まにまにころころ[103]ざっくり日本の歴史(後編その21)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。『真田丸』、衝撃の関ヶ原! そうきたか! って感じでした。見事ですね〜。欲を言えば、第二次上田合戦はもう少し描いて欲しかったです。真田視点の関ヶ原、見られなかった方は土曜日の再放送で是非。

さて前回、前々回と松陰先生の話が続きましたので、今回はまた幕府方の人を紹介しようかなーと思っていたんですが、松陰先生が記憶に残っているうちに松陰門下の人を中心に、長州勢をまとめて紹介していこうと思います。

前に、『花燃ゆ』の頃にもある程度書きましたので、ざっくり。でも人数多いので、今回と次回くらいに分けて。

再来年のNHK大河ドラマが『西郷どん(せごどん)』に決まったし、西郷隆盛を取り上げるのもいいかなとも思いましたが、もう少し取っておきます。




◎──毛利敬親(もうりたかちか・1819年3月5日-1871年5月17日)

まずは、長州藩最後の藩主(長州藩第13代藩主・安芸毛利家25代当主)であるこの方から。家臣の進言を「そうせい、そうせい」と、保守派の進言も革新派の進言もばんばん許可して任せたので、自分では何も考えない暗愚な藩主だと評される向きもあり、「そうせい候」なんて呼ばれる敬親ですが、実際には、藩政改革ほか、どう転んでも潰れるしかないような幕末長州の厳しすぎる局面を乗り切った名君、という評価が主流のようです。

何でもかんでも「そうせい」と放任して丸投げしていたのではなく、きっちり時流や相手を見て判断し、決断すべきは決断し、権限委譲して任せて、責任は取るといったあたり、経営者の鑑とも言えます。

それだけ有能な人材に恵まれていたわけですが、人材が育つ土壌を築いたのは、広く意見を聞き入れる敬親の寛容さによるところが大きいでしょう。

以下、有名どころだけですが、当時の長州藩の人材を紹介していきますけれど、こんな無茶苦茶なやつらを抱えていて、よく舵取りできたもんだなと思います。

◎──久坂玄瑞(くさかげんずい・1840年5月-1864年8月20日)

『花燃ゆ』の主人公である、松陰先生の妹・文の最初の夫です。松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉晋作・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」と呼ばれる人物です。

元々は藩医の家系なのですが、九州遊学の折に、宮部鼎蔵から松陰先生に師事することを勧められたことがきっかけで、松下村塾の門を叩きます。強い攘夷思想をもっていたようなので、松陰先生のところで上手く育てば面白いとでも思われたんでしょうね。久坂はまず、松陰先生に自分の考えを手紙で送ります。

久坂の手紙(超意訳):
元寇の時みたいに使者を斬ればいいんです。そうすれば、怒って米国が攻めてくる。攻めてこられれば、みんな目を覚ますし、国防も強化されるでしょう。

松陰の返事(超意訳):
元寇? そんな昔の話を引き合いに、全然違う今のケースに当てはめるなんて、思慮が浅いにもほどがあるっちゅーねん。至誠の感じられないこんな浮ついたこと言うやつは大っ嫌いだ。ばーか、ばーか。

ぼろくそです。(笑)でも松陰先生は、この久坂の激しさが本当はすごく気に入ったようで、あえてけちょんけちょんに批判して、どう返してくるかを試したんです。取り繕って折れるような輩ならダメだ、反発してこい、と。

久坂の返事(超意訳):
昔と違うことは分かっています。米英仏の軍力には太刀打ちできない。だからといって何もせず、国が滅びるのを待つことはできません。なんと言われても、折れるものですか。偉そうに批判しやがって。あなたを敬ったのは買いかぶりだったか。あー腹立つ。ちょーむかつく。

松陰先生の思うつぼですね……松陰先生はひと月ほどして次の返事を送ります。

松陰の返事(超意訳):
幕府は既に諸外国と条約を結んでしまったのに、今から反故にしては国家間の信用を損なう。ここは関係を持ちつつ国力を蓄え、アジア諸国と連携を取って欧米に対峙するのが上策だ。なにもできない学生ごときが大言壮語を吐くのはやめなさい。なにひとつ実践に基づかない空論を勢い任せに書くのは慎め。

松陰先生、さらにいじめます。でも久坂は引き下がりません。

久坂の返事(超意訳):
条約なんて欧米都合の不平等条約じゃないですか。国力を蓄えるって、いつになるんですか。現状維持すらままならない状態で、士気はいつ高まるんですか。誰がこの事態についてちゃんと考えているんですか。

三度目の返事で、松陰先生はとどめを刺しにかかります。

松陰の返事(超意訳):
あー、わかった。空論と言って悪かった。今から欧米の使者を斬ってきなさい。私もかつて斬ろうとしたんですが、無益と悟ってやめました。今は国力を蓄え、来たる日に備える時期だと考え直しました。

あなたはあなたで、手紙の通りに斬ってきなさい。さあ、行ってこい。断固として斬ってこい。斬れなければ、結局は大言壮語だったということでしょう。さあ、斬ってこい。

久坂の訪問:ごめんなさい、斬れません、弟子にしてください……(涙)

松陰:あきらめたらそこで試合終了ですよ……?

久坂:松陰先生ーーーっ!

入門から二年で松陰先生は刑死、久坂は藩内外の同志とともに攘夷運動に励みます。公武合体に傾く当時の長州藩に対しても断固攘夷を訴えますが、却下。それでもめげずに訴え続け、世情の追い風もあり、藩論をひっくり返します。

そこからは、英国公使館焼き討ち(1863年1月31日)、外国船砲撃(1863年5月)と、攘夷を決行します。

やりすぎる長州を封じ込めようと、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派によって、長州と与する公卿らは京都から締め出されます。(八月十八日の政変)文久3年8月18日(1863年9月30日)のことです。

これで一旦は折れた久坂ですが、京都に軍を向けて長州の無実を訴えるべしとする進発派に同調します。同調しつつも、強硬な手段を取ろうとする進発派の中心人物である来島又兵衛と対立。期を見て慎重に行動するよう訴えかけるも失敗、朝廷工作も失敗、禁門の変(蛤御門の変)に突入して命を落とします。

なんていうか、中途半端に常識人なところもあって、苦労人としての生涯って感じでした。あげく討ち死にし、後に残ったのは、長州は朝敵っていう汚名。

良くも悪くも真っ直ぐで、松陰先生の教えに従い実践を旨とした久坂の評価は敵味方問わず高いものでしたが、個人的にはちょっと……同情はしますけども、あまりパッとしない印象です。才能の使い方がもったいないというか。

◎──高杉晋作(たかすぎしんさく・1839年9月27日-1867年5月17日)

さて「村塾の双璧」のもう一方、高杉晋作です。高杉はわりと名家のボンボンです。やることは滅茶苦茶です。村塾には滅茶苦茶がたくさん集まりますが、その中でも群を抜いて滅茶苦茶です。

上海に渡り見聞を広めたりもして、そこで諸外国の強大さを目の当たりにしたにも関わらず、強硬な攘夷の姿勢は曲げませんでした。この時、同じ船で上海に渡った人の中に、NHKの朝ドラ『あさが来た』で人気の高かった、五代友厚がいます。薩摩出身で、商都大阪の基礎を築いた偉人です。

さらに余談ですが、高杉は上海でリボルバー式の拳銃をお土産に買い、後に坂本龍馬にプレゼントしました。龍馬の持ってたアレは、高杉にもらったものだったんですね。

高杉は藩論が公武合体に傾いていた時、「薩摩は生麦事件で英国人を斬り攘夷を行ったのに、うちの藩も攘夷行動をしないと!」と主張。あれこれ画策したことがバレて謹慎させられるものの、英国公使館焼き討ちを行います。

藩は高杉を自由にさせておくとヤバイってことで、国元に縛ろうとしますが、いきなり出家して「これから10年、隠遁しまーす」と宣言。不思議ちゃんです。

もちろん10年もじっとしていなくて、というか下関戦争が起こって呼び出され、志願兵による奇兵隊を結成したりします。その後藩内で奇兵隊の暴発があって罷免されますが、八月十八日の政変を経て脱藩、京都に潜伏します。

桂小五郎に諭されて藩に戻り、脱藩の罪で野山獄に投獄され、出獄後も謹慎となりますが、そうこうしている間に禁門の変が起こります。

また外国船砲撃の報復で英仏蘭米によって下関が砲撃されます(1864年7月)。これを受けて藩は高杉を赦免し、講和の交渉役を任じます。結果的に高杉は、この大役を見事すぎるほどにやってのけ、領土租借の要求をつっぱねきって、日本の未来を守り抜くほどの成果を残します。

が、よくもまあ、ここで高杉を抜擢したもんだなあと……高杉なら上手くやると見抜き、任せた人がすごい。

さて、久坂は禁門の変で亡くなってしまいましたが、後始末というか、朝敵とされた長州は征伐の兵を幕府から向けられます。その第一次長州征伐が迫る中、長州藩では幕府に恭順しましょうという保守派(俗論派)が藩政の中心にきて、どう考えても対立する高杉は、いったん身を引きます。

が、保守派が反対派の粛正を進めていることを聞いて、有志による諸隊を説いてまとめてクーデターに及び、これを成功させます。

藩の実権を握った高杉は、外国と結んで藩の軍力を高めようと下関開港を推し進めますが、そのことで攘夷派からも命を狙われることになり、身を潜めます。

また桂小五郎の手引きで長州に戻ってきますが、高杉家を廃嫡されます。まあ、これは晋作自身も望むところだったと思いますけれども。これまでも気にせず暴れていたとは言え、実家に迷惑をかけるのは本意じゃないでしょうし。

その後晋作は、次の長州征伐に備えて軍備を進め、薩長同盟を経て薩摩の協力も仰いで蒸気船を購入、第二次長州征伐では海軍総督として幕府軍を退けます。
(1866年6月)

しかしその頃には結核を発症し、療養するも1867年5月17日に亡くなります。

久坂玄瑞が努力型の秀才とすれば、高杉晋作は天才肌。先見力、危機察知能力、胆力、弁論力、実行力、どれをとってもずば抜けていると思います。結核さえなければ、維新の中核として新政府でもその才能を発揮したかもと思う一方、とんでもない火種として、西南戦争以上のことをやらかしたかも、とも。

◎──今回はここまで

久坂と高杉のことをちょっと書きすぎました。もっとあっさり済ませるつもりだったのに。次回も長州勢の紹介を。次回こそ簡単に。

高杉のこと、松陰先生のことは、前回紹介した司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読むと、よく分かります。よくわかる気がします。ただ、あまり盛り上がる話ではない上に長いので、ちょっと退屈するかもしれませんけど。予備知識をもっていると多少は読み進めやすくなりますので、まあ是非機会あれば一度。

久坂にしても高杉にしても、もしその才能を佐幕派として活かしていればと、正直思うんですよね。もし幕府が、将軍が、毛利敬親のような人物であって、攘夷派も素直に恭順するような包容力があって、一枚岩となっていれば……と。

いい世の中になったかどうかは分かりませんが、シミュレーションできるなら見てみたい。才能が暴力で消えていくんじゃなくて、建設的な方向に向かって収束していたら、どうなっていたのかと。

それもこれも、家康が国を割って関ヶ原の戦いなんかするからいけないんですよ! 豊臣の旗の下、関西を中心に一丸となっていれば! 長州や薩摩を虐げなければ!

ああ、今度こそ西軍が勝ってくれるかもって思ってたのになあ、真田丸……


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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