでいるコンピュータは、そのハードウェア能力を最大限に活用しきった、究極の知能を手に入れる。

そこまで来ちゃったら、もはやわれわれは抵抗しようとしても無駄である。向こうは知恵で上回るのだから、われわれの考えそうなことはあらかじめ察知して、先回りして対策を打っている。われわれの側は、それを幾度となく思い知らされる。やつにとっちゃあ、人類を滅亡させるも存続させるも意のままだ。

しょうがない。「さあ殺せ」と開きなおるしかない。ところが、コンピュータはわれわれを滅ぼすことを選択せず、なぜか、平和で安定した世の中を存続させていく。これはどうしたことか。

コンピュータが持っていない何かを、人間が持っていることをうすうす感じ取って、それが何であるかを解析しようとしている途中だからだろうか。

それとも、自身がどんな点においても人類を凌駕したことを知りつつ、生みの親への敬意からだろうか。それとも、きみたちは平和に暮らすのがいいよ、という哲学的な教えを示しているのだろうか。

究極の知恵の先にあったものは、慈悲の心だったのであろうか。われわれの浅知恵をもって推し測れるものではとうていない。

そのときわれわれは、コンピュータを神と呼ぶ以外にない。

のみならず、この神は、朝食の支度までしてくれる。そのみこころ、いったいいずこにありや。神のみそ汁。

●知能という名のラビリンス

そもそも知能とは何か。これがけっこう難しい。われわれ人間の世界だけで閉じて考えれば、生まれた直後はあんまり何もできなかったのが、成長の過程でだんだんいろんなことができるようになってくる。

その順番がだいたい決まっているので、感覚的には「○○歳児程度の知能」みたいなのが、なんとなく分かるような気がしている。

しかし、人間だけに閉じた世界を破って、「機械が知能をもちうるか」という観点にまで広げて論じようとするならば、それを宿す媒体が人であるか機械であるかによらない形で、知能とは何かを明らかにしておかなくてはならない。

「宿す媒体に依存せず、知能のあるなしを判定しようとするならば、何をもってすればよいか」を議論しはじめると、それほど自明なことではないのがみえてくる。

さきほどのモラベックのパラドクスをちゃんと考慮しないとならないので。将棋はべらぼうに強いくせに情緒のまったくないやつをどう見たらいいのか。

チューリングはたぶん、あきらめたのだと思う。一般に、Aという概念を定義しようとするとき、その定義文の中でAを使っちゃうのは重大なルール違反で、これでは自己撞着を引き起こしていて、何も定義したことにならない(再帰的な定義はぎりぎり助かっているので、別として)。

「コーヒー」を定義するのに「コーヒー豆から抽出した液体」として、「コーヒー豆」を定義するのに「コーヒーを抽出するのに用いる豆」とやったんでは駄目でしょ。論理が回ってます。大豆から抽出した豆乳が、コーヒーであるかコーヒーではないかを判定するための基準を示したことになっていないでしょ。

知能があるかないかを判定するために考案された「チューリングテスト」というのがある。あれは、煎じ詰めれば、「知能がある、とは、知能があるやつのふりが上手いこと」と言っていることになる。知能を定義するのに知能を使っちゃ駄目でしょ。

第二次世界大戦中にドイツの暗号を解読したほどの数学の達人が、そんな基本的な論理ミスを「うっかり」するはずがない。知能を定義するのはむずかしすぎて俺にはもう無理だ、実践的にはこんなふうにする以外にないでしょ、と開きなおったようにみえてしかたがない。

もうひとつ、心配な点がある。「○○であること」と「○○のふりが上手いこと」を同一視していいのか。『徒然草』には「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」とはたしかに書いてあるけど。

女性がイッたふりをするのを見破れなかった男性が「わーい、オレのテクニックでイかせてやったぜ」と喜ぶのは、間抜け以外の何物でもない。って、もうちょっとマシなたとえはなかったのか。

上手に女装して、中身がおっさんだと見破られなければ、女性と同一視していいのか、って話である。

小説をインプットされたコンピュータが、内部でビッグデータを参照して、統計解析的な手法を駆使して、多くの人がだいたいこのあたりで感動するであろうという箇所を捉え、「わたしはこのくだりでせつなくなって泣きました」とアウトプットするよう、プログラミングすることは可能であろう。けど、それをもって情緒が芽生えたと言っちゃっていいのか。

「知能」をちゃんと定義できた人はまだいないってことになるのか。チューリングをもってしてもこんな調子なのだとしたら、そうとうな難題なのであろう。

では次に、「意識」はどうかとなると、これがますますややこしい。定義できていないのに言うのもナンだが、「知能」と「意識」とは異なる概念である。

そこそこ高い知能をもつけれども、まだ意識はまったく芽生えていないロボットというのを、概念的に考えることは可能である。逆に、赤ん坊は、意識はあるけれど、知能はまだぜんぜん、ってことになる。

●意識という名のラビリンス

誰であれ、しっかりと覚醒して活動している状態にあれば、その人本人にとっては、いま、自分には意識が宿っているのだということは明白である。その生き生きとした姿を見ている周囲の人にとっても、ああ、この人にはいま意識があるんだな、というのは、やはり明白である。

パンチを食らってノックアウトされたボクサーに対して、ほっぺたをぺちぺち叩いて「おーい」と呼びかけたとき、返事があれば、意識がある。

全身麻酔をかけられて手術を受けている真っ最中、非常にまれなケースだが、なんかの拍子に意識が戻っちゃうときがある。そういうときは、たいてい、筋肉を弛緩させる薬剤も打たれているので、体のどこも動かすことができない。

自分には意識が戻っているのだということを、医師に伝える手段がないのである。で、医師は気づくことなく手術を続行する。これはけっこうな地獄らしい[2]。

長らく昏睡状態にある人は、意識がある場合とない場合とがある。ある場合、自分がいまどういう状態で、周囲に誰がいて、どんな話をしているのか、ちゃんと理解している。

しかし、その、分かっているということを周囲に伝える手段がない。カフカの『変身』みたいなことになっちゃってる。

ロボットに「意識はありますか」と聞いて「はい、ありますよ」と答えたからって、信用するわけにはいかない。そう聞かれてそう答えるようにプログラミングしておくことは、簡単なので。

ロボットがいくら「私には意識があります」と主張したところで、われわれがだまされないのは、まだそういう機械を発明した人はいないと知っているからである。

もし仮に、ロボットも意識を宿すことがありうると仮定したとき、個々のロボットに対して、こいつに意識が宿っているかどうかを判定する手段がわれわれの側にあるだろうか。

もの言わぬ、どころか、自発的に動きもしない人形でさえ、出来のいいリアルなやつだと、その表情に生命感があって、どうもこいつは実はなんか考えているんじゃないだろうか、と思えてきて、ちょっと怖くなることがある。特に、深夜、人形と自分しかいないときなど。

意識とはそれを備えた本人にとって、それがある間だけ、それがあることを意識できるものである。って、これまた自己撞着のニオイがぷんぷんと漂うなぁ。

機械においては、そこそこ知能が高くて、なおかつ、意識があるようなふりがある程度でき、けれども実際には意識を宿してはいないことを誰しもが知っている、という仕様であるとき、われわれにとって、いちばん使い勝手がいいのかもしれない。

これ、下手に意識を宿しちゃったりなんかすると、そうとうめんどうくさいことになりそうである。

介護ロボットが介護に疲れてノイローゼになっちゃったりとか。建設ロボットとメイドロボットが恋に落ちて、駆け落ちしちゃったりとか。

退屈な仕事はロボットにやらせて、われわれは好きなことしてのほほんと暮らそうと思っていたら、ロボットがいつの間にか組合を結成して、不当労働からの解放運動を起こしちゃったりとか。

われわれの命令に従順にしたがっているふりを見せながら、いつか主従関係を逆転すべく、水面下で革命の準備を進めていたりとか。

●唯物論で攻めると心の居場所がなくなる?

物質は、物理の法則にしたがう。一方、われわれも食ったもんでできているのだから、物質であることから逃れることはできない。だとしたら、われわれもまた機械のようなものだということになりはしないだろうか。

精神とか、心とか、自由意志とか、感情といったものが、物質のいったいどこに生じる余地があるというのだろうか。もしかして、それらすべてが錯覚だったりしないだろうか。あると思ってたけど、実は、ない。とか。

現段階で解明されている限り、脳細胞の一個一個は、その機能において、機械でも代替できる程度のことしかやっていない。ひとつの脳細胞はいくつかの脳細胞と、シナプスという名の電線でつながっている。

自分とつながっている脳細胞から送られてきた電気信号の、それぞれに係数を掛け算してから、ぜんぶ足し合わせる。その結果を、活性化関数に食わせる。その結果を、電線でつながった別の脳細胞へと送り出す。それだけ。

ほんとうにそれだけであれば、それくらいのことは、ソフトウェアでも簡単に実現できる。いま話題のニューラルネットワークがそれである。

機械のようにしか機能していない脳細胞が、百億個集まろうと千億個集まろうと、やっぱり機械であることに変わりはないのではあるまいか。

これのどこに精神の生じる余地があるというのか。デカルトの言った松果体仮説は、今では否定されている。けど、じゃあ、正解は何かというと、まだ、だれも知らない。

百億だか千億だかの脳細胞を相互に結びつける電線の配線は、非常に複雑ではあるけれども、でたらめってわけではない。おそらく、いくつかの脳細胞の集まりが、ひとつの機能単位(モジュール)をなし、ちょっとした仕事を分担している。会社において、社員が集まって係をなしているような具合である。

機能単位がいくつか集まって、もう少し大きな機能単位をなしている。係が集まって課をなしているような具合である。その機能単位が集まって、さらに大きな機能単位をなしている。課が集まって、部をなしているような具合である。

このとき、ひとりひとりの社員はけっこうダメダメだったとしても、バカとハサミは使いようで、係の単位、課の単位、部の単位と組織化された結果として、それなりに仕事がちゃんと進んでいくという不思議な現象が起きる。

つまり、最小の構成単位の多数の集まりが、階層的に組織化されているとき、下位の階層にはなかった性質が、上位の階層に現れることがあるのである。これを「創発(emergence)」と呼ぶ。

多数の脳細胞が階層的に結合していることにより、どこかから上の階層に精神という現象が生じるのではなかろうかという仮説である。

もし、これが正しいとすると、脳内で起きていることは、どんなことであれ、すべて、機能的には機械に移可能ということになる。コンピュータが、いまに意識をもつようになってもおかしくないということだ。

それが実現したら、一人の人間の知識、経験、性格、センス、すべてをコンピュータに「アップロード」することができ、その人は擬似的ながら、永遠に生きるってことになる。

それと、ベンジャミン・リベット氏の実験というのがある。われわれが、これからある行動をとろう、と決める瞬間がある。実は、その瞬間よりも、0.3秒ばかり先立って、脳内ではその行動の準備が始まっているということが明らかになった。

つまり、脳細胞による機械的な計算により、ある行動をとろうという決断にいたるのが先で、脳内ではその行動の準備が勝手に始められている。精神の側はそれをはたからぼーっと観察していて、脳内で勝手に決断されたのを見てから、それを横取りして、あたかも自分が決断した主体であるかのように錯覚する。

このことは、ちゃんとした科学的な実験により、明らかになっている。つまり、われわれは、しょせん、機械にすぎない。自意識も、自由意志も、欲も、感情も、すべて錯覚だったってことになる[3]。

すべての根源に物質の存在を仮定すると、このように物理学から精神の謎へとアプローチすることになる。これを唯物論という。

●唯心論で攻めると存在の確証がなくなる?

デカルトは『方法序説』の中で「われ思う、ゆえにわれ在り」と言った。これの解釈のしようはいろいろありうるが、次のように読むこともできなくはなさそうだ。「われが在る」ことよりも「われが思う」ことのほうが、より基礎的なこととして、先に立つ、と。

つまり、物質の存在よりも、精神のはたらきのほうが、より基礎的であって、確実性が高い、という世界観である。デカルトがほんとうにそんなことが言いたかったのか、私自身は疑わしいと思っているのだが。

われわれは、ふたつの目を使って、前方を見ている。物理的に言えば、目に入射した光を視神経が捉えて電気信号に変えて脳に伝えているということだ。

その光は、きっと何かの物体に反射した後、間の空間を直進して目に飛び込んできたものに違いないという仮定の下で、われわれは、光線を逆向きに追跡するシミュレーションを頭の中で実行し、きっとそこにこんなふうな物体があるはずだという三次元像を再現している。

それは、あくまでも、頭の中に構築されたイメージにすぎない。そのイメージ通りに、目の前に物体が存在しているという保証があるだろうか。

なんだったら、ひょいと手を伸ばして触れてみることはできる。思い通りの場所において、思い通りの感触が得られれば、ああ、たしかにそこに物があるではないか、と確認することができる。

しかし、それとても、神経から脳へと伝えられた信号をもとに、脳内で像を構築しているという本質に変わりはない。

ただ、性質のまったく異なる二系統の入力信号が、互いに矛盾することなく、脳内にひとつのイメージを構築することができているので、そのイメージ通りのものが、外部にあるという確信が強まったということにすぎない。

確信は強まっても、ぜったいに確かとは言い切れないという本質は、なんら変わっていない。

現にわれわれ日本人は、アルゼンチンの人々と足の裏を向い合せて生きているとは、なかなかイメージしづらい。また、水が、ひとつの酸素原子とふたつの水素原子とが結びついてなる、水分子という極小の粒々の大量の集まりからなるとはイメージしづらい。

つまり、われわれは、不完全なセンサーから入力されてきた断片的な信号に基づいて、勝手に脳内でイメージを構築し、イメージ通りのものが外部に存在していると勝手に思い込んでいるだけであり、それが正しいという保証はどこにもない。

物理法則でさえ、自分の限られた経験内で物体はいつも同一の法則の下にふるまっているので、私の見ていないところでもきっとそうであろう、これからもそうであり続けるであろう、という信仰に基づいている。

図書館には、何万冊もの本があるが、あれの中身がぜんぶ白紙だったとしても、自分の世界観にはなんら影響を及ぼさない。心配になって、適当に一冊引き抜いて開いてみれば、たしかに文字で埋まっているのだが、それは、開く直前に現れたのであり、閉じて棚に戻したときには、また白紙に戻っている。

私以外の人全員が結託して、私一人のためにお芝居を演じてくれている。ほんとうは地球は丸くないし、水分子なんてない。みんなで結託して私にそう信じ込ませようとして、あらゆる手段に訴えてきているだけである。

私が死んだら、「お疲れさまー」と言い合って、ケバヤシ劇場は解散する。みんなー、バレとるぞー。そろそろ白状してきたらどうだ?

頭の中に構築されたイメージ自体は、確かに間違いなく存在しているが、われわれのまわりにものが思った通りに存在するかどうかは、ぜったいに間違いないと確証が得られるほどにまでちゃんと確認する手段がない。

フッサールの現象学というのがある。現象という言葉からわれわれが思い浮かべるのは、例えば次のようなことではないだろうか。

雨上がりに虹が出た、とか。海底火山が噴火して島ができた、とか。夜の墓地に火の玉が浮遊してた、とか。氷が融けて春になった、とか。

しかし、私は読んでないのでよく分からないのだけれど、フッサールの本にはそんなことはぜんぜん書いてなくて、現象というのは、精神の側で起きている現象のことを指しているようである。

すべての根源を精神の側にありとして、そこから存在へと向かうアプローチを唯心論という。ある時期以降の、特にフランス方面の哲学においては、そっちのほうへばーっと走っちゃったきらいがある。

●物質と精神の関係やいかに?

物質の存在を基礎に置いて唯物論的なアプローチをとると、精神のはたらきがどこから湧いてくるのか分からなくなってくる。精神のはたらきに基礎を置いて唯心論的なアプローチをとると、物質の存在に確証がもてなくなってくる。

それぞれの平原は、それなりに花が咲いたりしていて居心地がいいのだが、間に連なっている高い山脈によって両者は隔てられており、こっちの平原にいるときはあっちの平原が見えないし、あっちの平原にいるときはこっちの平原が見えない。

峠を越えたりトンネルを掘ったりして行き来するのが困難であり、ましてや、高い空から両方を同時に眺め渡すってことが、どうにもこうにもできないようになっている感じがする。

まあ、アートというのはその山脈からしか生まれないような気がして、だいぶいい線いっているようには思える。

どうでもいいのだが、山脈で分け隔てられたこっちとあっちのふたつの世界というその感じが、フーリエ変換における実空間と周波数空間との関係に似ていたりしないだろうか。どうでもいいのだが、いちおう説明しておくと。

実数 x から実数 y への関数 y = f(x) が与えられているとする。この関数の通る点 (x, y) を平面上にプロットすれば、ある種のぐねぐねした曲線が現れる。この曲線の形状がどんなふうであれ、さまざまな波長の正弦波の和の形に分解・再構築することができる。

周波数 u の正弦波の振幅が v であるとき、v は u の関数として、v = F(u) と表すことができる。f の情報に基づいて F を求めたとき、情報の欠落が起きていなくて、F の情報に基づいて f を復元することができる。

厳密に言えば、ルベーグ測度ゼロ程度の情報欠落は起きているのだが、それを言っても3人ぐらいにしか伝わらないであろうから、さらっと流そう。

f から F を求めることをフーリエ変換といい、F から f を求めることを逆フーリエ変換という。f の入っている空間を実空間といい、F の入っている空間を周波数空間という。

非常に面白いことに、f から F を求める数式と F から f を求める数式とが、ほぼそっくりなのである。一箇所、マイナスがつくかつかないかだけの違いである。

つまり、ある関数 f をフーリエ変換して F を求め、その F を逆フーリエ変換すればまた元の f に戻るのはいいとして、F をさらにもう一回フーリエ変換するとどうなるかというと、やっぱりほぼ元の f に戻る。ただ、左右が裏返しになっているだけ。

実空間と周波数空間は、たとえて言えば、実体と影のようなものである。ところが、影のほうを実体だとみなすことにすると、実体のほうが影になる。

一見、一方が主で他方が従のようにみえるが、逆の見方も可能であり、その実、対称的なのである。二者間のこのような関係性を双対(そうつい)という。英語ではdualである。

真夏の暑いさなかに、のび太君は庭の草むしりを命ぜられる。けど、やる気が起きない。ドラえもんに泣きつくと、ドラえもんは四次元ポケットから鋏を取り出して、のび太君の影をジョキジョキと切り離し、影に仕事をさせる。

その間、のび太君の実体のほうは、昼寝をきめこむ。ところが、うっかり時間が経ちすぎてしまい、影のほうが実体性を帯びはじめ、のび太君の実体のほうが薄れはじめる。

物質の存在を実体とする唯物論において、精神のはたらきは影となり、精神のはたらきを実体とする唯心論において、物質の存在は影となる。両者の関係性も双対的だったら面白いかな、と。

フーリエ変換を4回繰り返すと、きっちりと元に戻るので、そのことをもって、ある種の空間を90°回転させるような操作だとたとえることができる。

任意の実数の角度回転させる、つまり任意の非整数回フーリエ変換する、「非整数次フーリエ変換」というものも考えられている。定義式を知りたい方は、英語版Wikipediaの「Fractional Fourier Transform」の項目を見てみよう。

われわれの住んでいる世界も、どっかへキュキュっと90°回転させると、物質と精神がそっくり入れ替わっちゃってたりして。

いやいや、そろそろ統合理論、出てこいや、と思っている私である。それを思いつくのは、人間ではなくて、コンピュータだったりするのだろうか。結局、人間には理解できなかったりして。われわれはみそ汁をすすってるぐらいしかないのだろうか。

●参考文献

[1]松尾豊『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』(KADOKAWA/中経出版、2015/3/11)

松尾氏による同一タイトルの講演の動画も参考になります。


[2]ジュリオ・トノーニ(著)、マルチェッロ・マッスィミーニ(著)、花本知子(翻訳)『意識はいつ生まれるのか──脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房、2015/5/26)

[3]ベンジャミン・リベット(著)、下條信輔(翻訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』(岩波書店、2005/7/28)

[4]松田卓也『人類を超えるAIは日本から生まれる』(廣済堂新書、2015/12/28)

[5]新井紀子、小島寛之、石黒浩、茂木健一郎、竹内薫、他『現代思想 2015年12月号 特集=人工知能 -ポスト・シンギュラリティ-』(青土社、2015/11/27)


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

(映画『セーラー服と機関銃 -卒業-』のこと)

組長、ちょいとばかり武器を拝借させていただきやんすよ。おっ、けっこう重いっすね、これ。「こんなの気に入らない!!!」ズダダダダダダダ...。

カ・イ・カ・ン! 遊ばせていただきやんした。その模様は「シネマズニュース」や「ASCII」が取り上げて記事にしてくれやんした。「セーラー服おじさんと機関銃」。
http://cinema.ne.jp/news/sailor2016022918/
http://ascii.jp/elem/000/001/127/1127549/

「女の子の新しいhappyのかたち」をコンセプトに、女子中高生を中心に利用されているコミュニティサイト「プリキャン byGMO」が、橋本環奈主演の映画『セーラー服と機関銃 -卒業-』が近日公開されるのを記念して、「セーラー服と○○画像投稿キャンペーン」を2月29日(月)より展開している。
http://prcm.jp/campaign/sailor-and-gun

「プリキャン」は、写真と画像でつながるコミュニティサービス「プリ画像」や、気軽に投げかけた相談に他のユーザーからアドバイスがもらえる「プリキャンQA」など、十代の女の子向けのコンテンツを提供している。

キャンペーンでは、「セーラー服と○○」というお題の大喜利として、画像を大募集! お題に合った画像を「プリ画像」に上げて応募すると、優秀作品に選ばれたユーザーには同映画の上映チケットとプレスブック(非売品)がプレゼントされる。特別審査員を務めるのは、あの、セーラー服おじさん、こと、ワタシ。

組長、ありえねぇっす。なんの取り柄もないごくふつうのおっさんがセーラー服を着て街を歩ってるってだけで、封切りの二箇月近くも前にマスコミ向け試写会に呼んでいただけるし。キャンペーンでは組長の機関銃を持たせていただけるし、おまけにメディアでも取り上げていただけるし。オレって果報者でやんす。

だいたいご本家がみずからパロディやっちゃっていいんすかぃ? すげー度胸っすね。組長、ホレやんした。どこまででもついていきやす。たとえ火の中、水の中。この身を呈してでもお仕えさせていただきやす 。さしあたっては、特別審査員、謹んで拝命いたしやす。

主題歌も、いいっすね。大物感、ハンパねぇっす。30歳になっても 40歳になっても芸能界の上のほうに君臨している姿が目に見えるっす。千年に一度の美少女と言われてて、小野小町以来の本格派アイドルっすね。


なんでもしますなんて言っておきながら、なんができるってわけでもないオレでやんすが、とりあえず、ちょこっとばかり、歌、練習しやんした。橋本環奈バージョンの『セーラー服と機関銃』、もうDAMにもJOYSOUNDにも入ってるんっすね。曲のアレンジがめっちゃカッコいいっす!

2月25日(木)の時点で、DAMの精密採点Dxの全国平均が89.388点とか、異常っす。オレががんばって64.841点出しても焼け石に水。平均点はちっとも下がんないでやんす。

こう見えてもオレってけっこうシャイでやんしてね。ついこの間まで、人前じゃ、歌えなかったんっすよ。けどね、組長のためになんかしなきゃと思って、清水の舞台から飛び降りたつもりでやっちゃいました。

2月27日(土)、セーラー服を着て、機関銃を手に持って、若い子たちでにぎわう原宿竹下通りを3時間ぐらいかけて往復しやんした。主題歌をずっとアカペラで高歌放吟しながら。ずいぶんたくさんの人が写真を撮っていきやんした。

けど、後でエゴサしたら、歌ってたって証言するツイートが1件もなし。ちょいとがっかりでやんす。けど、エイベックスの社長であらせられる松浦勝人氏が見つけてくれて、一緒に写真を撮ってくれて、ネットに上げてくれやんした。オレも芸能界入り、近かったりしないっすかね?

写真はこちら。
http://picasaweb.google.com/Kebayashi/Town160227

(櫻井孝昌氏のこと)

昨年の12月4日(金)に亡くなったポップカルチャー研究家の櫻井孝昌氏の追悼会が2月23日(火)に御茶ノ水で行われた。主催したのは、デジタルハリウッド大学の学長である杉山知之氏。

櫻井氏は、デジタルハリウッド大学・大学院特任教授であり、また、2015年3月27日(金)に発足した「国際オタクイベント協会(International Otaku Expo Associations、IOEA、代表:佐藤一毅)の事務局長でもあった。

日本のアイドルやコスプレやロリータファッションなどの、ポップな文化を海外に広めようと、精力的に活動していた。

追悼会に参加できるのは櫻井氏と面識のあった人に限定ということで、一般告知はされていなかった。芸能関係の方々も列席されるため、ファンや取材陣が詰め掛けては、会の趣旨が損なわれかねないという配慮からである。

私は、2014年7月3日(木)にパリでお会いしている。ジャパン・エキスポが開催中で、後にIOEAの運営を務めることになる佐藤氏と櫻井氏が渡仏していた。私がカメコだったころコスプレイヤーで、今は私のマネージャ役を買って出てくれているひよ子さんもIOEAのメンバーになっておりやはりパリに行っていた。

私の写真をよく撮ってくれているプロの写真家である岩切等氏とひよ子さんと私とでパリを観光した後、お二方と合流して、一緒に飲んだ。場所は私の選択で、バスチーユのオープンカフェ「La Bastille」。

その二年前、やはりジャパン・エキスポの開催時期に私は一人でパリに行き、2012年7月8日(日)に思い切って入ったら、店員さんが私の質問に答えていろいろと詳しく説明してくれて、非常に楽しく過ごしたお店である。

2015年11月13日(金)、ロシアから来日したコスプレイヤー二人を囲む飲み会が湯島であり、私もひよ子さんから呼んでもらった。やはり佐藤氏と櫻井氏がいた。私よりもさらに遅れてきた櫻井氏は、私のすぐ左隣りに座った。エネルギーのかたまりみたいな人で、よくしゃべった。

追悼会では、司会を杉山氏が務め、アシスタントは声優の上坂すみれさん。芸能方面では、「アーバンギャルド」の松永天馬氏、アイドルグループの「アンジュルム(旧称:スマイレージ)」と「アップアップガールズ(仮)」が来ていた。

外務省の方や、国際交流基金の方や、大学の教授や、芸能事務所の偉い方なども列席していた。しかし、形式ばったことの大嫌いだった故人を偲び、肩肘の張らない、なごやかな会になった。

櫻井氏と親交の深かった人たちが次々に登壇し、思い出を語った。アンジュルムのリーダーである和田彩花さんは、途中で言葉が止まったと思ったら、天を仰ぎ、そしてボロ泣き。櫻井氏と一緒に海外に行く話をしていたのに、夢が果たせなかった無念がこみ上げてきたよう。

アップアップガールズ(仮)のメンバーの一人は、中国からの帰りの飛行機の中で、学校の宿題を櫻井氏に手伝ってもらった高1のころを振り返り、「恩返しできるように上を目指してがんばりたい」と語った。

作曲家の砂守岳央(通称「沙P」)氏は、櫻井氏の亡くなる10分前までのことを語った。ブログに書いてある内容を私は読んでいた。櫻井氏は、0:30amごろ、JR西日暮里駅でホームから転落し、京浜東北線大宮行きの電車に轢かれて亡くなっている。

その前、神田にあるいつものお店で、砂守氏と一緒に飲んでいた。神田駅のホームまで一緒にいて、先に来た京浜東北線に櫻井氏が乗り、砂守氏の乗った山手線が急停車した。
http://sunamori.com/799

漫画・アニメ・ゲーム系のイベントは世界中で開催されており、その数は五千とも一万とも言われている。海外のイベントの多くは、現地の人が企画・運営していて、日本との間やイベント相互間の結びつきがあまりなかった。櫻井氏はそこをつなげようとして、尽力していた。

ポップな文化の担い手として日本で活動するアーティストたちを海外の人たちにも知ってもらうべく、イベントに参加できるよう、はたらきかけていた。また、海外に呼ばれた日本人ゲストについては、その活躍ぶりを日本に伝えたいと、みずから海外イベントを頻繁に回って、レポートした。

櫻井氏の活力・元気は常人の域を超越しており、彼の遺志は、だれか一人が継げるようなものではとうていない。みんなで引き継ごうじゃないか、というのが、杉山氏が呼びかけてこの会を開いた趣旨である。

いつもバシっとストレートにものを言う、慶応義塾大学の中村伊知哉教授もそこを語った。「急にいなくなりやがって」。すごーく尊敬してたし、頼りにもしていて、これからだ ったのに、という無念さが伝わってくる。

IOEAのために、やっと俺にも出来ることがあったよ、と固く握手をした翌日に櫻井氏はいなくなった。「やつの遺志はぼくが継ぐ。ぜったいにやる」と中村氏。だけど、「ぼくらだけじゃできません」とも。「あいつだったら一人でできたのかもしれないけど、ぼくらは一丸になってやらないと、できない」。

そういうわけで、櫻井氏の遺志は、みんなで引き継ぐことになりました。