ショート・ストーリーのKUNI[198]謙虚な人にご用心/ヤマシタクニコ

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半田原平三は鮭村物産の総務部でかれこれ30年にわたって働いていた。その勤務態度は勤勉にして謙虚、社長の鮭村剛三から絶大な信頼を得ていた。

確かに、ワンマンで大雑把な鮭村と対照的に、細かいところに気がつく半田原とは絶妙のコンビ、鮭村物産が規模は小さいながらも安定した経営を続けているのは、半田原の存在に依るところもあっただろう。

半田原の毎日は誰よりも早く出社し、社員たちが飲む茶のためにポットの湯を沸かすところから始まる。そして朝刊を読みやすいように整え、ゴミが残っていれば捨てる。

社員たちが出社してからも父親のように世話を焼き、仕事を進めやすいよう気配りをかかさない。そんな生活を30年続けてきた。

ところが、その半田原が病に倒れた。それも重篤である。社員たちは代わる代わる見舞いに行った。

「半田原さん、早く良くなってくださいよ」

「半田原さんがいないと、鮭村物産って感じがしないですよ」

「半田原さんあっての鮭村物産ですからね」

半田原は弱々しく微笑んだ。

「そんなことは……ないさ」

「いえいえ、そんなことありますとも、なあみんな」

「そうですよ」

「ぼくたちみんな、半田原さんにいろいろ教わりましたから。文書の書き方、電話の取り方から、全部」

半田原は力なく笑うばかりであった。

「半田原さんが戻ってこないと、ぼくたち、不安です。だから、早く病気を治してください」

「そうです、みんなそう思ってます!」

半田原は苦しそうに咳をしてから言った。

「大丈夫だ。何があろうと、私は君たちを守る。君たちの手や足となり……君たちの道具となって……」

「大先輩がそんな……」

「ありがた過ぎます!」

みんな、ひそかに涙をぬぐった。


それからほどなく、半田原は死んでしまった。







鮭村物産は悲しみに包まれた。誰もが半田原の死を悼んだ。

「半田原さん、とうとう何の役職にもつかなかったな」

「本人が固辞したそうだ」

「あの人らしいな」

「給料も、おれたちとそんなに変わらなかったらしい。それも昇給のたびに本人が『それは多すぎます。お願いですからそんなに上げないでください』と言って少なくしてもらってきたせいらしい」

「肩書きにもお金にも興味がなかった。ただ、毎日コツコツと仕事をこなすことが生きがいだったんだ」

「目立つのはいやだ、縁の下の力持ちと言われたら本望だと言っていたが」

「まさにそうだった」

「本当に謙虚な人だったな」

「謙虚が服を着て歩いてるようだった」

「謙虚の固まりのようなひとだった」

みんな、心からうなずきあった。うなずきすぎて止まらなくなった者もいた。金曜日、半田原の葬儀はそのようにして終わった。


週が明けた月曜日。午前10時半のことだった。

入社3年目の石川が湯沸かし室から全員の分の茶を、盆に載せて持ってきた。それを配りかけたとき、石川は自分で大きな声を出した。

「ええっ!?」

「どうした」

「ぼく……何をしてるんだろう」

「何を、って……みんなの茶をいれてくれたんだろ。いつもこの時間になると半田原さんがいれてくれて…ええっ?」

「ぼく、自分でもわからないうちに立って、湯沸かし室に……気づいたら盆を持ってました」

「ええっ?」

入社5年目の宇都木が言った。

「しかも、おれにはほうじ茶、江原にはウーロン茶、あとのみんなには煎茶。好みによって注ぎ分けているじゃないか」

「ぼぼ、ぼく、みんなの好みなんか知らないんですけど……」

「はあ?」

午後になると、入社4年目の荒木が声を上げた。

「……え、これって……」

「どうした」

「半田原さん、いつも電話は呼び出し音3回目で取れと言ってましたね」

「ああ。いきなり出ると先方がびっくりすることもある。かといっていつまでも待たせてはいけない。3回目が理想だとな。みんなそのようにしつけられてきた」

「ぼく、2回目でもいいんじゃないかとひそかに思っていて、さっき、実は2回目で取ろうとしたんですが……腕が動かなかったんです。まるで誰かに強い力でつかまれたように……ところがいつものように3回目になるとその力がすうっと消えてなくなったので……取れたんです」

「ほんとかよ!」

「つ、つくりばなしすんなよ!」

「ほんとですってば!」

荒木の声を無理矢理かき消そうとするかのようにみんなが、わは、わは、わはははと笑いあっているところへ、外から石川が戻ってきた。青い顔をしている。

「煎茶が切れてたので買いに行ってきたんですが……いつも、半田原さん、煎茶は福原園の若々緑に決めてましたよね。それは知ってるんですけど、ぼく、『スーパー若緑』でもいいんじゃないかと……ぼくの好きなぱりーきゃひゅきゃひゅがCMに出てるし。で、それを取ろうとしたら腕が勝手にすーっと横にそれて……若々緑をつかんでカゴに入れたんです」

一同、顔を見合わせた。

「まさか……」

「まさか!」

不思議な現象はそれ以後も続いた。

「……あ、鱈浜印刷さんでしょうか。いつもお世話になっております。皆さんお変わりないようで幸いでございます。用件というのは他でもございません。先ほど御社宛にメールをお送りしましたので、ご確認くださいますよう、よろしくお願いいたします、はい」

入社3年半の江原の電話を聞いて一番年長の大岩が言った。

「おい、メールを送ったからといって、いちいちそんな電話しなくていいだろ」

「ええ……ぼくも、そう思うんですが、半田原さんが必ずそうするようにと言ってました」

「ああ、確かに……でも……今後はいいんじゃないか」

「と思うんですが、手が勝手に動いて気がつくと受話器を握りしめ、あれよあれよという間に指が短縮ボタンを押してまして……あ、今はぼくの手が勝手に動いてファクスを送信しようと……半田原さんはメールを送った後、電話とファクスで『メールを送りました』という連絡をしてたんです。ぼくの意志じゃありません、この手が! だれか止めてください!」


何があろうと、私は君たちを守る。君たちの手や足となり……


半田原の言葉が蘇った。まさか。全員、背筋にひやーっと冷たいものを感じた。

「あーっ」

宇都木が叫んだ。

「今度はなんだ!」

「ワードで文書を作ってるんですが、各章の見出しのフォントをメイリオにしたいと思って……」

「すればいいじゃないか。手が動かないのか」

「手は動くんですが、フォントの選択肢からメイリオが消えてる……」

「ばかな。メイリオはWindowsのパソコンに最初から入ってるだろ」

「それがなくなってるんです……半田原さん、メイリオ、嫌いなんです。なんかふざけた感じがして気に入らないって」

「うわっ、ぼくのとこのパソコンもそうなってます」

「こっちも!」

「全社的にメイリオ使用不可能です!」


何があろうと、私は君たちを守る。君たちの手や足となり……君たちの道具となって……


そうか……道具にもなるんだ……。大岩の額に、ふつふつと汗が吹き出た。冷房は効いているのに。

「わーっ! 写真を添付して送ろうとしたら勝手にワードを立ち上げて写真を貼り付けて送ってしまいました、このパソコン!」

「いちいちワードやエクセルに貼り付けず、そのまま添付すればいいと言っただろ!」

「半田原さんは必ず貼り付けるんです。なぜかそれが礼儀だと思ってて……」

「礼儀どころか、めんどくさいだけだろっ! だいたい、君がいま送ったところはワード嫌いで知られる烏賊田スタジオじゃないか。見ただけで激昂するかもしれん。開いて写真一枚だけと知ったらパソコンごと破り捨てるだろう」

「でも、そうなってしまうんだから仕方ないです、ぼくじゃないです、このパソコンがああ」

「む、仕方ない。先ほどは写真だけをワードに貼り付けるという無礼な振る舞いをして申し訳ありませんでしたと連絡を入れろ。そうそう、メールで……あー、なんだそれは。烏賊田スタジオ御中様って、様は不要だろ……長々と時候の挨拶をしなくていい、何だそれは……時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。日増しに暑さも厳しくなってまいりました今日この頃、セミは鳴き空には入道雲、だあ?! 単刀直入に用件をっ」

「パソコンが勝手に書くんです。半田原さんは必ず『御中様』と書いてました。あと、時候の挨拶がない手紙はパンツをはかずにズボンをはくようなものと、常々言ってました」

「パンツをはくはかないは個人の自由だ!」

「お、おおいわさん、ティッシュを丸めて放り投げようとしたらゴミ箱が走って来ました。ぼく、こわいです」

「ぎゃーっ、愛知県と書いたら消しゴムがやってきて、ごしごし消されてしまいました。そそそして、愛地県と書き直してます、シャーペンが!」

「愛知県が正しいだろ!」

「半田原さんは愛地県と思い込んでたんです、ちなみに富山県の隣は新形県と」

大岩は泣きたくなった。何なんだ、この混乱は。そこへやって来たのは社長の鮭村だった。

「あー、なんだか騒がしいがどうかしたかのう」

「あ、社長、実はこれこれこれこれで、もうなんだかわけのわからないことになっております」

大岩は状況を説明した。そうだ。半田原と名コンビであった社長なら、この窮状をどうにかできるのではないか。勤続30年。石川や荒木が生まれる前からいっしょに働いてきたのだ。もはや家族、いや夫婦のようなものではないか。

鮭村はしばらくじっと考えていたが、やがておもむろに口を開いた。

「半田原……あいつは……本当にいいやつだった」

「は、はい」

「欠点もあったが、自分のことは後回しにして、いつも会社のこと、私のこと
を考えてくれた。どんなにベテランになっても、えらそうにすることはなかっ
た。謙虚の固まりのような人間だった」

「はい、それはみんなの一致するところで……」

「もう二度とあんなやつに巡り会うこともないだろう。あいつのことは私が最もよく知っている。私のこともあいつが一番よくわかっている」

「は、はい!」

「そうだな……すべてあいつの善意から発生したことだが、みんながそんなに困っているならなんとかしよう」

「いえ、いえ、その、決して困っているとか迷惑とかではなく、あの」

「いやいや、気を遣わなくてよい。君たちもいいやつだな。だいじょうぶ、誠意をもって言えばちゃんとわかるやつなのだ……遠慮するな」

「はい……」

みんななんだかしんみりしてしまった。鮭村は顔を上げた。そして天井の一角、高みに向かって話しかけた。

「おーい、半田原……」

すると、声を投げかけたあたりがぱ〜〜っと明るくなった。どんどん明るくなる。際限もなく降り注ぐ光。しかも、それはまぶしさとは無縁、穏やかなやすらぎに満ちた光だった。

至福という言葉が浮かぶ。ここはどこだ。天国か。いや、天国と俗世との境界か。みんなぼうぜんと、光のほうを見上げた。

「半田原……長い間、ご苦労だった。そして、今もこの会社のことを考えてくれているようだな。ありがとう……心から、礼を言う」

大岩は泣きそうになった。宇都木も石川も荒木も江原も、神妙な顔で光のほうを見つめる。

「だがな、半田原……みんなだいじょうぶだよ。君の指導のおかげで、みんなりっぱに仕事をこなせるようになっている。君も疲れただろう。これ以上、みんなの手や足に、そして道具にならなくてもいいんだよ……」

はらはらと涙がこぼれた。鮭村の、そしてみんなのほほに。光はますます美しく、神々しく、立ちつくすみんなの上に注がれている。やがて、光の中からぼんやりと半田原の面影が浮かんだ……ような気がした。だが、それは一瞬だった。錯覚かもしれない。

そして、声が降ってきた。

──社長……

半田原の声だ。社長はうなずいた。みんなも思わずうなずいた。たまりかねて嗚咽をもらす者もいる。

──社長がそのようにおっしゃってくださるのは、私にとって何よりの悦びです……

──私ほどの幸せ者はいないでしょう。社長がおっしゃることはよくわかりました。これからは、みんなの手や足や道具になるのをやめましょう……これからは……私、半田原平三は……

ずずずーっとすすりあげる音がする。大岩が顔をくしゃくしゃにして、ハンカチで涙をふきまくった。そのとき、

──みなさんの心の中で生きるようにします……

なんだって?! それはどういう意味だあ?!


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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ぶつぶつ文句を言いながらも朝ドラ「とと姉ちゃん」を見続けているのは、やはり編集とか出版の世界に興味があるからだ。だが、主人公が最初に勤めた出版社「甲東出版」の描かれ方があまりにもぼんやりとしていて、ちょっといらいらした。

主な事業が「新世界」という雑誌の発行であること、その雑誌が文芸誌であることなどは、見ているうちにだんだんとわかってきたが……早くにきちんと説明すべきでは。

また、主人公にとっても、ここでの経験があったからこそ、後に出版社を起こすことになったわけで、強いインパクトがあったはずだが、全然そんな感じではない。ただ流されていただけにみえる。

でもこのドラマ、視聴率は依然、高い。一方でまんが雑誌の編集部や作家、作家をめざす人たちの世界をていねいに描いた「重版出来!」の視聴率は振るわなかったそうで、まあ世間はそんなものなんですね。