Otaku ワールドへようこそ![231]自閉性の時代 -導入編-/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:24分(本文:約11,800文字)



週末は英会話を習いに行くのを習慣にしようと思い立って、説明を聞きにあちこちの英会話学校を回ったのは1992年ごろだったか。

きっかけは、三次元のカミサンと別れた後でさびしかったから、というより、ほとんど一言もしゃべらずに過ごしてしまう週末が続いたことに、これはさすがにちょっと不健康なのではないかとあせりを感じたからというほうが近い。

「駅前留学」のキャッチコピーでおなじみの英会話学校Novaに行くと、説明を聞く間、かたわらの部屋はVoiceルームになっていた。Nova独特のシステムで、要は雑談部屋である。Voiceチケットを一枚切ると、開店から閉店まで居てもいいので、たっぷり英語を浴びることができる。

ときおり声が漏れ聞こえてくるので中に人がいるのは分かるが、概して静かだった。チャイムが鳴ると、ぞろぞろぞろぞろと30人ばかり出てきたので、そんなにいたのかとたいへんびっくりした。

おそらくあれだ、「おまえ、なんかしゃべれよ」、「いやいや、そういうあんたが」と、ひじや目配せで会話が進行していたのであろう。うん、分かる分かる。おおぜいの日本人の前で英語でしゃべるなんて、やだもんね。




かといって、ずっと誰もしゃべらないでいると、場の空気がどんどん重量を増していき、呼吸をするのにも力が要るようになる。そういうとき、いちばんデキない道化者が "This is a pen." とやらかして、みんながズッコケる、と。それはドリフのコントだ。

たいていの場合、デキないなりにも全然しゃべれなくもない人が、意を決して何か言う。そうするとみんなが安心する。もっとデキない人は思う。いやー、あぶないとこだった。もし、プレッシャーに負けてうっかりしゃべったりしてたら、みんなの前で大恥をかくところだった。沈黙は金とはよく言ったものだ。

少しデキる人は思う。あ、なーんだ、そのくらいでよかったの? じゃあ、わたしもひとつ、なんかしゃべってみようかな。で、その人がしゃべると、最初の人がムッとする。最初っからおまえがしゃべらんかいっ! おかげで俺がカッコ悪い役回りを演じちゃったじゃないかっ!

結果として、一番デキる人と先生との一対一の弾まない会話が続く。外へ出て初めて、空気というものは気体でできていて、五月のそれは特にさわやかであることに気づく。

約15年後。Novaが経営破綻して、別のオーナーに譲渡されたのが2007年だから、その少し前のことだ。土曜の夜の高田馬場校だったか、Voiceルームの一コマが始まるとすぐに、若い学生がクイズを出した。

一般に、寒冷な地域のほうが、生き物の体は大きい。それはなぜか。たしかに、ツキノワグマよりもヒグマのほうが大きく、ヒグマよりもシロクマのほうが大きい。象よりもマンモスのほうが大きい。アジア人よりもロシアや北欧の民族のほうが大きい。

私は答えを知っていた。熱が発生するのは体内なので体積が効いてくるのに対し、熱が逃げていくのは体表からなので、表面積が効いてくる。保温のためには、体積の割に表面積が小さいほうが効率がよい。

どんなクマも互いにだいたい相似とみなすことができるとすると、体積は身長の3乗に比例し、表面積は身長の2乗に比例する。したがって、体積に対する表面積の比率は、身長が大きくなればなるほど、それに反比例して小さくなっていく。なので、大きいほうが保温効率がよい。

即座に答えちゃうと、他の人たちから考える楽しみを奪ってしまって興醒めかと思い、しばらく黙っていた。そしたら、出題した本人が得々と説明し始めた。日本語でもすっと伝えるのが難しそうなことに、チャレンジする精神はいいんだけど。

もたもたもたもた、もたもたもたもた。ちっとも伝えられてないじゃん。これで何十分ひきずるつもりだよ。オレが代わりに言ってやっから、さっさと次の話題に移ろうぜ。

ところが、こっちが何かを言いかけると、ますます大きな声で言葉をおっかぶせてきて、しゃべらそうとしない。結局、そいつが場の支配権を放さずに40分間の一コマが過ぎた。最後までその話題を引きずり続け、しかも、伝えられていない。

鬱陶しい道化。"This is a pen." のほうがまだ可愛げがあってよい。今から10年近くも前に、たった40分間を無駄に過ごさせられたことを、まるで大災害にでもあったかのごとく恨み続けているこっちもこっちだけど。

いや、そいつがどうこうということではないのである。時代が移り、コミュニケーションのスタイルが変わったことを象徴する出来事なんじゃないかなぁ、と妙な感慨をもって思い出すのである。

●災害飲み会

飲み会でも、言葉の津波に飲み込まれる大災害にあうことが過去に何回かあった。って、こういうことは、思ってもあんまり言わないほうがいいのかなぁ。

この前、あいつはいちおう楽しそうに振舞ってたけど、ほんとうはオレと一緒にいる時間が苦痛だったんだな、などと思われたりすると、ただでさえめったに来ないお誘いが、いよいよぜんぜん来なくなっちゃうか。

あの気難しいじいさんはめんどくさそうだから、誘わんとこ。って、別にいいけど。いや、自分がしゃべりたかったのにしゃべらせてもらえなくて不満、ってことではないのである。昔から私は、そんなにしゃべりたいほうではない。

自分にとっての理想の飲み会って、どんなもんだろう。一人、すごい物識りで賢くて話し好きな人がいる。みんなを楽しませようというサービス精神も旺盛である。とっておきの面白い話を聞かせてやろうと意気込んでやってくる。その人がしゃべるとどっと笑いが起きる。

みんなその人の話をずっと聞いていたいので、深くうなずいたり、質問を投げかけたりして、続きを促す。集まりとして楽しいし、知的で面白い話をいっぱい聞くことができた満足感が残る。けど、そういうのを求めてるんだったら、飲み会よりも講演会に行けばいいわけで。って、行ってるけど。

まあ、飲み会なんだから、とりあえず、酒が飲めりゃいいかとも思う。けど、酒なら一人でも飲めるしなぁ。って、飲んでるけど。一人飲みなら、いつ飲むかは自分の都合だけで決められる。時間があって、しかも、飲みたい気分のときにだけ行けばよい。気楽だ。

どうもこのところ、場の支配権の争奪戦みたいな飲み会が増えてる気がする。特に人に伝えたい大事な何かを持っていて、熱意をもって大演説をぶちたいというのであれば、こっちもじっくり構えて聞いてやろうと思う。けど、そうでもなくて。

なにがなんでも自分がしゃべりたい人どうしが闘うと、いち早くしゃべり始めた者が勝つ。面白い話をしようなんて殊勝な気を起こして、話の構想を練ってたりなんかしたのでは出遅れる。早押しクイズみたいに、頭になんか浮かんだ瞬間にぱっとしゃべり始めて場を制する以外にない。

もし出遅れたらどう挽回するか。相手の言ったことにはひとつも反応せず、コロッと話題を変えちゃえばいい。これはそうとうな嫌がらせになる。

おめーの話はつまんねーからぜんぜん聞きたくねーよ、と明示的に言わずして、ちゃんと言ったことになってる。気の弱い人なら、二度としゃべりたくなくなるであろう。

結果として、いちばん話の面白い人が話すという理想とは正反対のことになっちゃう。無内容な言葉の押しつけの大バトル。

くり返し言うが、誰がどうこうっていう話をしているのではない。そういう話なら、こんなとこで陰口なんかたたいてないで、直接本人に苦情を申し立てればよい。

そうではなくて、こういうのが世の中の一般的な傾向みたくなってるようだから、かなわんなぁ、と嘆いているのである。「飲み会」と聞いただけで、あーまたあの災害か、とついつい及び腰になっちゃう。

そう言えば。塾の先生をしている人が言ってたなぁ。女子高生二人の会話が面白かったよ、って。

お互いに、まるっきり違う話題で話をしている。相手の言うことには適当に相槌を打つけれども、その話題に自分も入っていくのではなく、自分は自分でぜんぜん別の話題で話をする。相手も同じ調子。それで、二重トピックの平行会話が延々と続くのだそうである。お互い仲良しらしい。

うげー、それが最近のコミュニケーションのあり方のトレンドなの? オレだったら、はたで聞いてるだけで、ストレスで死んでしまいそう。

●みんな、いったい何をあせっておるのだ?

制空権争奪ゲーム、参加すると楽しいのだろうか。時代の波に乗り損ねて、感覚があんまりナウくない私なんぞが一所懸命想像力を働かそうとしても、どうにもその気持ちが分からない。

自分は他人にぜんぜん関心がないのに、自分だけは他人から絶大な関心を寄せられていると無邪気に信じることができているのだろうか。自他の対称性のバランスがなんとも悪そうにみえちゃうのだが。

人から話を聞かされる苦痛には耐えがたいけど、自分がしゃべると、その内容いかんにかかわらず、人はきっとありがたがって聞くであろう、と? 他人の屁をかがされるのはくさくてかなわないけど、自分の屁はいい香りなので、ぜひとも他人にかがせたい、と?

頭にちょっとでも浮かんだことは、とりあえず口から出しておかないと、体内に毒がたまっていく体質なのだろうか。それって、ほぼ排泄行為に等しくないだろうか。まあ、排泄行為に多少の快感が伴うことに関しては、否定しないが。人に向かって浴びせかけることだろうか。

あんまり頭を使わずに、口から滔々と言葉を発し続けることができるのはひとつの才能のようではあるけれど、その才能ってカッコいいだろうか。うっかり大阪のおばちゃんにたとえたりすると、大阪のおばちゃんに怒られそうだけど。

そういう者になりたいかなぁ、と自分に問うてみたとき、ぜったいやだなぁ、と思う。後で地獄に落ちたとき、閻魔様からつまらない話を延々々々聞かされる責め苦にあわされたりして。それはご免こうむりたいなぁ。

こんなのが現代のコミュニケーションのあり方の標準になりつつあるのだとしたら、感覚の古い私にとっては、ちょっとつらいんだけど。

もしかして、みんな喜んで積極的にゲームに参加しようとしているのではなくて、なんか見えない力に操られるように、やむにやまれずそうなっていっちゃうのだろうか。

だとしたら、まともなのは私のほうであって、みんな集団で病んでいっているってことだろうか。おーい、みんな、何をそんなにあせっておるのだ?

●第一の仮説:承認欲求が満たされていない?

すでに何回か書いているが、今の社会はシステム社会なのだと思う。なにごとも、細部にまで及ぶ完璧なルールに則ってきわめて事務的、機械的、合理的、効率的に運用されており、便利で安全で快適な社会が実現している。

しかし一方、社会の中でいちばん偉い位置にシステムが君臨しており、人間はシステムに隷属してめんどうをみる消耗品の役割に格下げされている。ある人が職を去れば、抜けた穴を別の人が埋め、マニュアルにしたがって、大差ない機能をはたしていく。

そのような職種においては、仕事を通じて自己実現を図るというのが、なかなか難しい。個の力を発揮しようとして、現行の仕事のやり方に、独自の工夫を加えようとしたりすると、余計なことは考えるな、と、かえって怒られたりしかねない。

マズローの欲求五階層説によると、最高位に位置づけられている自己実現の欲求のすぐ下に承認欲求があるけれど、これすらもなかなか満たされづらくなってきている。職場環境において、自分が代替可能な単なる部品の役割としかみられていないとなると、このオレの個としての姿はどこで現せばいいのか、と。

そこに現代の病の根源があるのではあるまいか。承認欲求が満たされてなくて、くすぶってるやつ、多すぎる。

なにも、全国的に有名にならなくたって、承認欲求は満たされうる。昔は、地域単位の小さなコミュニティがちゃんと機能していて、お互いがお互いのことを、よく知っていた。社会に対して果たす機能の尺度としてではなく、個のレベルにおいて。

勉強はできないけど運動神経が抜群だとか、よく気が利いてまめに動いてくれるとか、責任感があるので任せておけばちゃんとやってくれるとか、もの静かだけど知恵の泉で頼りになるとか、料理が上手いとか、とくに能力が傑出しているわけではないけど気立てがやさしいとか。

現代の都会生活において、人は、システムに対して果たす役割によってしか承認されなくなってきた。なにかといそがしいこの世の中で、他人の個の領域にまでは、いちいち踏み込んでかかわっていられないって感じ。

その満たされないもやもやとした思いを飲み会の場でなんとかしてやろう、なんて思っていると、ああいうことになっちゃうのではなかろうか。

承認発生装置みたいなのを誰か発明してくれないかな。立ち食いそば屋で軽く腹を満たしてから飲み会に臨む、みたいな感覚で、承認欲求も軽く満たしてから出てきてくれるといいんだけどなぁ。

●第二の仮説:世の中の加速

17世紀ごろから300年ぐらい生きてるとよく実感できるのだが、あるいは、3億年ぐらい生きているとますますよく実感できるのだが、このところ、世の中の動きの加速が著しい。

ものごとの変化の激しさが、どんどんどんどん増していっている。メジャーなできごとが起きる間隔が、どんどんどんどん縮まっている。

2045年ごろ、技術的特異点(singularity)がやってくると言われている。機械の知能が人間のそれを追い越す瞬間である。それが一般的な意味合いだが、実は裏に隠されたもうひとつの意味がある。世の中がどんどん加速していったとき、そのスピードが極限に達する時点という意味である。

横軸に時刻、縦軸にものごとの変化の速さをとったグラフを考えると、常に微分値も二次微分値もプラスになっている。つまり、傾きがプラスで右肩上がりなばかりでなく、傾きの傾きがプラスで傾き自体がどんどん増していく。つまり、下に凸。

このカーブを延長していくと、ぎゅいーんと急激に上昇していき、ある時点で、値が無限大に発散する。比喩的な意味においてではなく、ちゃんとした数学的な意味において、特異点に到達しているのである。

ものごとの起きる間隔がどんどん縮まっていって、ついにはゼロになり、その瞬間、すべてのことが同時に起きる。終わりのビッグバン。

現時点においても、すでに世の中の変化のスピードが速すぎて、われわれ人間にはもはや肉体的にも精神的にも、処理能力が追いつかなくなりつつある。

SNSにおいて、多数の人が発した短い言葉の連なりからなるタイムラインから目が離せなくなっている。今この時点で何が起きているのか。新鮮な情報しか意味をもたない。

情報の消費サイクルがどんどん短くなっていっている。2005年に生協の白石さんが人気を博したときには、本が出版されるくらいまでは話題がもった。

今は、何かが話題になっても、もってせいぜい一日。たいていのことは、瞬間的に笑って、その場ですぐに忘れ去られていく。

猫がきゅうりに驚いて飛びのく映像なんて、つい最近のことなのに、もはや新鮮味を失っている。というか、たいていの人は言われて思い出すくらいのもんで、すでに忘れている。

どうせすぐに忘れちゃうような情報の小片を追って、SNSのタイムラインを延々々々何時間も眺めてるくらいなら、同じ時間を使って本を一冊読んでまとまった情報を吸収したほうが、自分の血となり肉となっていくような気もするのだが、なんだかそんな悠長なことはしてられないような気ぜわしさに追いまくられている。

ひとつのことにじっくりと取り組んで深く掘り下げようとすると、こんなことしている場合じゃない、みたいに気持ちがあせってくるが、コロコロコロコロと話題を変え続けていたほうがかえって気持ちが落ち着いたりする。

話をしていても、同じ話題が長く続かない。これってぜったい病んでる。飲み会で主導権奪取争いが起きているかのごとく、脳内の無意識領域でそれぞれの仕事に自律的にいそしんでいるエージェントどうしが、「俺を意識にのぼらせろ」、「いやいや俺が」とせめぎ合っているのであろう。

それって、精神がぶっ壊れる寸前の状態なんじゃないの? あんたのことだよ!

●降りるが勝ち

仲間と一緒にいるとにぎやかで楽しいけど、孤独だとさびしくてつらい。明るくて、性格温厚で、人に親切で、ノリがよく、話が面白ければ、まわりに自然と人が集まってきて、人生を楽しく過ごすことができる。

一方、暗くて、無愛想で、自己中心的で、不活発で、ぶすっとしてると、まわりから自然と人が去っていって、孤独でさびしい人生を過ごすことになる。

まあ、人間社会の普遍原理みたいなもんで、そんなの実は誤りである、などと真っ向から否定するのはちょっと無理がある。けど、このところ、なんだか普遍原理の牙城の一角が崩れてきているような感覚がある。

孤独って、悪い生き方をしてきた報いとして社会から科される罰みたいなもんで、無条件に苦痛に決まってる、と言えるだろうか。むしろ逆に、人と一緒にいるときのほうがなんだか息苦しくて、オレ、なんか悪いことしたっけかなぁ、と自問したくならないだろうか。

一人でいることが苦痛で、その恐怖から逃れたいと思っていると、あんまり楽しくない人間関係であっても、孤独よりはマシかと妥協して我慢しなくてはならない。めんどくさい人間関係というマイナスと孤独というマイナスとを天秤にかけて、どこかに釣り合うポイントを見つけざるをえない。

しかし、人といるときのめんどくささのほうがどんどんひどくなっていったらどうだろう。平衡ポイントがずれていって、孤独に逃げ込むことによる楽チンさのほうが優位性を増してくる。

もはやゲームから降りちゃったほうが勝ちなのではあるまいか。

●歌は一人で歌うもの

橋本環奈主演の映画『セーラー服と機関銃 - 卒業 -』が3月5日(土)に封切られたが、その一週間前の2月27日(土)、セーラー服を着た私は水鉄砲の機関銃を片手に、主題歌をアカペラで高歌放吟しながら原宿の竹下通りを駅から明治通りまで往復した。

その前に少し練習しておこうと、ひとりカラオケ専門店「ワンカラ 新宿大ガード店」に行った。西武新宿線の各駅停車が終点西武新宿駅に到着したのが3:35pmだったから、おそらく3:40pmごろだったと思う。

まったくの予想外の状況におったまげた。59室すべてが使用中で、8人が番号札を持ってロビーで待機していたのである。ロビーは割と広く、椅子が20脚ほど置かれている。そんなものを最初っから設けておく強気な姿勢、ものすごい先見の明だね。部屋に入れたのは3:57pmであるから、約15分待ったことになる。

新宿大ガード店は、「ワンカラ」の4号店として、2012年6月27日(水)にオープンしている。それに先立って、2012年4月27日(金)に高田馬場店が2号店としてオープンしているが、そっちは一年ともたず、12月3日(月)に閉店している。

その間、私は5月28日(月)、5月30日(水)、6月24日(日)、6月25日(月)、6月26日(火)、8月13日(月)の6回行っている。7月30日(月)の1:00am過ぎにも行こうとしたのだが、いつの間にか24時間営業ではなくなっていて入れなかった。以降は新宿大ガード店に行く頻度のほうが高くなった。

高田馬場店がぜんぜん繁盛してなかったのに、その後からオープンした新宿大ガード店に広い待合室を設ける強気の姿勢がものすごいけど、それが実際に使用されるようになっている現状がまたすごい。

高田馬場店は時代がちょっと早すぎたのか。跡地はいま、テナントが入っていないので、戻ってきてはくれないだろうか。

●楽しそうな釣り堀

勤め先の最寄の田舎駅で電車を降りると、線路に面して堀があり、下りに傾斜した橋がかかっている。橋の右脇には釣り堀がある。私が子供の時分からすでにあったような気がしてウェブサイトを見にいくと、「創業50年以上」とある。私も人間を創業してほぼ同じくらいになる。

朝、出勤の途上でこの釣り堀を眺め下すと、すでにお客さんがけっこういて、じっと釣り糸を垂れている。今日これからの仕事のことが頭にあって、あれもしなきゃ、これもしなきゃと気ぜわしいときに、太公望たちののんびりしたようすを見ると複雑な気分になる。

釣りをするにしたって、すべきことはいろいろあって、そんなに暇ではないのかもしれないけど、はた目には、頭をからっぽにしてのんびり過ごしているようにしかみえない。

50年来の娯楽が時代遅れになって客足が遠のく気配もなく、ちゃんと繁盛しているのは大したものだ。今日も元気に営業している。桜が満開近い3月31日(木)の11:30amの時点で、31人もの釣り客の姿が見えた。そんな時間に重役出勤してるオレもオレだけど。実態は万年ヒラである。

朝っぱらから釣り堀で過ごす人たちなんて、どうせ定年過ぎて悠々自適の年金生活を送っているじいさんばっかだろうと思いきや、若い人もけっこういる。女性の姿は7人あった。隠居して余生を送る沈滞ムードではぜんぜんなく、なんか楽しそうではないか。

オレ、いったいなにをせかせかしているのだろう。あっちが人としての健全な姿なのかもしれない。

●自閉性の時代

脳内には脳細胞がいっぱい詰まっていて、それらが互いに結びついていて、情報をやりとりすることによって、総体として意識が生じているものらしい。そうだったとしても、脳細胞一個一個の側が、自分が全体の意識の形成のために小さな役割を負っていることを意識できてはいまい。

一匹一匹の蟻は、大した知能をもっているように見えないが、一群の蟻が全体として、意識や意志をもって振舞っているようにみえるときがある。眼前に溝があって、越えなくてはならないとき、蟻自身が材料となって、互いに連結しあって橋をかけたりする。

もしそうだったとしても、一匹一匹の蟻が、群れとしての意識を形成するための一素子の機能を果たしていることを意識してはいないであろう。

もしかすると、人間も、一人一人が脳細胞一個の役割を負い、人の集団が全体として意志をもつように機能しているのかもしれない。もしそうだったとしても、一人一人はそのことに気づいていない。

総体としての意識が妙な暴走を始めると、個別の脳細胞としての一人一人の人間に著しく負担がかかって、無理が生じてくる。いちおうがんばってはみたけどシステム社会がどんどん進んでいくと、人々は過適応組と不適応組とに分離していく。

過適応組は、満ちあふれるエネルギーにまかせ、多数の案件を同時進行でバリバリこなし、競争社会をガンガン勝ち抜いていく。やること盛りだくさんの負担が多少苦痛に感じられたとしても、精神の強靭さで乗り切っていき、ものごとを達成した喜びに変えていく。

一方、不適応組は、いちおうちょっとはがんばってはみるけれど、いやいや、これ、ぜんぜん無理ー、となる。大災害レベルまでエスカレートしたストレスフルな人間関係に、もはやついていけない。逃げるが勝ちとばかりにさっさとゲームから降りていく。

他の素子との間の配線を断ち切って、自分の殻の中へと逃げ込むことで、人間関係の災害から逃れ、わが身の安全を確保する。世の中の動きが加速していくと、もうもたなくなって、脱落組へ回る者が増えていく。自閉性の時代。

本谷有希子氏の芥川賞作『異類婚姻譚』を読んで、そんなことを思った。ダンナは、家にいるとき、単純なゲームにはまって、何時間も離さない。落ちているコインをチャリンチャリンと拾い集めるだけ。なんの変化も発展性もなく、同じことが延々と続いていくだけ。

自分の側の心がけで解決できない、答えのない問題を抱えちゃって、やむにやまれず、そこへ逃げ込んでる感じ。今の社会のツラいところを、うまーく描写しているもんだなぁ。

というわけで、自閉性の時代について論じてみたくなって稿を起こしたわけだが、そこへたどりつくまでの導入だけで、今回は終わってしまった。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

(聖地巡礼)

映画『セーラー服と機関銃 - 卒業 -』のロケ地はすべて群馬県だった。3月20日(日)、見に行った。プロの写真家である岩切等氏にご同行いただいた。

映像の設定上の位置関係とロケ地の位置関係が、案外合ってた。

いんちき芸能事務所という設定の音楽スタジオは、高崎駅から徒歩10分ほどのところにあった。帰り道で浜口組の組員に連れ去られる場所は、ちゃんとめだかカフェとの間にあるし。

走って逃げているときににわか雨が降り出す道路は偶然発見できた。角を曲がって、細い路地に逃げ込む。「吉野」と文字の見える小料理屋の路地は、昭和のたたずまいが美しすぎて、さすがにセットだろうと思っていたのだが、ちゃんとあった。その位置関係も合ってる。

主題歌のMusic Videoの水路も、このへんだろうと当たりをつけていたところにちゃんとあった。

めだかカフェのロケ地の裏手では、なにやら動画の収録が進行している。そのスタッフの一人が、武盾一郎氏のお知り合いだとか。そう言えば、武氏は高崎の出身だったっけ。新谷(しんがい)氏は、群馬大学の後輩で、同じバンドのメンバーだったとか。

武氏のお知り合いがもう一人いるよ、ということで、小野さんを呼び出してくれた。中学時代、塾で武先生から理科を教わったとのこと。武氏は理系で、群馬大学の学生だったんだね。

当時、武氏は髪が金髪だったのだとか。中学生の生徒たちみんながあこがれるおにいさん、って感じで、授業が終わると武氏が出てくるのをみんなで出待ちしてたんだとか。なんだよ、モテてたんじゃん。

ラブホテルにも行ってみた。ストーリーでも、本来とは異なる使い方をしているが、われわれもだ。橋本環奈ちゃんが、大はしゃぎで横たわった丸い浴槽に、俺も入るぞ、と。

車が入っていくシーンと、部屋のシーンとでは別のホテルだが、ご近所である。

入ると、壁に、ロケ地になったことが掲げられている。部屋選びから会計まで、従業員と顔を合わせることなく、機械の操作でできるようになっている。

電話して、どの部屋だったか聞いてみた。すると、4階全フロアーを借り切っての収録だったため、どの部屋だったかは特定できないという。

パネルの写真でみると、409号室がそれっぽい。ビンゴだった。ベッドルームと浴室の間には壁がなく、丸い浴槽がある。武田鉄矢の「へー、こうなってんのかー」をオレも言ってみる。

建物の周辺に部屋があり、中央部の非常に広い長方形のエリアが下から上までどーんと吹き抜けになっている。豪華な高級ホテルの趣きで、ぜんぜんラブホっぽくない。今度来るときは、本来の使用目的で来てみたいもんだ。

帰るとき、同時に出ようとした別のカップルと鉢合わせしてしまった。こっちはおっさん二人。しかも一人はセーラー服を着用。援助交際かと思われただろうか。あるいはよほどの変態かと思われただろうか。

写真はこちら。
http://picasaweb.google.com/Kebayashi/Town160320

(「アップアップガールズ(仮)」の新曲)

2月23日(火)、デジタルハリウッド大学において、学長の呼びかけで、故・櫻井孝昌氏の追悼会が開かれたことは、前々回、3月4日(金)配信分のこのプロフィール欄でレポートしています。
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20160304140100.html

そのとき、アイドルグループ「アップアップガールズ(仮)」に間近でお目にかかれたご縁もあって、新曲『パーリーピーポーエイリアン』のMusic Videoの収録に呼んでいただけました。

3月9日(水)、朝早くから丸一日かけて、新宿の「ロボットレストラン」と、はとバスで回った都内で収録。雨のそぼ降る非常に寒い日で、実はけっこう過酷な状況下での移動・収録だったのだけど、ただの一っ言も愚痴が出ず、終始、明るいムードだったのが、ものすごく印象的でした。

収録の合間のバスの移動時間は、全員爆睡。前日は、北海道でイベントか何かだったらしい。アイドルって、けっこうたいへん。芸能界で生きていこうってんだから、多少きついのはあたりまえ、とばかりに自然に受け入れちゃってるあのプロ根性、ホレボレしました。人格的にデキてる人たち、ほんっとにいいなぁ。

3月29日(火)、YouTubeに動画がアップされました。


(アンサー記事?)

前々回、3月4日(金)配信分で、「機械が神になる日」と題して技術的特異点(singularity)について書きました。
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20160304140100.html

これを読んで答えたようにしかみえない対談記事がネットに上がっています。
http://www.gizmodo.jp/2016/03/post_664177.html