はぐれDEATH[07]はぐれ関東滞在記/藤原ヨウコウ

投稿:  著者:  読了時間:8分(本文:約3,800文字)



実はこれまでの作文は全部前置きだったりする。編集長が最初に依頼してきたのは「3年間の関東暮らしで出くわした面白おかしいネタを」というものだったからだ。

別に忘れていたわけでもなければ無視していたわけでもない。引っ越しネタは時事ネタに近かったけど、その後の作文はどうしても前置きとして必要だったのだ。でないと、これからまたダラダラと書いていこうとしてる事に重大な誤解を与えかねないからだ。

先にも書いたがボクの作文には、脈絡もなければ説得力のカケラもない。価値観は極めて歪んで偏っている。こうしたことを念頭に置いていてくれないと、こちらとしては非常に困るのだ。だからダラダラと前置きを書かざるを得なかった。

もっとも連載の間隔がどれぐらいなのか、ボクはイマイチ理解していないのでいくら前置きをしても無駄という意見も大いにあるが、これもスジを通しておかなければボクが納得できないのだ。面倒な人であることは重々承知している。どうか温かく見守っていただきたい。

と、この回でもいきなり前置きが入ったわけだがやっと本題だ。





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娘の中学入学を機に単身赴任を決意したのは、手っ取り早く言えばお仕事を増やそうという、実に単純極まりない理由だった。

娘と猫のももちの相手をしたり、本当に気が狂ったり、急病で救急車で運ばれたりと間抜けな事ばかりしていて、営業が疎かになっていたのだ。

もちろん数字にも露骨に表れている。青色申告のために毎月経理をしているのだが、ここの段階で実にがっかりな状態がずっと続いていたのだ。さすがに梃子入れしないとこの先ロクなもんじゃない。

ただきっかけが欲しかっただけで、娘の進学はそういう意味では実に分かりやすかった。「何をするにもまず三年」という家訓が実家にあるのだが、三年間と区切ったのは単純にこれに沿っただけである。

旧ソビエトの「五ヶ年計画」とかみたいだが、まぁ三年というのは短期目標としてはボクの性質上実に都合がいい。とにかく落ち着きがない上にオチもなし、という面倒極まりない人なのだ。

だらだらと上京しても、イヤになって翌日には帰ってくる、などということだってやりかねない。この手の失敗は枚挙にいとまがないほどあるので、大事なコトを決意するときは必ず先人の知恵にすがることにしている。

ここで言う先人は父であり、母方の祖父だ。「思い立ったら即行動」という実にボクらしいパターンで行動を開始した。それでも関東となるとかなりビビる。何しろ広島で生まれ育って、京都で学生時代を過ごし、大阪で就職して、フリーになったらまた京都でそのまま居着いてしまったのだ。

本来ならフリーになった段階で東京に移転すべきだったのだろうが、そこは小心者のボクである。幸い初期は写真プリントレベルの反射原稿で入稿、インフラ整備のおかげで、大概の原稿データはネット経由で入稿できるようになっていた。

お仕事さえあれば、距離はほとんど意味をなさない時代になったのだ。とは言え、行き着くところは人と人の出会いであり縁である。こうしたコミュニケーションだけはさすがに電話とネットだけで片付けられない。本人が赴くしか手はないのだ。

この件に関しては前例がある。記憶がかなり怪しいのでいつだったのか、どれぐらいの期間だったかは明確に思い出せないのだが、一時期ボクだけ上京して営業活動をしていた時期がある。

この時に今のクライアントとの関係の下地が出来上がった。呼ばれればすぐに出版社に行ったし、呼ばれなくても営業には押しかけていた。多分、32〜33歳の頃だと思う。我ながらしみじみ「若かったなぁ」と思う。それも色々な意味でだ。

この時は西武新宿線の上井草に基地を作った。もっとも西武新宿線を愛用したのは本当に短い間で、すぐにバスでJR荻窪駅に出て、そこから色々な場所に行くというパターンができた。当時チャリがあったら、また話は変わったかもしれないが。

このせいで中央線界隈に関しては多少の知識を得ることが出来た。それでも、東京生活に嫌気がさしてあっさり京都に戻ってしまった。半年いたかどうかかなり怪しい。とにかくこれで基本的なツテはできたので、どうにかこうにかやっていくことが出来たのだ。

ちなみに編集長と初めてあったのはもっと前である。当時はまだ玄光社に勤めていらした。玄光社と言えば、かの雑誌「Illustration」の出版社だ。実はエカキ志望にも関わらずボクは敢えて避けていた。コマーシャルイラストレーションとは縁がない絵であることは、ボク自身が承知していたからだ。ただある種の羨望はあった。

その玄光社に行く羽目になったのは、京都で会ったある方が、井上(ボクの嫁さんである)を編集長に紹介すると言いだしたからだ。今もあるのかどうか知らないのだが、あるクリエイターグループに加入しないか、という話で窓口として編集長を指名したのだ。

ところで井上はボク以上に変なところでビビる癖がある。これを放っておく程ボクは冷酷ではない。井上のお供として玄光社を訪問することになったのだ。だから、あくまでもボクはおまけ以下の存在と勝手に決めつけていた。

せっかく東京まで行くのだから、やはりここはとばかりに出版社に電話をしまくって、持ち込みの計画を立てていたので、不運なことにポートフォリオは持参していた。が、最後までボクはそれを見せるつもりはなかったのだ。

あの時、玄関でまわれ右をしていたら、今こうしてアホな作文を書くこともなかったと思うが、当日の玄光社は外から見ても結構エラいコトになっていた。後から聞いた話だが大雨だったか台風だったかで、編集部が水浸しになりてんてこ舞いだったらしい。結局ボクも訪問することにした。単に井上が心配だっただけの話だ。

幸い編集長は笑顔で迎えてくれ、井上のグループ加入もあっさり決まった。もちろん、井上のポートフォリオを見ての上だ。ここまでは予定通りだったのだ。(ここにいう編集長とは、デジクリ編集長の意味で、当時は雑誌の副編集長であった:柴田)

話の途中で編集長がボクに話を振ったのだ。なりゆきとしては当然なのだが、ボク的には最悪の展開である。ポートフォリオといっても、成果品がまだロクになかった頃だ。勝手に有名な文学作品を拝借して、装画・挿絵の方面だけに的を絞っていた。だから持っているネタだってそっち用に特化している。

しかも、よりによって江戸川乱歩だの、泉鏡花だの、ウイリアムス・ギブスンだのといった、コマーシャルイラストレーションとは真逆なものばかり。出し渋ったのは言うまでもなかろう。見せずに帰りたい、というのが本音だった。

「Illustration」と言えばボクが読み始めた頃は(高かったので立ち読みだ)スーパー・リアルイラストレーションが世間を席巻し、さらに日比野克彦氏の登場で、アートという言葉が今のように使われ出した頃のことである。

当然縁遠い世界だし、こうした動きを見ていたから、ボクはイラストレーターにはならず就職したのだ。ちなみに未だにアートという言葉の意味はよく分からん。イラストレータを名乗らず(呼ばれるぶんには別に構わない)あえて挿絵画家を名乗っているのは、こうしたある種の挫折があったからだ。

ただ、当時から編集長はしつこかった。あの手この手で、結局ポートフォリオを見せざるを得なくなり、編集長は「あんたもついでに入りなさい」と言い出したのだ。もちろん抵抗はしたが、あまり抵抗して話をややこしくし、井上に悪影響が出るのを恐れたボクは渋々承知した。

恐らく実質的には一時間程しかいなかったと思うのだが、とにかく長い長い時間だったことだけは未だに憶えている。針の筵とも言ってもいい体験だった。

話が思いっきり逸れた。逸れついでに簡単に書くが、この団体に入って、グループ展に参加することで大いに恩恵を受けたのは言うまでもあるまい。ただ、はぐれはやはりどこまで行ってもはぐれなのだ。結構長いこと在籍していたと思うが、ボクだけ途中で脱退した。

印刷会社を就職先に選んだ人である。印刷もしくはプリントがどこかで頭の隅にあったのは言うまでもない。とにかく印刷が大好きなのだ。ボクはDTP前夜と黎明期という実に幸運な時期に、印刷会社にいただけではなく、後のDTPに関する知識も上からの命令で勉強させられていた。

とにかく現場が大好きなので(特に製版)、勉強と称しては工場に足繁く通い、部署に戻ってはMac(当時はFXである)とCanon製のカラーレーザープリンターをいじくり回していた。

当時の製版にしろ刷版にしろ加工にしろ、工場には必ず生き字引のようなおっちゃんがいたのだが、ボクはこうしたおっちゃん連中の話を聞いたり、作業を眺めたりするのが大好きだったのだ。

更にアナログ印刷の最高峰技術を目の当たりにするという機会にも恵まれた。そんなボクの目からすれば、当時のプリンターがとてもではないが作品を出力できる品質になっていないことは明白であり、鬱憤を貯めていたのだ。グループ展に参加していた最後の時期は、そんなプリンターに対する挑戦の日々でもあった。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!