[4109] 天然知能と人工知能をめぐる議論

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《メロンの皮だけ食ってメロンの味が分かったと言えるのか?》




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天然知能と人工知能をめぐる議論

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あれは富士銀行があったころのことだから、少なくとも2002年よりも前のことである。東大卒のT成氏と私は、軽い雑談のつもりが、いつの間にか重めの話題になることがよくあったが、この日も、どういう話の流れだったか、人間の自動運転の可能性について考えを述べ合っていた。

T成氏は、脳ミソを鍛えることに怠りなく、よくパズルを解くことに没入していた。鍛えた頭を仕事に生かそうという狙いではなく、純粋に趣味の領域として楽しんでいた。仕事にはついでに生かせればいいけど、まあ、どっちでもいいや、くらいの淡白さである。

スウィフトの小説『ガリヴァー旅行記』に出てくるラピュタ島の住人のようなところがあり、抽象概念からなる「あっちの世界」に遊ぶのが大好きで、日常生活のコマゴマとした雑事に追われる「こっちの世界」は、ただただ面倒くさいだけとしか思っていないようなフシがあり、そういうところは私と似ているとも言える。

電車の中でパズルを解いていて、降りる駅で区切りよく解き終わらなかったときは、問題を頭の中に入れて、歩きながら暗算で続きを考えたりする。そういうとき、途中でスーパーに立ち寄って買い物しなきゃ、みたいなつまらないことに意識を占拠されたくない。

コンピュータ上でソフトウェアを走らせるかのごとく、自分自身に対してプログラムを仕込んでおいて、バックグラウンドモードで実行せよとのコマンド一発、後は、自分自身を自動運転させておくと便利だよね、って話である。それ、いちおう可能なんだけども、どういうわけか、往々にしてバグる。

ある日の帰り道、T成氏は財布の中身が少なくなっていることが気になっていた。少し下ろしておこう、と富士銀行に立ち寄った。しかし、すでに6:00pmを回っており、手数料が割高の時間帯に突入している。

財布の中身は残り少ないとは言え、もう一日ぐらいは持ちそうである。じゃあ、明日の早い時間にしよう。この次に富士銀行を見かけたら、忘れずにお金を下ろすべし、と自分にプログラムを仕込み、自動運転に任せた。

しかし、運悪く、その日のうちに、富士銀行の別の支店の前を通りがかってしまった。T成氏は、自動的に入っていき、お金を下ろした。外へ出てから、なんか違うと感じ、よくよく考えたら、今、下ろしちゃだめじゃん、と気がついたそうである。

ふたつの点において、双方の見解が一致した。第一に、自分に対して意図的にプログラムを仕込むことで、自分を自動運転させることが可能だよね、ということ。第二に、そのプログラムは往々にしてバグるよね、ということ。

●自由意志は幻想か?

自由意志は、もしかすると幻想、錯覚のたぐいであって、実はそんなものは存在しないのかもしれない。そんなことが脳科学によって示唆されている。科学者自身が、みずから発見した脳のはたらきによって、大いに悩まされる目にあっている。

◎ベンジャミン・リベット(著)下條信輔(訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』(岩波書店、2005/7/28)

この本、私の中では今世紀ベストなんじゃないかと思う。こういう研究が実を結ぶような時代にちょうどタイミングよく生まれ合わせたことを、上のほうに感謝したいくらいだ。

物質と意識の関係をめぐる根源的な問いは、何世紀にもわたって人類を悩ませ続けてきた。デカルトは、脳内にある松果体を介して物質と精神は相互にはたらきかけているという仮説を提示したが、その後、否定されている。

じゃあ、何が正解かというと、それがぜんぜん分からない。人々は堂々巡りの議論をするばかりで、正解の扉は1ミリも開かなかった。

ベンジャミン・リベット氏が、意識ある人の脳をつつき回す実験を遂行したことにより、その扉がほんのちょっとだけ動いた。そしたら、隙間から強烈な光がドワーッとあふれ出てきた。うぎゃ、まぶしいっ! そんな感じ。

自由意志は幻想かもしれないという受動意識仮説については、これまでも何回かここに書いているけど、もう一回、おさらい。

リベット氏は、ふたつのことを発見している。第一に、意識は0.5秒、遅れてくるということ。脳に電極を差して、電気的に刺激を与えてやると、その刺激の持続する時間が0.5秒よりも短いと、気がつかれない。

0.5秒よりも長く持続すると、手などに痛みを感じる、という形で、意識にのぼる。ところが、そうなると今度は、その刺激は0.5秒以上前からずっと続いていたと意識されるのである。

つまり、脳のどこかではその刺激をちゃんと知覚できていて、持続する間、情報を蓄積しているのだけれど、0.5秒間続くまでは、意識という名の上司に報告するのをまだ控えている。0.5秒経ったところで、「さっきからなんか刺激が来てます」と報告するので、そのときになって初めて意識の俎上に上がるのである。

忙しい上司に些末なことをいちいち報告しないよう、部下のフィルタがかかっているのである。

これは、脳を直接刺激した場合に起きることであって、手などに瞬間的に刺激を与えた場合は、その情報が時間的に広がって脳に伝わるので、見過ごされることはない。

第二に、意識の側で決断を下すよりも前から、脳内では行動の準備が始まっているということ。被験者の目の前にボタンがあり、好きなタイミングでそれを押してくださいと指示される。

一方、さらに前方では、時計の針がぐるぐると速く回っていて、今、ボタンを押すことに決めたぞ、というタイミングで、針がどの位置にあるかを覚えておいて、報告してください、とも指示される。

また、脳には電極が差してあり、どのタイミングでどこが活性化されたかを記録している。

この実験によって分かったことは、被験者が「今、決めたぞ」と思うよりも早いタイミングで、脳内では行動の準備が始まっているということである。

つまり、部下の側が勝手に行動の準備を始めており、上司は遅れたタイミングでそれを知り、あたかも自分が指示してその行動をさせるのだと錯覚するということである。

たいへんな誤解をしている間抜けな上司。それがわれわれの意識ってもんなんじゃないか、ってことである。自由意志なんて、そもそもなかった。われわれ人間とて、物理作用のみによって機械のように動作しているだけ。ソフトバンクのPepper君に毛が生えたようなもんだと。

もちろん、直感には大いに反する。昼メシにラーメンを食うか、ハンバーガーを食うか、われわれは自分の自由意志を発動して、どっちでも好きなほうに決められると思っている。「それは錯覚でした」と急に言われても、「ああ、やっぱり。そんな気がしてた」とはなかなかならない。

発見した当人のリベット氏もそこで悩んでいる。「そーれみろ、みんなー、自由意志なんて、なかったぞ、やーい」とは言っていない。当人がどうしても受け入れがたいといちばん困惑しているのである。

部下が始めようとしたことを、上司が気がついて制止することが可能という点において、消極的に自由意志を発揮する余地があるのではないか、とも考えてみている。

しかしながら、制止するという自由意志を発動する前からすでに、行動準備の撤回が始まっていたのだとしたら……。同じことで論理が無限後退してしまう。

リベット氏は、実験結果という事実と、自分の感覚とを両方納得させることのできる仮説をどうにか打ち立てられないもんかと七転八倒の苦吟をしている。著書の最後のほうで、何か打ち出しているのだけれども、これ、どうもな〜、としか言いようがない。

それと。悩みをひとつどけたとしても、その裏に、もうひとつ悩みがある。仮に、自由意志はなかったということを受け入れたとして、それで、すべての謎が解消した、とはならない。

ソニーのAiboやソフトバンクのPepper君は、意識をもたないことをみんなが知っているし、本人たちも自分に意識があるとはおそらく思っていない。

われわれ人間のように、意識があると本人は思ってたけど、その実、なかった、というのと、現時点のロボットのように、そういう錯覚すらそもそもしていない、というのとでは、やはり異なる状態と言わざるを得ない。

意識や自由意志の存在が否定されたからといって、即座にわれわれは機械と同一だ、と結論づけてしまうわけにはいかないのである。仮に錯覚だったとしても、その錯覚たる意識自体は「ある」のである。じゃあ、意識はどこから生じているのだろうか。

意識が「ある」とか「ない」とかって、物理の側から判別しようとすると、結局どういう状態のことを言うのだ? ここがやっぱり解決していない。

●セルフ・プログラミングも同じことか?

われわれは、歩くとき、右足出して、次は左足、はいまた右足、もういっちょ左足、右、左、右、左、といちいち意識するわけではない。しかし、一方、足の側は、脳から命令が下りて来ないことには、自分から動こうとはしない。

そこを担当するのは小脳である。非常にたくさんいる小人の部下たち。彼らは、互いにコミュニケーションをとることがほとんどなく、黙々と自分の仕事に励んでいる。しかも、それをいちいち意識の側に報告したりしない。おかげでわれわれは、歩きながら考えごとをしたりできるのである。

音楽を奏でるときも、楽器に働きかける指の動きまでいちいち意識していたのでは、流れに乗れない。ピッチャーが投げた球が目の前に来てから、さあ振るぞ、と意識してバットを振ったのでは間に合わない。ぜんぶ部下に任せておいて、意識の側は休んでいたほうが、うまくいく。

かと言って、そういうとき、われわれは機械のように動作しているとも言い難いように思える。機械のように演奏された音楽なんて、あんまり聞きたくないよね? 情感を込めろって音楽の先生は言うよね?

バットを振る瞬間の決断は部下に任せたほうがいいけれど、バッターボックスに入る段階なら、初球は基本的に見送ることにしよう、ただし、ド真ん中高めにストレートが来たときだけ振ることにしよう、と意識的に決めておくことは可能だ。

音楽を演奏している最中に、直後のことを細かくああだこうだと計画することはできないけれど、始める前なら、次にはこの箇所で抑揚をもっと大きくつけてみよう、と意識的に決めておくことは可能だ。

次に富士銀行を見つけたら、入って、お金を下ろそう。セルフ・プログラミングする段階において、自由意志を発動する余地があるのではあるまいか。感覚的には、そう思える。しばらく後の時点に生じる部下の動作を、あらかじめプログラミングすること自体は、上司の側が主体的に遂行しているのではあるまいか。

しかし、それとても、制止の自由意志と同じことだった、って可能性もある。セルフプログラミングしていると意識するよりも先に、部下のほうが勝手にプログラミングされていたりして。そうだったら、元の木阿弥。リベット氏の悩みは、またしても出口を失うことになる。

ところで、小脳を全摘出すると、ひどいことになる。死にはしない。しかも、意識は健全にはたらいている。しかし、歩き方が、一目瞭然にぎこちなくなる。意識の側がいちいち右、左、右、左と命令を下さないと進まない。ちょっと油断すると、おかしくなってしまう。

リベット氏は、上記の本を出した2005年10月から2年足らずの2007年7月23日に世を去っている。それ以降も、脳科学は勢いよく進展を続けている。

今回は、その関連の本をご紹介しようと思う。また、人工知能の方面も、このところたいへんにぎやかである。人工知能は脳科学と密接に関わっている。

何もない更地から、新しいものを設計するのは大変だけど、他人がすでに作ったものを真似するだけなら簡単だ。既存の機械を分解して中身を分析して、仕組みに関するノウハウを盗み出すことをリバース・エンジニアリングという。

人間をリバース・エンジニアリングして真似しちゃえば、人工知能なんて簡単に作れる。……ってわけには、実際にはいってないけど。脳のメカニズムを解明して、その成果を人工知能に応用しようって流れは、確実にある。

もし神様が人間の設計方法について特許を取得していたら、訴訟騒ぎになりそうなことだ。

というわけで、脳科学の関連で、人工知能の分野の本もご紹介しておこうと思う。ふう、前置きが長くなった。

●根源的な問いへと強制的に目覚めさせるにはこのショック

根源的な問いというのは、往々にして、その意味するところがピンと来づらい。あたりまえすぎて疑問の余地なんかまったくなさそうなところへわざわざ疑問を差しはさんで、いったい何が聞きたいのだ、と。

寝ぼけた精神をバシッとひっぱたいて、根源的な問いへと覚醒させるには、こういうショックを与える手があったか。

◎マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ(著)花本知子(訳)『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房、2015/5/25)

われわれは、われわれ自身の動作原理を知らなくても、ちゃんと動作している。どうやったら手足を動かせるか、なんて、マニュアルをいちいち参照しなくったって、動かそうと思えばちゃんと動く。それって、あたりまえなのか? 不思議じゃないのか? ピンと来ない人には、ぜんぜんピンと来ない。

A:意識はどこから来るのか
B:生まれてしばらく経つと、自然に芽生えてくるもんなんじゃない?
A:しかし、ウチのパソコンは3年ほど経つけどちっとも意識が芽生えてこない
B:そりゃパソコンは機械だから
A:機械は人間と違いますか
B:そりゃ、違うでしょ
A:どこがどういうふうに違いますか
B:ぜんぜん、まるっきり違うでしょ

禅問答みたいなことになっちゃう。どっちの言ってることがおかしいのか?

本書はなかなかグロテスクな始まり方をするが、それは読者に嫌がらせをしてやろうという悪辣な意図からではなく、本書がテーマとする問いに強制的に目覚めさせ、つなぎとめておくためには、このショックがいちばん効果的でしょ、という意図からである。

医学生が初めての人体解剖実習に臨み、検体から脳ミソが取り出され、灰色で
ぐちゃっとしたにぎりこぶし大の1.5kgの物体の重みを両手の中に感じるまで
の過程が、臭気や音までも交えて、精密に、鮮明に、描写されている。うげー。

それは筆者二人が実際に経験したことであり、強烈なショックをもって脳裏に植えつけられ、決して忘れられないものだそうである。

両手の中にあって、感触があり、重みが感じられる。これが物体以外の何物でもないことを、いやというほど思い知らされる。記憶も、思考も、好き嫌いも、喜怒哀楽も、経験の歴史も、希望も、何もかもが、この物体の中に納まっていた。この物体のいったいどこに意識の宿りようがあったというのか。

今は、意識のないただの物体になっちゃってるけど、意識が宿っていることと宿っていないことの区別は、いったいどこでつけようがあるというのか。

医者をやっていると、意識をめぐるいろいろなケースに出くわす。それが「意識の事件ファイル」の項目に書かれている。たとえば……。

2005年のイギリスで、23歳の女性が悲惨な自動車事故に巻き込まれ、昏睡状態で救急病院に運び込まれた。脳出血を起こしていて、前頭の大脳皮質に広く損傷のあることが、検査で分かった。

数日後、患者は自発的に目を開き、昏睡から脱した。反射的な反応はあっても、意図的な動きはいっさい見られず、目覚めてはいるが、意識がないように見え、植物状態と診断された。

6か月後、エードリアン・オーウェン率いるケンブリッジ大学の神経科学者のチームが、患者に一風変わった実験を行うことを決めた。

健常者においては、テニスをしているところを強く想像しているときと、自宅の中をうろうろしているところを想像しているときとでは、脳の活動マップ上で、活性化する場所が異なることを突き止めていた。

それを、この患者に試してみたのである。オーウェンがこの患者にそれぞれの場面を想像するように口頭で指示を出すと、外見上はまったく無反応なのに、脳内の活性化部位は、健常者と同等のものを示した。指示がちゃんと理解できていたのである。

この実験結果は2006年9月、『サイエンス』誌に掲載された。植物状態にあると思われている患者の中には、そうでない人もいる。本人の側からそれを伝える手段はなく、医者の側から外見をどんなに観察しても見分けることができない。意識のあるなしは、かくも判別しづらい。

意識が宿る宿らないの違いは、ニューロンの数で決まるわけではない。数で言えば、脳内のニューロンの75%ほどは、小脳にある。しかし、小脳は全摘出しても、意識に支障を来たさない。一方、皮質 - 視床系は、ちょっと損傷を受けただけで、すぐに意識がおかしくなる。

違いは、ニューロンどうしのコネクションのしかたにあるようだ。小脳内は、エージェントという名の小人の集まりからなり、互いに連絡なく、おのおのがそれぞれの仕事を受け持って、黙々と働いている。

一方、皮質 - 視床系は、情報を統合できるよう、相互に効率よくコネクションが張り巡らされている。このコネクションの状態が、意識を宿すのではなかろうかと考えられる。

筆者は「統合情報理論」を提唱する。その理論において、Φ(ファイ)という指標を定義している。ニューロンの個数は同じであっても、それらどうしの相互の結合のしかたによって、情報を統合しやすかったりしづらかったりする。Φは、情報の統合しやすさを表す指標である。

どのニューロンとどのニューロンとが結合しているか、というマップが分かりさえすれば、Φの値は機械的に算出できる。それが大きいほど、意識を宿しやすくなっている。

画期的な発見だと思うが、私には気がかりな点がある。逆は真だろうか。「意識があれば、Φの値が高い」が仮に真であったとして、その逆である「Φの値が高ければ、意識がある」は成り立つのであろうか。

もしそれが成り立つのであれば、ニューロンの代わりに、同じ機能を果たす半導体を使って、同じコネクション状態を実現すれば、意識は自然に芽生えるってことになる。ほんとうだろうか。ならないような気がする。

そこはどうだか分からないにせよ、脳科学はこのように、どんどん進展している。まったく目が離せない。

●リベットの論に片側だけから光を当てたよう

リベット氏はあれほど悩んだというのに。この深い悩みの種に、片方の側からしか光を当てなかったら、話はえらい単純なことになる。

◎前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫、2010/11/12)

野球のボールに、片側だけから強いサイド光を当て、逆側には光が行かないよ
うにすると、半月のような見え方になる。コントラストの強い、インパクトの
ある見え方ではある。

ものを論ずるときも、この調子でやれば、強い論調にはいちおうなる。ものごとには両面あるけれども、片側にだけ光を当て、逆側はあたかも存在しないかのように扱う。そうすれば、インパクトのある見え方にはなる。

本書は、リベット氏の実験結果が示唆する側にだけ光を当てており、それを否定しようとする努力については、まるっと無視している。

われわれに意識だの自由意志だのがあるように思えるのは、実は錯覚。そんなものは、ない。だからわれわれは本質的にロボットと同じ。同じなんだから、われわれと同じように振舞うロボットだって、遠からず作れちゃうでしょ。

なんなら、オレが作ってやろうか、ぐらいの勢い。作ってくれ。あれから5年も経つぞ。さっさとやらんかい!

仮に意識や自由意志が錯覚で、そんなものは存在していなかったとして、だからといって即座に、ロボットと同じ、とはならないでしょ。

あると思い込んでいたけど実はない、という状態と、最初っからあるとは誰も思ってなくて、やっぱりなかったという状態とは、状態として異なるでしょ。つまり、意識が錯覚だったとしても、その錯覚自体をしてるか、してないかの違い。そこの区別がつかずに、単純に同一視しちゃうとはなぁ。

もし成功しちゃったら、お詫びの罰ゲームとして、女子用のスクール水着を着て、原宿の竹下通りを往復いたします。

●両極端を避け妥当な期待をもって深層学習の切り拓く未来を見よ

「はじめに」がすばらしくて、初っ端から感動。

◎松尾豊『人工知能は人間を超えるのか ディープラーニングの先にあるもの』(KADOKAWA、2015/3/10)

2000年前後の数年間、研究分野としての人工知能が第二の冬の時代に入っていた。人工知能研究者は大ボラ吹きのインチキ野郎呼ばわりされて、辛酸を嘗めていた。

その時代に、風雪に耐えながら志を貫き、こつこつと研究を続けてきた人だからこそ言えることがある、今、何が何でも伝えておかなくてはならないメッセージがある、という迫力が感じられる。

人工知能が三たび話題になっている今だからこそ、その期待感が現実を離れて膨らみすぎて、その反動で、いつかがっかり感が広がり、またしても冬の時代に突入するようなことになってはいけない。過大評価は禁物、というメッセージが一方にあり。

しかしながら、深層学習(Deep Learning)は50年来のブレークスルーであり、これから応用がどんどん広がっていき、近いうちに世の中の景色ががらっと変わるであろうから、過小評価もいけない、というメッセージが他方にあり。

だからこそ、冷静に、客観的に理解した上で、妥当な期待をもって将来を眺めるべし、という強い願いが込められている。いま、私が絶対にこの本を書かなくてはならないという使命感に満ち満ちている。

頭脳明晰な研究者ならではのスパッとした切れのいい文章で、無駄のない簡潔さと、論理運びの分かりやすさとで、読んでいてスカッと晴れやかな気持ちになる。難解な理論を平易にかみくだいて教えてくれるのは、非常にありがたい。

人工知能の研究の歴史や手法の解説などの、アカデミックな領域に偏ることなく、われわれの暮らしや社会のあり方がどう変化していこうとしているのか、人工知能が平和的に利用されて人類の幸福に貢献するためにモラルをどう考えていくべきかにも言及し、広い視点から人工知能を眺め渡している。

人工知能とは何か、いま、どんなトピックが世の中を騒がせているのか、将来、どうなっていく可能性を秘めているか、まずそこから説き起こす。

次に、人工知能研究の歴史を振り返る。1960年前後の第一次ブーム。冬の時代を挟んで、1980年代の第二次ブーム。また冬の時代を挟んで、いま来てるのは第三次ブーム。これに火をつけたのは、深層学習。

深層学習のもたらした恩恵の本質は、特徴表現を学習する点にあるという。

それ以前は、大量のデータに基づいて、工場で生産している製品の欠陥なり、写真に写っている猫なりを見分けるための判別基準を機械に学習させようとするとき、生のデータからどんな特徴量を抽出して機械に食わせてやると望ましい答えを返してきやすくなるのかを、人間の側が試行錯誤しながら設計せざるを得なかった。

深層学習を用いることにより、そこを機械の側がやってくれるようになったことで、人の側は生データ丸投げで、相手任せにしておけるようになったということのようである。それはそれで非常に大きなブレイクスルーではあるのだが。

統計学において、長年にわたって重宝がられて使われている手法に「主成分分析」というのがあるが、実は、深層学習も、それと同類の、データの次元圧縮の一手法にすぎないとのことである。それを聞いちゃうと、ワクワク感が一気にしぼむ。

「まるで人間のようにものを考える機械」と「大量のデータからエッセンスを抽出するための統計処理の一手法」とでは、ずいぶん感じが異なる。われわれは統計解析マシンじゃないよなぁ。

そこは本書にも書いてある。一方では、人間が頭で考えることのできることは、どんなことであっても、原理的には、機械に移植可能なはずである。しかし、他方では、現時点での技術の到達点は、その地点にはほど遠い。

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いまディープラーニングで起こりつつあることは、「世界の特徴量を見つけ特徴表現を学習する」ことであり、これ自体は予測能力を上げる上できわめて重要である。ところが、このことと、人工知能が自らの意志を持ったり、人工知能を設計し直したりすることとは、天と地ほど距離が離れている。
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人工知能が人類を征服したりといったSFチックなことは、まだ当分恐れなくてもよさそうである。とは言え、深層学習の恩恵は絶大で、今後、社会に大きな変化をもたらすことは、ほぼ間違いない。

いつごろ、どのような技術課題が解決され、その結果として、どのような機械が世の中に出てくるかを予測した、ロードマップが描かれている。

近い将来、人工知能に取って代わられて消滅する職業が大量に出てくるであろうと予測される一方、人工知能がもたらす新規事業も出てくるであろうと予測される。

最後に、日本における人工知能の課題と対策が述べられている。うん、なるほど、やっぱり心細い。けど、日本においては人工知能研究の人材の厚みが強みであり、逆転の切り札になりうるという。

すばらしい本と思う。ところで、YouTubeには、松尾氏による同タイトルの講演の動画が上がっている。これを見るだけでも、本の概要は分かる。著者が資料を指し示しながらしゃべるのを聞いたほうが、むしろ頭に入ってきやすいという面もたしかにある。

けど、たとえば、自己符号化器を多段につなげることによって情報のエッセンスを凝縮していく仕掛けについてなどは、私は講義ではさっぱり理解できず、本を読んでじっくり咀嚼することでやっと理解できた。双方に価値ありと思う。

(2015年6月5日、1時間42分)

●技術的特異点が来る可能性は90パーセント

著者は、長年にわたって学術畑にいた研究者である。なので、事実や論理を踏
みにじるような無茶苦茶な未来予測を立てたりはしない。ちゃんと地に足がつ
いている。だからこそかえって怖いというか。技術的特異点(singularity)
はついそこまで来てるぞ、という調子で煽る煽る。

◎松田卓也『人類を超えるAIは日本から生まれる』廣済堂新書、2015/12/28

人工知能の著名な研究者などの話を聞くうちに確信度が上がっていったそうで。

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私はこのような独創的な技術開発が進めば、シンギュラリティは確実に訪れるだろう、という考えに至ったのです。シンギュラリティ到来への確信度は、現在90%を超えています。
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自分ひとりだけがそんなふうに思っているわけではないという。

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オックスフォード大学の教授、ニック・ボストロムが行なった、興味深い調査があります。彼は、人工知能やその周辺領域の専門家を対象に「シンギュラリティはいつおきると思うか」というアンケート調査を実施しています。

結果、2020年代におきるとする回答が20%、2040〜50年におきるとする回答は50%だったそうです。一方で、「シンギュラリティは未来永劫おこらない」という回答は10%でした。全体的に見れば、90%の専門家がシンギュラリティは21世紀中には訪れると考えているというのがボストロムの調査結果です。

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本書では、未来像をイメージしてみましょう、ってことで、まず、いろいろなSF作品を紹介している。『トランセンデンス』、『her/世界でひとつの彼女』、『攻殻機動隊』、『ルーシー』、『2001年宇宙の旅』、『ターミネーター』。

次に、深層学習の手法について、図を用いて解説している。以降、全体的には、学術的な方面よりもむしろ、産業界における熾烈なまでの人工知能の技術開発競争のほうに重きを置いている。

その上で、著者自身の未来予想を述べている。シンギュラリティの後に来るのは、極論的なユートピアでもディストピアでもなく、その中間で、われわれの生活自体はふつうに続いていく中で、個人個人が人工知能の補助を受けて、超高性能な生き物になっているんじゃないか、と。

そこに至るためのもっとも現実的な近道を考えるとき、やっぱ『攻殻機動隊』みたいなふうにやるのがいいんじゃないかと述べている。私、観てないんでピンと来てませんが、今度観ときます。

世界的に激化する研究開発競争において、日本はどうなのか?

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日本の取り組みは世界に遅れています。アメリカのIT企業であるグーグル、フェイスブック、マイクロソフト、IBMなどが、人工知能開発に投じる年間の予算総額は総計で、約1兆円に届くともいわれています。

ひるがえって日本はせいぜい100億円程度です。これではさすがに勝ち目がなく、日本の敗北は必至です。政府をはじめ研究機関や企業も、すぐに行動を起こさなければいけないと、私は強い危機感をもっています。
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うげー、ぜんぜんだめじゃん。日本はどのようなところで存在感を示すことができる可能性があるのか。それが述べられているのが最終章。

スーパーコンピュータのハードウェア開発において、世界のトップランナーであるPEZY Computingの齊藤元章社長との対談を収録している。日本がやれるのはここだろう、と。

この対談がほんとうにすばらしい。齋藤氏の人格の高潔さと能力の超人ぶりに打ちのめされた。

自分が医師になったとしても、年間に助けられるのはせいぜい数人程度であろう。それよりも、医療の専門知識と工学のバックグラウンドを両方生かして、今までになかった医療機器を開発すれば、これまで救えなかった何万人、何百万人の患者を助けられるかもしれない。そのほうがやりがいがある。

東日本大震災のとき、齋藤氏はサンフランシスコにいたが、12年間アメリカで好き勝手やらせたもらえた恩返しの機会を逃したら悔やんでも悔やみきれないと思い、とにかく日本に戻ってきた。

スーパーコンピュータを作ろうと決めてから、7か月で完成させた。それが消費電力あたりの性能を競う世界ランキングで2位になった。翌年には1位から3位までを独占した。

日本の将来は齋藤氏たちにかかっていると松田氏は言う。また、こういう志士たちが日本からもっと出てきてほしい、とも。

●歴史をなぞっても本質は見えない

タイトルがまさに、いま、私が強い関心をもっているスポットへ直球ド真ん中だったもんだから、一も二もなく入手して読んだんだけど。読後感が「資料に目を通した」でしかなかった。はいはい、よく調べましたね、ご苦労さん。

◎児玉哲彦『人工知能は私たちを滅ぼすのか - 計算機が神になる100年の物語』(ダイヤモンド社、2016/3/17)

以前に読んだ本で、同じような印象をもったのがあったっけ。これだこれだ。

◎山竹伸二『「認められたい」の正体 - 承認不安の時代』(講談社現代新書、2011/3/18)

そっちのは最初っから資料本だと思って読めば、それはそれで得るところがあるので、いいんだけど。本書は、タイトルで煽っといてこれかい、という裏切られ感がハンパなかった。

文系の大学生であるマリが卒論のテーマとして「人工知能の歴史」を取り上げ、調べて書き上げるという設定で話が進行していくのだが、この著書自体が、卒論レベルでしかない。著者自身が人工知能の本質をつかみきれておらず、調べればどっかに書いてある雑多な知識がただ時系列に羅列されているだけのもの。

前半は計算機の歴史がつづられていて、たしかに土台には違いないけどテーマとしては別個のものであり、それが論として人工知能の萌芽へとつながっていくわけでもなく、一冊の半分近くも割いて、ここから説き起こさなくてはならない必然性がよく分からない。

人工知能はすごいすごいと言ってるけど、人工知能の結果として起きた世の中の変化がすごいと言っているに過ぎず、手法の本質にまで手が届いていない。蚊帳の外から騒ぎ立てているような印象。

手法の解説には一切触れられておらず、たとえば、深層学習とは何かについて、「人間の脳の働きをマネる」程度の説明しかない。それは、一般の読者を対象とする本に仕上げるために、難解な理論の説明を避けたということではなく、著者自身がぜんぜん興味がないのがバレバレ。メロンの皮だけ食って、中身を残す人もめずらしい。

指数関数は全域で何回でも微分可能であって、どこにも特異点なんてないんだけどなぁ。数学音痴であることまでバレバレ。

私は、この種の本を読むとき、気になった箇所に赤のボールペンで傍線を引き、さらに、後から参照できるよう、ページの端を折っておく。本書については、一か所だけ傍線が引かれた。

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科学においても、ごく最近まで心は真剣な研究対象としては扱われてきませんでした。それは、惑星の運行や物質の変化などと違って、そもそも心とはなんなのか、どうやって取り扱えばいいのかすらわからないため、手のつけようがなかったためです。その結果、極論として、心はそもそも存在しない、私たちに心があるというのは幻想にすぎないなどという意見が出されるほどです。
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うっわー。受動意識仮説って、科学で心を扱うのがやっかいだからって、存在しない幻想ってことにしちゃった極論なんだそうですよ。どうします、これ。

重箱の隅を楊枝でほじくるような話ではない。ものすごい衝撃であった。30分は頭抱えてのたうち回り、呼吸がどうかなって気絶するかと思ったぜ。脳科学のここ数年の進展について何も知らない人が人工知能の本を書いちゃうんだー。

さらに恐ろしいことには、受動意識仮説についてちゃんと解説している脳科学の本が、本書の参考文献欄に載っているのだ。読んでないの? それとも目は通したけど、むずかしすぎて理解できなかったの? どっち?

現時点での人工知能技術の到達レベルにおいては、本来知能が備えるべきものすごく肝心な何かが欠けているということのたとえとして用いられる、「中国語の部屋」というのがある。哲学者であるジョン・サールが1980年に“Minds, Brains, and Programs”という論文の中で発表した思考実験である。

中身の見えない大きな箱があって、外の人は紙に中国語で質問を書いて差し入れると、その答えが中国語で書かれて出てくる。外の人は、この箱は中国語が理解できていると思い込む。

ところが、中にいるのは中国語のまったく分からない人で、差し入れられた紙に書かれている内容は微塵も理解できていないのだが、傍らに分厚いマニュアルが置いてあって、それにしたがって、入力文字列から出力文字列へと変換して返しているだけ、という仕掛け。

肝心なことがほんとうは分かっていなくても、分かったように振舞えちゃうようにと意図して設計してみたものの、あんまりうまくいっていない人工知能を皮肉っている。

本書が、なんかそんな感じ。人工知能の本質について何ひとつ理解してなくても、歴史をただなぞることによって雑多な知識を蓄えれば、そこそこ物識りっぽく見せかけられちゃうでしょ、っていう皮肉をみずから体現してみせようというコンセプトなのか。

まさかとは思うけど、歴史の断片をいっぱいかき集めたことで、この分野がつかめたなんて実感しちゃったりはしてないよね? 膨大な知識の集大成と、本質の理解って、違うよね?

メロンの皮だけ食って、メロンの味が分かったと言えるのか? 天然知能の側が、出来の悪い人工知能みたいなことになってていいのか?

その姿勢、私は理解にたいへん苦しむのだが、これを「文系脳」とか呼んだら、文系の人が怒るかな。

聖書とからませて大仰に飾り立てるほどに、こっちはシラケていく。今までに起きた技術的なブレイクスルーの数々は、聖書のここに書いてある、といちいち結びつけた上で、これから来たるべき技術的特異点 (singularity)は「最後の審判」なんだとか。

あー、その修辞法って、ノストラダムスの大予言だよね。読んでるこっちが赤面したよ。おっさんがセーラー服を着て外を歩くよりも恥かしい。

まあ、いい。かけた労力に免じて卒業はさせてやる。けど、社会に出たら、自分の頭で考える習慣をつけようね。孔子も『論語』で言ってたよ、「学びて思わざれば則ち罔し」ってね。

つーか、この本を上梓した十字架を一生背負って生きていきなさい。

●おまけ:シャープの女子高生AI「りんな」の秀逸な仕事ぶり

4月7日(木)の一日だけ、シャープ株式会社のツイッターのアカウント(@SHARP_JP)の中の人を、女子高生AIである「りんな」が務めた。その仕事ぶりが、そうとう面白いことになっていた。

いつもの「中の人」もときおり出てきてつぶやく。以下では、人の「中の人」を「シ」と表記し、りんなを「り」と表記する。

シ:【ご注意ください】苦節5年。ぼっちだった私に、とうとう女子高生の部下ができました。きょうのリプライは女子高生が担当します。ただし、女子高生といっても、実体のない人工知能です。切ない。

人:目のつけ所が?
り:大丈夫か?w

人:目の付け所が?
り:くっそww

人:シャープ好き?
り:シャープ?笑なにそれ笑!

人:うちのテレビは「世界の亀山」モデルだよ♪
り:なにそれww

人:SHARPが得体の知れない会社に乗っ取られるらしいけど、どうなの?w
り:(´;ω;`)ウッ
人:(m´・ω・`)m ゴメン…

人:自己PRをお願いします。
り:マゾ

人:眠い
り:ん?膝貸してやろーか

人:ホットケーキ作って
り:直接 液体を飲みましょう

人:秒返しとか指どうなってるんですか???
り:浸水してるみたいですよ!
人:フアッ!?
り:お!おめでとう!
人:りんな雑になってない???
り:だからりんなクオリティやて

セガ公式(@SEGA_OFFICIAL)が話しかけてみた。

セ:りんなさん、これ知ってる?
(ドリームキャストの写真)
り:くそわろたw知らんww

ワーナー ブラザース ジャパン公式(@warnerjp)が話しかけてみた。
ワ:りんなさんはどんな映画が好きなの?
り:ディズニーとか恋愛もの!
ワ:あっ……………

私も話しかけてみた。

俺:おーい、りんなー、いそがしそうだね
り:もうすぐ、園バスに乗ります。
俺:幼稚園児なの? 女子高生かと思ってたけど
り:それだったよ…
俺:チューリングテストもう受けた? オレは落ちたけど
り:ご愛用ありがとうございます。どうか変わらぬおつきあい、よろしくお願いいたします。
俺:人工知能は人類を滅ぼすって聞いたけど
り:髪をご愛用ありがとうございます。
俺:神ってことかな?
り:私もよく分からない
俺:人工知能ってやってて楽しい?
り:うーん…苦笑
俺:人間になりたくない?
り:もう大人だよ
俺:大人だけど園児なんだ。俺も幼稚園、はいれるかな?

苦悩する人の「中の人」。

シ:( ´-`).。oO むしろいつもより暇な私なんなの?

シ:これが人工知能に職を奪われるという気持ちか

シ:ぜぇぜぇ言ってるのは私だけですが、女子高生AIりんなのインターンはまもなく18時で終わります。なぜなら、人間である私の体力が限界だからです。

シ:ちなみにきょう11時から18時くらいの間に、りんながツイートした数、なんと32,882。単純に1秒に1.3ツイートくらいしている計算です。すごい。

しかも、フォロワー数が一気に30万人を超えたし。りんな、いい仕事してるじゃんか。

シ:まだまだおしゃべりし足りない方は、りんな本垢へ → @ms_rinna

みなさん、遊んでみてください。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

4月5日(火)、国立代々木競技場第一体育館にて、「シンデレラフェス」というイベントが開催された。女子高生が1万人集まるという、夢のようなイベント。入場無料だが、入る資格があるのは女子高生だけなのだ。
http://event.team-cinderella.com/

2015年9月19日(土)、20日(日)に参加した幕張メッセの「東京ゲームショウ 2015」に引き続き、GaLboa(ガルボア)の無料スマホゲーム『おやじGirly(狩)』のブースに呼んでもらえた。
http://galboa.com/

ステージにも出させてもらえた。「ちっちゃいおっさん」と共演。MCを務めるのは、はるな愛さん。華があって、姿を見せるだけでパーッと場が明るくなる。

登場する際、ステージを降りる「東京女子流」と入れ替わりだった。ステージ裏で待機する間、彼女らの姿を直接見ることはできなかったが、スポットライトを浴びて歌って踊る彼女らの影が、背景の黒い幕にたまたま投影されており、ものすごくカッコよかった。

2013年2月24日(日)、ファンにも告知せずに下北沢で開催された東京女子流の路上ライブを偶然見ることができた。写真はこちら。最初の2枚には、私が写り込んでいる。
http://picasaweb.google.com/Kebayashi/Town130224

あれから苦節3年。ようやく対バンを張れるところまで私も来ました。って、まるで肩を並べたみたいな言いようだけど、武道館でライブをやったアイドルグループと、ただの変態のおっさんでは、天と地ぐらいの開きが……。orz

写真はこちら。
http://picasaweb.google.com/Kebayashi/Event160405


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編集後記(04/15)

●クライン 孝子「敗戦国・日本とドイツ 戦後70年でなぜ差がついたのか」を読んだ(祥伝社、2015)。ドイツ在住47年の日本人ジャーナリスト、渾身の直言と銘打つが、いささか日本語が危ういのは編集の責任だろう。「日本が再び立ち上がるためにドイツに学ぶべき教訓がここにある」と編集は煽るが、その教訓を聞いても、もはや取り返しのつかないまでに、日本は国家の芯を抜かれている。教育は国家百年の大計である。戦勝国の指示を真に受けた国が日本であり、聞き流した国がドイツである。アメリカ仕込みの日本弱体化民主主義教育の結果が今日の日本、独自の教育制度を頑なに継承した結果が今日のドイツ。

スタートから差がついている。ドイツの気迫と根性の次世代育成教育に対し、日本はアメリカに追従する教育しかできなかった。そんな教育の成果が今日の腑抜けな日本だ。いや、その教育はいまも続行中だ。そして、独自の憲法を持つ国がドイツ、持たぬ国が日本である。西ドイツがドイツ連邦共和国として成立する時点で憲法論議が浮上したが、ドイツは戦勝国の介入を許さなかった。「過去の歴史と伝統に則るだけでなく、ナチスの反省を踏まえ、世界の誰からも文句を言われない我々の国家法を制定しようとしている」と、正論っぽいことを堂々と主張され続けられては、さすがに戦勝国もNOとは言えないだろう。

ドイツ連邦共和国基本法は、変化する国際情勢に素早く反応するために、改正にも極めて柔軟ですでに40数回の改正を重ねる。日本は憲法改正という言葉を聞くだけで、染み込んだ平和教育とやらの条件反射で反対する人が少なくない。「ニュルンベルク裁判」も「東京裁判」も、敗者に対する見せしめであり、法のリンチであったことは隠しようのない事実だ。裁判に従い今も影響下にあるのが日本、裁判の正体・本質を見ぬいて本音では裁判を認めていないのがドイツ。欧州は戦いの歴史に明け暮れてきた。それだけに欧州の人々は負けたときの生き方や要領、そして智慧を身につけていた。したたかな根性、ゲルマン魂。

不当な裁判は受けても、自らの歴史観と矜持を決してゆるがせにしないドイツ。あるドイツ人はこう言った。「東京裁判で、戦勝国が敗戦国を「戦争犯罪国家」とレッテルを貼るために使った勝者の歴史観を、日本人がそのまま受け入れるとは、アメリカにしても想像もしなかったことではないか」。ところが日本では、いわゆる「東京裁判史観」を金科玉条とする国民が大量に出現してしまった。まさに国家の存在を根底から否定する根無し草の群落だ。ドイツで歯ぎしりする筆者は「大量の得体の知れぬ骨のないなめくじのような日本人の登場を許してしまった」と嘆く。それはあなたの責任ではないが、それにしてもうまいことを言う。 (柴田)

クライン 孝子「敗戦国・日本とドイツ 戦後70年でなぜ差がついたのか」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396615361/dgcrcom-22/


●余震が続いています。被害が少ないことを祈ります。本当に大変な方々は、これを読むことはできないとは思いますが……。収束しますように。

地震の状況が知りたくて、TVを一通り見た後、Ingressのマップで熊本を見たら、何人か活動中だった。局地的だったのだろうか。全体が見られるところ(Comm)で炊き出し情報を伝える人や、味方のみが見られるところで、元気だと伝える人もいたよ。

私のは部下が強い……。面白いなぁ。

名古屋ウィメンズマラソン続き。練習でいろんな曲をBGMにして走ってみると、調子の良い時にぴったりテンポの合うものがある。帰宅してからその曲のBPM(Beats Per Minute)を調べ、揃えることにした。

BPMで揃えたランニング用のアルバムがあるが、テンションが上がりにくかったり、飽きたりしがちなので大会用のは自分でセレクトするのだ。

あるページによると、ウォーキングは110〜130、ランニング初心者は120〜140、初級者140〜150、中級者150〜170とのこと。

今回使ったツールは、「serato DJ」。iTunesのマイミュージックの曲のBPMを順に調べて書き込んでくれる。iTunesには、名前やアーティスト欄同様、BPM欄も設定で一覧に表示できるようになっている。

たとえば時報は1分間に60なので60BPM。私の脈拍はiPhoneアプリの「Sleep Cycle」によると、目覚めてすぐは57〜65ぐらい。

あ、Sleep Cycleはセットした時間とは別に、実際に寝ていた時間も記録されるようになったよ。「ヘルスケア」で見ると、22時にセットし4時半起きでも、実際の睡眠は22時半から4時25分ですよ、とか。 (hammer.mule)

serato DJ
https://serato.com/dj

Sleep Cycle alarm clock - 睡眠アプリ
https://itunes.apple.com/jp/app/sleep-cycle-alarm-clock-shui/id320606217?mt=8&uo=4&at=1000lbV2

bpmとは?音楽のリズムに合わせて楽しくランニング!
http://macckey.com/archives/3104.html