ゆずみそ単語帳[01]FOBな人びとの国/TOMOZO

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英日翻訳の仕事をしているので、ふだんから英語と日本語の言葉と、その背景にあるあれやこれやについて思い悩むことが多い。驚いたことにアメリカ生活もそろそろ20年。気づけば、渡米時に1歳だった一人息子は21歳になっている。

子どもがいてトクをしたことは本当に色々あるけれど、その一つに、言葉の収集に役立ったということがある。

異国に住んでいれば、自動的にその国の言葉が身につくかというとそうでもなくて、やはり生活圏と生活のナカミによって言葉の種類は変わる。

成人してから移住したガイジンにとって、子どもの世界で流通している言葉を耳にする機会は貴重。子どもの世界の常識は大人の世界の一般常識の一部でもあるから、まったく無視はできないのだ。

息子が中学生の時にコドモ経由で覚えたスラングのひとつに、「FOB」というのがある。



貿易用語の「本船甲板渡し条件(Free on Board)」のことではもちろんなくて、「Fresh Off the Boat」の略。直訳すれば、「船を下りたて」。

ついさっき外国から着いた船を下りてきたばっかりのような、まだ当地に馴染んでいない移民のことなんだそうだ。

もちろん、移民船やボートでアメリカにたどり着く人は今時分あまりいないが、とにかく着いたばかりのニューカマー、という意味らしい。

ウェブの辞書によれば、この言葉の語源はハワイで、もともとは本土から来てハワイの文化を理解していない白人のことを指した、という説もある。

ハワイで中学に、シアトルで高校に通ったうちの息子によれば、この言葉はどちらの学校でも「あいつFOBだな(笑)」というような感じでよく使われていたという。

息子証言によれば、中学でも高校でも発音は「エフオービー」ではなくて「フォブ」といっていた、そうだ。

アメリカは建国当初から移民の国。今でもどんどん流入は続いている。ハワイなんか、100年以上前からアジア系移民が過半数を占めている。

今住んでいるシアトルの人種構成は、全体では白人が7割くらい。でも地域によってはアジアやアフリカからの移民のほうが多いところもある。

シアトル市の南部にはソマリア人の大きな移民コミュニティがあって、息子の高校のサッカーチームでも、ソマリア生まれの足の速い子たちがフォワードを固めていた。

シアトル市内の公立校に通う生徒たちが話す言語は129種類にもなる。州が市民サービスのために用意している認定通訳の言語も、カンボジア語、ラオス語、韓国語、ベトナム語、広東語、北京語、スペイン語、ロシア語、と環太平洋なラインナップ。とにかく多彩。

学校のキャンパスで生徒たちからFOBと認定されるのは、英語が流暢でないことのほか、「だれも着てないような服を着ている」というのが大きなポイントだそうだ。

個性的な子が自覚的にほかの人と違う服を着ているのではなくて、アメリカのティーンエイジャーなら誰でも理解しているところの服装コードが、まだインプットされていないということ。

靴底の厚さとか、パンツの裾の長さとか、Tシャツに書いてある文字とかのディテールが、完全に中高生の常識から外れた、あり得ない服を着て学校に行ってしまう、無自覚さ。

日本もアメリカも、中学生や高校生の社会というのはやっぱり強烈に同調圧力がはたらいているものだ。

大学生になるとそれぞれのスタイルが確立してきて、周りの目を気にする必要も少なくなってくるが、中学生や高校生にとって服装のコードが読めてそれに従えているかどうかは、イケてるかイケてないかの明暗を分けるきわめて重要な要素。

パレスチナからシカゴ近郊の田舎町に移民した、母と息子を描いた映画『Amreeka』(2009年)で、パレスチナから来たばかりの主人公(高校生男子)に、アメリカで育った従姉妹(同じく高校生)が「学校にこんな服着てっちゃダメよ。FOBみたいに見えるわよ」と注意する場面があった。

この映画は、イスラエル占領下のパレスチナから妹の家族を頼ってアメリカに移民する中年シングルママと高校生の息子を主人公に、湾岸戦争の頃のアメリカを描く。残念ながら日本では配給されていないと思うが、切なくも癒される、しみじみとした良い映画だった。

パレスチナで二つの学位を持ち、銀行で10年以上プロフェッショナルな仕事をしていたお母さんだが、アメリカに移住した後、得られた仕事はハンバーガーチェーンの店員だけ。息子はアラブ系だというだけでいじめの標的にされる。

それでもバイタリティいっぱいで、次々に災難に見舞われても誇りと明るさを捨てないお母さんが素敵すぎる。

監督と脚本のCherien Dabisは、パレスチナ人医師の父とヨルダン人の母を持ち、ネブラスカ州で生まれ育ったアラブ系の女性。彼女自身は移民ではないが、この映画にはいわれのない差別を受けて育った自分の経験も織り込まれている。

移民のあるところ、常に問題は起こる。空気も読めないし洋服のセンスも違う「FOB」であった人たちやその子どもたちが次々に社会の構成員になっていき、社会の常識のほうが少しずつ変わっていく。衝突や軋轢を経ながらも異質なものを吸収して変化していく文化の幅は、アメリカそのもの。

この国では歴史と伝統が浅い分、だれもが〈建前上は〉同じ土俵に立っている。

両親がどこの国の人であっても、アメリカで生まれれば法律上アメリカ人だし、どこの国で生まれても、祖国をアメリカと決め、アメリカの法と常識に従うことを誓えば、正当な「アメリカ人」となる。

数年前、久々に大相撲を見た時に、多彩な国出身のお相撲さんが増えているのに驚いた。日本の国技がこんなにも国際化してるなんて、知らなかった。

土俵の上でも外でも全力をつくしてお相撲界のコードを身につける努力をしている若い力士たちも、たとえ国籍を取得しても、日本人から「日本人」とみなされることはないのではないだろうか。ていうか、彼らは「日本人」になりたいと思うのだろうか。

日本には、外国人が「日本人」になるコードが存在しないのだと思う。

流暢な日本語を話し、並みの日本人以上に日本文化を深く知る帰化した人であっても、その人が外国から来た以上、「あの人は日本人になった」と日本人から思われることはないのではないだろうか。

普通の日本人にとって、日本人であることとは、たぶん「身分」のようなものなのだ。国に属するということを、目が二つあるとか、指が何本あるとかというのと同じ、天から授かった属性のように感じている人が多いんじゃないかと思う。

ひょっとすると、国籍を自主的に決めたりするという行為を、冒涜的なことのように感じる人さえいるのかもしれない。

日本人として育った「ハーフ」のタレントの子たちがテレビには多くなった。少しずつ、いろんな色や顔形の「日本人」が増えてきた、としても、それは本当に人口に占める割合でいったら、ほんの楊枝の先でつついたくらいのミクロな数にすぎない。

「社会の懐の広さ」を左右するのは、実は数量的な条件も大きいのだと思う。

アメリカは多民族の移民国家で、あらゆる層に激しい差別を抱えている。その中で、長い時間をかけて、無知で偏狭で自分と違う価値観を認めない人びとの猛反発をひとつひとつはねのけながら、公民権が実現し、機会の平等をシステムに組み入れる制度がゆっくりと整っていった。

人口に対する黒人の割合がもっとずっと少なかったら、公民権は実現しなかったかもしれない。

アメリカで表向きの差別が明確に禁止されるようになってから、まだ、実はそんなに時間が経っていないし、今だって平等な社会なんかでは全然ない。

ないけれども、〈自由と平等〉という強烈な理想とタテマエがアメリカではキラキラした求心力を持っている。その求心力が、たぶん、アメリカの生命力だ。FOBな移民たちは、そのキラキラした約束を一番切実にまっすぐに信じている人たちなのだ。

良くも悪くも30年後、50年後には日本国籍を持つ人ももう少し多様化してきて、一般的な「日本人」の定義も少し変わっているかもしれない。

そうしてその頃には、日本語にも「FOB」に相当するスラングが生まれるのかもしれない。


【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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