ユーレカの日々[55]怪獣の夏、日本の夏/まつむらまきお

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この夏は怪獣の夏だった。映画『シン・ゴジラ』と、『ポケモンGO』。街中ではポケモンを探して人々がウロウロし、劇場ではゴジラを見て人々がオロオロする。ネットでは、いい大人たちが、存在しない獣について、意見を闘わせたり、情報を交換している。

怪獣。なんとも不思議な存在である。様々な国や時代に、突如として現れ、世を騒がせる。まさに怪異な獣たちだ。

●怪獣の三つのタイプ

そもそも怪獣とは、何なんだろうか? 基本的には、正体のわからない怪しい獣であり、想像上の生物だ。そこに「巨大である」という要素を入れてもいいだろう。もちろん、想像上のものなので、さまざまな解釈がなされてきた。

怪獣とはなんなのか。ぼくなりに三つのタイプに分類してみた。

ひとつめはゴジラに代表される「荒ぶる祟り神」。ラドンもモスラも大魔神もそうだった。基本、おごり高ぶる人間を戒めるために現れる。善の神もいれば、邪神もいるが、神の意志など人がわかるはずもない。人を超越した存在として描かれる。

二つめは「八百万の神」だ。あらゆるものに人格を感じてしまう日本的な、妖怪に近いもの。ポケモンはまさにこれであり、身近で、時には人と友達となってしまう点では、ガメラやブースカもこれだろう。

三つ目は野獣。ハリウッド映画のほとんどは、野獣型だ。エメリッヒのハリウッド版『Godzilla』も、『ジュラシックパーク』も、『パシフィックリム』もそうだった。不思議なことに、日本では「野獣型」は少数派のようだ。主役級となると、ギャオスくらいか。





●祟り神になった初代ゴジラ

1954年の『ゴジラ』は、その前年のアメリカ映画『原子怪獣現る』の便乗企画だった。この映画はブラッドベリの名作SF小説『霧笛』が原作となっているが、怪獣(恐竜)が灯台を壊す以外、まったく別モノである。

物語はゴジラと同じで、水爆実験の影響で、太古から生き延びてきたと思われる恐竜が、海底から現れる。放射能は吐かないが、病原菌をばらまく、野獣として描かれる。

『原子怪獣現る』を元にゴジラを作った時、何が変わったのか。

ひとつめは、直立歩行だ。原子怪獣のリドサウルス(架空の恐竜)は、四足歩行で、ハリーハウゼンがストップモーションで動かした。これがゴジラでは着ぐるみの直立二足歩行となる。

ゴジラの基本デザインは「ティラノサウルスに、ステゴサウルスの背びれをつけた」ものであり、当時はティラノサウルスはゴジラ同様に直立して歩いたと考えられていた。

つまりリドサウルスより強い恐竜、と考えた時、あの直立する姿は自然と導き出される。また、直立するティラノサウルスであれば、時間がかかるストップモーションではなく、着ぐるみで表現できる。

ゴジラが直立するようになったのは、おそらく当初は撮影技術の問題だ。しかし、結果として人が入って演じることで、四つ足のリドサウルスより、ずっと知性が感じられる存在となった。

二つ目は、背びれが光り、口から放射能を吐くという性質。現実の原子炉臨界事故でも青い光が見えるらしいので、放射能を帯びた恐竜、ということからの発想なのだろう。

しかし「体内のエネルギーを吐き出す」という演出は、とても興味深い。

このような描写は、従来は神聖なる力の表現として用いられてきた。キリスト教絵画では神を光として描くことが多く、転じて後光や、指先から光を発するような表現がなされてきた。幕末の画家、狩野一信の五百羅漢図では、西洋絵画の影響か、羅漢が光線を発する描写が多数ある。

ホタルや魚のように、発光する生物も存在するが、は虫類やほ乳類は発光しない(発光ウミガメというが昨年発見されてニュースになっているが)。光を発する、という表現そのものが、神秘性を表すものとなった。

三つめは、その大きさだ。『原子怪獣現る』のリドサウルスはビルの三階くらいの高さなので、10mくらいだろうか。これがゴジラでは、ビルを見下ろす高さ、50mとなった。これ、いくらなんでも大きすぎないか。巨大モンスターものの元祖、キングコングも10mくらいだ。

この理由は、限られた広さしかないスタジオでの着ぐるみ撮影だと、建物は小さい方がよい(特に高さ方向。ゴジラが10mだと、巨大なセットを作る必要が出てくる)という理由だとずっと思っていたが、今回初代ゴジラを見直して、はたと気がついた。

制作者たちは、東京に怪獣が現れて何をするのか、と考えた時、イメージソースとして10年前の「東京大空襲」を選んだ。初代ゴジラの進撃コースは、東京大空襲のコースだそうだ。そうか、まさに山やビルを見下ろす高さから現れ、街を破壊する「空襲」には、それだけの高さが必要だったわけだ。

野獣であればその行動は、エサを求めてだったり、逃走だったりするのだが、初代ゴジラは、天をついてそびえ立ち、都市を破壊することが目的のように、東京を蹂躙する。そこに感じられるのは、意志であり、知性だ。

神というイメージが先にあったのか、映像計画の過程で神というイメージに近づいていったのかわからないが、この三つの要素により、初代ゴジラは獣ではなく、神というイメージを強く持つことになる。

もともと、日本は災害大国だ。台風と地震という立地から来る災害、そしてそれゆえに軸組構造で湿度に強い木造建築でなくては建物が保たず、火災という災害からも逃れられない。豊かな自然資源を享受する代償として、日本人は災害と共存せざるを得なかった。これらの自然災害が一旦発生すれば、人は隠れ、身を守り、祈るしかない。

そしてしばしば、その原因を自分たち(もしくは生け贄)の行いと関連づけていくことで、「荒ぶる祟り神」という概念が生まれたのだろう。そして、その感覚は日本の文化に、強く根ざしていく。

こういった日本風の怪獣のルーツは、日本書紀に登場し、『シン・ゴジラ』の「ヤシオリ作戦」でも引用されていたヤマタノオロチ(八岐大蛇)だろう。スサノオ(素戔嗚尊)が退治する怪獣だ。怪物を退治する英雄譚は世界中に見られる典型的な物語形式だが、ヤマタノオロチもまた、荒ぶる祟り神だ。

災害と怪獣といえば、平成『ガメラ』一作目公開寸前には阪神大震災が、怪獣ではないが、『のぼうの城』公開前には東日本大震災が、『シン・ゴジラ』公開前には熊本地震があり、もう、樋口真嗣監督には特撮映画を撮らせたらアカンのじゃないかと思う(もちろん偶然であり、冗談ですよ)が、まぁ、それだけ日本の怪獣は「荒ぶる祟り神」なのだろう。

●ポケモンは八百万の神々か

さて、二つ目の怪獣のタイプ、八百万の神々。

ゴジラ当時、アメリカのテレビでヒットしていたのが『トワイライトゾーン(日本ではミステリーゾーン)』(1959)『アウターリミッツ』(1963)とい
う、「世にも奇妙な物語」ジャンル。宇宙人やら怪獣やら超常現象をモチーフとした、テレビドラマだ。

それを日本でも、ということで、『ウルトラQ』(1966年)が始まるが、描かれる怪奇現象には、ゴジラなどのヒットで子供たちに大人気だった「怪獣」という要素が加わる。

さらに「怪獣」を強化して企画されたのが『ウルトラマン』(同1966年)と『ウルトラセブン』(1967年)。この三本「空想特撮シリーズ」は間をおかず、連続して制作放映されている。

そうなのだ、おどろくべきことに、この66年1月〜翌68年9月というたった21か月の間で、巨大な怪獣(巨大化宇宙人を含む)が100種近く生み出され、そして、すべての怪獣には具体的な物語が与えられた。これは神話創出といってもいいだろう。

その多くをデザインした成田亨氏は、怪獣デザインの方針として、次の三つを打ち出している。

一 怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
二 動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
三 身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。

特に二つめの「動物をそのまま大きくしない」は、ゴジラやモスラ、ガメラに対するアンチテーゼであり、ユニークな存在であることを重視している点が興味深い。

それ故、鉱物的なイメージのデザインなども多いが、やはり生物感を得るためには、自然から題材を取らざるを得ない。昆虫的であったり、は虫類的であったり。

氏の思惑とは別に、それを見た子供たちは、身近な昆虫や人工物に勝手に怪獣を投影する。そして身近なものを「怪獣化」することを発明する。

当時の小学生たちは、テレビで見た怪獣だけでは飽き足らず、身の廻りモノを勝手に「怪獣化」して遊んでいた。フデバコ怪獣、テレビ怪獣、先生だって兄弟だって怪獣だ。

こういった感覚は妖怪や八百万の神々といったものの延長線上にあるし、『大魔神』『仮面の忍者赤影』のように、時代劇に怪獣要素を掛け合わせたコンテンツも次々と生まれた。

あらゆるモノを擬人化してしまう土着信仰と、それが災いとなる怪獣化という概念は自然と結びつき、それが『ポケモン』や『妖怪ウオッチ』という現代にまで引き継がれているのだろう。

とにかく、ゴジラのような「絶対的な存在」とは反対に、「怪獣は身の廻りに、たくさんの種類がいる」という概念が、ウルトラシリーズによって生み出され、仮面ライダーの怪人など、類似するコンテンツの「怪獣(怪人)観」となっていった。

西洋文化の方を見てみると、八百万の神々に近い存在として、北欧神話などに登場する妖精やドワーフといった、RPGでおなじみの怪物たちがいる。創作物でも指輪物語(ロードオブザリングス)や、ムーミンといったものが、ポケモンを受け入れる土壌としてあったのだろう。

●狩るべき対象としての「野獣」

さて、三つ目は「野獣」としての怪獣である。

初代ゴジラは海外でも大ヒットとなったが、あくまでもその巨大さや破壊描写の迫力が受けたのであって、日本人がゴジラに見る「荒ぶる神」という感覚は、海外では根付かなかったようだ。

怪獣の宝庫ウルトラマンシリーズは様々な理由から、西洋ではほとんどヒットしていない。西洋での怪獣は、「原子怪獣現る」の「野獣」のままだ。

ハリウッドでも多くの怪獣映画が作られているが、そのどれもが「野獣」である。先に挙げたように、『ジュラシックパーク』の恐竜たちや、エメリッヒのゴジラ、異次元人の兵器だった『パシフィックリム』、遺伝子改造の事故として生まれてきた『クローバーフィールド』。

ハリウッド映画では、怪獣よりも得体の知れない侵略者という怪人、たとえばエイリアン、プレデターなどの方が人気があるように思える。

唯一の例外は、2014年のギャレス・エドワーズ版ゴジラ『Godzilla』だったが、あれはもう、『ガメラ2・レギオン襲来』のまんまパクリであり、ゴジラは地球の守護者として描かれるものの、映画の興味の中心は、敵方の怪獣「ムートー」にある。もちろんムートーは野獣として描かれている。

どこまで行っても、怪獣を野獣としてとらえてしまうのは、「狩猟民族」としてのメンタリティなのだろう。日本では農耕と漁業が中心で、狩猟についてはピンとこないが、狩猟文化の強いの西洋では、怪獣は野獣であり、狩る対象なんだと思う。

それともうひとつは、キリスト教の影響も強いのだろう。日本では、仏教も新教も民間では勝手に混ぜ合わせ(七福神がまさにそれ)、キャラクターとして捉えてしまうが、キリスト教文化圏ではそうではないらしい。

「神は自分に似せて、人を作り」ながら、神の姿を描く「偶像を禁止」していた時期が長かった。だから、怪獣を神格化することは少ないのだろう。

そのかわり、「悪魔」という存在が、日本とは大きく異なる。「悪魔」は人を誘惑する存在で、だからキリスト教は禁欲的になる。それに対して、日本の仏教では、修行僧はともかく、一般信者に対しては戒律を求めない。まぁ、ゆるいわけである。

そう考えると、アメリカ映画のエイリアンや怪獣は、人を誘惑する「悪魔」=侵略者としての宇宙人や、その「使い魔」ということになるだろうか。

そんなわけでゴジラを野獣として描いたエメリッヒの『Godzilla』は、日本では惨憺たる評価だった(ぼくは結構好きだが)。

ちなみにぼくが一番好きな怪獣映画は『トレマーズ』。地中怪獣が襲ってくるという、まぁ、とてもB級映画なのだが、やはり狩るべき下等生物だ。

西部劇などを見てもピンとこない自分だが、トレマーズを見ていると、ちょっと狩猟民族のメンタリティが理解できるような気がする。狩りの面白さは、力強さではない。狩る相手の習性を知り、頭を使った作戦の面白さなのだ。

●神狩りの時代

さて、現代。

学生が描いてくるマンガや、ゲーム企画を見ていると怪獣(怪物)が出てくるものが少なくないが、基本はどれも「狩りの対象」として捕らえている。

これはもちろん、ゲームの影響だ。今の学生たちは、物語というものに対し、小説や映画、マンガではなく、ゲームを通して接してきた。ぼくの世代の考える物語とは、物語観が大きく異なっているのだ。

小説やマンガ、アニメといったコンテンツは、観客は客観的な立場になり、主人公の行動を見守る。すべてのエピソードはテーマを語るために存在する。

それに対し、ゲームはプレイヤーが自分でアクションを起こす、プレイヤー主観の物語だ。エピソードは、難易度があがるステージとして存在する。

そう考えると、ゴジラのような祟り神としての怪獣の物語をゲームにするのは難しく(祈り、逃げるしかない)、狩猟対象の方がやりやすいことになる。

ポケモンは農耕民族ならではの八百万の神々でありながら、「狩りの対象」という部分があったからこそ、西洋でも受け入れられたわけだ。

『シン・ゴジラ』と初代ゴジラの大きな違いも、ここにある。初代ゴジラでは、ゴジラをやっつける「オキシジェンデストロイヤー」なる発明が最初から存在し、あとはそれをつかうかどうかの葛藤が描かれた。つまり、神を狩ることに対する葛藤が物語のテーマだった。

それに対し、『シン・ゴジラ』は最初から「狩猟」だ。物語は冒頭、災害=祟り神としてゴジラを捉え、それ以降はどう狩るか、その一点で進む。主人公が対ゴジラ兵器を開発し、使うことに葛藤はない。これは「神狩り」の物語だなぁと思った。

「神狩り」というプロットは案外、ゴジラ映画の中では特殊だ。ゴジラ映画は過去、ハリウッドの二作も加えて31本作られてきたが、そのほとんどは「ゴジラが別の怪獣と対決する」もので、「複数の神様が闘って、人間はオロオロする」内容だ。

人間は人間でなんとかしようと攻撃したりはするのだが、結果として人間が手出しできない現象として描かれてきた。

人間だけがゴジラと対決するのは、初代、1984年版『ゴジラ』、そして『シン・ゴジラ』の三本だけだ(31本を全部見たわけではないが、登場怪獣を調べるとそうらしい)。

そして、物語として「狩り」が軸となるのは、84年版と『シン・ゴジラ』の二本。そして言うまでもないが、『エヴァンゲリオン』も神狩りの話だ。

結果として、『シン・ゴジラ』のプロットは「狩り」、つまりとてもゲーム的な物語となった。

84年版ゴジラでは弱かった、狩りの面白さ(相手の習性を知り、工夫して作戦をたて、勇気を持って遂行する)がドラマの中心となり、それがゴジラを知らない人たち、祟り神同士の対決に興味を持てない現代人にも受けた理由なのだろう。

なるほど、先の怪獣の三つの分類「荒ぶる祟り神」「八百万の神々」「野獣」のどれでもない、四つめが「神狩り」というわけか。

ぼくらの世代は怪獣を見て育った。あらゆる問題は科学が解決してくれると信じてきた世代だ。大人になって、実世界にも怪獣は存在するが、ウルトラマンは居ないことを知る。若い世代は最初から、怪獣を狩る対象と見ている。

荒ぶる祟り神・ゴジラも、八百万の神々・ポケモンも、今や狩る対象なのだ。

さて、人は本当に神を狩ることができるのか? 狩った時、何が起きるのか? その覚悟はできているのか? 『ポケモンGO』と『シン・ゴジラ』は、そういうことをぼくらに突きつけているのかもしれない。


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学教授】
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エヴァに一時はまっていた娘も『シン・ゴジラ』を見に行ったそうだ。音楽の話になり、宇宙大戦争マーチのことを「ほら、モノラルで勇ましい曲」と言ったら「あー、なんかギターサウンドっぽい」と返された。たしかにベンチャーズっぽく聞こえなくはないが、その発想はなかったぞ。