[4198] わが青春のMZ-2000

投稿:  著者:



《夢もロマンも一瞬で砕ける時代が来る》

■装飾山イバラ道[185]
 「環境DNA」と「暗黒物質(ダークマター)」と……
 武田瑛夢

■crossroads[29]
 わが青春のMZ-2000
 若林健一

■はぐれDEATH[10]
 リハビリの日々
 藤原ヨウコウ




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■装飾山イバラ道[185]
「環境DNA」と「暗黒物質(ダークマター)」と……

武田瑛夢
https://bn.dgcr.com/archives/20160927140300.html

───────────────────────────────────

NHKの「サイエンスZERO」を録画して、気になるものから順番に見ているけれど、ずいぶん前の「環境DNA」の回が面白かった。

要約すると、現代の海や川の生態調査は、その場所のわずかな「水」を採取するだけでわかるのだという。「水」に含まれるDNA情報を分析すれば、そこに生息する動植物や微生物の生態系が、かなり具体的に調べられる段階に来ているらしいのだ。

●環境に溶け込む

生き物の存在がDNAという形で水に溶け出しているというのは、なんとなく理解できる。このDNA配列を詳しく見ていくことで、個々の生物の種類や量の判別までが可能になっているという。

テレビ画面ではDNAのアルファベットの羅列のようなコンピュータの画面だったけれど、そのうちわずかな水だけを機械にかければ、グルグルポンッと生息生物一覧が表示されるような時代も近いのではないだろうか。

「そしたら、ネス湖の水を分析すれば、恐竜系のDNAがあればすぐにわかるんだ!」と私はすぐにUMA系動物発見の妄想をする。そう、いることもわかるけれど、いないこともすぐにわかってしまう(笑)。

なんだか夢もロマンも一瞬で砕ける時代が来る気がした。

木星の衛星「エウロパ」には水があるというし、他の星の水の分析にも期待が持てるという。私は最近huluで映画「エウロパ」※を見たばかりだったので、「サイエンスZERO」番組内で星の話が出る前にどんどん期待が膨らんで、口を挟みながら見た。

一緒に見ていた夫は、どうも私の話が飛躍しすぎてうるさかったらしく、学者の説明を聞き逃しがちで、録画を巻き戻しながら見るハメになっていた。

※映画「エウロパ」は、地球外生命体を探す民間探索機の話で、乗組員たちの使命感が強い作品だった。トラブルは多いけれど、大きな悪巧みなどはなく、とても真面目に対処する乗組員たち。

ハリウッドに多いトンデモ乗組員と違い、人としてしっかりしているけれど、科学者として未知なる物の発見を最優先する姿がかえって怖かった。

「サイエンスZERO」に話を戻して、これは娯楽系科学番組なので、私のような一般視聴者にわかる範囲でしか説明をしていない。それでも「環境DNA」という分野がとても面白いということはわかった。

水の中では、剥がれた皮膚や排泄物のDNAが溶け出た世界に生きている魚たち。水という環境を共有しているので、ミクロの世界で皆混ざり合って存在していることになる。エサとして取り込む以外にも、ただ吸い込んでしまうこともあるだろう。

そういえば水だけでなく空気だって、周囲にあるものの匂いや温度や微粒子を含んでいる。近くにいればいるだけ強く濃く、環境を共有しているのだ。

よく仲が悪くなった夫婦が「同じ部屋の空気も吸いたくない」という表現を使うけれど、環境DNAの共有を拒否しているような気分なわけだ(あまり良くない例えだけれど)。

環境の成分分析のジャンルはコンピュータの計算が速くなることで、利用価値はたくさんありそうだ。

例えば、山に山菜を採りに行ってクマに襲われるニュースがよくあるけれど、将来的にはクマが近くにいれば匂いなどで危険を察知できるかもしれない。

動物的勘に頼らずに、分析的に可能性の高さを見る。排泄物の痕跡があればどの程度の時間が経っているか、DNAで個体番号もつけられるかもしれない。水と違って、空気はもう少し複雑そうだけれど。

●宇宙に満ちるもの

もう一つ見た「サイエンスZERO」の録画は宇宙の「暗黒物質(ダークマター)」に関するものだった。

この番組では今までも同じようなテーマの回があった。科学系の番組って、研究の先端かつテレビ放映しても安心の、根拠の大きい情報という特徴があると思う。番組としては驚かせたいけれど間違っては困るので、学者にとっては当たり前のネタも多いのかもしれない。

最先端すぎると理解しにくいし、正しさにおいて何かと危険だ。

よくテーマになる暗黒物質は、宇宙空間に満ちているらしい観測できない物質。私の周りにもあるらしいそれについての興味は尽きない。

番組では観測を目指す人たちが理論を組み立てながら、それぞれの方法で痕跡を探していた。あまりにも見つけられないので、理論自体を疑いながら進むこともあるそうだ。あのヒッグス粒子も疑われた中での発見だったという。

物質として存在している私たちの間に、水のように満ち満ちて、決して存在を確認されないもの。海や川の場合は、水がその他の成分を運んでいるけれど、空間には一体何があるのだろう。

銀河系の星々は大きくみれば粒子のようでもあり、海の水の中のミクロの世界とも似ている。ひきつけあってぶつかり合い、混ざり合って変化する。太陽の暖かさの恩恵の場所に位置する地球では、すべてが変化の途中だ。

昔の映画で実験室のキテレツな発明博士が何かの液体を混ぜるシーンのように、私たちもとりあえず混ぜてみるという実験をされているのではないかと思える。

宇宙という海の中で混ぜ回されて、温められて、ぶつけられて、良い塩梅になった地球の上で、ケンカしたり楽しくやったりしているのだ。

そして未確認動物の痕跡らしいものに未知のDNAが発見されたり、暗黒物質の正体が突き止められたりするかもしれない未来。

この記事を書いていたら、エウロパ関連でNASAが何かの発表を行うらしい。まだ内容を知らないけれど期待が止まらない。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


暑くもなく寒すぎない秋はやることを片付けるチャンス! といつも思うけれど、時間が増えるわけではないのが辛い。夜長って言っても夜いつも起きてるしなー。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■crossroads[29]
わが青春のMZ-2000

若林健一
https://bn.dgcr.com/archives/20160927140200.html

───────────────────────────────────

こんにちは、若林です。

先日、大阪・梅田で開催されているCoderDojoでIchigo Jamで作った作品を見てきました。

元々Scratchをやっていた忍者(CoderDojoでは、参加する子供達を忍者と呼びます)ですが、IchigoJamを買ってもらったのをきっかけにBASICでのプログラミングに取り組んでいます。

IchigoJamとは、プログラミング言語のBASICが動かせる超小型のパソコンで、キット(部品だけのセットで自分で半田付けや組み立てが必要)が1,500円なので「イチゴジャム」と名付けられたそうです。

こどもパソコンIchigoJam
http://ichigojam.net/


見た目はArduinoのようなマイコンボードに似ていますが、Arduinoはパソコンで作ったプログラムを転送して動かさなければなりません。

一方でIchigoJamはパソコンそのものであり、IchigoJam本体にキーボードとモニターを接続すれば単体で使える、まさに「こどもパソコン」と呼ぶのがぴったりな機械です。

●パソコンとの出会い

私が初めて使ったプログラミング言語もBASICでした。おそらく、私と同じ年代からもうちょっと若い年代なら、初めてのプログラミング経験が「8bitパソコンでBASIC」という方は多くて、Facebookのタイムラインでもちょっとした祭りになるほどです。

私が持っていたパソコンはSHARPのMZ-2000で、祖母に買ってもらいました。もちろん、その頃はシャープで働くことになるとは思っていませんでした。当時は、8bitパソコンが主流で「パーソナルコンピュータ」という言葉が生まれたのも同じ時期。当時のパソコンのスペックはおおよそこんな感じでした。

マイコン:8bit Z80Aもしくはその互換マイコンが主流。動作クロック2〜4MHz
グラフィック:160x100、640x200、640x400など機種によって様々
内蔵メモリ:64kBytes(Z80Aでアクセスできる最大容量)

PC-8801などは、バンクメモリアクセスという技術を使って、Z80Aが扱える64kBytesのアドレス空間以上のメモリ(最大184kBytes)を搭載できるようになっていました。

MZ-2000は4MHzのZ80A搭載で、グラフィックボードを積めば640x400のカラーグラフィックが扱え、内蔵メモリ64kBytesはすべてRAMとして利用することができる機械でしたので、同じ時期に発売されたモデルの中では(オプションが必要な部分があるものの)スペックの高いモデルだったと思います。

内蔵メモリがすべてRAMということの意味がわかりにくいかもしれませんね。

マイコンがアクセスできるメモリ空間というのは、ROMとRAMの両方を合わせた容量になります。つまりBASICなどの言語部分をROMに搭載しているPC-8001などでは、その分メモリが少なかったのです。

一方で、MZ-2000ではすべてをRAMにして、起動時にテープから言語部分のプログラム(いわゆるファームウェア的なもの)をロードする仕組みでしたので、BASIC以外の言語を使う場合(例えばマシン語)はすべてのメモリ空間にアプリケーションプログラムを配置できるというメリットがありました。これが、MZの「クリーン設計」というやつです。

ですがデメリットもあって、当時の他のパソコンが電源ONからすぐに使えたのに対して、MZ-2000はテープからBASICを読み込み完了するまで使えませんでした。OSの起動に時間がかかる今のパソコンのことを思えば不思議ではないのですが、当時は面倒だなと思ったものでした。

●何もかもが高かったオプション

MZ-2000はモニタが一体化していた関係もあって、他の機種よりも少し高かったのですが、それにも増してオプションの値段の高さが辛かったです。

MZ-2000本体の価格が218,000円なのに、2Dの5インチフロッピーディスクドライブが298,000円。

ハードディスクではなくてフロッピーディスクドライブがパソコン本体よりも高かったのです。もちろん私には買えませんでした。

また、グラフィックを使えるようにするためには、39,000円のグラフィックボードを購入しなければならなかった。それはあくまでも内蔵の単色(緑色)のモニタでグラフィックを表示させられるだけのもので、フルカラーを扱えるようにするには、更に8,000円のグラフィックメモリ2つが必要。

合計55,000円のオプションを買わなければ、グラフィック表示させることができなかったのです。でもどうしてもグラフィックを表示させたかった(簡単にいうとゲームがしたかった)ので、高校の夏休みに近所の町工場でアルバイトをして買いましたよ。

もちろん、外部モニタを買うお金なんてなかったので、RFコンバータを購入して自宅のテレビに接続して使っていました。それでも、当時はうれしかったですね。

●漢字表示もオプション

MZ-2000は標準で漢字を表示できませんでした。同時期に発売された他の機種でも、標準で漢字表示できたモデルは少なかったと思います。漢字だけじゃなく、ひらがなも、いわゆる「全角文字」と呼ばれるものは表示できませんでした。表示できたのは、アルファベット、数字、記号、半角カタカナだけ。

今でこそ、フォントをインストールすればたくさんの字体で表示や印刷ができますが、当時はそれだけの大容量データを保存するメモリがありませんでしたから、そもそもフォントをインストールするという発想もなく、漢字・ひらがなについてはオプションの漢字ROMボードを購入するか、アプリケーションソフトウェアでグラフィック機能を使って表示するしかありませんでした。

たしか漢字ROMボードは、16bitマイコンへのアップグレードキットを購入しないと使えなかったような、とにかくすべてが高嶺の花(高値の花)でした。

●ソフトウェアのバックアップはラジカセで

フロッピーディスクでさえオプションなのですから、当然ハードディスクは搭載されていません。外部記憶はカセットテープです、音楽用のカセットテープにプログラムを記録できるようになっていました。

カセットテープなので、いわゆる「ダビング」でプログラムのコピーを作ることができました。市販のソフトウェアだとテープを破損してしまえばそれで終わりなので、最初にコピーを作って、普段はコピーの方を利用するようにしていました。ただ、一部のソフトウェアはコピープロテクトのためダビングでコピーが取れないものもありましたが...。

カセットデッキもMZ-2000は他のモデルより優れていて、初めて電磁メカのものが搭載されていました。

早送りや巻き戻し、頭出しなどの操作がソフトウェアからできるカセットデッキで、ひとつのテープに複数のプログラムが記録されている場合でも、自動的に次のプログラムの先頭まで早送りができたので、ロード時間が圧倒的に短縮できたのです(といってもあまり感動は伝わらないかもしれませんね)。

他のモデルだと、例えば30分テープの半分ぐらいのところに記録されているプログラムを読みだすには15分以上待たないといけなかった、といえばその大変さがイメージできるでしょうか。そういえば、プログラムを保存する用に10分テープという短い時間のテープも売ってました。

●すべてはMZ-2000のおかげ

今思えば、どうしてMZ-2000にしたんだろう? とは思います。他のモデルに比べて高性能な部分はあったものの、PC-8001とか8801の方が対応ソフトは多く標準でカラーグラフィックが使えたし、メモリ領域がフルに使えるといってもそのメリットを実感したことはあまりなかったし...。

でも、今の自分があるのはMZ-2000との出会いのおかげです。

当時、自分がソフトウェアを作る仕事をするなんて想像もしていませんでしたが、あの頃一生懸命プログラムを打ち込んだおかげで、ソフトウェアエンジニアとしての基礎の基礎はできていたように思います。

次回は、MZ-2000で学んだプログラミングについて触れてみたいと思います。


【若林健一 / kwaka1208】
http://kwaka1208.net/aboutme/


CoderDojo奈良・生駒の開催予定
http://coderdojo-nara-ikoma.github.io/

奈良:10月16日(日)午後
生駒:10月 1日(土)午後


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■はぐれDEATH[10]
リハビリの日々

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20160927140100.html

───────────────────────────────────

辻堂にいた二年間は、ほとんど引きこもり状態で過ごしたので、身体にガタが来た。と言うか、引っ越してきて初めて判明したのだ。ちょっと歩いただけで、足全体が痛くなり右膝と左足首は致命的だった。

理由は単純明快で、単なる運動不足である。とにかく脚は酷かった。むくみきってどうしようもないのが、一瞥すればすぐに分かるほどだったのだ。

引っ越してきた当初はサポーターでどうにかこうにか誤魔化していたのだが、7月には祇園祭の大工さんのお手伝いがある。この状態でまともにお手伝いなど到底無理な話だ。

何しろボクが今担当しているのは、肉体的にかなりヘビーな場所ばかりだからだ。鉾立というのは設計図や手順書などない。いや他の鉾は知りません。少なくともボクがお手伝いしている船鉾にはない。

だから、経験と記憶だけが頼りなのだ。経験と言っても、立てるのは年に二日程度である。二日目の午後3時には曳き初めがあり、それまでに何がなんでも組み上げないといけないのだ。これは昔からの決まりであり不文律である。

なぜヘビーな場所ばかりにボクが行く羽目になったのかというと、単にお手伝いを始めてかれこれ30年以上だからだ。すっかりベテランになってしまった。

棟梁からは「絶対に来い」と毎年釘を刺され(言われなくても行きますけどね。鉾立好きだから)、本職の大工さんの高齢化が進んでいるので、個人的には若い大工さんが入ってくれるまでの中繋ぎと思っている。

ところが、後継者不足は鉾立の現場でも深刻で、他の鉾も似たりよったりらしい。あくまでも風説のレベルなので、事実かどうかは分からないがそれほど不思議でもない。

「継続」という言葉がぴったりのような気もする。ただ続けるだけではダメなのだ。毎年行って作業して手順を身体に叩き込む。とか言いつつ、ボクは自分が担当しているところや、かつて担当していた場所以外は全然知らん。

とにかく身体が小さいので、狭いところや高いところに、どんどん送り込まれただけの話である。ちょっと特殊な例かもしれないが、今いる屋根組の大工さんだって小さくて細い。

身体に応じた作業場所があるのも、これまた事実なのだ。背が高くて大きな人じゃないと出来ない場所だって、しっかりあったりする。ずっと続けているとそういうことも分かってくるし、それぞれが自然と分に応じた場所で作業をするようになるのだ。

もちろん、担当場所を変わるときには、後継者につきっきりで面倒をみて憶えさせる。同時に新しい場所も手掛けるので、結構大変なのだがまぁ世の中そんなもんだろう。分不相応なことをすれば、とばっちりは自分だけではなく周囲の人にも来るのだ。

「伝統」とか「本来の」とか、さも知ったように抜かす馬鹿共は、こういう地味で時間がかかることを大抵知らないもんだ。でもって、大迷惑を掛けるのである。伝統行事にしろ伝統工芸にしろ、とにかく人材育成にはおっそろしく手間も時間もかかるのだ。こればかりは産業革命以来の大量生産、効率化では対処できないのである。そもそも規格とかいうものが足枷になる。

以前、某大学の某研究室の先生と学生が、最新鋭の機材を持って船鉾の測量に来たのだが、大工さん達は口を揃えて「今年はこうやけど来年はまた違うで」と言っていたもんだ。

祭りのハイライトである山鉾巡航の際に鉾が壊れないように、あちらこちらに遊びがありながら堅牢に構築されているのだ。遊びの部分は大抵経年劣化で減っていくし、その年の湿度によって延びたり縮んだりする。木だからね。

古い部品は乾燥しきっているのでまだマシなのだが、新調した部品はまずまともにはまったためしがない。正確過ぎる測定が仇になるのだ。結局、現場で大工さんが木槌で叩いて無理矢理ねじ込んだり、削ったり切ったりという荒療治をしなければならなくなる。

更に度量衡が未だに尺寸法なのだ。ミリとかセンチとかではどうにもならん部品だって出てくる。本職の大工さんは尺寸法で話をしているのだが(くどいようだが他の鉾は知らん)そっちの方が大抵正確だったりするのだ。

「大体」とか「こんぐらい」とかいう、現代人からすればアバウト極まりない指示や情報が重要になる現場だと思っていただいても構わない。それでなくても船鉾は、他の鉾と違い形状そのものが特殊である。

胴体は湾曲しているし、屋根組などはややこしいコト極まりない。一つ部品をつけ損ねて、それまで組んでいた場所をバラしてそれから入れ直す、などということだって二〜三年に一度ぐらいはある。無理矢理力でねじ込むのは、ほとんど日常茶飯事と言ってもイイだろう。

熟練の大工さんをしてこうなのだ。ボクが出る幕など本来ないのは、容易に想像できると思う。しつこいようだが、あくまでも船鉾に限った話で他は知らん。作業が始まれば、他の鉾の様子など見ている暇などないのだ。

ものすごい話が逸れた。とにかく基礎体力と柔軟性のある身体というのは、ボクが担当している場所では必要不可欠なのだ。なのに高々引っ越し時の二日の移動と作業で、足にガタが来るようではお話にもならないのだ。

とにかくお手伝いの日までに、この堕落しきった身体をどうにかしなければいけない。単純明快な自己管理なのだが、これは即リスクマネージメントにも直結するから洒落にならんのだ。

幸い新しい部屋は三階であり、エレベーターなどという文明の利器はない。さらに借りた場所が実に良かった。すぐ横を水路がはしっており、そこで散歩するなり軽い運動をするなりしやすいのだ。

おまけに大好物のにゃんこ共が集まってくる。ちょろちょろ見に行くな、と言う方が無茶である。

ハードなトレーニングをしている人からすれば軟弱そのものに映るだろうが、その程度のコトすらまともにこなせないぐらい酷かったのだ。前屈して両手が地面につかなかった時などは、絶望的な気分を味合わされた。

身体の柔らかさと骨の丈夫さだけが取り柄の人である。これはかなりショックだった。更にバランス感覚もかなり狂っていた。と言うか、バランスを維持する筋力が衰えてたと言う方が事実に近いだろう。

屋根組を始めるときは柱が六本、柱を横に繋ぐ梁が六本だけで、おまけに幅は結構狭い。ちなみに足場はこれだけである。更に屋根を組んでいくと、今度は気をつけていないと足が滑る。

他の鉾ではしばしば屋根組の際にも別に足場がきちんとあるのだが、船鉾の場合はこれが出来ない。足場があると邪魔になる作業が山程あるからだ。危険度で言えば数ある鉾の中でもトップクラスだろう。

リハビリはまず入念なストレッチから始めた。ガチガチになった身体の柔軟性を取り戻すのと、この後始める筋トレの準備だ。身体が硬い状態で筋トレなどするとロクなコトにはならない。筋肉もしっかり伸ばして、伸縮性を高めないと怪我の元である。

さらにストレッチの効果は柔軟性だけではない。マジメにやれば、そこそこい運動にもなるのだ。予備段階としてはベストに近い。とにかく暇さえあればストレッチをしていた。肩胛骨剥がしストレッチというヤツも試してみた。これはおまけみたいなもんだが、側筋にも結構効くらしい。

元々身体が柔らかいことは先述したが、幸い一週間ほどでかなりの効果が出た。特に下半身は入念にストレッチをしながら、痛めた箇所を自己流で治療して次のステップを目指した。次のステップと言っても軽い筋トレである。これまた下半身が先。

そもそも膝の痛みは大腿四頭筋(大腿直筋、内側広筋、外側広筋、中間広筋という四つの筋)という太腿の筋肉が著しく弱っているのが原因だったのだ。小中高と山越え通学をしていたボクにとって、下半身の筋肉(特に太腿の筋肉)の衰えはかなりショックだった。

ネットで色々調べた結果、膝の負担が少なくて効果の高いスクワットの方法があったので、それを実践してみることにした。最初の一週間ぐらいは、自分でも情けないぐらいスクワットが出来なかった。

たった10回なのに、そっこーで筋肉が悲鳴を上げるのだ。あまりの情けなさに相当落ち込んだのは言うまでもなかろう。

こっちはある程度筋肉が慣れるのに時間がかかったが、それでも大工さんのお手伝いに行く頃にはそこそこ回復した。ちなみに今もしつこくやっている。

上半身はサックスの練習を再開することで、ある程度フォローすることが出来る。よくサックスを鳴らしていると「スゴい肺活量ですね」と言われるのだが、実は肺活量はそれほど問題ではない。

特にボクのようなパワー系では、横隔膜を支える筋肉の方がずっと重要なのだ。腹筋、背筋、側筋をフル稼働して、横隔膜をしっかり支えないとまともな音は出ない。

まぁ当然のコトながら、再開当初は悲惨この上なかった。約二年も鳴らしていなかったのだ。当然と言えば当然である。ロングトーンという基本中の基本の練習で5分もすると筋肉が悲鳴を上げるのだ。情けないったりゃありゃしない。

爆音どころかしっかりロングトーンすら出来ないのだ。音はぶれるわピッチは安定しないわ、元々使っていた練習用のマウスピースでは広すぎて練習にすらならないので、昔愛用していた狭いマウスピースに替えなければならんわと散々だった。

上半身の筋肉をフル稼働するというコト自体は、身体が憶えていたので特に意識する必要はなかったのだが、とにかくインターバルをこまめに入れないと、とてもではないぐらい弱っていた。更にサックスの重さで、肩まで痛くなると言う情けない現実までおまけについてきた。

サックスはストレス解消の手段なのだが、再開時はストレスそのものというアホな事態に直面したが、せっかくイイ練習場所を確保できたのだ。目の前は宇治川と田畑。人家もまばらで遠慮なくサックスを鳴らせる。

これを放棄するぐらいなら、サックスなど売り払った方がマシである。が、一時期どっぷりサックスの魅力に浸かってしまったボクが、サックスを手放すはずがない。むしろ再開した方がいいコトづくめなのだ。

地道に練習していれば回復するどころか、以前よりも轟音を響かせることは過去の経験でよく知っている。鳴らしているだけで、上半身はもとより下半身も自然と筋肉が回復する。呼吸系もかなり効果があるしね。とにかくやらない方がアホだ。ひたすら基本に忠実に地味に練習することにした。

ぶっちゃけ、関東にいく前の状態に戻すだけの話なのだが、二年間の引きこもりはかなり深刻だった。幸い大工さんのお手伝いには滑り込みで間に合った。念のために膝のサポーターだけはして行ってたし、帰宅後も入念にケアしたので膝が悪化することはなかった。

膝が自己流で完治しないことも判明した。もう整形外科にいって、膝に一発注射を打たなければマズイだろう。ちなみに、必要以上の筋トレをする気は毛頭ない。基本、機能に即した身体の使い方をしていれば、自然と筋肉はつくし持久力もそれなりについてくる。

楽天的に過ぎるという意見もあるだろうが、ボクの身体はそうなっているので仕方ない。不必要なものはついていないしね。必要なものもなかったりするけど、それはでふぉなので気にしていない。

余談だが、この作文を書いているのは7月末である。掲載される頃に(いつかは知らん)どうなっているのか個人的には少し楽しみだったりする。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/

http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/


装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集後記(09/27)

●曽野綾子「私の危険な本音」を読んだ(青志社、2016)。度々“物議を醸す”コラムを、わたしは愛読している。申し訳ないが小説は読んだことがない。もう85歳の筆者の、「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」との主張がネット上で大反発を受けているが、医療サービスをはじめ、さまざまな機会や権利を若者へ譲るという考えには大賛成だ。誰もが当たり前のように思っていることを口にすると、叩かれる。誰が叩くのかというと、人道、正義、平等などを売り物にしているマスコミの記者や書き手たちである。筆者の言うこと、書くことは本音である。偽善家にとっては耳が痛い。だから必死になって攻撃する。

曽野綾子の“危険と言われるほどでもない本音”それが一応テーマ毎にまとまって並んでいるが、いままで各方面で書かれたコラムを分類して並べただけのかなりイージーな編集だ。だが、危険な本音(じつに正論だと思う)を次々と読むのはとても楽しい。見出しは本文から拾っているのだが、適切でありインパクトがある。「『年寄りをどう始末するか』を国も医学界も何もやっていない」という。どうしたら穏やかに、比較的幸福に、不当な長生きをしないようにするか、もう始めなきゃいけないのだが、誰も何もやっていない。長寿に奔走した医者たちにも責任がある。間違いなくこれから最大の問題になる。

この本に関係ないが、人体に無害な光の近赤外線を当て、がん細胞を攻撃する免疫システムを活性化させ、がん細胞を退治する治療法の開発に、米国立衛生研究所の小林久隆研究員らが成功したという報道。まだマウスの実験段階だが、一か所のがんを治療すれば、遠くに転移したがんも消える画期的な効果があるという。何年か後に人間の全身のがんを治療できる可能性がある。嗚呼、よけいなことを。望ましい穏やかながん死をなくしたら、老人はいつになったら死ねるというのだ。「老人に残された、唯一の、そして誰にでもできる仕事」を奪ってどうする。まあ、70歳以上にはその治療を禁止すればいいのだけど。

「日本に生まれたというだけで、人生は半分以上成功だ」という。電気がない土地には民主主義はなく、まったく方向の違う部族社会がある。「日本でも時々大停電があって、大人から子供まで、充分に安全に供給される電気や水の恩恵を、骨身に染みて知る機会があったらいい、と私は本気で思っている」「水も食料も不足している土地に住んだことのある人なら、願うだけで平和が来たり、話し合いだけでことが解決することはない、ということが自然にわかるのだ」「差別と格差のない社会などどこにあるのだろう」「高齢者には我慢と礼儀に対する教育をしなおした方がいい」嗚呼、いいこと言うなあ。 (柴田)

曽野綾子「私の危険な本音」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4865900284/dgcrcom-22/



●アメージングモデルエキスポ続き。戻って来られた松本零士氏(先生)は、司会に紹介された後、森雪の命名エピソードを含めた戦争体験話を始めた。

石破氏(こちらも先生だけど)は、先生の漫画との遭遇話から。政治家だけあって話が上手い。引き込まれる。明治維新からたった70年で世界一の文化に追いつき、戦闘機(戦艦)を作ったという話や、その使い方の愚かさを学んだ方がいい、というコメントもあった。

先生はそれを受けての話になるかと思いきや、いやもちろん戦争の話もあるのだけれど、講演会になってしまった。15分ぐらいはお一人で話されていたと思う。このままずっと一人で話されてしまうのかと会場中が冷や冷やしていたら、司会の森雪がぶった切って、軌道修正してくれた。この勇気に拍手でしたわ。

先生は気分を害されることもなく、石破氏とトークをされた。質問コーナーでは、海洋堂宮脇センムが登場(緊張されていたようだ)。

終わってみれば、石破氏の「軍事オタクと言われるけど、厚生労働大臣が薬に詳しかったら薬オタクと言われるのか」「防衛省が装備や船や航空機のことを知らなくてどうやって配備するんだ」「軍艦大和の時代は、武器を隠すのが作戦だったが(勝つため)、いまは公開するのが作戦。こんな武器を持っているから戦争したってムダだよっていう情報戦」「戦争が始まったら政治の失敗」(みたいな話。うろ覚え)が記憶に残っている。

なかなか出番が回ってこなかったが、短い時間で言いたいことを伝えきった石破氏。政治家って凄いなぁと思ったわ。「若い人に伝えたい」みたいなことをおっしゃったのだが、この会場、年齢層高いよなぁと(笑)。 (hammer.mule)

あったよ動画!


こっちの方が聞き取りやすいかも


零式戦闘機
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101117063/dgcrcom-22/

吉村昭さんの本はおすすめとのこと。飛行機から太平洋戦争や日本について描かれている。読もうと思って忘れていた。

連合艦隊
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002LHGI24/dgcrcom-22/

この映画もおすすめって